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子どもたちが自分を探し確かめるのが芸術表現である

 芸術教育は表現教育である。絵画も歌も表現する。
 だからよりよく表現させることが芸術教育なのだと教師たちは考える。
 その表現の評価は外に現れたものだけで良否を決めてしまっていいものだろうか。
 教育の観点からみれば「なぜ」が大事なのではないか。
 絵画では絵を描きたいという心が形に現れる。この心への洞察こそ教育の原点だ。
 表現教育の視点は、まず表現を生みだす子どもたちに向けなければならない。
 子どもたちの日常は本人すら気づかない事件や物語がひしめくように起きている。
 一人ひとりの子どもの心の内外でそれらはつながり、にじみ合っている。
 その水脈のなかから、授業で歌いたい理由や歌いたくない理由が紡ぎ出されるのだろう。
 そこにその子どもの表現への重要な手掛かりがある。
 しり込みし、ためらい、いやいやながら授業につきあう子どもたち。ときには、反抗することもあろう。そのどれもが、それぞれの「なぜ」を潜在させている。
 音楽コンクールは、今やただ達者であるだけの演奏はだれも評価しない。
 なぜその演奏者がその音楽をそのように演奏するのか、音が語ってくれない演奏は表現とはいえない。
 芸術表現は負や悪をふくめた生命との緊張関係から多くの芸術作品が生み出されている。
 むしろ苦境に立った絶望や屈折のなかから、最後に紡ぎ出された希求や祈りや愛であったりする。
 表現とは自己表現である。だが、自己とは明白なものではない。
 どこにどのようにして在るのかわからないからこそ、人はなにかの手掛かりを求め、それを探し、確かめようとするのではないか。
 その「探す」ことと「確かめる」ことこそが、なにかを創り出す営みにつながるのではないか。
 しかも、そうしてやっと探し出されたものは、絶えず変貌する。変動しわからなくなってしまう。
 だから、私たちは今日歌っても、明日は別な「わけ」で歌を探すことになるだろうし、歌えない自分に出会うかもしれない。それが生きるということではないか。
 芸術とは、わからないことから、わからないことへと架けられた「生きようとする力の現れ」の軌跡であると言えるかもしれない。
 それは鑑賞にもかかわることだろう。
 芸術を理解するとは、作品の背景や成り立ちを知り意味を学ぶことである。
 だが芸術とは本来、他者の言葉だ。
 わが身を語り手に移して根ざしている考えを、語り手の実在を通して感得できなければ芸術はわかったとはいえない。
 しかしそれは、感動することとは違う。感動とは、芸術に接して自分が変化することだ。
 その意味では「鑑賞も表現」であり、主体的な営みだと言える。
 芸術に触れ、ドキドキして、そして「わからない」自分に戻ってくる。それが芸術との出会いというものではないか。
 わからない自分もまた、絶えず変動し続ける自己のありのままの姿であり、人間を常に行動へと向ける無意識の衝動のかたちである。
(三善 晃:1933年生まれ、作曲家。パリ国立高等音楽院に留学、桐朋学園大学の学長を務めた。国内・海外を問わず受賞多数)

 

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