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2021年5月に作成された記事

理科の学習の導入はどうすればよいか   村山哲哉

 理科の学習の導入はどうすればよいか村山哲哉はつぎのように述べています。
 理科の学習は何と言っても子どもが自然に親しむことです。
 子どもが見たり聞いたり触れたりする活動が伴うということです。
 ただし、単に慣れ親しんだりすることだけでなく、子どもが関心や意欲をもって対象とかかわることにより、自ら問題を見いだすことまでを含めています。
 したがって、子どもが問題意識をもつことができるように意図的な活動を工夫することが大切です。
 授業の導入にあたっては、子どもたちが十分に触れる時間と場を用意するなどの指導の工夫改善が肝要です。
 例えば、「光の性質」の学習では、子どもたちは屋外で平面鏡を使う活動はあまりしていません。
 そこで、校庭に出て、平面鏡を使い日光を直進させる活動を十分にさせます。
 日陰に物を置いて光の的当て遊びをしたり、鏡を使って光のリレーをしたり、光を集めたりする活動やグループで強い光をつくったりする活動などを仕組むことにより、子どもたちは活動の目的を明確にして、鏡を使って日光という自然事象に自ずと働きかけることになるでしょう。
 こうした活動から、光の直進性や光が重ねることができること、平面鏡の大きさによって反射量が異なることなどに気づき、問題意識をもつことができるようになるのです。
 気づきや疑問を学習カードに書くなどして、問題を設定することができるようにしたいものです。
 このように、理科学習の導入においては、理科の目標を踏まえて、子どもの実態を把握しながら、子どもが具体である自然事象と出会い、何かに触発され、自ずとその性質や規則性に気づくような事象、場、活動などを包含した状況を設定することが極めて重要になります。
(村山哲哉:1963年生まれ、東京都公立小学校教師、教育委員会指導主事 、東京都公立小学校副校長 を経て文部科学省教科調査官)

 

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子どものやる気を引き出す叱り方をするには、どうすればよいか    東ちひろ

 子どものやる気を引き出す叱り方について、東ちひろはつぎのように述べています。
 教師が責めるような叱り方をすると、子どもはいつも同じことを繰り返し、もぐらたたき状態に陥ってしまいます。
 子どもたちは先生に責められていることを強く意識して、先生に叱られた理由を突きつめて考えることにはならないのです。
 そこで、「なぜ!」という問い方を「何」という問い方に変えることを試してみましょう。
 そうすれば、子どもの言い分や事情を聞き出すことができます。
 例えば、
「『なぜ』そんなことをするの?」を、
「『何』に一番気を付ければいいと思う?」
「『なぜ』給食当番を忘れたの?」を、
「給食当番を覚えておく『何』かいい方法はないかな?」
 と言うと、子どもは自分の頭を使って、能動的によい方法を考えようとします。
 教師に注意されたことで、子どもがキレてしまったときは、
「やめなさい」と否定し、すぐ制止しないで、気持ちが落ち着くまで待ちます。
「何が嫌だったの、どうしてほしかったの?」など、理由を尋ねます。
「ふ~ん、そうだったのか」など、子どもの気持ちを理解しようとします。
「本当は、どうしたらよかったと思う?」など、どうするべきだったか本人に気づかせます。
 ガミガミ・ネチネチ・ナガナカは、効果的な叱り方ではありません。
 子どものやる気を引き出すには、「短い言葉で行為を叱る」という方法で、具体的に何がダメなのかを伝えましょう。
 そして、「望ましい行動」を短い言葉で伝えることもできればよりよいでしょう。
 例えば、黙ってとなりの席の子どもの消しゴムを借りてしまってトラブルになったとき、
「黙って人のものを使うことがダメなのよ」(短い言葉で淡々と行為を叱ります)
「『貸して』と聞いて、相手が『いいよ』と言ってからよ」(望ましい行動を短い言葉で伝えます)
 教師の気持ちをまっすぐ子どもに伝えるには、
「『先生』(私)を主語にする」だけで、教師の本当の気持ちがまっすぐそのまま子どもに伝わります。
 逆に、「あなた(子ども)」を主語にした場合は、どうしても、その後に相手を責める感じの言葉が続きやすく、誤解をまねく原因になりがちです。
(東ちひろ:幼稚園・小学校教師、教育委員会を経て、「東ちひろマザーズセラピー」主宰。上級教育カウンセラー、今まで相談を受けた子ども・保護者・学校の先生の数は3000人の相談実績がある。)

 

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ココロの貯金がたまると子どもが変わり、親も変わる    東ちひろ

 ココロの貯金がたまると子どもが変わり、親も変わると東ちひろはつぎのように述べています。
 人はだれでも、心の中に「ココロ貯金箱」をもっています。
 親や教師から、ほほえみかけられる、信頼して任せられるなど「プラスのふれあい」をたくさん子どもがもらうと、その貯金箱の中にどんどん貯金がたまっていきます。
 そうすると、子どもの心に余裕が生まれ、他の人にやさしくなれたり、助けたりすることができるようになります。
 子どもたちの自己肯定感が高まり自信を持って成長していくことができます。
 もちろん、子どもをしかることも必要ですが、「マイナスのふれあい」の方が多くなると、親や教師の言うことを聞き入れず、やる気をなくしたりするのです。
 この貯金箱は、穴があくことがあります。
 けなす、無視する、イヤミや皮肉を言うと、子どもの存在や価値を認めていないことになり、自己肯定感がどんどん下がってしまいます。
 あなたも学校の先生にほめられ、やる気になった経験があることでしょう。
 私は学校の先生にほめられることで一気に大量の「ココロ貯金」が貯まると思っています。
 それほど教師の力は絶大なのです。
 私は家庭に、子どものよさを電話やメモを使って伝え、「ほめ日記」に記録することを1年間つづけました。
「ほめ日記」を通して、教師が子どものどんなところを、どんな言い方でほめたかを親が知ることができます。
 教師にわが子がほめられることで、親の心にも確実に貯金がされます。
 親の「ココロの貯金」が貯まってくると、親が子どもにもやさしい言葉をかけやすくなります。
 
親と教師が車の両輪となり、子どものよさを伸ばしていくことができました。
 意欲的に活動する子、心の安定した子がどんどん増えていきました。
 子ども一人ひとりや学級全体が、確実によい方向に変化していくのです。
 それは、まさに教師としての醍醐味でした。
(東ちひろ:幼稚園・小学校教師、教育委員会を経て、「東ちひろマザーズセラピー」主宰。上級教育カウンセラー、()生涯学習開発財団認定コーチ)

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国語科:論理的に読む「考える」授業づくりとは    香月正登

 論理的に読む「考える」授業づくりについて香月正登はつぎのように述べています。
「中心人物は誰か」の問いに対して「○○です」の答えだけでは考える国語ではない。
 考えることによって、見えなかった登場人物同士のかかわりが見えてきたり、筆者の意図や思考が読めたり出来る。
 国語の授業づくりでこだわっているのは、文脈(文章の流れの中にある意味内容の続きぐあい)という見方を用いて、高学年の「思考の場」づくりである。
 文脈の中に、書き手の見方・考え方(論理)が埋め込まれている。
 論理を見つけ出すことが、読むということである。
 子どもたちがことばについて、問いやひらめきを感じ、思わず文脈を考えたくなる、話し合いたくなる、そういう場の形成こそ、授業づくりの要である。
 子どもたちが「なにか変」と子どもたちが感じ、論理に目が向くよう「文脈をズラす」ことで、ことばの関係が見えてくる。
 これは、すべての学年に共通している。
 どういう視点で「ズラす」かによって、しかけ方も変わってくる。
 高学年の物語文の指導では「登場人物の相互関係」がポイントになる。
 中心人物と他の登場人物との相互のつながりと変容を読んでいくのである。
 登場人物の相互関係の中に、象徴性や暗示性の高い表現も多く見られる。
 ここから、物語のテーマを読み解き、自分との関わりで感想を深めたりする。
「海のいのち」(東書6年下)は、海を舞台にした物語である。
 太一の海への思い、父の死を乗り越え、父をしのぐ漁師を目指した成長が描かれている。
 太一の成長に影響を与えた登場人物を円グラフで表してみる。
 中でもクローズアップされてくるのが魚の「クエ」である。
「クエは登場人物だったんだね」という教師の問いで、子どもたちは「えっ?」となる。
「クエは人間と同じような感情を表していない」
「太一はクエの中におとうを見たのだから欠かせない存在だ」
 と、さまざまな見方が表れ、話し合いが盛り上がる。
 こうした登場人物の相互関係を読んでいくと、太一の成長の背景や太一がどのように成長していったのかもはっきりと意味づけられてくる。
 文脈を「ズラす」目的は、本当に考えなければいけない問題に子どもたちの目を向けることである。
 しかも、もとの文脈とズレた文脈を比較することで、論理がとらえやすくなる。
 読むということは、文脈をつなぐことである。いかに、文章の背景にあるものを読むか。ここに、読むことの、考えることの楽しさがある。
 文脈を「ズラす」ことは「思考の場」の形成の一つの具体である。
(香月正登:1967年福岡県生まれ、山口県公立小学校教師を経て、梅光学院大学准教授。中国・国語教育探究の会事務局長、「ことばの学び」をひらく会代表を務める。実践学の構築を目指し、精力的に現場での授業を続けている)

 

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子どもたちと人間関係が築けない教師の要因とその改善方法   山口菜穂子

 子どもたちと人間関係が築けない教師の要因とその改善方法について山口菜穂子はつぎのように述べています。
1 子どもたちと人間関係が築けない教師の要因
 私の今までの経験から、子どもたちと人間関係が築けない教師には、つぎのような要因が考えられます。
(1)授業力の不足
(2)使命感の不足
(3)約束を守れない
(4)信頼できない
(5)子どもと遊ばない
(6)子どもが好きでない
(7)言葉遣いがきつく近寄りがたい
(8)厳しすぎる
(9)自己開示できない
 などがあります。
2 子どもたちと人間関係が築けない教師の改善方法
 改善する方法としては二通り考えられます。
(1) 教師としての技能不十分な場合
 良い授業を参観し学ぶ。
 授業規律を徹底するコツや話すときの間の取り方、テンポなど、自分との違いを認識し改善するよう努力します。
 また、自分の授業の記録し授業分析します。
 自分の授業を客観的に観ることで、改善点に気づき授業改善に取り組むようにします。
 子どもたちが「分かった、できた」と笑顔になる授業をめざします。
(2)教師としての意欲や態度に課題がある場合
 遊んでくれる教師を子どもたちは好きです。
 子どもと遊んで、子どもの気持ちを理解するようにします。
 脅しの教育はしない。
 叱ったあと、叱った意味があったかを、子どもの言動がどう変化したかで判断すること。
 課題のある子どもほど好きになること。
 本気で子どもたちにぶつかってくれる教師を子どもたちは本能的に見極めています。
 自信をもって体当たりしてみよう。
(山口菜穂子:東京都公立小学校長)

 

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つらいときほど運がたまる   萩本健一

 つらいときほど運がたまると萩本健一はつぎのように述べています。
 実はぼく、30歳のころ自殺しようとしたことがあるんです。
 週刊誌にボコボコに叩かれたことがあってね。
「萩本健一は血も涙もない男」だとか「どこそこの記者を殴った」とか。
 もちろん殴ってなんかいないのに、ひどいね。
 さすがに落ち込んで、熱海の崖から飛び降りて死のうかなと思ったら、当時のディレクターの常田さんや母親の顔が浮かんできた。
 あっ、常田さん、泣いちゃうよ。母ちゃん、泣いちゃうよ。
 そう思ったら、死ねなくなった。だから死なないことにした。
 これ、優柔不断な性格も幸いしたね。
 仕事でもそうだけど、自分のためだけじゃなくて、誰かのためにやっていると、途中で投げ出さないよね。
 自分のためだけだと、つらくなると、やめてしまうでしょ。
 でも、たとえばお世話になった人にお返しをしたいと思ったら、途中で投げ出せないよ。
 ぼくなんか、まさにそうだった。
 コメディアンの才能がないってわかったけど、ぼくが子どものころ、借金取りに土下座して、泣いていた母親のことを思うと、途中でやめるわけにはいかなかった。
 極度のあがり症などでうまくセリフが言えず、演出家から「君は才能がないからやめたほうがいい」と言われて落ち込んだ。
 先輩芸人が演出家を説得し「大丈夫、演出の先生に言ってきた。ずっといていいよ」とぼくを引き止めた。
 その後、演出家から、
「萩本は才能がない。しかし、これほどいい返事をする若者はいない。あいつの“はい”は気持ちがいい。“はい”だけで置いてやってくれ」
 と、先輩芸人が説得したことを知らされた。
「芸能界はどんなに才能がなくても、たった1人でも応援する人がいたら必ず成功する」
「もしかしたら、お前を止めさせないでくれという応援者がいる。お前は成功するから頑張れ」
 と、言われ奮起した。
 誰も居ない劇場で早朝に大声を出す練習をしたり、先輩芸人の真似を何度も繰り返した。
 お金持ちになって、母親の家を建ててやりたとい思ったからね。
 伝記やイソップ物語にもずいぶん助けられました。
 偉くなった人や名を残した人って、子どものころや若いころに貧乏したり、ひどい目に遭っている人が多いでしょ。
 つらいことがあっても、これは運が育っていて、将来は運が開くんだと思えた。
 人生、つらいことや大変なことはあるけれど、見方や視点を変えることで、運を呼び込めることもある。
 ぼくが貧乏しているとき「今は運がたまっているときなんだ」と思ったようにね。
 人生、考え方一つ、行動一つで、楽しくなるんじゃないかな。
(萩本健一:1941年東京都生まれ、コメディアン。コント55号で人気を集めた。その後、テレビの司会・舞台などの演出などで活躍した。社会人野球チーム「茨城ゴールデンゴールズ」の監督として人気球団に育てた)

 

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子どもたちに「授業のふりかえり」を書かせるには、どうすればよいか   俵原正仁

 子どもたちに「授業のふりかえり」を書かせる方法について俵原正仁はつぎのように述べています。
 私は、討論のような発表が主体の授業の後には、子どもたちに必ず授業のふりかえりを書かせるよう
にしています。
 楽しかったけれど結局なんの勉強をしたのかわからない。
 自分の言いたいことだけを言ってわかった気になってしまう。
 授業中、黙って聞いていて何の活動もしなかった。
 子どもがいるかもしれません。
 だから、授業の最後に書く活動を行い、学んだことや、わからなかったことなどを振り返らす必要があるのです。
「授業のふりかえり」を書くことを、討論の前に、あらかじめ予告しておきます。
 そうすると、授業に対する真剣度や「聞く」意識が高くなります。
 書くことによって「聞く力」が伸びていくのです。
 何も教えないでいると「授業のふりかえり」が全く書けない子どもが出てきたりします。
 だから、私は「こういう感じで書いたらいいんですよ」とつぎのような例をあげます。
(1)今の自分の考え
(2)その時間の学び
(3)その時間にわかったこと
(4)友だちの発表ですごいなぁと思った意見
(5)発表しようと思ったけど、発表できなかった意見
(6)先生に対する質問、意見
(7)今日学んだことをどう生かしていくのか
 すべての項目を書かなくても、1つか2つ書ければいいのです。
 ただし、子どもたちに聞く力を伸ばしたいなぁと私が考えているときは、
「必ず(4)のことは書くんですよ」
 というように指定する場合はあります。
(俵原正仁:1963年兵庫県生まれ、兵庫県公立小学校校長。教材・授業開発研究所「笑育部会」代表)

 

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雰囲気のよい教室にするにはどうすればよいか   俵原正仁

 雰囲気のよい教室にするにはどうすればよいか、俵原正仁はつぎのように述べています。
 私は放課後、他の教室をウロウロ見て回ったことがあります。

「この教室には、あまり長居したくないな」と感じた、居心地の悪い教室の共通点は、
 机がきれいに並んでいない。

 ゴミが落ちている。
 黒板がきれいに消されていない。
 ロッカーが雑然としている。
 はがれかけた古い掲示物などです。
 居心地の悪い教室に一日中いると、落ち着いて生活や勉強なんてできません。

 ますます教師との関係もうまくいかなくなります。
 私は、まず、すぐにでもできる教室環境から整えていこうと考えました。
 ディズニーランドは、ほんの小さな傷や汚れなども見逃さず、つぎの日までに修繕をしっかり行うことで、お客さんのマナーを向上させています。
 私は教室にゴミが落ちていたら、すぐに拾って捨てます。

 翌朝、きれいな教室で過ごすために、放課後にビシッと片付けます。
 教師のこの姿勢、気づく子は気づきます。
 子どもたちのマナーも向上していきます。
 暗い場所にいると気分まで沈んできます。

 逆に明るい場所だと気分も明るくなります。
 教室を明るい雰囲気にするために、私は蛍光灯を拭きました。
 教室が明るくなります。効果てきめんです。
 店員が無愛想なお店には、行きたくありませんよね。

 やはり、雰囲気をよくするためには、笑顔が一番なんです。教室でも同じです。
 クラスの雰囲気を良くしようと思うのなら、笑顔の教師が、笑顔の教室をつくります。
 これは、いいクラスをつくるための黄金律です。
 笑顔がベースにあると、たまに見せる厳しい顔が子どもの心に響いていくのです。
 特に教師が最も笑顔を意識して過ごさないといけないのが、授業中です。

 子どもたちが何といっても一番長く過ごすのが授業の時間だからです。
 にもかかわらず授業中、表情の硬い教師が本当に多い。
(
俵原正仁:1963年兵庫県生まれ、兵庫県公立小学校校長、笑顔の教師が笑顔の子どもを育てる実践はマスコミにもとりあげられた。教材・授業開発研究所「笑育部会」代表)




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ノート指導で教師と子どもが仲よくなるには、どうすればよいか   俵原正仁

 子どもたちがノート活動しているその場で評価したことを、教師はすぐに子どもたちに伝えていきます。
 教師の感じたことや思いを子どもたちに返していくのです。
 このライブ感が教師と子どもたちの距離感を縮めてくれます。
 ノートを通じて教師と子ども、子どもどうしがなかよくなるようにします。
 そのために、ノートを利用してすべての子どもに声をかけ、なかよくなるようにします。
 たとえば、理科の実験のまとめで、ノートに、ハチのイラストを描いるのを見て
「○○君のこのイラストのキャラクターいいね。みんなに紹介してもいい?」
 と、○○君のノートをクラスのみんなに見せます。
「○○君のイラストはずこい」というクラスの雰囲気が作られ、彼の居場所ができるというわけです。
 さらに、他人の感じ方、思い方、考え方、生き方を尊重するようになり、仲間意識が育ってきます。
 教師が机間巡視の際、瞬時に判断し評価して、声をかけます。
 最初のうちは、子どもたちがノートに書いている内容を「瞬時に判断」して「評価」します。
 評価できないときは、とりあえず声をかけることを意識すればいいと思います。
 声をかけているうちに、教師のつぶやきのレベルも上がっていくはずです。
1 子どもの態度をほめる(レベル1)
「ノートをきちんと開いている。えらい」
「姿勢がいいなぁ」
「取りかかりが早い」
2 書いている量をほめる(レベル2)
「さっきより、たくさん書けています」
「へぇ、もう3行書けたの」
 このような声をかけられると、書くことのモチベーションが上がります。
3 書いている内容をほめる(レベル3)
 ほめると同時に、他の子どもたちに書くための視点を教えるといった意味があります。
「友だちの意見も書いているんだ」
「資料集を見て書いているのがいいね」
 子どもたちのノートをチェックする方法として、机間巡視をして子どもたちの横を通り過ぎるときに、サッとノートに赤ペンでまるを入れます。
 声かけとあわせてうまく使ってください。
 そのほかにノートをチェックする方法として、ノートを教師のところに持ってこさせる方法があります。このとき、長い行列をつくらないことが大切です。
 算数の場合、
「見るのは1問だけ」
「ヒントや指導などの声かけはせず、黙って○か×をつける」
 などをしていけば、行列はできなくなります。
 教師に見てもらったというチェックの意味もかねて、必ず全員のノートに赤ペンで何かを書くようにしています。
 じっくりと書く時間がありませんので、ほとんどの場合は花丸のみです。
 それでも、子どもたちはノートを見てもらい、満足して帰って行きます。
(俵原正仁:1963年兵庫県生まれ、兵庫県公立小学校校長。教材・授業開発研究所「笑育部会」代表)

 

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大人のずるさを敏感にキッャチし、押しつけを嫌がる小学校高学年の子どもに、人間のすごさを伝える

 体も心も変化する小学校の高学年の時期に、人間のほんもののすごさを伝えると子どもたちの背筋がシャンとなる。
 小学校高学年の子どもは体も心も変化する時期です。
 伝えたいのは人間のすごさです。
 この時期の子どもは、ほんもの志向です。
 大人は本気で子どもと向き合うことが要求されます。
 大人のなかにあるずるさやウソを敏感にキャッチし、大人の権威を押しつけられるのを嫌います。
 ほんものの大人にであったときの子どもの受けとめかたはすばらしいものがあります。
 私の学校では、そば職人といっしょにそばをつくる授業をします。
 職人のあざやかな技や、そばにかける職人の情熱をまのあたりにした子どもたちは、職業観を新たにします。
 以前、ホスピス(末期のがんなど治癒の困難な疾患にかかった患者とその家族に対して、快適な生活を送れるように支援およびケアを提供する)活動されている人を招いて子どもたちに語ってもらいました。
 私は子どもたちに死を教えるということに、不安がありました。
 しかし、患者が精いっぱい生きる姿を語られることによって、子どもたちは生きていることのすばらしさをしっかりと受けとめました。
 人間がシャンとする、というか、子どもの背筋がピンと伸びたような時間になりました。
(
行田稔彦:1947年新潟県生まれ、和光小学校・和光鶴川小学校校長、日本生活教育連盟委員長)

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いじめは学校で社会を学び、自己の社会化をどう形成するのかという問題である   宮川俊彦

 いじめは人間と人間との関係の現象として起きていると宮川俊彦はつぎのように述べています。
 私はいじめ問題は社会化の問題であると考えている。
 学級は同年齢の子どもたちが集まって疑似社会が形成されている。
 学級は自己の社会的な面を本人が自覚し、他者をも客観的に理解し、社会的関係を形成していくことを目的としている。
 自分自身の役割や能力の発揚の仕方、その手法を学ぶことを本義としている。
 いじめられたら、「なぜ私はいじめられるか」ということを分析し、解明していこうという探求がなければ、どうしようもない。
 以前、私のところに学校でボコボコにいじめられている子どもがきたことがある。
 なぜいじめられるか何回聞いても、みじめな気持ちがいっぱいで、冷静に自分を客観化し分析することはできなかった。
 そこで、私の取り巻きの子どもたちと力を合わせて分析をはじめた。
 共に考えてくれる仲間がいたりすると、冷静に自分を客観化する目はつちかわれていくものだ。
 よく聞くと、彼は「なぜいじめられているか」の認識はほとんど欠落していた。
 また、学級にどんな子がいるか、それがどういうタイプか、いじめる子はどういう傾向を持っているか、ほとんど知ろうとすらしなかった。
 いじめられて、いたたまれない。学校に行きたくない。
 いじめている連中に仕返ししたい。
 そのような反応が先行していて、自分を分析しつつ、自分を再編成するか、演出するか、構築するかに向けての認識も手法もほとんど欠落していた。
 さまざまなケースはあるとしても、私はこの傾向が多いのではないかと考えている。
 いじめられる子には、いじめやすい、いじめたくなる要素があることを疑ってはならない。
 きちんと分析し、とらえなければならない。
 そのままの素の自分でいたら、社会の中では立ち往生することもある。
 としたら、どういう自分を形成していけば現状でいじめられなくなるのか。
 この局面において、どういう自己演出、自己表現、ときには仮面化、あるいはある種の人格をまとうこと、自分自身の是正が必要か、これが具体的なテーマとしてのぼってくる。
 少なくとも人が社会で生きていくにはありのままではいられないという認識が必要である。
 多種多様な人間が相集う社会においては、臨機応変性や、自己のあり方、表現の仕方は必然として考えていかざるを得ないのは自明である。
 勉強しに学校へ行っているなどという程度の認識で学校をとらえる人はまだ多い。
 学校で社会を学ぶのだとか、社会化の自己をどう形成するのかという問題は枠外におかれてきた。
 私がこういうことをいくつかの現場で語ったときに、目から鱗だとか、さして考えたこともなかったという教師や親や子どもの声は多かった。
(宮川俊彦:1954-2014年、国語作文教育研究所所長、教育評論家。約40年におよぶ青少年の作文・表現教育活動を実践し、指導対象は二百万人を越える。表層指導だけではなく内面に分け入り、思考法や視点・読解などの表現に着目し、人間の存在から表現に到るプロセスを教育の対象にしていた)

 

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教師が子どもから信頼されるには、どのように接すればよいか  関根正明

 子どもと教師の心の交流が大切なのはゆうまでもありません。
 心の交流とは情緒的なものです。
 気持ちが通じ合ったというのは「自分の感じ」であり、相手との関わりの深さにつながります。
 子どもと教師が共に語り合い、遊び、共通体験を通してそれが成り立つのです。
 ある教師の実践です。
 放課後のだれもいなくなった教室に行き、その日の子どもと自分のやりとりを思い出します。
 子どもの氏名印が押してある一冊のノートをひろげ「今日、子どもと自分はどんな交流があったか」を書きます。
 何も思い出せない子どもにはチェックだけをしておきます。
 ひと月もたつとそのノートが自分の子どもを見る見方、傾向をわからせてくれます。
 マイナスの記録しか書いていない子には「よさを発見してそのよさにかかわっていこう」とか、子ども一人ひとりにかかわる、かかわり方を考えるのです。
「人を見る目」とは人の行動、言動からその人の性格とかを感じる能力といってもよいと思います。
 それはその人の精神的な成長によって変わります。
 教師の指示のとおり動かない子どもを「言うことを聞かない子」と、教師は思っています。
 教師の陥りやすい落とし穴だと考えられます。
 子どもを見る見方は教師自身の心のあり方です。
 親は子どもを自慢したい気持ちがあります。
 教師も親と同じで学級の子どもを信頼しなければなりません。
 子どもの信頼を裏切ることは、その子どもの願い裏切ることになります。
 当然その子の心に深い傷あとを残し、歪ませます。
 教師の心のありようが、子どもたちに大きな影響を及ぼすことを考えると、身の引きしまる思いがします。
 教師と子どもとの心理的な距離感が学級の人間関係を微妙なものにします。
 教師は子どもと自分のかかわり方を見つめ、考えることが大切です。
 それは当然、その場その時の自分の心のあり方も見ていくことになります。
「この世で一番難しいのは自分を見つめること、一番容易なのは他人を批判すること」と言われます。
 自分を見つめるとは、自分のよさも悪さも、まるごと見ていくことだから難しいのです。
 教師は平素、気持ちの穏やかなときに、自分が相手の立場になって考えてみたらいいと思います。
 教師は子どもに次のような態度で子どもに接したいと思います。
(1)自分がどう言ったかではなく、どう受け取られたかが、人間関係の基本であること。
(2)話し方には、自分の感情が出てしまう。自分の気持ち次第だということ。
(3)子どもを責めれば、自分が責められること。
 子どもを否定すれば、否定し返されること。
(4)子どもとの好ましい関係は受容を基盤にしていること。
(5)自分は素直であること。
 子どもを誤解したり、感情的に怒ってしまったら、素直にあやまること。
(6)子どもの自尊心を大切にすること。
(7)おだやかな笑顔と思いやりのある話し方で子どもに接すること。
 おだやかな顔つきでいられる心の状態であるから、自分の気持ちが素直に子どもに伝わる。
(関根正明:1931年生まれ、小・中学校教師、指導主事、東京都公立中学校校長、大学助教授を経て、山形大学講師を歴任。執筆活動をしながら、親や教師への相談、講演などにあたっている。アドバイスには定評がある)

 

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教師は包容力を大きくし人間を練っておかないと叱るときに過ちを犯す  関根正明

 教師は包容力を大きくし人間を練っておかないと叱るときに過ちを犯すと関根正明はつぎのように述べています。
 叱るという行為は、叱る人間の心の中をさらけ出すことだ。
 多くの人は気分屋のところがあって、その日の気分しだいで、怒ってしまうということが油断するとあるものだ。
 気に入る、気に入らないがその日の気分しだいで微妙にちがってくるから始末が悪い。
 私など、ついカッとなって、どなって子どもを叱るときがある。
 後になって自分はいったい何んであのようにどなったのだろうと、考えることがあった。
 カッとなったのは、結局、子どもの言動が自分の気に入らなかったからだ。
 自分が気に入る、気に入らないということで、自分は子どもを叱ったり、ほめたりする。
 実に自分本位で、自分のことながらイヤになる。
 教師は自分たちが、このようにして欲しいというパターンに合致する子どもは「いい子ども」として重きにおく。
 それに反する子どもは「よくない子ども」とレッテルをはって叱る。
 つまり教師は自分の中に「いい子どものイメージ」があって、その基準に反し、逸脱する子どもは否定する。
 教師は子どものためを思うから、叱るのだと思っている。
 教師は自分が正しい根拠によって子どもを叱っていると思い、自信を持っている。
 教師は自分が正義だと確信しているときは、傲慢になって、もっとも反省しにくいときでもある。
 教師はよほど包容力を大きく、人間を練っておかないと、とんでもない過ちを犯す。
(関根正明:1931年生まれ、小・中学校教師、指導主事、東京都公立中学校校長、大学助教授を経て、山形大学講師を歴任。執筆活動をしながら、親や教師への相談、講演などにあたっている。アドバイスには定評がある)

 

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お茶の侘び寂びの心とは何か   千 玄室

 戦後、日本が立ち直ってきたのは偉大な文化があったからです。
 その文化の主流がお茶道です。
 晩秋は、ススキがたなびいているばかり。
 この枯れきった大自然の風情こそ、ほんとうの侘びの世界で、そこに茶の境地がある。
 利休は、この心にさらに雪間の草の美と自然を力強く生きぬこうとする道理で、さらに一歩追究した。
 春四月、草木は色香を競い、野鳥も春を謳歌する。
 しかし、遠い山のいただきには白雪が消えず、山里には冬のなごりの雪が残っている。
 その下には草の新芽がふき出している。
 ものいわぬ草にも冬の試練に耐え抜いてきたという誇らしげな力強さが盛り上がってきている。
 これから動き出そうとする静寂の境地なのである。
 時到れば、はっしと発するこの堂々とした自然の力にいい知れぬ美と心を感得し、これこそ茶の道だけがもつ心でなければならないと説かれたのである。
 晩秋が行きついた陰の極、この雪間の草の春は、これから動き出そうとする陽のはじめである。
 それはまったく紙一重、背中あわせの距離にある。
 この両極をもたせなければ茶道はなりたたないとした利休の大きさはたとえようもなく広大である。
 無限の大道である。
 捨て身になって修業し、実践して、はじめて道がつけられるものなのである。
 私どもは雪間の草の美を見いだす感覚の鋭さをもたねばならない。
 そこに侘び寂びの心を把握し、この道の両極をしっかりわきまえなければならないのである。
 濃茶は抹茶のなかでも質のよいもの。
 一つの茶碗に練り、正客から順に回し飲みします。
 同じ器から同じものをいただく、そこに自然と和の気持ちが養われるのです。
 茶を共にいただき味わい、主は客に心をこめて、もてなしをなす。
「わび」「さび」が生まれるのも「もののあわれ」からで、「もの」に対するいたわり、すなわち自然観の表れであると、茶の湯者の珠光が弟子の古市播磨に与えた一紙がある。
 その『心の文』の中に、茶をする者の心掛けは、世のもののあわれを知り、我執を戒めることと記されている。
 もののあわれは自然体である。
「わび」は「侘(わ)ぶる」から生まれたものといわれ、飾りのないそのままの姿形をいう。
 西行や芭蕉は自然に振る舞えた「無」の境地にあった人であった。
「さび」は枯れ果てた中に芽生える自然の力を表し、何もかもそのもの一つにすがり生きようとする意でもある。
 どん底、すなわち何もないところから生きようとするところに「わび」「さび」の哲学が生まれる。
 日本人の精神的な支柱は、こうした無の境涯と生きようとする努力が自然とともにあるのだろう。
(千 玄室(せん げんしつ):1923年生まれ、1964年から2002年まで茶道の裏千家15代家元。世界60か国以上を訪問し、茶道を通じた世界平和と日本文化の国際的な理解の促進につくす。ユネスコ親善大使にも任命されている。京都大学大学院特任教授・大阪大学大学院客員教授として、伝統芸術研究領域における指導に当たる)

 

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私の授業が劇的に変わるきっかけとなったこととは   宮本博規

 授業が変わるきっかけとなったことについて宮本博規(注)はつぎのように述べています。
 私の授業が劇的に変わったきっかけは、筑波大学附属小学校と全国算数授業研究会との出会いで、先生方のすごい授業を観たときです。
 当時、私はまず子どもたちに教師が課題をしっかり与え、そこから勝負させればいいと思っていたのです。
 しかし、授業研究会では、子どものほうから問題提示の場面でもアプローチしてくるのです。
 私は教師が問題をしっかり把握させれば子どもたちは授業に乗ってくるだろうと思っていましたので、私は発想を変えなければいけないと思いました。
 教師が問題や考えを与えているうちは、授業はそこまでだと思ったのです。
 いかに自然に子どもの考え、発想を引き出すかが大切だし、授業は動き出す子どもたちのエネルギーをいかに引き出すかだ、と考えるようになりました。
 もう一つは、田中博史さんと一緒にテレビ番組をやって、テレビ局のディレクターの方々の意見を聞いたときです。
 発想がおもしろいし、意見が鋭いと思いました。
 あの人たちは映像で勝負しています。よく、
「それで本当に伝えたいことが見えていますか」
「その教具は本当に自然なのですか」
 と問われました。
 面積の授業のときに、子どもが操作しやすく扱いやすい小さな素材を使おうと思って提案すると、
「先生、それダイナミックなんですか」
 と、指摘されました。
 また、面積を比べる任意単位のものとして、消しゴムや押しピンを挙げると、
「消しゴムや押しピンで面積を比べるというのは、本当に子どもの自然な姿なのですか」
 と、問われました。
 振り返ってみると、私の授業が変わるきっかけは、
「自分が求めていた衝撃的な授業に出会ったり」
「自分にはない視点、自分が気づいていない視点で授業を問われたり」
 したときでした。
(宮本博規:1958年生まれ、元熊本県公立小学校校長・熊本市教育センター所長・全国算数授業研究会理事・基幹学力研究会幹事等を務めた)

 

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いじめが起きたとき、担任は子どもたちや保護者にどう対応すればよいか

 つぎのようないじめがあったとき、担任は子どもたちや保護者にどう対応すればよいでしょうか。
 
「中学一年生の男子生徒が数人の生徒からからかわれたり、シューズで頭をたたかれたりされるなどのいじめを受けていました」

「気づいたときには、かなりの時間が経過していて、わが子からの訴えをしばしば聞いていた保護者は、学校やいじめた生徒の保護者に対して不信感を強くしていました」
 このような数人でひとりの生徒をいじめた場合、罪の意識が弱く、反省を求められても「自分だけではない」と言い逃れをすることがあります。
 いじめた子どもを強く叱責し、いじめられた子どもを単にかばうやり方だけでは、一時的な抑止にはなっても本当の解決にはなりません。いじめが陰湿さを増す結果さえまねきません。
 緊急にとるべき措置と、長期的な取り組みが考えられます。
1 緊急の対応
 まず、子どもたちへの指導を通して、保護者への働きかけを考えなければなりません。
(1)
学級の子どもたち全員に対する指導
 
「いじめは人間として許されない行為であり、絶対にあってはならないこと」ということを理解させます。

 これはじっくりと理解させる以外にありません。
 そのなかで、自分はどうだったのか、を十分に考えさせます。

 いじめていた子ども、見ていた子ども、それぞれに本音が出せるように、教師がしっかりと共感的に受けとめていくことが大切です。
(2)
いじめていた子どもたちへの指導
 
「先生はいじめは絶対に許さない」という毅然とした態度が必要です。

 いじめの行為は厳しく指導しても、人間性まで否定してはなりません。
 いじめられた子どもの苦しい気持ちを伝えながら、教師の素直な気持ちを示します。
(3)
いじめられた子どもへの対応
 いじめられた子どもは身も心も傷ついています。その心身の保護に努めます。

「全校の教師で必ず守る」と約束し実行します。
 注意深く見守り、話を聞くなどして、かかわりを持ち続けることが大切です。
(4)
保護者への対応
 いじめられた子と保護者は、いじめた子と傍観者、気づいてくれなかった教師に不信感をつのらせています。

 教師はいじめを早く発見できなかったことを素直にわび、学校の指導体制と学級の子どもと保護者への働きかけの様子をしっかりと伝えます。
 傍観者もふくめ、いじめていた子どもの保護者に、いじめの全容と、どこがいけなかったのかをよく話し、いじめの本質をよく理解してもらいます。
「保護者の方々も教師の気持ちも、子どもたちみんなが健全に育ってほしいということで一致しています」

「いじめは悪いことです」
「間違ったことをしたとき力になってやるのが大人の責任ではないでしょうか」
 と、いじめられた子どもの苦しみ、痛みを教師の気持ちを交えて説きます。
2 長期的な取り組み
(1)
いじめられた子どもに対して
 家庭との連絡を密にしながら、本人にいろいろな活動の場をあたえ、そのなかの努力を認めることによって、自立への援助を行います。

 支え続けることによって、本人の意欲を引き出し、周囲の子どもたちが認める場へと導いていきます。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          
(2)
いじめをとりまく子どもたちに対して
 教師は子どもたちの人間関係をよくしていく努力を一層重ねていく必要があります。

 教師が子どもたちに思いやりのある接し方をすることによって、子どもたちの心のなかにも自然と思いやりの気持ちが生まれてきます。
 多くの活動の場を与えることによって、ストレスを発散させ、明るい雰囲気をつくり出すことに教師は努めます。
(3)
保護者に対して
 保護者とよく連携しながら、子どもたちの家庭での存在感や家族への貢献度を認めていく努力を続けてもらいます。

 学級懇談会など様々な機会に、教師から実例話を聞いたり、他の保護者と意見交換をしたりするなかで、子どもの成長段階に適した子どもたちへの接し方や、認める、ほめる、叱るなどを理解してもらうようにします。
(
松田素行:千葉県公立中学校校長,千葉県教育庁主幹,昭和学院短期大学教授を経て,文教大学教授
)



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授業のヤマ場をつくるコツとは   宮本博規

 授業のヤマ場をつくるコツについて宮本博規はつぎのように述べています。
 ヤマ場がドラマやスポーツをよりおもしろくし、感動へと導きます。
 授業もヤマ場がなければなりません。
 たとえば算数の授業は、問題を自分の力で解く時間は大切にしなければなりません。
 しかし、「授業のヤマ場は、共同解決の過程の中に来る」ことが多いので、
「早くみんなの考えを出し合い、よりよいものに高めたい」
 という意識をもたせたまま自力解決を終わらせたいと私は思っています。
 自力解決のときの「子どもの反応の把握」は、共同解決時に授業のヤマ場をつくり、より数理を確かなものにしていくためには必要不可欠な教師の活動なのです。
 私は、「子どもの反応の把握」がしやすいように次のように分類してとらえるようにしています。
1 数理までは達していない考え
 一応解決はできているが、その時間のねらいとなる考えまでは高まっていない。
2 つまずき
 解決の過程のどこかで誤っているか、行きづまっている。
3 数理をとらえている考え
 その時間のねらいとする数理をとらえている。もしくは数理に近い解決の仕方や考え方をしている。
 私は、反応の把握は反応予想を基に目に焼き付けていきます。
 どの反応から取り上げるのか考えます。
 次に、つまずきをどこでどう生かすのか、数理へ追い込む課題は予定どおりでいいのか、どんな発問で子どもたちの考えを数理へとつないでいくのかなど。
 子どもが課題に対して、本気で向かい合うためには、つぎのような教師のしかけがいるのです。
1 二つの選択肢が提示され「AかBか?」と子どもが葛藤する場面をつくる
 私がよくあげる例は、ジュースの液量を素材にし、
「2リットルを3人で同じように分けると、1人分は何リットルになるか?」
 という問題を提示し、解決を求めます。
 そうすると、クラス全体が1/3リットルと2/3リットルに分かれ、2つの意見が対立します。
2 子どもの「こだわり」が見えてくればヤマ場はつくれる
 こだわりは算数授業を展開する過程において、一人ひとりの子どもの中に自然に生まれるものです。
「どうしてこんな答えになるのだろう?」
「どこでやり方を間違ったんだろう?」
「この後どうすればいいのだろう?」
 これらの言葉は、ヤマ場をつくるうえで極めて大切な言葉です。
 授業の中でぜひとも生かし、数理に結びつける工夫をしなければならないのです。
(宮本博規:1958年生まれ、元熊本県公立小学校校長・熊本市教育センター所長・全国算数授業研究会理事・基幹学力研究会幹事等を務めた)

 

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よい授業を見ることが一番勉強になり、授業観が変わる  宮本博規

 よい授業を見ることで授業観が変わると宮本博規(注1)はつぎのように述べています。
 私は、地元熊本ですごい授業と出会いました。
 田中博史(注2)の「九九を使った問題解決」の授業でした。
 子どもがたとえば、「3×6=18」と好きな九九を言います。
 そこで授業者は1と8のカードを取り去ります。
 九九を5回唱えることで0から9までの数字カードをすべて使うことができるか、というものでした。
 飛び込みの授業とは思えませんでした。
 子どもの目の輝き、反応のよさ、追求意欲。
 私はカルチャーショックを覚えました。
 これまでの自分の実践とのレベルの違いをまざまざと実際の授業によって見せつけられたのです。
 これが、私の中で今でも目標の一つであり、最高に強烈な印象として脳裏に鮮やかに残っています。
 私は、新任の学校で先輩から、よい授業をつくるコツの1つとして「よい授業を見ること」という教えを受けました。
 よい授業をするためには「こんな授業がしたい」というビジョンがなくてはならないのです。
 まずは、みなさんの身近なところから探すのが一番でしょう。
 同じ学校で見いだすことができれば、それは幸運です。
 その教師の授業づくりを学ぶことです。
 次は、同じ地区の算数研究会の先輩や、県で著名な算数実践家の授業をみて、目を肥やしてほしいと思います。
 私が全国算数授業研究会に出かけていったのが、教師11年目のときでした。もっと早くから参加すべきだったと悔やんだものでした。
 今は情報化社会の時代。目標となるよい授業はインターネットでも手に入りますし、ビデオやDVDでも販売されています。
 しかし、お金と時間があれば、やはり「生の授業」が一番勉強になります。
(注1)宮本博規:1958年生まれ、元熊本県公立小学校校長・熊本市教育センター所長・全国算数授業研究会理事・基幹学力研究会幹事等を務めた。
(注2) 田中博史:1958年生まれ、山口県公立小学校教諭、筑波大学附属小学校教諭、同校副校長、「授業・人塾」教師塾代表、全国算数授業研究会会長、筑波大学学校数学教育学会理事、学習指導要領実施状況調査委員などを歴任。専門は算数教育等。

 

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保護者からの問い合わせや苦情に、どのようにすれば保護者と信頼関係がつくれるか   小山田 穣

 学校には様々な問い合わせや苦情が寄せられます。
 このようなとき、
「学校への不満や文句だと受け止め、親や子どもに原因や問題がある」
 と考えるか、
「学校が気づいていないところを教えてくれたのだと受け止め、そのための解決の方策を考える」
 かでは、その後の対処に大きな違いが出てきてしまいます。
 保護者との信頼関係づくりのためには
1 保護者に担任から、学習内容や学級の様子、子どもの様子をこまめに伝える
 このためには、学級だよりや連絡帳、授業参観や保護者会等で、
(1)日々の授業の状況
 今、指導のうえで力を入れていることやそのポイント。
(2)学級や子どもの様子
 学習や生活面でがんばっている姿、家庭にお願いしたいこと。
 などを日頃から伝えることが大切になります。
2 保護者と担任の双方向の協力を依頼する
 年度当初の保護者会や日頃の学級だより等で、
(1)「子どもの成長のためには学級と保護者の協力が必要であること」
(2)「そのためには、学級から子どもや学級の様子、協力してほしい」
 ことなどを伝えていくので、
(3)「家庭からも心配なこと、問い合わせ等ありましたら気軽にお伝えください」
 といった双方向の情報提供を大切にしていく担任の姿勢を示し、それに行動で丁寧に応えていくことが重要になります。
(小山田 穣:小学校教師、東京都教育委員会指導主事、校長を経て東京学芸大学特任教授)

 

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不幸なことが自分に降りかかったときどう考えればよいか、信仰とは   本多弘之

 不幸なことが自分に降りかかったときどう考えればよいか本多弘之(注1)はつぎのように述べています。
 不幸に見舞われたとき「なぜ、こんなことが自分に降りかかるのだろう」と、こんなふうに考えてしまうことは、だれにでもあると思います。
 そんな考えにとらわれてしまったとき、どのように考えればよいのでしょう。
 自分に与えられた事実は、自分の自由な選択によって、自分の思いであるのではないということです。
 そして、「いま、ある」という事実は、これはもう必然です。
 深い因縁のなかで、たまたまこの命を賜り、いまあるわけです。
 歎異抄によると、われわれの存在は深い因縁という大きなもののはたらきがあって、それによって、生かされ、いのちを賜っています。
 親鸞(注2)が説いた他力本願は、すべての人々を無限の光である阿弥陀仏が守ろうとする本願力で極楽浄土に導いてくださる、ということです。
 両手両足切断というハンディを持ちながらも、旅芸人として力強く生きた中村久子(注3)さんは、親鸞の教えに出会い、自らの障害を受け入れ、明るく生きることで人々に生きる力と光を与えました。
 地獄のようなつらい境遇でも、親鸞の教えに触れて、生きることができるのだという覚悟が生まれてきます。
 つらかった人生が喜びに変わるということを彼女は実感したのです。
 文明社会では、人間がつくった価値観で、落ちこぼれた人間は苦しめられるという状況があります。
 しかし、親鸞はこぼれ落ちたというところから、立ち上がることができるのだという視点を持っています。
 そこが親鸞のすごさなのだと思います。
 目をそむけて自分自身から逃げないで、しっかり受け止めると、阿弥陀仏の救済を感じることができ、自分自身を信じることができるのだと思います。
 人間はどれだけ真面目に努力しても、たどりつけない。
 そのことを知って、他力=阿弥陀仏の本願力のはたらきにおすがりする、というのが親鸞の説いたことなのです。
 弥陀というのは無限なる光・知恵・いのちなどいろいろな、意味があります。
 そして、いつまでもまもってくださるはたらきを阿弥陀といいます。
 自分では明るみを求めて生きてきたけれども、うちひしがれるようなことがあり、目の前には闇しかない、ということがあったとしても、これが自分自身のほんとうの姿であり、真実なのだというところまで理解できれば、そこにはもう明るみが来ている、ということなのです。
 信仰とは真実を信じることです。
 キリスト教には、イエス・キリストという絶対的な存在があります。罪ある人間が神様との関係において信心を持つということです。
 仏教は人間が感じている存在のあり方が間違っていると気づいたのが仏陀でした。
 人は自分に愛着し、自分があるのだと考えています。
 仏陀はそういうあり方が苦悩を生み出していくのだと気づいたのです。
 無我の境地になることであると。
 仏教は信じると大きなはたらきが出てきます。それによって、人生が変わります。
 阿弥陀の大きな眼差しの中に許されて与えられてあるのだということに気づくと、生きている意味があると感じられます。
 阿弥陀の知恵をいただいて、本願に全身をまかせることである。
 大きなはたらきに自分が生かされている、それに乗っているんだという感覚を取り戻すと、生きていることの肯定感が生まれます。勇気が与えられます。
 宗教の基本は、自分自身の眼がひらかれることによって、精神の明るみが得られ、物事の見方が変わることだと思います。
(注1)本多弘之:1938年生まれ、真宗大谷派の僧侶、仏教学者。元大谷大学助教授、親鸞仏教センター所長。
(注2) 親鸞:1173-1262年、浄土真宗の開祖。法然に師事し、阿弥陀仏の本願の力に頼ってのみ救われると説いた。
(注3)中村久子:1897-1968年、興行芸人、作家。凍傷が原因で両手・両足を切断した。
42歳の時「歎異抄」を知り、『無手無足』は仏より賜った身体、生かされている喜びと尊さを感じると感謝の言葉を述べ、「人間は肉体のみで生きるのではなく、心で生きるのだ」と語った。50歳頃より、執筆活動・講演活動・各施設慰問活動を始めた。

 

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教師は力量を高めるために、どう考え、具体的にどうすればよいか  鶴田清司

 教師は力量を高めるためにどうすればよいか鶴田清司はつぎのように述べている。
 教師であれば誰でも「よい授業をしたい」と願う。
 今の教科書は必要最小限のことしか書かれていない。
 教科書と教師用指導書があればそれなりの授業はできるだろうが、きわめて底の浅い学習にとどまる危険がある。
 したがって、教師は「生きた教科書」として、文化・科学・社会への理解を深めておく必要がある。
 すぐれた教師は本をたくさん読むといわれてきた。それは教育書だけでなく、さまざまな分野にも関心が向いている。
 これが教師自身の教養となって、人間としての幅広い知識、豊かなものの見方・考え方を形成していく。
 斎藤喜博は「授業者としての力」の前に、教養や経験の蓄積によって生じる「人間的な力」の必要性を説いている。
 何よりも教師自身が知的かつ魅力的な人間でなければならないのである。
 例えば、国語の授業で教師の読みが深くなければ、「わかりきったことをきく」という表面的なレベルで終わってしまう。
「子どもをゆり動かす」ような授業をするためには、常識的・一般的な教材解釈にとどまっていたのでは無理である。
 そのためには、日頃からすぐれた小説や詩にふれて、読む力を養っておくことが必要になる。
 毎日、子どもたちと接して教育活動を行っている以上、教師はコミニケーションの熟達者でなくてはならない。
 授業で教師の「発問・指示・説明・板書」などは明確でわかりやすいものでなくてはならない。
 また、子どもたちの発言を聞き取り、意見をつなげたり、まとめたりすることが適切にできなければならない。
 大村はまは、話し方の修業のために、話し言葉の本を多く読んだり、自分の授業の録音を聞いたり、社説の朗読を続けたり、よい講演を聞いて耳を養ったりしたという。
 佐藤学は、教師たちが日頃から授業を公開し、学び合う同僚性の関係をつくることが重要だと述べている。研究授業も1年間に1人最低5回は行うべきだという。
 確かに、自己流で授業をしていたら進歩や変革はない。他者からのコメントを受けることで、気づかなかったことがわかってくる。
 他の教師の授業を見ることでさまざまな知見が得られる。
 向山洋一は、プロ教師になる条件として、研究授業100回をあげている。「指導案を書く」「検討会をする」「文章で分析する」ことが前提になっている。
 稲垣忠彦が提唱する「授業のカンファレンス」は、授業者以外の多くの人の目を通して授業を多面的に検討する方法である。授業の録画を見て意見を述べ合う点が特徴である。
「授業づくりネットワーク」が開発した「ストップモーション方式」は、授業の録画を自由にストップをかけて、教師の意図や授業行為の意味・代案などについて話し合う。
 村川雅弘らが提唱する「ワークショップ型の授業研究」は、参加者一人ひとりが付箋紙にコメント(成果と課題)を書いて、それを整理・構造化するなかで授業を検討する。
 こうした授業研究によって、授業を改善するための情報を得ること、さらに実践力量を形成することが重要である。
 そのためには「本当に自分の授業の腕をみがきたい」「少しでも授業者として成長したい」という強烈な願いを持っていることが必要である。
 校内で授業を見せ合うだけでなく、外部の研究会に出かけて自分を高めるということも必要になる。
 例えば、教育技術の法則化運動で、すぐれた発問・指示を追試する。
 国語科では「教科研や文芸研方式」「読み研方式」「一読総合法」、理科では仮設授業研究会の「授業書」が知られていて、授業書に従って授業を進めていけばどの教師でも一定の成果が得られるという。
 算数科では「水道方式」が知られている。タイルを用いて数を「量の概念」としてとらえる。計算指導では「一般から特殊へ」という原則に基づいて指導する。
 自主的に民間の教育研究会に参加することは、身銭を切ることで「少しでも授業の腕をみがきたい」という意気込みに変わる。
 その場合、1つの研究会だけでなく、できればさまざまな研究会に参加し、そこから自分なりの授業スタイルを形成していくことが重要である。
 つまり、1つの授業スタイルに固定化することを避けるのである。
 授業に、絶対的な方法はありえない。いつでもどこでも同じようなパターンで授業をすることは有害である。
 さまざまなものから、幅広く学んで、よいところを摂取していくという姿勢がよい。長所だけを取り入れて自分なりの授業スタイルをつくっていくのである。
 これまで、民間の各教育研究会は、それぞれの理論・方法を絶対視する傾向があった。これが実践の閉塞化を生んでいた。異質なものから学び合うことが求められる。
 研究会の参加だけでなく、教育書、教育雑誌や、さまざまな専門情報誌を読み、理論的・実践的な研究成果から幅広く学ぶことによって、自分の合った授業スタイルをつくっていくことが望ましいのである。
 教師修業の道に終わりはない。「これで十分だ」と自分の授業に満足してしまうと、思わぬ停滞を生むことになる。
 絶えず高いところに目標を設定して、自ら学び続けることが最も重要である。
 自分の身のまわりに「話し方」の上手な教師がいたら、その技を盗んで自分のものにするというようにして、さまざまなものから学んで最終的に自分なりのスタイルをつくっていくようにしたい。
 しかし、授業の達人の表面的な部分をまねることを追いかけていくだけでは効果は一時的なものにとどまり、根本的な力量が形成されることは難しいだろう。
 授業の達人に潜んでいる願いや思想を理解しなければならない。理解することによって、その教師の行為の意味、今ここで行われている授業の意味が明らかになってくる。
 授業は不確実性がある。教室の状況を「目利きする力」、斎藤喜博がいう「見る力」が求められる。
 教師の力量を高めるためには、教室での出来事の意味をその場で「洞察」「省察」「反省」しながら対話的・協同的な学びを追求していく姿勢(反省的実践)が基本とならなければならない。
 授業の理論・技術はそのなかで授業の目標(ねらい)を効率的に達成するための補助手段と考えるべきである。
 向山洋一も「技術で解決できるのは、7,8%だ」と述べていた。それ以外の部分は教室の個々の状況のなかで反省的思考に委ねられているのである。
(鶴田清司:1955年生まれ、都留文科大学教授、全国大学国語教育学会理事長。専門分野は国語教育学)

 

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発見や思考を促すための発問づくりの技術とは   鶴田清司

 発見や思考を促すための発問づくりの技術について鶴田清司はつぎのように述べています。
 「○○とは、どういうことですか?」
 といった漠然とした発問では子どもは動かない。
 子どもの興味・関心や考える意欲を引き出すような具体的かつ明確な発問でなければならない。
 そのための発問づくりを次に紹介したい。
1 人物の「見え」を問う発問は有効になることが多い
 たとえば、社会科で、
「バスの運転手さんはどこを見て運転していますか」
 という有田和正の有名な発問がある。
「バスの運転手さんの仕事は?」
 という一般的な発問と比べると、その違いがわかるだろう。
 子どもは運転手になりきって具体的に考えることができる。
 そうすると、前に見える車や歩行者だけでなく、バス停や車内の乗客にも注意して運転していることがわかってくる。
 また、国語科の「ごんぎつね」で
「兵十がかけよってきたとき何を見たでしょうか」
 という発問も、
「そのとき兵十はどんな気持ちだったでしょうか」
 という発問よりも具体的で考えやすい。
 「うちの中を見ると」という表現に着目すると、ごんのことはもはや眼中になく、むしろ家の中が荒らされていないかを心配する兵十の心理がよくわかるからである。
 このほかに「数、色、音、場所」など具体的なものを問うことも有効である。
2 「AさせたいならBと言え」という発問・指示の間接性の原理
 国語科の「大造じいさんとガン」で、
「大造じいさんは、夏のうちから心がけて、タニシを五俵ばかり集めておきました」
 という文がある。
 ここでは、じいさんが時間と労力をかけてタニシを五俵も集めたということが子どもたちに実感できるようにしたい。
 たとえば、
「五俵の中にタニシは全部で何個入っていますか」
という発問(B)によって、大造じいさんの行為を具体的にイメージすることができる。
 子どもたちは猟師としての執念や意気込みの強さに気づいていく(A)だろう。
(鶴田清司:1955年生まれ、都留文科大学教授、全国大学国語教育学会理事長。専門分野は国語教育学)

 

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授業をどうデザインすれば「よい授業」になるのか   鶴田清司

 授業をどうデザインすれば「よい授業」になるのか鶴田清司はつぎのように述べている。
 授業をデザインするという言い方がなされるようになった。
 これは、工場の流れ作業でものをつくっていくイメージではなく、一つの芸術作品を制作するというイメージで授業をとらえるものである。
 授業は予想外のいろいろな出来事が起こる。
 その状況一つひとつに的確に対応するなかで、子どもとともに授業をつくっていこうとするものである。
 教師が授業をデザインするとき、まず、自分のクラスの子どもたちの実態に基づいて、何をどう教えるか考える。
 これが出発点である。
 もし、教師が年間指導計画や教科書の単元構成、教師用指導書、市販のワークシートや授業のマニュアルに従って授業を進めていくとしたら、それは授業のデザインとはいわない。
 授業のデザインにあたって、まず考えなくてはならないのは次のような関係である。
 齋藤喜博は、授業は
「教材のもっている本質」
「教師のねがい」
「子どもたちの思考・感じ方・考え方」
 の「3つの緊張関係のなかに成立する」と述べている。
 教師が一般的・常識的な知識を子どもたちに一方的に教えるような授業ではなく、
「教師と子ども」
「子どもと子ども」
「教師と教材」
「子どもと教材」
 といった「教師・教材・子ども」の間に「衝突」や「葛藤」が生じるような「緊張関係」をもった授業がよいのである。
 そうした授業を創り出していくのが授業のデザインということである。
 したがって、事前に周到な授業計画を立てるだけでなく、授業中における、つまずき、予想外の出来事など子どもの状況に対応して授業を展開していく柔軟さも求められることになる。
(鶴田清司:1955年生まれ、都留文科大学教授、全国大学国語教育学会理事長。専門分野は国語教育学)

 

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反抗的な子どもの指導に日々悩んだが、クラス全体で指導する方法に切り替えると、よくなっていった

 私も、何度か反抗的な子どもを担任した経験があります。
 反抗的な子どもは、集団のきまりを守らず、友だちに迷惑をかけたり、周りの子どもたちを率いて悪さをしたりと、とにかく問題行動が目立ちました。
 そのつど、反抗的な子どもを指導するのですが、なかなか指導を聞き入れようとはしません。
 その場をはなれたり「うるさい」「だまれ」と、暴言をはいたりしました。
 指導すればするだけ、反抗的になるので、どのように指導してよいのか悩む日々が続いたものです。
 ところが、こういった子どもをよく観察していると、クラスの友だちが離れていくことに、とても敏感になっていることに気づきました。
 そこで、本人に直接注意するという方法をやめ、クラス全体に指導するという方法に切り替えることにしました。
 例えば、その子が数人の友だちと掃除をさぼっていれば、
「掃除の態度はどうあるべきか」
「なぜ大切なのか」
といったことを、クラス全体で考えさせ、意見を述べさせるといった具合です。
 クラスを正当な方向に導くことで、反抗的な子どもも、それに従わざるを得なくなります。
 また、直接、自分が指導されるわけではないので、素直に受け入れることができるのでしょう。
 徐々に、反抗的な子どもの問題行動は影を潜め、そのうち、私との関係も良好になっていきました。
(
中嶋郁雄:1965年鳥取県生まれ、奈良県公立小学校校長。子どもを伸ばすためには、叱り方が大切と「叱り方&学校法律」研究会を立ち上げる。教育関係者主宰の講演会や専門誌での発表が主な活動だったが、一般向けのセミナーでの講演や、新聞や経済誌にも意見を求められるようになる)

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親のダメな叱り方とは   岩立京子・無藤 隆・菅原ますみ

 親のダメな叱り方について岩立京子・無藤 隆・菅原ますみはつぎのように述べています。
 グチのように言い続け、インパクトがない叱り方をしている親が多いようです。
 たとえば「もう、なにやってるの。あんたはまったく」と、ただのグチになってメリハリがない。
 だから、子どもも言うことを聞かないし、あまり気にしていません。
 親が子どもを叱るのは、していいことと悪いことの判断力をつけていくためです。
 だから、叱ったことで、子どもがしていることをやめないと意味がないんですよ。
 叱るのであれば「絶対にいけない」と子ども自身が納得できるよう、効果的に叱る必要があります。
 そのために、叱ることと、叱らないことを自分の中で線引きして、
「これはきっぱりしかる」「これは諭すだけ」と使い分けしてください。
 そうすれば親の厳しい表情を見ただけで「これはいけないことなんだ」と子どもが自覚するはずです。
 子どもがなぜ叱られているのかわかっていないことがあります。
 親が一生懸命叱っているのに、「わかっているの?」と繰り返しても「うん」と答えるだけのときは、本当はわかっていないのです。
 何がいけないのか、何をどう直したらいいのかを具体的に言っているかどうか、考えてみてください。
 叱っている内容がわかるように伝えるには、いけないことをしたとき、その場で叱ること。
 小さな子どもはちょっと前のことでも忘れるからです。
 また、短く叱ることも大切です。
 長い時間しかられつづけると原因がなんだったかわからなくなります。
 そして、真剣にしかるようにします。
 厳しい目と声と態度できっぱりしかれば、子どもにも真剣さは伝わります。
 子どもの反応がよくなくても、しつこく言いつづける必要はないのです。
 自分の怒りを子どもにぶつけてしまい、どなりつけたり、たたくなど、親の感情の爆発をともなうしかり方はいちばんの問題といえます。
 強い子どもは反抗的になるし、弱い子どもはグズグズと言うことが聞けない状態になります。
 そんな態度がさらに怒りを爆発させるという悪循環に陥ります。
 親のストレス発散として習慣化すると虐待へと踏み出す恐れがあります。
 厳しさは、言葉や態度で十分伝えられるものだと思います。
(岩立京子:東京学芸大学教授を経て東京家政大学教授。専門は発達心理学、幼児教育)
(無藤 隆:白梅学園大学名誉教授。保育や心理学が専門)
(菅原ますみ:お茶の水女子大学教授、専門は発達心理学)

 

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保護者に「校長に会わせろ」といわれたらどうすべきか   星 幸広

 保護者に「校長に会わせろ」といわれたらどうすべきか星 幸広はつぎのように述べています。
 旧態依然として要求どおり正直に校長が会っている学校がまだまだ多い。
 これでは、相手の思うつぼである。
 相手対校長の構図となり組織として対応できなくなる。これではいけない。
 相手対学校という組織対応の型にもっていくことである。
 相手が「校長に会わせろ」と声を荒げても、「この件は私が任されていますから」と教頭が別室で対応してしのぐべきである。
 教頭が別室で対応している間に、校長は時間的余裕をもって、当事者から事実の確認ができるし、教育委員会の指導も受けられる。
 学校としても校長を中心に意思の統一も図れる。
 また、相手の意図も把握できるし、対応の準備や心構えができる。
 その結果、学校としては組織の総合力を駆使して相手と対応することができるのである。
 「校長に会わせろ」などと剣幕が強ければ強いほど、その親は、子どもに対する愛情が深いのだなと思えばよいのである。
 学校として「子どもを愛する」姿勢に自信がありさえすれば、親と対等である。親の苦情などに何らひるむ必要はない。
 日頃から「子どものために」自分は頑張っているということに自信をもっていれば、内面から自分を支えてくれるものである。
 日頃の自分のあり方が肝心なのである。
 日頃、子どもに対して愛情と情熱を持って接していれば、教師のその誠実さは、子どもを介して、必ず親に伝わるものである(不誠実であれば、不誠実が)。
 親は自分が人にほめられるよりも、子どもがほめられる方がよりうれしいのが親心である。
 ときには短時間で理解されることもあれば、長い時間を要することもある。
 要は継続することである。
 親は必ず、担任や学校のよき協力者に変わるであろう。
(星 幸広:元千葉県警察署長等を歴任し、子育て・しつけや学校危機管理に関する講演を全国的に展開している)

 

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不運なことがおきても、考え方をかえるだけで人生にこわいものなし

 日常生活を送っていると、いいこともありますが、不運なことも起き、心が折れてしまうこともあります。
 そういう場合の対処法として、植西 聰は「楽天の発想」を提唱しています。
 どんな深刻な場合でも、マイナスの心をプラスの心に転換させてしまう考え方です。
 自分の心の中を変えるだけで、逆境がバラ色に変わってしまうのです。
 この発想法を身につけてしまえば、人生は怖いものなしです。
 植西は「楽天の発想」を身につけたことで、様々な問題を解決してきました。
 植西は次のような体験事例を紹介しています。
1 自分が変われば世界は変わる
 植西が就職したとき、人間関係で悩みました。
 どうしたら職場の人たちとうまくやっていけるか悩み、辞めようかとも思いましたが「楽天の発想」で乗り切ったのです。
「この職場は人間修業にはもってこいの環境だ」
「性格も価値観も全く違う人たちと、うまくやっていくことができれば、心が広くなりどんなタイプの人ともうまくやっていく能力が身につく」
 と考えたのです。
 相性が合わない人がいても、その人の考えを変えようとするのではなく、自分が変わればいいのです。
 自分が変われば世界は変わるのです。
 その結果、どんな人としでもうまくやっていく知恵が生まれ、苦痛から楽しみに変わったのです。
2 不運のあとに幸福がやってくる
 私が海外へ行った帰りの空港で財布を落としてしまったことがありました。
 不運なことが身に降りかかってきたら、
「不運のあとに幸福がやってくる」
 と、ポジティブに考えれば、心はマイナスの状態からプラスの状態に変わっていくのです。
 一週間後に空港の人から「財布が届いている」と連絡がきたのです。
 どんな逆境に遭っても、悩まず、落ち込まず、前向きに考えていれば、やがて幸運に恵まれるのです。
3 出来事の「プラス面」に注目する
 私は運転免許を取得して5年経った頃、山道で対向車が寄ってきて、道路下に転落したのです。
 幸いにも一回転して止まったのです。一歩間違えれば下の方まで落ちてしまい、大けがをしてしまうところだったのです。
「こんな事故を起こしたにもかかわらず、かすり傷ひとつ負わずに済んだ」
「私はなんて運がいいのだろう」
 と、プラス面に心をフォーカスさせたのです。
 たとえ、マイナスのことが起きても、あくまでもプラスの面に心をフォーカスすれば、すぐに立ち直ることができるのです。
 私はどんなマイナスの状態になっても、この「楽天の発想」で人生を乗り切ってきました。
 私は何が起こっても
「起こることすべてよし」
「自分に降りかかってくる全てのことは、神の恵みである。したがって何事にも感謝」
 と考えています。
 すべては心の中側の問題です。
 自分の心の中を、マイナスからプラスに変えることができれば、どんな逆境でも乗り越えられ、立ち直れるのです。
(植西 聰:資生堂を経て著述家、心理カウンセラー)

 

 

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反抗期の子どもを親はどのように叱ればよいか   福田 健

 反抗期の子どもを親はどのように叱ればよいか福田 健はつぎのように述べています。
 小学校高学年から高校にかけて、子どもは親や社会に対して、反発・抵抗・不信などの感情を抱く。
 親に口答えする、乱暴な汚い言葉などを使う。自立しようとする子どもたちの心のあらわれである。
 親はどう接したらよいか戸惑う。
 しばしば言い争いになったりするが母親としては、やさしく受けとめるのが第一である。
 例えば、子どもが、
「うるせいな、わかっているよ」
 と、口答えが返ってきたとする。
 ここで、
「わかっているのね、頼もしいわ。じゃ、お母さん信じているからね」
 と、ひと言い、あとは子どもにまかせる。
 しつこく、くどくど言わない。
 とかく母親は以前にあったことを引き合いに出して、何度も言う癖がある。
 この時期、親から離れようとしている子どもに、心配だからと、いろいろと口をはさみ、世話を焼き、干渉するのは、子どもの自立を妨げ、子どもの「うるせえな」をまねくもとである。
 反抗期は父親の厳しい叱責を必要とする時期である。
 叱る者は、ふだんから、何をしたら叱るかをはっきり相手に告げておく必要がある。
 いわば、叱るさいの自分の考え、方針のようなものを明確にしておくのである。
 気分で叱ることを防ぐことにもなる。
 たとえば、
「子どもが守ると決めたルールを破る」
「親をバカにした態度をとる」
「汚い言葉を使う」
 などの行為が目についたら、父親は断固とした態度で怒涛のごとく叱るべきである。
 子どもが親に反抗するのは、より強い力が前に立ちはだかってほしいと、望んでのことでもある。
 大きな壁を前にして、無力な自分を感じながらも、それを乗り越えようとすることで、子どもは育つのではないだろうか。
 そして、たくましい男性、魅力ある女性になっていくのではなかろうか。
 反抗期の子どもにとって、親の甘い言葉や、ものわかりのよい態度は、逆効果のメッセージなのだ。
 人は育てるものではない。育つものである。
 大人の役目は、子どもが育つ環境をどう整えるかにある。
 反抗期に、子どもが親の言うことや、やることにはむかうのは、自分の力を試そうとしているのでもある。
 この時期、親に叱られて、子どもはつぎの二つのことを自覚する。
「世の中、自分の思いどおりにいかないものである」
「だからこそ、自分に力をつけ、人に協力しなくてはならない」
 このことを理解し、受け入れることができれば、中学校、高校時代に周囲に多少面倒をかけたとしても、しっかりした大人に成長していく。
(福田 健:大和運輸入社、言論科学振興協会の話し方運動に参加し理事を経て、話し方研究所を設立し会長。話し方、聞き方の指導・研究・啓蒙にあたり、コミュニケーション・リーダーシップ、人間関係などをテーマに各企業・官公庁で講演・講座活動を行っている)

 

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発声の練習(あくび卵発声トレーニング)とは    平田オリザ・蓮行

 発声の練習(あくび卵発声トレーニング)について平田オリザ・蓮行はつぎのように述べています。
 「大きな声で、ハキハキと」という声をめざす練習ではありません。
 いい俳優の持つ発声能力とは「場面に応じて、最適な声が出せる」ということです。
 声の出し方ひとつで、いろんな場面で求められる効果に差が出てきます。
 声を出すためには、
1 まっすぐに立ちましょう
 できれば鏡を見ながら「まっすぐ立つ」ことにチャレンジしてみてください。
 なぜなら、発声は下腹部の筋肉の力で空気を押し上げ、気管から声帯を通して口から出すという「運動」です。
 だから、それらの器管に余計な力が入らないように、縦にまっすぐに並んでいる必要があるからです。
2 その場で軽くジャンプしてください
 着地するときに、無意識にヒザが曲がるはずですから、ヒザを曲げたままキープしましょう。
3 そのヒザをゆっくり伸ばします
 すると、足の力が適度に抜けて、骨盤の真上に頭蓋骨がくるようなイメージで立つことができます。
 その手を下してきたら、背中の後ろで組んで、深呼吸をしながら引っ張ります。
 座り過ぎの生活をして人が多い。そのため、胸が狭くなっているので、それを広げてやるわけです。
 さあ、これで柔らかく、まっすぐに立てたはずです。
実際に声を出しましょう。
1 パントマイムで右手に殻をむいた、ゆでた卵を持ってください
2 あくびをします
 奥歯と奥歯の間を広く開けてやると、のどは自然と奥まで広がります。
3 口にゆで卵を縦のまま入れ、低い声で「あ~」と出してください
 ゆで卵は、声の塊だと思ってください。
4 あくびで開いた喉に、ゆで卵を落としていきます
 食道を抜けて、胃をめざします。声は自然と低くなっていきます。
5 おへその下の丹田まで落とします
 ここまでゆで卵が落ちれば、音程はその人がだせる最も低い水準まで下がります。
 お風呂でシャワーを浴びながら、シャワーの音に紛れさせて、という方法をおすすめします。
 体を温めながら、湯気で喉も保護されますから、発声練習には適しています。
 毎日たった1分でも続ければ効果は絶大です。
 低音を集中的に鍛えることで、発声に必要な腹筋が自然に鍛えられます。
 さらに声帯も柔らかくしなやかになるので、高い声もでるようになります。
 マスターし、自らの声のコントロール力が上がれば「大きな声で、ハッキリと、テンポよく」声を出すなど、ぞうさもないことです。
(平田オリザ:1962年生まれ、劇作家、演出家。劇団青年団主宰、こまばアゴラ劇場支配人。自然な会話とやりとりで進行していく「静かな演劇」の作劇術を定着させた。東京藝術大学アートイノベーションセンター特任教授。日本劇作家協会理事)
(蓮 行:1973年生まれ、劇団衛星代表、劇作家・演出家)

 

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小さなルールを徹底させることが、学級の荒れを予防する

 授業中のルールを徹底しないと、いつか学級が荒れ、崩壊がやってくる。
 小さなルールを徹底させることが、学級の荒れや崩壊を予防する。
 ルールを厳守し、静かな授業をすることが目的ではありません。
 学ぶことに夢中になり、楽しく盛り上がる授業づくりをするためにこそ、ルールが必要なのです。
 日頃から「授業中に、ぼけっとして指示を聞いていない」というような「小さなルール違反」に厳しく目を配るようにしていくと、やさしいひと言での指導が可能です。
 その繰り返しが「立ち歩き」や「おしゃべり」などの授業妨害といった「危険なルール違反」を防ぐことにつながります。
 例えば、教師と子どもが互いを敬いながら授業に臨むために、授業の始まりと終わりの挨拶を大切にしたいものです。
 指名されたら返事をする。発表は起立して行う、話す人にお腹を向ける、話を聞くときは手を膝に置く。
 授業を進めながら、ルールを子どもに確認し、できていない場合は、その都度、必ずやり直しをさせるようにします。
 徹底して指導を繰り返すことで、ルールを守る姿勢を身体で覚えさせるのです。
 授業ルールの厳守が安定した授業づくりにつながり、きまりを守る意識を高め、さらには落ち着いたクラスの雰囲気を育てます。
(中嶋郁雄:1965年鳥取県生まれ、奈良県公立小学校校長。子どもを伸ばすためには、叱り方が大切と「叱り方&学校法律」研究会を立ち上げる。教育関係者主宰の講演会や専門誌での発表が主な活動だったが、最近では、一般向けのセミナーでの講演や、新聞や経済誌にも意見を求められるようになる)

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