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子どもは成長していくことに喜びを感じ、成長できない状態におかれたときに不満を持つ、斎藤喜博はどような教育を行ったのか

 人間は無限の可能性を持っているものであり、自分をより豊かに成長させ拡大し変革していきたいという願いをもっている。
 教育とは、子どもの持っている可能性を引き出し、拡大していくことである。
 人間の美しさ、人間の連帯の美しさを知り、それぞれの人間の持っている無限の可能性を引き出し拡大することこそ教育の仕事である。
 どの子どもも、成長していくことに喜びを感じる。
 しかし子どもたちは、自分一人の力で成長していくことはできない。
 大人なり教師なりの助けを受け、力を借りることによって、はじめて自分の内部にあるものを、よりよく引き出すことができ、心をひらいて成長していくことができるのである。
 これは幼児や小学校の子どもばかりでなく、中学校や高等学校の生徒においても同じである。
 自分を成長させたいと強くねがっている子どもたちが、自分が成長させることができないような不幸な状態におかれたとき、子どもたちは、不満を持ち、反抗的になったり乱暴になったりする。また劣等感を持ち、無気力になったり怠惰になったりする。
 大人や教師はそう考えなければならないことである。
 もともと無気力な子どもとか反抗的な子どもとか、怠惰な子どもとかが固定的にあるものではない。
 学校の授業についていけない子どもとか、「おちこぼれ」などという子どもがあるものではない。
 そうなることをねがっている子どもなども一人もいるはずがない。
 そういう子どもをつくっている大人とか社会とか学校とか教師とかに問題があると考えなくてはならないことである。
 学校は子どもたちが成長していくのを、子どもの学習をとおして手助けするところである。
 学習の主体者は子どもたちであるが、学習の主体者である子どもたちは、教師の適切な助けを借りることによって、確かに創造的に学ぶことができ、自分を生き生きと成長させ変化させていくことができるのである。
 教師は固定した物を固定的に教えていてはだめである。教科を正確に獲得し、拡大し、深化し、再創造させていかなければならない。
 教育という仕事は、子どもたちの具体に応じて、こまかい手入れをしていかなければならないものである。
 子どもたちに、言葉や、身体で表現させたら、その事実のなかにあるよいものとか、悪いものとかをとらえ、その場ですぐに具体的に指摘していかなければならない。
 その事実のなかにあるよいものは拡大し、悪いものは否定して他のものをつくり出させることによって、子どもたちの持っている可能性は、はじめて引き出され形となっていくものである。
 一時間の授業で、子どもや教師が対決し、火花を散らし、つぎつぎと真理を追及し、子どもたちがへとへとになって、満足しきる。
 このような授業をしていれば、子どもたちは自分を出しきり、つかみとった満足がそこにはある。
 専門家である教師がやる授業は、子どもたちが自分の力を出しきり、正確な知識を獲得し、新しい認識とか創造とかをし、それを翌日の授業に持ち込むようなものでなければならない。
 そうなるような必然性とか法則とかを、授業はもったものでなければならない。
 例えば、合唱の指導もそのようにしていったとき、どの子どももが自分を出し、歌をうたうことによって、自分を豊かにふくらませ、自分を新しくし、自分を成長させていくことができるようになる。
 そういう指導をするためには教師は、子どもの事実をみぬく力を持ち、表現の方法を指導する教師としての技術を持っていなければならない。
 またそれらのもとになる、教材への解釈とかイメージとかを持っていなければならない。
 指導を終わって子どもたちが帰ったあと、どのように解釈し、どのような方法で指導したらよいかを教師たちと考える。
 教育という仕事においては、子どもの事実にふれるごとに、問題が生まれ、新しい解釈とかイメージとか、それに即した新しい指導の方法とか技術とかが生まれる。
 子どもの事実にふれるごとに新しい指導の方法や技術が生まれるのである。
 私の方法や技術は教師としての仕事をしながら何百種類を持つようになった。
 まず、自分の方法では子どもができない事実にぶつかる。
 そこで、考え工夫しながら、新しい方法を考えだし試してみる。子どもができるようになって子どもの事実を動かしたことで、新たに自分の方法や技術を獲得したことになる。
 だから教育という仕事は面白いのである。
 子どもの事実を動かすような仕事をしていったとき、子どもたちは無限に教えてくれるのである。
 教師は、絶えず追究し、創造し、新しいものを子どもたちのなかにつくり出していかなければならない仕事である。
 一つのものをつくり出したときには、つぎのより高いものをめざして、追究をはじめ、新しい創造をしていかなければならないものである。そういう仕事を休みなく続けていかなければならないものである。
 対象である子どもたちの事実によって、そのとき必要な形式をつくり出し、形式によって内容をつくり、そこに生まれた内容によって、またつぎの必要な形式をつくり出していかなければならないものである。
 形式は内容をつくるためにあるのであり、内容によって形式はつくり出されていくものである。
 そのときどきに全力をつくして典型をつくり出すが、それは決して目的ではなく、固定した既成のものがあり、それにあてはめていくものではない。
 つねに目の前にある事実と対決しながら、事実のなかから、つぎつぎと新しいものをつくり出していく仕事である。
 そのようにしてつくり出された典型に数多くふれることによって、子どもたちはいよいよ新鮮になり自分を新しくしていくのである。
 教師もまたそういう典型に数多くふれることによって新鮮な人間になっていくのである。
 そういう作業のすじみちのなかで、子どもたちは自分の可能性を引き出し、自分を成長させていくのである。
 そういうところに、教育の仕事の意味があり、特長がある。
 そう決意し、そういう仕事をしつづけようとしないかぎり、典型としての子どもの姿は生まれないし、教育という創造的な仕事をしつづけていくことなどもできない。
 子どもたちは、学校でのそういう授業や行事のなかで、教師や他の人間の力を借りながら、自分のなかに新しいものをつくり出していくのである。
 そのために学校を組織体としての機能を持ったものにし、授業の質を高めることを中心としたのである。
 また、すぐれた教材を集めたり、つくり出したりすることに努力し、専門家としての教師の技術とか技能とかを高いものにしようとする努力をしたのである。
 そうすることによって、子どもたちは自分一人だけでは到達できないような高みにまで、自分の全心身をつかって、喜び勇んでよじのぼっていくようになるのである。
 他の創造的な仕事においてもそうなのであうが、教育の実践はいつでも連山を越えていくようなものである。
 見えている一つの山を越えてほっとしたときは、つぎのより厳しい高い山が見えてくる。
 創造的な仕事であるということが、教育という厳しい、しかもいやな仕事に、堪えることができたし、やり甲斐のある仕事だとも思ったのである。
 実践者である教師は、そういう仕事のなかで人間を変革していくのである。
 また、人間を変革することによって、そのときどきの子どもと対決する実践も創り出せるわけである。
 教育の実践は、現実のなかでの、絶えざる追究と創造のある仕事であるから、またそれをしないかぎり、教師をも子どもをも変革することなどできない仕事である。
(斎藤喜博:1911年-1981年、1952年に島小学校校長となり11年間島小教育を実践し、全国から一万人近い人々が参観した。子どもの可能性を引き出す学校づくりを教師集団とともに実践した。昭和を代表する教育実践者)

 

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