書籍「教育は死なず―どこまでも子どもを信じて」がベストセラーとなり映画化された
長野市の私立篠ノ井旭高校(現:長野俊英高等学校)が1960年に開校し、さまざまな問題を抱える生徒たちを全国から受け入れ、その更生に力を注ぎました。
篠ノ井旭高校の教育は、大きな評価を得て「教育は死なず」として1981年に映画化されました。
非行などで全国の高校を退学になった生徒を積極的に受け入れ、当時、全国に例をみない取り組みだっただけに、教師たちの苦労は、なみたいていではなかった。
若林繁太校長は何度、途中で投げ出そうと思ったかもしれない。それに耐えることが教育なのだと教師たちとともに励まし、いたわり合いながら進めてきた。
だまされても、だまされても生徒を信じ抜くことは口では容易にいえるが、実践は大へんである。
また、だまされることを知りつつ、信ずることも大へんなことである。しかし、これは教育の基本的な部分なのである。
この大へんな取り組みも、教師仲間の励ましで負担が軽くなるものだ。教師集団の意識統一が大切なのもこのためである。
この取り組みで若林校長が得た最も大きな収穫は「駄目な子はいない」ということであった。
よほどの生徒であっても、個人的に会うと、淋しがり屋で、心はほんとうに純真であった。
そんな生徒が、立ち直れないはずがない。誰かが、どこかで、指導していかねばならないと思う。その誰かは、自分だと思ってほしい。
日本中の教育者が、そんな気持ちになってくれたらと若林校長は念じていた。
どうか、皆で、この教育荒廃を乗り越えよう。理論よりまず実践が大事である。
やれば、何とかなるものだ。自分の一生に悔いの残らぬよう始めよう。
このような仕事に生きがいを感ずる若林校長は幸福だと思っていた。
それは、精一杯、生徒と取り組んだ後には、とくに、そう感ずるのである。
学校再建は、どこから手をつけるべきだろうか。若林校長も教師たちも必死になって実践し、かつ悩み、再建の途を探した。
やがて、再建の第一歩を生活指導からふみ出した。非行をなくそう、それには、非行の原因をつかみ、この原因を除去していくことだ。
非行は子どもたちが大人、とくに教師にたいする、なんらかのストレスの表現なのだ。
そして、そのストレスのうちの最大のものは、いわゆる「落ちこぼれ」だ。
それなら非行をなくすには取りしまりや厳罰主義でのぞむのでなく、授業をわかるようにしよう。
それが教育の原点である。教育の原点に立って指導を進めることに決した。
しかし、理論的にはそれが正しいとしても実践することになると簡単にはいかない。
教師は一人ひとりが自分なりの教育信念を持っている。
それを調整しながら全教師の歩みを一致させなければ効果があがらない。
教師の中には相互に真反対の理念を持つ場合も少なくない。
それを一人ひとり説得し、調整していく。このために膨大な時間と労力が投入された。
数ヶ月かかって、やっと全教師の意識が統一できた。
もちろん、内部の細かな部面には未調整のものもあるが、それは今後、気長に調整することにして、大局としては一致することに成功した。
教職員の意識統一が成立すれば、半ば成功したと思って良い。
最初、この教育を若林校長が手かけたときの目標でもあった。
確かに容易な仕事ではなかったが、これは重要なことなのである。
この教育に取り組むための条件整備として、
(1) 一クラスの定員を30名を標準とする。
(2) 教師の週持時間数をできる限り減少させ、教育研究、教科研修の機会を与える。
など教師の負担軽減し、全教師合意の上で次のように実施にふみきったのである。
(1)授業公開の原則
公開授業の目標は、
「一人ひとりの生徒を大切にし、楽しくてわかる授業の実践をめざし、教職員相互間の反省、向上を目的とする」
授業を大切にするとともに、常に指導技術を向上させるため授業は公開制とした。
誰でもいつでも、どこの授業を参観してもよい。
参観した人びとは、必ず参観した授業について批評カードに記入し、提出してもらう。
授業者は、このカードを参考にいっそう自分の授業を工夫し、完全なものにしてゆく。
参観者は、地域の小・中・高校の教師たち、保護者、地域の人びとである。
(2)自主的な教科研究
各教科で独創的な研究を行い、生徒の能力に合致した指導と個々の生徒の到達目標に適応する教育内容を目標に教科活動を進める。
(3)到達目標の作成
従来の一律的到達目標の設定を避け、生徒の能力に応じた個別的到達目標を設定する。
各教科は生徒個々に応じた指導に重点をおき、落ちこぼれを出さない工夫を考える。
やがて、生徒は喜んで宿題をやってくるようになった。
その理由は、個別的達成目標を勘案して、生徒の能力に応じた宿題が個別的に出される。だから、誰もが同一な努力量ででき、問題を解く喜びを知ることになった。
(4)学力別編成
学力別編成により生徒の劣等感を起させないよう配慮する。
生徒の学力格差がおおきいため、A(高校標準以上)~E(小学校程度)クラスまでとなっている。
クラス選択は生徒の自主性にまかせ移動可能とした。実力が向上すれば下位のクラスは消えていく仕組みになっている。
(5)困難な事象にも真正面から取り組む
教育の世界は常に新しい事例に対処しなければならない。
生徒個々の性格がちがうように、いつも同じ指導法では目的が達成できない。
したがって、その生徒に適応する教育方法を工夫し、実践しなければ効果はあがらないものである。
しかし、事例に適する類似の指導方法は実践記録の中に必ずあるものである。その類似の指導法を参考にしながら生徒個々の指導方法を確定し実践する。
ところが、実践記録にもない新しいケースが頻繁に出現した。
教師たちを悩ませたが、回避することなく、敢然とそれらの事象に対決し、幾多の困難を乗り越え、成功や失敗を繰りかえしながら取り組んだ。
学校の再建にどう取り組むかを考えていたときに、ある宗教団体の会長が校長室を訪ねてこられた。
その会長と話しをしていたなかで、鮮明に残っている言葉があった。
「学校が変わるには生徒が変わらなければなりませんよ」
「生徒が変わるには教師が自ら変革しなければならないし、教師を変えるには、校長自らが変わらなければ成功しませんよ」
なるほどと、と若林校長は思った。
今まで若林校長は、
「教師たちにどのようにやってもらえば、生徒が良くなるか」と、自分のことを棚にあげて、人にやってもらうことばかりを考えていた。
自分の変革を枠外において、他の人たちを中心に再建構想をねっていた。
それでは駄目なんだ。まず「自分の姿勢をどう変えていくか」を中心に構想を組み立てなくては人は感応するものではない。
若林校長は校長である前に一人の教師なのだ。それを、いままで忘れていた。
教師を変えるには、教師の一人である自分自身を変えていかねばならない。
そうすれば、人は必ずついてくる。まず自分が苦しむことだ。
それでなくては、教師の苦しみがわかるはずがない。
これはよいことを教えていただいたと若林校長は感謝した。以後、若林校長には迷いは無かった。
「自ら実践することに徹する」ことが若林校長の教育方針に組み入れられたのである。
それからは、若林校長は生徒とともに掃除をし、クラブ活動に汗を流す日々が続いた。そして、生徒とともに生活することになった。
若林校長はそれまで、自分の威厳をつくるためにダブルの背広を着ていた。
そうした外形をつくることに心をくだいた。それをぬいで、もっとも活動しやすく、生徒と同じスタイルのトレパンに着がえた。
ダブルの背広からトレパンへの移行は「子どもよりの校長」への私の変革だった。いつの間にか生徒たちは、若林校長のことを「トレパン校長」と呼ぶようになったのである。
(若林繁太:1925-2007年、私立篠ノ井旭高校(現・長野俊英高)教諭・校長。読売教育賞受賞。「落ちこぼれを出さない教育」をめざし非行歴のある生徒や中退者を積極的に受け入れる。著書『教育は死なず―どこまでも子どもを信じて (1978年)』がベストセラーとなり、映画化もされた)
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