不幸なことが自分に降りかかったときどう考えればよいか、信仰とは 本多弘之
不幸なことが自分に降りかかったときどう考えればよいか本多弘之(注1)はつぎのように述べています。
不幸に見舞われたとき「なぜ、こんなことが自分に降りかかるのだろう」と、こんなふうに考えてしまうことは、だれにでもあると思います。
そんな考えにとらわれてしまったとき、どのように考えればよいのでしょう。
自分に与えられた事実は、自分の自由な選択によって、自分の思いであるのではないということです。
そして、「いま、ある」という事実は、これはもう必然です。
深い因縁のなかで、たまたまこの命を賜り、いまあるわけです。
歎異抄によると、われわれの存在は深い因縁という大きなもののはたらきがあって、それによって、生かされ、いのちを賜っています。
親鸞(注2)が説いた他力本願は、すべての人々を無限の光である阿弥陀仏が守ろうとする本願力で極楽浄土に導いてくださる、ということです。
両手両足切断というハンディを持ちながらも、旅芸人として力強く生きた中村久子(注3)さんは、親鸞の教えに出会い、自らの障害を受け入れ、明るく生きることで人々に生きる力と光を与えました。
地獄のようなつらい境遇でも、親鸞の教えに触れて、生きることができるのだという覚悟が生まれてきます。
つらかった人生が喜びに変わるということを彼女は実感したのです。
文明社会では、人間がつくった価値観で、落ちこぼれた人間は苦しめられるという状況があります。
しかし、親鸞はこぼれ落ちたというところから、立ち上がることができるのだという視点を持っています。
そこが親鸞のすごさなのだと思います。
目をそむけて自分自身から逃げないで、しっかり受け止めると、阿弥陀仏の救済を感じることができ、自分自身を信じることができるのだと思います。
人間はどれだけ真面目に努力しても、たどりつけない。
そのことを知って、他力=阿弥陀仏の本願力のはたらきにおすがりする、というのが親鸞の説いたことなのです。
弥陀というのは無限なる光・知恵・いのちなどいろいろな、意味があります。
そして、いつまでもまもってくださるはたらきを阿弥陀といいます。
自分では明るみを求めて生きてきたけれども、うちひしがれるようなことがあり、目の前には闇しかない、ということがあったとしても、これが自分自身のほんとうの姿であり、真実なのだというところまで理解できれば、そこにはもう明るみが来ている、ということなのです。
信仰とは真実を信じることです。
キリスト教には、イエス・キリストという絶対的な存在があります。罪ある人間が神様との関係において信心を持つということです。
仏教は人間が感じている存在のあり方が間違っていると気づいたのが仏陀でした。
人は自分に愛着し、自分があるのだと考えています。
仏陀はそういうあり方が苦悩を生み出していくのだと気づいたのです。
無我の境地になることであると。
仏教は信じると大きなはたらきが出てきます。それによって、人生が変わります。
阿弥陀の大きな眼差しの中に許されて与えられてあるのだということに気づくと、生きている意味があると感じられます。
阿弥陀の知恵をいただいて、本願に全身をまかせることである。
大きなはたらきに自分が生かされている、それに乗っているんだという感覚を取り戻すと、生きていることの肯定感が生まれます。勇気が与えられます。
宗教の基本は、自分自身の眼がひらかれることによって、精神の明るみが得られ、物事の見方が変わることだと思います。
(注1)本多弘之:1938年生まれ、真宗大谷派の僧侶、仏教学者。元大谷大学助教授、親鸞仏教センター所長。
(注2) 親鸞:1173-1262年、浄土真宗の開祖。法然に師事し、阿弥陀仏の本願の力に頼ってのみ救われると説いた。
(注3)中村久子:1897-1968年、興行芸人、作家。凍傷が原因で両手・両足を切断した。
42歳の時「歎異抄」を知り、『無手無足』は仏より賜った身体、生かされている喜びと尊さを感じると感謝の言葉を述べ、「人間は肉体のみで生きるのではなく、心で生きるのだ」と語った。50歳頃より、執筆活動・講演活動・各施設慰問活動を始めた。
| 固定リンク
「人間の生きかた」カテゴリの記事
- この世の中はまさに不条理で、幸福も不幸も、なぜか訪れるときは群れをなしてくる 瀬戸内寂聴(2021.08.07)
- 人生の幸・不幸を決めているのは出来事や出逢いではない 軌保博光(2021.06.17)
- 不幸なことが自分に降りかかったときどう考えればよいか、信仰とは 本多弘之(2021.05.11)
- 人生の成功者に必ず共通していることとは何か 浅田次郎(2021.04.29)
- 仕事は自分を表現し、自分を成長させる場所(2021.04.26)
コメント