小中学校の教育現場での数学教育を率先して指導した遠山啓先生とは
遠山 啓先生が、どういう動機で数学者になったのかとよくきかれますが、ひとことで答えることはむずかしい。
まず第一に、その厳密さに魅力を感じたということがいえるだろう。
いちど証明してしまえば、何万人の人が反対であろうと、真理であることに変わりはない、というこの学問だけがもっているさわやかさが、そのころの遠山先生をひきつけたように思える。
遠山先生は明治42年に熊本で生まれました。
当時の日本は政府の富国強兵政策のもとで、国を豊かにするためにはいい人材を育てなければならないことを知っていたので、教育に大きな投資をし、世界でも有数の国家になりつつありました。
遠山先生は幼少のころから好奇心に満ちた子どもだったらしく、父親がわりの祖父を相手に野山や川で遊びまわっていたという。
後年、子どもの教育にかかわりはじめたとき、このころの体験が生きいきと再現された。
たとえば、ほるぷ夏の合宿教室に参加されたときなどは、子ども達といっしょにお風呂のなかで手と手をあわせて水をとばす、水でっぽうのやり方を教えた。
また、ヘボ将棋ですが、といいながらも子ども達に手ほどきをする、つねに子ども達に遊びの文化をどう残すか、という姿勢がありました。
算数・数学教育に関心をもちだしたのも、遠山先生のお子さんの算数嫌いがどうしてなのか、というところからでした。
算数の教科書を見ておどろきました。こんな教科書ではわからないのはとうぜんだ、と考え、1952(昭和26)年、数学教育協議会を結成し、数学教育の改良運動に身を投じたのでした。
タイルをつかって計算の仕組みをわからせる「水道方式の算数」は、この運動の大きな成果のひとつです。
それまでの数え主義とは反対に「量から数へ」という原則で、量から数を引きだす媒介物としてタイルを使いました。
さらに計算練習は最少の練習量で最大の効果をあげるための体系を考えました。
これが水道方式なのでした。
これは筆算を中心として、日本の伝統的な暗算中心の方式とはまっこうから対立するものでした。
みなさんも『わかるさんすう』という教科書のようなテキストを見たことがあるでしょう。
また、ほるぷが刊行した『さんすうだいすき』『算数の探険』『数学の広場』という遠山先生のライフ・ワークの本を持っている人もいるでしょう。
もうひとつ、教育者としても子ども達のために大きな種を蒔かれました。
「テスト、点数、序列づけ」といういまの教育体制を批判し、「点眼鏡」で子どもを見ないように訴えました。
そのため、遠山先生自身が執筆・編集した雑誌『ひと』を創刊し、教育の改革に一生を捧げたのでした。
(遠山 啓:1909-1979年熊本県生まれ、数学者。海軍教授を経て東京工業大学教授。数学教育に関心を持ち数学教育協議会(数教協)を結成し委員長として、小・中・高校の教育現場での数学教育を指導し、数学教育の改革を率先。「タイル」を使用し長さ、面積などの「量の概念」の導入し「水道方式」という数学の学び方を開発。教育の全体をどう変えていくかをテーマに雑誌『ひと』を創刊した)
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