相手の身になることができる子どもを育成するにはどうすればよいか
國分康孝先生が、なぜ相手の身になることをそんなに強調するのか。
國分先生は諸悪の根元は相手の身になることの欠如にあると思っているからです。
國分先生は教育大学を出た後、いい職がなくって「ただでもいいから仕事くれませんか」と言って探していましたら、刑務所がただでよかったら使ってあげるからといってくれました。
國分先生の滑り出しは刑務所のカウンセラーから始まったんですよ。
今から考えたらすごくいい勉強したんですけど。
そのときの受刑者の一人が、この刑務所に来る事の起こりを次のように話しました。
「自分が久しぶりに学校に行ったときに先生が『おまえ今頃何しに帰ってきたんだ』と言った」
「それで僕は本格的にぐれだしたんですよ」と。
先生が「いやあ、久しぶりだね」とか「よく戻ってきたね」とか言って久しぶりに来た彼の気持ちに触れるようなことをその先生が言えばよかったんですが。
「そこ、おまえの席だから、そこに座れと一言、言ってくれたらそれで済んだような気がする」というんですね。
「今頃何しに帰ってきた」それが非常にこたえたらしいんですよ。
それで、私がそのときに得たものは、いいアドバイスなんかいらないから要するにわかってもらうだけでも人間は生きる力が出てくる。
教師とは目の前に座っている生徒さんとか目の前の集団全体が今どんな心理状態かを考えることです。
たとえば、自分が生徒だったら、たぶん疲れているのだろうと思って「おいみんな疲れたか」となってくるんですよ。
そうしますとですね、心理学で博士号を取った人よりは義務教育の学校しか出てない人の中でも、人の気持ちのよくわかる人がいるということになってきますよね。
ですから学問だけではいい教師になれない。
一番いいのは、自分自身が生徒と似たような感情体験のある人、これは生徒の身になりやすい人だと思うんですよ。
私は、学生時代、女房に食わせてもらったんですよ。学生結婚だったので。
そういう体験があるもんだから学生結婚の子が私の所へ相談にきた場合、話がよくわかるわけだ。相手の身になりやすいから。
「そりゃそうだよなあ」と相槌も、調子いいんですよ。そうすると学生さんは國分先生としゃべるだけで元気が出てきたといいますよね。
ところが私は独身時代にガールフレンドに振られて死にたくなるという経験はないんですよ。
一回目の恋愛ですぐ結婚したもんだから。そうすると振られて死にたいという学生が来ても、いまいちぴんとこないんですよ。
なぜ振られたくらいで死にたいのかとこう思うもんだから。
そうすると学生さんは部屋を出るときに「先生、ちょっと割り切りすぎてますね」って捨てぜりふを言って出ていきますね。
それで結論として人の身になれる人というのは、豊かな感情体験を持っている人と考える。
ところが、金の苦労とか愛情の苦労とか全くしたことのない教師もいると思う。
ですからそういう人は、愛情の苦労をした人の話を普段から聞く、金の苦労をした人の話を普段から聞く。
せめて間接体験ぐらい豊富にしておいたら、ちっとは人の気持ちの分かる人間になる。
構成的グループ・エンカウンター(SGE:注)の良さは、いろんな人が自己開示してくれるので、なるほどそんな感情の人もいるんだと知って、今まで感情Aしか知らなかった人が感情B、Cを知っていくところに良さがあると思うんです。
私がそのことを知ったのは、ある時私の講義を聴いてる五十過ぎの女の先生が泣き出したときのことです。
私が「どうされたんですか」って聞いたところ「先生の話を聞いてるうちに自分で自分のことがかわいそうになってきて泣いているんだと」言うんですね。
「自分の何がかわいそうなんですか」と聞いたら甘えたくても甘えられない自分に気づいて、それで泣いているんだと、言うんですね。
それで私はですね「甘えたいけど甘えられない事情でもあったんでしょうねっ」と応じたのです。
そしたら私は継母に育てられたもんだからって言うんですよ。
それで、私は継母に育てられた体験がないものだから、とっさにそのとき、
「この中で継母に育てられた人、挙手」ってやったら、ある若い人がハイって手を挙げてくれたんでその若い先生に
「すまないけどちょっとこの先生の面倒をみてほしいんだけど」と頼んだのです。
で、二人で廊下に出ていったんです。
休憩時間に泣いていた先生が私のところに来まして、國分先生の処置は非常に適切だったということを言いに来たんですよ。
それで、あとで若い先生を呼んで「どんなことをしてあげたの」と聞いたら、要するに廊下に出て「私が最初の言った言葉がよかったらしいですよ」と。
「どんなこといったの」と聞いたら「ごはんのときが一番つらかったでしょう」と若い先生が言いましたところ「私の気持ちをわかってくれたと言ってその人は泣きやんだんですよ」と。
それでも、私は「ご飯のときが一番つらかったでしょう」ということばの意味がわからなかったんですよ。
その程度にしか私は、人の身になる能力がなかったわけなんです。
私は、わからなかったからその意味を聞いた。
そうしたら、継母の産んだ子は平気で、おかわりと茶碗を出す。
けれども継母に育てられた子どもは、その都度おかわりと言っていいものやら悪いものやら考え込んでしまう。
つまり食べものというのは愛の象徴ですので愛をくださいという意味なんです。
愛をくださいってことは、つまり甘えていいか悪いかその都度迷っていたと。
そういう自分を思い出して不憫になって泣いていた。
そういう意味らしいんです。
その話を聞いたときに私自身は、継母に育てられていないけれど、たまたまそういう人が私に自己開示してくれたので、なるほど世の中にはそういう人もいるってことを知ったわけです。
それゆえ、将来もしもそういう人が私のところに来た場合、少しは響きのある応答ができると思うのです。
ですから、SGEで子ども同士でも、会話しているうちに少しずつ他人の気持ちが分かるようになるという良さがある。
しかし、まず教師自身が生徒よりは感度がよくなければいけない。
まず教師自身が普段から体験を少しでも豊富にし、それでも足りないところは他人様から耳学問しておくとよい。
第二に、人の身になれない人っていうのは、自分の価値観に固執する人です。
たとえば、生徒は教師に口答えすべきでないとか、そういう特定の価値観があると相手の身になれませんよね。すぐ腹が立って怒りたくなるから。
カウンセリングも、価値観を捨てて相手の世界を理解するということを強調しますね。それから、処方箋出していくわけですね。
ですからよく私が、引用しているのが、道元の言葉です。
道元が中国から帰ってきたときに弟子が先生は中国で何を得ましたかと聞いた。
そしたら道元が「空手に郷に還る」と答えたと。私は「手ぶらで帰ってきた」と。
つまり、つかもうと思ったら何でもつかめる自由を得てきたという意味なんですよ。
私は精神分析者ですとか、特定のものをつかんでしまったら、それ以外のものはつかめなくなる。そういう不自由な境涯から私は解脱してきた。
この道元の心境をカウンセリングの言葉で翻訳したら、生徒や保護者と接触するときは「自分の価値観を一時的に捨てて、手ぶらで相手の世界に入っていかなきゃいかん」となります。
人の話を聞くためには、価値観をどけろということ。
自分の「ねばならない」を捨てて、手ぶらで相手の世界に入っていくという訓練をやっているわけですね。
ところで、教師とかは価値観を打ち出して飯を食っているわけですけど、しかし、人を助けるには、その価値観を捨てた方がよい場合がある。
いくら教師でもですね、自分の子どもが不登校で困っているときに、よその親が相談に来た場合、お宅も不登校ですか、私も子どもが不登校で困ってるんですよと言いたくなりますよね。
つまり、自分自身の問題を抱えすぎていると、人どころではない、君どうしたのと応ずるゆとりがない、すぐ自分のことを言いたくなる。
そこで、教師というのはですね、人が半年ほど悶々とすることを一週間ぐらいで乗り越えていくように自分をしつけていかないとですね、なかなか、「あなた、どうしたの」というせりふはでてこないような気がする。
短時間に、ぱっぱと自分の問題を解く方法をみんな考案すればいいんですけど、私はそこのところを、論理療法を借用しているんですよ。
打ち破れない悩みの壁、「ねばならぬ」の思い込み(ビリーフ)が自分自身を呪縛する。ビリーフを探り出すこと、そして合理性の定規を当てること。
落とし穴の非合理性に気づくことがブレイク・スルーのはじまり。
論理療法とは「非合理的な思考をみつけて取り出し、それに有効な反論を加えて、次第に考え方を変えさせ、人を自滅の方向から救い出すもの」です。
自分を束縛するビリーフを検討することは、すなわち自己の省察だからである。
その省察を通して、みずから不幸を招いているかもしれない自分を見出すことが大切なのだ。
誤った人間とは、正しく認識することをしない者のことだとプラトンも言った。
そして「汝自身をしれ」と師のソクラテスは神託を受けたではないか。すなわち、自己を発見せよと。
「ねばならない」の思い込みが自分自身を呪縛する。
ビリーフを探り出すこと、そして合理性の定規をあてること。
落とし穴の非合理に気づくことがブレイク・スルーのはじまり。
私のいちばん言いたいことは、考え方次第で悩みは消える、ということである。
私の専攻するカウンセリング心理学の立場からいうと、悩みとは欲求不満のことである。
つまり、人生が思うとおりにならなくて、気持ちが落ち込んだり、自信がなくなったり、世も末だと思ったりするのが悩みである。
ということは悩みのない人間はいないということである。欲求不満がつきまとうのが人生である。
そのためにノイローゼになったり、落ち込んだり、浮かぬ顔をしているのはなぜか。
頭の使い方が上手でない場合に落ち込むのである。
考え方がツボからはずれているということである。
つまり人生哲学の検討がたりないということである。
今の世の中では頭を使わないと幸福にはなれない。
それで、結論。
生徒を扱う私たち教師は、生徒の身になる心が必要である。それがカウンセリングマインドの第一ヶ条である。
そのためには、なるべく生徒と似たような感情体験がある方がいい。特定の価値観に固執しない方がいい。
それから、自分の問題を素早く解決する方法を身につけた方がいい。
そういう風な相手の身になるような生徒を育成するにはどうしたらよいか。ここで、SGEが登場して来るんですよ。私の図式ではですね。
人の身にならなければおれないようなSGEを、小学生向き、中学生向き、高校生向きといろいろみんなが開発すればいいわけですね。
(注) 構成的グループ・エンカウンター(SGE)とは、グループ体験を教師が意図的に組織し、ホンネとホンネのふれあいによる人間関係を通して、今まで知らなかった自分や他者に出会うための教育技法。目的は、ホンネのふれあいと自己発見を促すこと、集団内にリレーションをつくること。
(國分康孝:1930-2018年大阪府生まれ、東京理科大学教授、 筑波大学教授、東京成徳大学副学長などを歴任した。日本カウンセリング学会会長、日本産業カウンセラー協会副会長、日本教育カウンセラー協会会長なども歴任した。構成的グループエンカウンターを開発した)
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