斎藤喜博の授業は実際どのようであったか、授業の再生はどのようにすればできるか
小学校国語科の斎藤喜博先生の「あとかくしの雪」は次のように展開している。
斎藤先生が子どもたちに読みをさせながら作品の中心に迫る問答が楽しく続く。
二年生ということもあるが、本当に「やさしく強く」展開しているのがわかる。
斎藤:「ものすごく上手に読めたねえ、たまげたこれは、それから、きいている人が上手だったね、きき方が。ものすごく上手でよーく読んだね」
(この朗読をした子は、後ろのほうにいた子だったが、はじめに全員が自由に読んだとき、口の動きなどから目をつけておいた)
斎藤:「今度はなかに書いてあることがわかった?」
子ども:「うん」
斎藤:「どんなことが書いてあった」
子ども:「大きな家」
斎藤:「大きな家が出てきたね。それから、あなたは」
子ども:「うん、大根」
子ども:「同じ。大きな家」
斎藤:「同じね」
子ども:「大根をぬすんできた」
斎藤:「どろぼうが出てきた。ぬすみにはいった。どろぼうしちゃったんだね。だれがどろぼうしちゃった?」
子ども:「百姓」(口々にいう)
斎藤:「百姓がなんでしちゃったの」
子ども:「旅人にやるものがないから」
斎藤:「どろぼうなんかすれば、・・・・おまわりさんにしばられてしまうのに、どうしてどろぼうしちゃったの」
子ども:「旅人に何もやるものがないから」
斎藤:「ああー、旅人に何もやるものがないから。どこかのうちからぬすんできちゃったの」
子ども:「えーと、大きな家」
斎藤:「おおきな(ゆっくりと言う)家ね、大きな家からぬすんじっゃたね」
途中略
斎藤:「そうだ、どろぼうを考えちゃった。ね。悪いやつだね。(板書していた『しかたがない』のとなりに『どろぼう』と板書)どろぼうを考えちっゃたね・・・・お百姓さん、うんと悪いやつだから、みんなたたいてやる。どう?」
子ども:「うーん」(否定的に)
子ども:「心のやさしい、いい人」
斎藤:「あれ、心のやさしい・・・・なるほどね。ほかの人はどう」
子ども:「やさしい人」
斎藤:「同じ、そう思う。やさしい人だと思っている人いるいる?」
-全員「ハーイ」と手をあげる
斎藤:「なるほど、みなさんやさしいんだね、心が。皆さんがやさしいだな、これは」
一問一答のようなかけ合いだが、大変に集中し、よく考えている。
「あとかくしの雪」の授業を後藤清春も何度かしたが、斎藤喜博のようにはいかない。
なぜだろうと今更思う。
「教材」「教材の解釈」「展開の核」「発問、指示、説明」と、その一つひとつが深い奥行きを持っている。
授業記録が出版されているので、ことあるごとに読み直していかねばならないのだと思う。
次に斎藤先生のチェーホフの「カシタンカ」の授業について次に示す。
国土社の「授業」(斎藤喜博著)に次のような記述がある。
六年生が、チェーホフの「カシタンカ」という小説を勉強した。
この作品は原稿用紙にして70枚ばかりのものであるが、教材がくばられると子どもたちは、久しぶりに良い食物にありついたというように、2時間ぶっ続けで読みひたった。
その読み方は一行一行しっかりと読んでいって、一回読むのに2時間かかるという読みで方であった。
だが、子どもたちは、その一回のていねいな読みで、作品の全体をほとんど頭の中に入れてしまった。
また、その作品の本質も直観的にとらえてしまった。
それからさらに深く作品を追究していくために問題を作り、その問題に対する自分の考えや、友だちの考えや、先生の考えをぶっつけ合わせ、考えを変えていったり、新しい考えや解釈やイメージを作り出していったりするのである。
だからそのときどきの子どもや学級には強じんな論理の軌道がある。
教師は、そういう強じんな子どもの軌道を打ち壊し、子どもをさらに高い世界へとあげていかなければならない。
そうしなければ、子どもはほんとうに満足し学習の喜びにひたることができないのだ。
しかし、その作業が大変である。
単なる一般的な知識や教材解釈だけでは、子どもたちの強じんな論理の軌道を打ち破ることはできない。
私の学校へは、一週間以上続けて学校に入り込み、授業を見たりして勉強していく先生が各県から来ている。
そういう先生たちが一様に言うことは「今までの自分の授業は、授業などといえたものではなかった」ということである。
その中のある先生は、
「子どもたちはみな、複雑な論理を自分のものとして明確にもっているのだ。一人ひとりの子どもも、学級全体も、学習の進展につれて、その論理の糸や結節点をくり出したり、作りかえたり、発展させたり、ふくらませたりしているのだ。そういうことが身にしみてわかった」
ということを言っていた。
今までの一般の授業は、自分の持っている一般的な解釈だけを、ただ常識的に子どもに教えこみ、記憶させるだけのものだった。
子どもがそれを覚えなかったりした場合は、テストとか通信簿とかで無理やり納得させるだけのものだった。
だがそれだけでは教育とはいえない。
そういう授業では、子どもの論理や思考や感情を明確に引き出し育て、子どもや学級に網の目のような論理の組織をつくらせ、それを否定したり拡大したり、変革させたりして子どもをゆるがすようなダイナミックな授業はできない。
子どもの持つ論理の軌道と、教師の指導意欲とが、火花の散るような対決をし、その結果として無限に新しい論理の軌道を教師や子どものなかにつくり出していくような授業はできない。
「授業の再生」ということは、難しいと言えばこれほど難しいことはないのかもしれない。
学校や教師たちの「姿勢の転換」が要求されているわけである。
私がよく言ってきたのは「どこで苦労するか、させるか」ということをしっかり決めて、やはり「真摯に苦労するしかない」からである。
「いかにして楽をして効率よく授業をするか」という考え方から脱却しなければならないから「姿勢の転換」と言っても簡単ではないということである。
この「苦労のしがいのある教材と展開で」授業を創っていかねばならないと思う。
「子どもに論理も持たせ、その論理ときり結ぶ苦労」のある授業こそ、新しい授業だと思う。
(後藤清春:1948年生まれ、大分県公立小学校の教頭、校長を歴任し、斎藤喜博が求めたものを求め続けた)
| 固定リンク
「授業づくり」カテゴリの記事
- 討論の授業を行うためにはどのようにすればよいか 戸村隆之(2021.10.29)
- 私の授業が劇的に変わるきっかけとなったこととは 宮本博規(2021.05.16)
- 授業のヤマ場をつくるコツとは 宮本博規(2021.05.14)
- よい授業を見ることが一番勉強になり、授業観が変わる 宮本博規(2021.05.13)
- 授業をどうデザインすれば「よい授業」になるのか 鶴田清司(2021.05.08)
この記事へのコメントは終了しました。


コメント