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教師が子どもが見えないのは、子どもに願いを持ち過ぎるからである

 相変わらずクラスの子どもたちは思うようにならない。私は自分の力不足を感じていた。
 そんなとき、学年主任に、
「子どもが見えないんです(理解できない)」
 と相談すると、
「おまえは、子どもに願いをもちすぎる」
「子どもに、こうなってほしい。ああなってほしいと」
「そういう願いを先にもつから、子どもたちの『いたらないところ』ばかりが目につく」
「だから子どもの本当の姿が目に入ってこない」
「願いを持つ前に、子どもをよく見て、子どもを理解しようよ。難しいことだけど」
「そこから、その子にふさわしい願いが生まれてくるんじゃないか」
 と、つぶやくように諭してくれた。
 それまでは、気づかぬうちに自分が描いていた子ども像に近づけるよう願っていた私。
 子どものためと言いつつ、自分の理想や想いだけを子どもに押しつけていた。
 私は「願い」「かかわる」という一方向で授業や子どもを見ていた。
 これでは子ども主体といいながら、やはり教師の立てた構想に都合よく子どもを操っているだけのことだった。
 私はこれまで、教育の技術とか心構えとかいうマニュアル化できそうなスキルを吸収することばかりにとらわれていた。
 学年主任の口から出てくる哲学のような言葉に最初は戸惑ってしまった。
 それでも、学年主任を中心に毎日のようにだれかの教室に集まっては、子どもや授業について語り合ううちに、先生方の子どもを見つめる力量の奥深さに魅了されるようになっていった。
 その日の授業での子どもの発言やノートから、その子のものの考え方や生活背景を推し量ってみたり、子どものささいな言動に成長を見つけたりするこの時間が、教師としての基盤づくりになった。
 毎日のように繰り返された語らいの中で、
(1)「子どもをとらえ」・・・
(2)「願い」・・・
(3)「かかわり」・・・
(4)「子どものとらえ直し」・・・
(5)「願いの見直し」・・・
(6)「かかわり」・・・・・
 というように螺旋的に連続していく教育の営みをイメージできるようになってきた。
 その子の生活や経験をも含んだ背景を理解することの大切さを知る楽しさと難しさを実感する場として授業に挑んだとき、授業の本当のおもしろさや怖さにふれることができたような気がする。
(山崎準二:1953年山梨県生まれ、静岡大学教授、東京学芸大学教授、東洋大学教授を経て学習院大学教授。専攻分野は教育方法論・教師教育論)

 

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