授業のハウツウ
授業も含めてあらゆる教育活動についての「ハウツウもの」「マニュアル本」が出回り「授業や教育活動での苦労」を回避する教師たちの出現が今日の崩壊的な現状を作った要因のひとつと思うのである。
「楽をしていいことをしよう」という安直な発想が「ハウツウもの」の大量の流行を招いたとも言えるし「授業の手軽な方法のみの追究」になって、子どもや教科と直に向き合うことがなくなり、そのことが「授業の衰退」へとつながったと考えられる。
しかもそのために、教師は自分の思想、自分の方法を持つ必要がなくなってしまった。
それまでもあった指導書に頼った授業をしていた教師たちの群れへ、若い将来のある教師たちが、雪崩を打って「ハウツウ」に走ってしまっている。
一握りの良心的な部分を除いて、学校には「指導書とハウツウ」に頼るだけの教師しかいなくなり「自分の教育方法を考える教師」いなくなったとも言えるほどである。
「自分の考えを持たない教師に教えられる子どもたちの不幸」と、ということまで考えざるを得ない。
牧野桂一も、ハウツーものを批判する後藤清春について、つぎのように述べている。
後藤は、ハウツーものの持つその罪の深さを批判している。
お茶や生け花のような体系的・総合的な指導体系を持たぬまま、一部分を取り上げて、その教え方だけをマニュアル化しても、その指導は大変浅いものになってしまう。
教育の営みとはかけ離れたものになってしまうと私も思うのである。
私のやっている俳句の世界でも「やさしい俳句の作り方」などというような本を何冊読んでも俳句はうまくならないのである。
それどころか、下手になって俳句が嫌になり、結局止めていってしまうのである。
しかし、この「やさしい俳句の作り方」なる本がよく売れるのも事実のようである。
そのような怠け者に迎合した「ハウツーもの」は俳句を大衆化することには役立つかもしれないが、感動させるような質の高い作品を生み出していることには繋がらず、かえって害になっているのが事実である。
俳句の基本は、芭蕉の言うところの「ものの見えたるひかりいまだ消えざるうちに言い止むべし」であり、徹底して「もののいのちを見る」ということに尽きるのである。
どうしてもマニュアルの欲しい者に対して芭蕉は「俳諧は三尺の童にさせよ」と言い放つ。
個性ある子どもたちに対して、形式的な授業をすることは、その根本が間違っているのである。
一人ひとりの子どもたちに自由自在に対応し、自由自在な方法で導いていくことが授業の中では求められているのである。
宗教家にしても、職人にしても、芸人にしても、武道家にしても、一流をめざす者はおおかた小手先の技術ではなく、そのものの本質を踏まえた基礎・基本を徹底的に教えこまれる。
それは技術にくっついた思想をきっちりと学ぶことにもなる。
どうしても忘れてはならないのが、後藤が何度も強調している「斎藤喜博という人を求めるのではなく、斎藤喜博の求めたものを求める」という教えである。
(後藤清春:1948年生まれ、大分県公立小学校の教頭、校長を歴任し、斎藤喜博が求めたものを求め続けた)
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