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子どもたちは最も厳しい教師の批評家である

 休憩時間に教室でくよくよ考えながらギターのレッスンの準備をしていた。
 私はかなり不幸そうにみえたのだと思う。
 最初にクラスに戻ってきた、おとなしい少女シーラが私のそばに歩みより、
「大丈夫ですか、エスキス先生?」と言った。
 私は大丈夫だと答えたが、どんな教師でも知っていることだが、5年生にウソをつくことは不可能である。
 つねに真相を見抜く。
 能力の高い子どもたち数人に非難されて、私がギブアップ寸前だということはわかっていた。
 シーラは、
「先生は、そばにいるときの子どもたちのことしか知らないんです。先生はあの子たちをとても愛しているから、ほんとうの姿が見えていないんです」と言った。
 この発言は私を深く考えさせた。
 私に対してもっとも頭にきている子どもたちこそが最良の子どもだったことに私は気づいた。
 私を非難攻撃した潜在能力の高い彼らを見て、私はその能力を生かし、高めるためにプレッシャーを強めた。
 だが、興奮した私は、これらの子どもたちに、さまざまな可能性のある道を示すのではなく、特定の道を無理強いし、ほかの可能性を考えるチャンスさえ与えなかった。
 そのことに私は気づいていなかった。
 私は子どもたちの目を通して、自分のクラスを振りかえってみる必要があった。
 そこで、以前に担任していた子どもの何人かと幾晩か一緒に夕食を食べた。
 私はほとんど語らず、聞き役にまわった。
 彼らから多くを学んだ。それが本当の教育だった。
 彼らは、勉強ができることと性格とを混同してはならないことを教えてくれた。
 この学校に赴任してきたとき、最初に私は子どもたちの学力の低さにショックを受けた。
 そのため、始めの数年間、子どもたちの学力を上げることに専念していたので、出来のよい子どもと最良の人間とを混同していたのだ。
 ある子どもが特別かどうかを決める前に、同級生がその子についてどんなことを言っているか聞いたほうがいい、ということを私は学んだ。
 子どもたちは私はより、子どもの価値や潜在能力を判断する力にたけている。
 教師や親は、きわめて限られた視点しかもっていない。
 たしかに、私たちは言いたいことがたくさんあるが、子どもたちだってそうなのだ。
 子どもたちをいろいろな角度からみられるようになれば、どんなときに教師が子どもたちに犠牲を払えばいいかもわかるようになる。
 子どもの魂を救うのは教師の仕事ではない。
 子どもが自分自身の魂を救う機会を提供するのが教師の仕事である。
 私が犯した最大の過ちの一つは、子どもたちのために「何がベストか」を知っていると思ったことだ。
 算数を学ぶために朝早く登校し、そして、シェークスピアを学ぶために遅くまで学校に残っているように子どもたちに要求したのはそのためだ。
 子どもたちは、そのようにしないと私に認められないとプレッシヤーを感じたようだ。
 子どもたちがそうするのはよいことだが、そんなことをしなくても罪悪感を感じずにいられる選択肢がある、と子どもたちが感ずる必要があったのだ。
 私は子どもたちに多くの機会を提供することによって、教え方を改善する必要があった。
 と同時に、子どもたちがどんな道を選ぼうと、その道がたとえ間違っていることを私が知っていたとしても、支えてやる必要があった。
 道が間違っているとしたら、子どもたちが自らそのことを見出さなければならないのだ。
 以前、私が担任した子どもたちの言うことに耳を傾けることで、私は驚くほど多くのことを学んだ。
 彼らはもっとも厳しい私の批評家であると同時に、この世で最高の友人だった。
(レイフ・エスキス:UCLA大学院卒、米国の教育を根本から変える力を秘めた小学校教師。ロサンゼルスの犯罪の多発するロサンゼルスの貧困地区の移民家庭の子どもたちが多く通う小学校のクラスを30年以上受け持ち、学力を飛躍的に伸ばし、品格のある子どもを育て、教師として初めて、アメリカ国民芸術勲章を受章。
 英語が第二言語である子どもたちが自発的に朝6時半から放課後5時過ぎまで学校に滞在、教科の勉強のほか、ビバルディを演奏し、ロックバンドを組み、シェークスピア劇の練習をし、週末には名画を鑑賞する。教え子は続々と名門大学に進学し、医師や科学者を輩出。毎年上演するシェークスピア劇が高く評価された)

 

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