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お茶の侘び寂びの心とは何か   千 玄室

 戦後、日本が立ち直ってきたのは偉大な文化があったからです。
 その文化の主流がお茶道です。
 晩秋は、ススキがたなびいているばかり。
 この枯れきった大自然の風情こそ、ほんとうの侘びの世界で、そこに茶の境地がある。
 利休は、この心にさらに雪間の草の美と自然を力強く生きぬこうとする道理で、さらに一歩追究した。
 春四月、草木は色香を競い、野鳥も春を謳歌する。
 しかし、遠い山のいただきには白雪が消えず、山里には冬のなごりの雪が残っている。
 その下には草の新芽がふき出している。
 ものいわぬ草にも冬の試練に耐え抜いてきたという誇らしげな力強さが盛り上がってきている。
 これから動き出そうとする静寂の境地なのである。
 時到れば、はっしと発するこの堂々とした自然の力にいい知れぬ美と心を感得し、これこそ茶の道だけがもつ心でなければならないと説かれたのである。
 晩秋が行きついた陰の極、この雪間の草の春は、これから動き出そうとする陽のはじめである。
 それはまったく紙一重、背中あわせの距離にある。
 この両極をもたせなければ茶道はなりたたないとした利休の大きさはたとえようもなく広大である。
 無限の大道である。
 捨て身になって修業し、実践して、はじめて道がつけられるものなのである。
 私どもは雪間の草の美を見いだす感覚の鋭さをもたねばならない。
 そこに侘び寂びの心を把握し、この道の両極をしっかりわきまえなければならないのである。
 濃茶は抹茶のなかでも質のよいもの。
 一つの茶碗に練り、正客から順に回し飲みします。
 同じ器から同じものをいただく、そこに自然と和の気持ちが養われるのです。
 茶を共にいただき味わい、主は客に心をこめて、もてなしをなす。
「わび」「さび」が生まれるのも「もののあわれ」からで、「もの」に対するいたわり、すなわち自然観の表れであると、茶の湯者の珠光が弟子の古市播磨に与えた一紙がある。
 その『心の文』の中に、茶をする者の心掛けは、世のもののあわれを知り、我執を戒めることと記されている。
 もののあわれは自然体である。
「わび」は「侘(わ)ぶる」から生まれたものといわれ、飾りのないそのままの姿形をいう。
 西行や芭蕉は自然に振る舞えた「無」の境地にあった人であった。
「さび」は枯れ果てた中に芽生える自然の力を表し、何もかもそのもの一つにすがり生きようとする意でもある。
 どん底、すなわち何もないところから生きようとするところに「わび」「さび」の哲学が生まれる。
 日本人の精神的な支柱は、こうした無の境涯と生きようとする努力が自然とともにあるのだろう。
(千 玄室(せん げんしつ):1923年生まれ、1964年から2002年まで茶道の裏千家15代家元。世界60か国以上を訪問し、茶道を通じた世界平和と日本文化の国際的な理解の促進につくす。ユネスコ親善大使にも任命されている。京都大学大学院特任教授・大阪大学大学院客員教授として、伝統芸術研究領域における指導に当たる)

 

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