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子どもの心を動かす話しかたをするには、どのようにすればよいのでしょうか

 私は、言葉に障害がありましたから、声が出ない人、うまく話せない人を敏感に気づいて、そのありようを考えてきました。
 ある会合で若い女の教師から質問されました。
「小学校三年の担任ですが、子どもたちの姿勢がひどく悪くて困っています。どうしたらいいのでしょう」と言うのです。
 この教師の声が実にか細く、おまけにカン高い。
 これはもう原因はこの教師本人にあるのは明白です。
 あんなか細い、聞き取りにくい声でしゃべられては、子どもたちはじきにくたびれます。
 もうどうでもいいやという気になって、ぐたっと机につっぷしてしまうのが当たり前です。
 子どもたちの姿勢をよくする方法はただ一つ、まず彼女自身が楽々と子どもに届く、生き生きした声を取りもどすことでしょう。
 これは決して珍しい例ではない。子どもたちにたっぷりした声で話しかけられる教師は数少ないようです。
 強引なばかでかい声や、細いカン高い声、冷たく固いしゃべりっぷりなどがみられます。
 私が行う基本訓練に「話しかけ」があります。
 5、6人椅子に座っている人の後ろ3~4mから話しかけるというレッスンです。
 このレッスンでみんな驚くのは、話しかけられた声があらかた相手に届かない、ふれないことです。
 話しかけた声が座っている人のはるか手前だったり、もっと先のほうに話しているとしか聞こえなかったりします。
「話しかけ、声で相手にふれる」という、この基本的な能力が、今私たちから奪われつつあるのではと私は恐れているのです。
 学ぼうとする子どもたちに向かって語りかけ、相手とふれ、対話し、相手のこころの内になにごとかを起こすこと、これが本来教えるということだろうと思うのです。
 言葉が相手の体にふれ、相手のからだと心を動かす、変える、これが話すということでしょう。
 体の内側の感じを探ることに集中すれば、自然と呼吸が深くなり、胸をつり上げて固めてはいられなくなる。
 声は深い、腹に響く声になる。こうなると自分の体の感覚にも気がつく。不思議なことにこうなると、言葉が相手にふれ、染みこむ。腑に落ちる。
 からだ全体に響く自分の声を持たねばなりません。
 話している人のことばが、声としてちゃんと相手に届いていないのに、全く気づかずに過ごしている人がいる。
 たとえば、ガンガンと怒鳴りまくって、壁に声がはね返っている。
 声がほんとうに相手のからだにふれているかどうかは、だれでも感じることができます。
 声というものは、ほんとに、一つの「もの」のように、相手のからだにぶつかったり、はずれたり、散らばったり、落っこちたりするもので、目にみえるのです。
 私が有名な実践家の斎藤喜博先生の合唱指導をビデオで見たとき、声を「もの」としてつかまえ、それをふくらませたり、引き寄せたり、汗みどろになっている姿でした。
 声が「もの」として、相手のからだにふれ、相手を打つようになるためには、
 第一に、発することばが、相手に対する働きかけ、行動でなくてはならない。
 第二の条件は、自分の声をとりもどすことだといえるでしょう。
 自分の声という言い方は漠然としていますが、多くの人はいわゆる「口先だけの声でしか語っていない」ということを言いたいのです。
 話そうとすると、とたんに胸を吊り上げのどを締めつけようとする。
 胸をつりあげて、胸と頭だけに声を響かせている。
 声の幅がきわめて狭く、息が浅く、ハイスピードで一気にしゃべる。
 聞いていて安心できないし、じきに疲れてきます。
 やわらかく、こちらのからだに沁みてくるとか腹に響くということがない。
 それをなくすために、力をぬき、息を深くすることから始めて「からだがゆるんで来たな」と思えたころ、やや遠くにいる相手に、たとえば「バカ!」と怒鳴りつける訓練をやった。
 ある女性の場合、からだがおどり上がるように動いて、みごとに腹からの豊かな声がでました。
 ズシンと相手のからだを打ち、相手がふっとびそうな力強さだった。
 息が深々と彼女のからだから流れ出て相手へ向かっていく。
 自分の声に出合ったと言いましょうか。そのとき彼女は、相手が見えた、と言いました。
 胸の力を抜く訓練をして「とても楽ですという声」を見つけ、出してみると、深い豊かな声になり、話すことばが、からだ全体に響いてきます。
 驚くことには、相手にまともに向かえる感じになることです。
 自分と相手との間に、たしかな、ある関係が成り立ったという、新しい感覚がうまれます。
 自分でも気づかなかった自分があらわれます。
 人が「変わる」というのは、こういうことだと私は思うのです。
 あらわれてから後で「ああこれが私なんだ」とわかる。
 自分に出合うということは、自分を捨てることでもあるわけです。
 その人の感覚なり、行動のパターンが変わるというときには、顔つきも変わるし、声も変わる。
 つまりその人の存在の仕方全体が変わってしまう。何かどっかだけが変わるということはない。
 教師が「子どもがわかる」とは、どうゆうことなのでしょうか。
「みえる」とか「わかる」というのは、子どもたちのからだが語っていることを、教師は自分の目で見て、自分のからだに共振して感じる体験なのです。
 教師は、子どもが「みえる」とか「わかる」ようになるには、教師はからだの力を抜き、ときほぐすことが出発点になります。
 からだをときほぐすとは、肉体の緊張だけでなく、内なる身がまえをとき、からだの深いレベルまで入っていくことです。
 この中で「感じるままに動く」という訓練はとくに教師たちには全く経験がないことに驚かされます。
 もし教師が「からだをときほぐし、感じるままに動く」ことを試みれば、内的な調和を得ることができます。
 この試みは、自分を否定し、こわし、おちこぼれることを覚悟してください。
私の行っているレッスンの内容は次のとおりです。
・人に触れられないからだに気づく
・自分のからだのこわばりに気づく
・からだをときほぐす
・からだの内に動くものを感じる
・感じるままに動く
・ものにふれる
・他者に向かって働きかける
・声で働きかける
・ことばで働きかける
・からだ全体が深くいきいきと動く
 レッスンで、からだがほどけて来て、ホッとして体調もよくなり、仲よくやっていけます。
 だが、その先、日常生活によって枠づけられた範囲をからだが越えはじめ、抑圧されていた見知らぬ自分が顔を出し始めると、人は怖くなる。
 教養として、健康法としてレッスンを受けているときは、まだからだがおびやかされない。
 それが根底から変わらなければならぬと感じ始めたとき、教師の多くが逃げ出すのです。
 自分を追いつめることがなく、深い集中に身を投げる勇気が教師にはない。
「深く集中した状態でからだが動き、思いがけずに自分がいきいきと動き、それを仲間と共有しあう」という怖れと、喜びに満ちた自由な状態を教師は味わったことがない。
 しかし、生徒たちはその状態を求め無意識に体験している。
 子どもたちのからだと魂に教師が自らをなげ入れる。
 その激しいエネルギーの消耗から教師のいのちが蘇ってくるものは、子どもたちのひたむきな眼であり、湧き上がるような笑顔であり、魂をのぞかせることばである。
(竹内俊晴:1925-2009年、演出家(竹内演劇研究所主宰)・宮城教育大学教授。独自のからだとことばのレッスンを行った)
(「からだが語ることば」竹内敏晴著 評論社 1982年)

 

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