いじめは学校で社会を学び、自己の社会化をどう形成するのかという問題である 宮川俊彦
いじめは人間と人間との関係の現象として起きていると宮川俊彦はつぎのように述べています。
私はいじめ問題は社会化の問題であると考えている。
学級は同年齢の子どもたちが集まって疑似社会が形成されている。
学級は自己の社会的な面を本人が自覚し、他者をも客観的に理解し、社会的関係を形成していくことを目的としている。
自分自身の役割や能力の発揚の仕方、その手法を学ぶことを本義としている。
いじめられたら、「なぜ私はいじめられるか」ということを分析し、解明していこうという探求がなければ、どうしようもない。
以前、私のところに学校でボコボコにいじめられている子どもがきたことがある。
なぜいじめられるか何回聞いても、みじめな気持ちがいっぱいで、冷静に自分を客観化し分析することはできなかった。
そこで、私の取り巻きの子どもたちと力を合わせて分析をはじめた。
共に考えてくれる仲間がいたりすると、冷静に自分を客観化する目はつちかわれていくものだ。
よく聞くと、彼は「なぜいじめられているか」の認識はほとんど欠落していた。
また、学級にどんな子がいるか、それがどういうタイプか、いじめる子はどういう傾向を持っているか、ほとんど知ろうとすらしなかった。
いじめられて、いたたまれない。学校に行きたくない。
いじめている連中に仕返ししたい。
そのような反応が先行していて、自分を分析しつつ、自分を再編成するか、演出するか、構築するかに向けての認識も手法もほとんど欠落していた。
さまざまなケースはあるとしても、私はこの傾向が多いのではないかと考えている。
いじめられる子には、いじめやすい、いじめたくなる要素があることを疑ってはならない。
きちんと分析し、とらえなければならない。
そのままの素の自分でいたら、社会の中では立ち往生することもある。
としたら、どういう自分を形成していけば現状でいじめられなくなるのか。
この局面において、どういう自己演出、自己表現、ときには仮面化、あるいはある種の人格をまとうこと、自分自身の是正が必要か、これが具体的なテーマとしてのぼってくる。
少なくとも人が社会で生きていくにはありのままではいられないという認識が必要である。
多種多様な人間が相集う社会においては、臨機応変性や、自己のあり方、表現の仕方は必然として考えていかざるを得ないのは自明である。
勉強しに学校へ行っているなどという程度の認識で学校をとらえる人はまだ多い。
学校で社会を学ぶのだとか、社会化の自己をどう形成するのかという問題は枠外におかれてきた。
私がこういうことをいくつかの現場で語ったときに、目から鱗だとか、さして考えたこともなかったという教師や親や子どもの声は多かった。
(宮川俊彦:1954-2014年、国語作文教育研究所所長、教育評論家。約40年におよぶ青少年の作文・表現教育活動を実践し、指導対象は二百万人を越える。表層指導だけではなく内面に分け入り、思考法や視点・読解などの表現に着目し、人間の存在から表現に到るプロセスを教育の対象にしていた)
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