授業技術の活用や技術を得るために必要なこと、授業での臨機応変な対応とは
第二次世界大戦前の師範学校では、おもに「どのように教えるか」という教授法の伝授が中心におこなわれました。あくまでも国定教科書を絶対視した教授法は技術主義と批判されました。
戦後は、「何を教えるのか」に重心を移して教員養成がなされました。
スタッフの制約もあって、授業実践を支える教育技術の育成には課題をのこしています。
もとより「何を教えるのか」「どのように教えるのか」は二律背反してはならず、教師は教育内容と教育技術の研究を同時に追究しなくてはならないのです。
授業の技術化を実現するために、具体的には指導案や授業記録に実践を記録しますが、その際に三つの要件が必要とされています。
(1)伝達可能性
指導内容を微細に明示します。発問・指示・説明など授業のようすを具体的に記述し、事実を伝えます。
(2)再現可能性
「どうやればいいのか」という方法だけでなく、「なぜそれでいいのか」をもあわせて提示します。
これを読むことによって、教師は伝えられた授業の事実の意味を把握し、何に焦点化して実践すればよいのかが理解できるのです。
(3)検証可能性
授業に対する評価をおこないます。
授業記録は、教師の指導記録のみの記述となり、子どもたちの学習活動の経過と結果の事実の記載が弱くなります。
その授業を成立させている条件(地域・学校の特徴や教師・学級の特性など)を明らかにするとともに、子どもたちの学習活動を正確に評価した記録を提示すべきでしょう。
このようにすることによって、そこで使用された教育技術の適用範囲と限界を知ることができます。
共有財産となった教育技術を活用する際の注意点は、
(1)教育技術を使う場合には、「子どもたちへの願いは何か」という問いを忘れないことです。
「何のために」使用するのかという問いをもつことです。
(2)使用される教育技術は子どもたちの学習集団の質や教師の力量によって、異なるとともに発展もするということです。
(3)教育技術を体得するには、練習が必要とされるということです。
教師は、授業記録を読み、授業を観察するだけでなく、自らも授業を公開し、技能化の程度を客観化する努力が求められるのです。
一般に、人間の認識活動は、分析と直観、科学的認識と形象的認識という二つの働きによって成立しています。
したがって、教師と子ども、という、ともに個性をもった存在がぶつかり合う活動である授業実践を認識する場合にも、科学的方法(技術化)だけでなく芸術的方法(芸術化)が要求されるのです。
計画された授業の経過のなかで、子どもたちの思いがけない反応や不測のできごとに直面して、教師が教育的に適切な臨機応変の対応をおこなう(教育的タクト)ことが常におこなわれています。
このような教育的タクトが、芸術的方法としての「教育的鑑識眼」や「教育的批評」の対象として形象的に記述されるならば、その具体相がより明確になるでしょう。
教育方法のあり方を示した、工学的アプローチ(教材の開発や選択に裏づけられた合理的な授業づくり)と羅生門的アプローチ(創造的な授業実践での臨機応変的な対応)は、まさしく、授業づくりにおける「技術化」と「芸術化」の問題です。
この問題は、授業名人と評された斎藤喜博に対する二つの異なる批評として顕在化しました。
一つは、教育技術法則化運動がおこなった。斎藤の授業技術は明示性に乏しく、教師たちの共有財産にはなりにくいというものです。
他方、林竹二は、斎藤は授業技術にこだわりすぎて、子ども全体に質的に働きかけるという授業の本質を見失う危険がある。
つまり「技術性」を重視する立場からは、「芸術性」のもつ不透明性が批判され、逆に「芸術性」を重視する立場からは「技術性」のもつ効率性が批判の的になりました。
授業における「技術性」と「芸術性」を考える際に参考になるでしょう。
(田中耕治:1952年生まれ、京都大学教授を経て佛教大学教授。京都大学名誉教授。専門は教育方法学・教育評価論)
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