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国語の授業の課題とは、発問はどのようにすればよいでしょうか

 国語科の授業は、悲壮な顔ではなくにこやかに授業したいものです。
 言葉を学んでいくことは楽しいことなのだということを子どもたちに伝えてほしいですね。
 そのためには教師も言葉を楽しまなくてはなりません。
 国語の授業の最大の課題は、一人ひとりの子どもに言葉の力がついていく活動です。
 こんな活動を行わせたいという授業構想のなかに発問づくりは位置づきます。
 発問づくりは、最初からうまくいくわけはありません。
 子どもって、そんなに単純に思い通りに動きません。
 仮に子どもが思い通りに動いたとしたら、逆に疑うくらいでよいのです。
 表面的な活動ほど画一的になるのですから。
 多様な子どもたちに対応するためにこちらも多様性・柔軟性を持たなくてはなりません。
 逆説的になりますが、発問という授業の狭い一部分を充実させるためには、広い知見が求められるということです。
 教材をどれだけ深く読み込めるか、発問の対象たる子どもをどれだけとらえられるか。
 たいへんなことかもしれませんが、それが楽しくなってほしいものです。
 子どもと同じで、何かをつくりだすというのは、やっぱり楽しいことです。
1 小学校低学年の発問
 小学校低学年では、言葉のキャッチボールによって、自分の思いを聞いてもらえた満足感を十分感じられる体験が何よりも大切である。
 発問は、問いが誰にどこまで届いているのか、その反応を受け止めながら発するものなのだ。
 何も言わずにうなずいている子やためらいがちな動作で表現した子の反応に教師は敏感に反応し、それをほかの子どもたちに伝えながら評価していくようにする。
 幼稚園などで、絵本の読み聞かせを多く経験している低学年の子どもにとって、物語の世界にひたることは何よりも楽しい活動である。
 豊かなイメージを身体表現に結びつけることができる。
 作品を順序正しく読み、自分の考えと比べたり、体験したことのある事実と結びつけたり、別の言葉で説明したりする学習が求められる。
 以上のことから、低学年における発問は、自分自身のイメージを十分表現することと、作品や言葉を内面化し、対象として解釈していくことができるものにしていく必要がある。
 そして発問する際にはつぎのことに留意することが望ましい。
(1)短く、単純であること
(2)別の言葉で言いかえなくても分かる言葉を使うこと
(3)一つの発問に、問うことは一つであること
(4)主発問は、音声だけでなく文字でも示すこと
(5)発問に対する答えがはっきりしていること
2 小学校低学年や中学年の発問
 小学校中学年の子どもたちは、知的な好奇心が旺盛になり、実際に国語の授業でも、漢字の習得力が増えたり読書の幅が広がっていったりする時期である。
 一方で、周囲の目を気にする時期でもある。
 低学年までの具体的な生活場面に支えられた言葉の学習から、抽象的で要素的な言葉の学習が求められるようになる。
 個人差が大きく、国語の学習に抵抗を感じる子どもも出始める時期でもある。
 したがって安心して発言できる発問、多様な意見を出し合える発問など、工夫していかなければならない。
 ポイントは、学習指導の過程に合わせて、幾種類もの発問を組み合わせて授業を構成することである。
 例えば、誰でも答えられる発問である。
「それは誰のことですか」というように、答えが一つであるような問いを用意しておく。
 誰にでも考えやすく、自信を持たせることにつながる。
 簡単な発問の場合はすぐ挙手をさせるのではなく、まずノートに自分の考えをしっかり書かせ、その後に挙手させる工夫も必要である。
 また「心に残った表現は何ですか、それはどうしてですか」といった、それぞれの子どもの考えが出し合えるような発問を用意する。
 学級の考えが広がっていくような発問である。
 そのためには「こういった発問だったら、Aさんはこう答えるだろう」「Bくんだったらこんなことを言い出すのではなかろうか」とあれこれシミュレーションしてみることも必要なことである。
「ゆさぶり発問」も、中学年の子どもたちから有効になる。たとえば、
「なるほど、みんなの意見から、この場面の様子がはっきりしてきたね」
「けれども、先生はその文章から全く別の様子を思い浮かべたんだけれど」
 というように、異なる意見を提示する。
 子どもたちはそれまで気がつかなかったところに目を向けたり、より自分の意見を明確にしていく。
 授業のどの場面でどんな発問を投げかけ、組み合わせていくか検討していきたい。
 ある小学校の教師が木下ひさし先生の授業を見せていただけることになった。ブログにつぎのように述べている。
 教室へ入ると暖かい雰囲気。なんだかほっとした。
 授業は2年生の「かさこじぞう」だった。
 前時の最後に子どもたちが書いたノートを先生が読み上げるところから授業がスタートした。
 そして少しずつ音読しながら「どうだった?」「何か気がついたことある人?」と先生が子どもたちに問いかけていった。
 子どもたちは思ったことや感じたことを自分の言葉で話していた。そして先生がどの意見もやさしく受け止めていき授業が進んでいったのが印象的だった。
「しかたなく」「とんぼりとんぼり」「じぞうさまが六人」「かきおとす」という一つ一つの表現に焦点を絞って丁寧に読んでいた。
 流して読んでしまいがちなんだけど、子どもたちは一つの言葉からどんどん読みを豊かに広げていった。
 先生と子どもたちのやり取りはとっても自由というか自然で、そのすがたがとても印象的な授業だった。
 授業を通して、もっと素朴に読むこと、話すことそのものを大切にしていかなければならないのだと思った。
 うまくいえないのだけど、物語を豊かに読むために、色んな仕掛けをしたり、活動をしたりする方法がある。だけどそんな活動や方法の前に読むことそのもの、読み合うことそのものを大切にしていかなければと思った。
 授業を見ていると、一見子どもたちが自由に意見を出し合っているだけのようなんだけど、実は大きな川の流れのようになっていって確実に物語りに迫っていた。
 自然と子どもたちは主人公に同化していき物語の中に入り込んでいっていた。本当に自然と。
 それは、先生が子どもたちの言葉を全力で受け止め、認めていたからだと思う。
 それに先生は挙手している子どもたちだけではなく、それ以外の子どもたちのつぶやきをすっと捕らえて返したり、声を掛けたりしながら子どもたち一人ひとりを大切にしていた。
 木下先生は一つ一つの対応が細かく、とってもあたたかいし確実に受け止めてくれる。
 そのことが安心できる雰囲気を作り上げていたんだと思う。
 授業を通して「もっと物語を読み合うことを楽しむんだよ」と教えてもらったようで心があたたかくなった。
 長く小学校で教育に携わってきた木下先生は、次のように述べています。
 子どもを取り巻く環境は変わっても、子どもたち自身は決して変わってはいない。
 遊びたい、学びたいという気持ちは、どの時代の子どもたちも同じです。
 子どもたちを教える面白さは、成長する人とかかわり合うことにあります。
 さまざまな個性がありますし、そのそれぞれの成長の場面に立ち合うことができる楽しさや、人間対人間として向き合えることが、小学校教師の魅力であり、かつ難しいところでしょう。
 パソコンや通信機器が発達した現在だからこそ、言葉を読んで、あるいは聞いて、考える、想像するということを大切にしなければいけない。
 現場の若い先生と私が見せる授業の大きな違いは『あそび』だと思っています。
 教育の現場そのものが忙しくなって、授業計画や目標に縛られて、授業が機械的形式的に進められていくことも多い。
 子どもたちに問いを投げかけても、すぐに、ハイハイ! と手を挙げさせて答えさせる。これでは、考える時間がありません。
 考える時間があってこそ、思考力が高められるのです。
 目の前にいる子どもたちに合わせた授業の進め方、またそのための教材作りなどを提案しています。
 国語の授業をする時にさまざまな文学作品を扱いますが、そうした作品を分析するのもひとつの研究だと思っています。
 子どもが30人いたら30通りの読み方ができる。教師が30人いたら、やはり30通りの読み方があっていいのです。
 教室で、みんなで読み合うことでその面白さに気付き、その作品の良さを見出していくことができるのです。
 授業をしていくためには、まず先生方がしっかりと文章を読むこと。視野を広げるために多くの本や新聞を読み、思考の柔軟性と思考する力を養ってほしい。
(木下ひさし:成蹊小学校教師(26年間) 中学校(4年間)、宮城教育大学を経て聖心女子大学教授。講演や模擬授業など、全国の教育現場へ出向くこともある)

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