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今までの教師としての自分を一度、壊してみる

 私は、戦後教育がそのうちに持ってきた、権力者にとって都合のいい「あるべき子ども」論を批判してきたと思っていました。
 しかし、実は私自身がもうひとつの「あるべき子ども・学校・教師」に固執してきたのではないか、と思い当たりました。
 子どもたちの前で、教師である自分の権威性をどこまで否定して生徒と共に生きていけるのか、というのがそれまでの私の命題でした。
 生徒のやりたい放題を目の前にして、私は自分の中の「あるべき子ども像」が打ち砕かれたのです。
 答えの出ない迷路にはまりこむよりも、目の前にいる生徒の現実から始めよう。
 単純かもしれませんが、これが結論でした。
 そのためには今までの自分のアタマとからだを一度こわしてみることが必要なんじゃないか。
 それが私の学校でのサバイバルへの第一歩でした。とても大きな転換でした。
 私の具体的な「自分こわし」の方法を示します。
 その方法は教師の個性によって違いますし、勝手な思い込みもあり、どれが正しいという問題ではないのです。
 大切なのは選んだ方法を地道に続けることと、必要に応じて大胆に変更できるようにしておくことかな、と思います。
 まず、私がやったことは、校内をゆっくり歩くことでした。
 これまでいつ何か起きるんじゃないかと、目が血走り余裕のない動きをしていた私にとってこれが必要だと思いました。
 私はからだが大きいせいか、外見は落ち着いて見られることが多いので、それを利用させてもらおうと思いました。
 もうひとつ。荒れた中学校では教師は運動靴を履くのが常識ですが、ぼくはサンダルを履き続けることにしました。
 ひとつの自己表現ですし、逃げる生徒を追いかけるのには、サンダルが自然のような気がしたのです。
 あとは、ひたすら生徒たちの中に身を置くことをこころがけました。
 同僚と普通に話をするのと同じようにごく普通のトーンで生徒と話をすることでした。
 うまくいったとは思えませんが、荒れている生徒でも、ものを食べている時は穏やかな表情をするという発見がありました。
 ですから一緒に食事をする関係ができれば、こちらの思いをある程度は伝えることができると思いました。
 周りの教師に「弱音を思いっきり吐く」ということを始めました。
「いやなことはみんなでやろう」というのもありました。
 こんなささやかな「自分こわし」を少しずつ始めていきました。
 こんなふうにして、からだの動かし方を変えていきました。
 これまでは、アタマで考えることの多かった私には、とても新鮮なことでした。
 日々教師をしていると「こうあるべきだ」という安易な経験主義に陥ってしまうことがあります。
 学校現場にいるということは、常にリアルタイムの判断が必要とされます。生徒はある状態にずっととどまっているわけではありません。
 日々、刻々移ろいながら、その時々の姿を教師の眼前に現すのです。
 眼前で起きる事態に対して心も身体もリラックスさせ、有効性のある動きをいかに紡ぎ出していくか、そのことをまず考えるのです。たやすいことではありません。
 たとえば、生徒指導について言えば、教師の日々の身体の動かし方、生徒への対応の仕方などのマニュアルの有効期限がとても短くなっています。
 極端に言えば、昨日使えたマニュアルが今日は使えなくなってしまったりします。
 ある教師にとってのマニュアルがほかの教師には使えなかったりします。
 マニュアルといっても、機械を操作する時のマニュアルのようにはいかないのです。
「明日の身体の動かし方」のマニュアルとは、結局、自分を教師という枠の中に閉じ込めない、ということだと私は思っています。
 閉じていく自分を開いていくには、日々自分のありようを腑分けしていくことが大切です。
 そのことが実は「明日の身体の動かし方」のマニュアルとなるのではないでしょうか。
(赤田佳亮:1953年生まれ、元横浜市立中学校教師・組合執行委員)

 

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