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2021年10月に作成された記事

討論の授業を行うためにはどのようにすればよいか   戸村隆之

 討論の授業を行うためにはどのようにすればよいか戸村隆之はつぎのように述べています。
 討論の授業を行うには、本物の授業を見ることが必要だ。
 それなくして、自分の教室で討論の授業を成立させることはできない。
 討論の授業に欠かせないのは、子どもの発表である。
 クラス全員が発表する、自由に発表できる雰囲気を教師が意図的に作っていかなければならない。
 そのために、教師はすべての子どもの発表をほめる姿勢を持っていること。
 ほめることがないときは、「教えてほめる」ようにする。多くの教師は指導だけ行ってほめない。
 討論の授業では、子どもの書く力をつけることも不可欠である。
 書く力をつけるために、私のクラスでは、毎日日記を書くことを宿題にしている。
 毎日書いていることをほめ、励ますのである。
 長く詳しく書く子どもたちは、学級通信で取り上げたりしてほめる。
 その後、授業の感想や行事など一つの出来事について書くようにして、自分の意見を書く習慣をつける。
 授業の感想はできれば10分確保して、できた子からノートを持ってこさせて、印を押し言葉をかけ、その場でチェックする。
 時間に余裕があれば発表する場面を作ると、討論への布石になる。
 討論の授業は反論や質問をできるようにしてこそ活発になり思考が深まる。
 これも授業の中で行っていく。
 ある発問に対して、自分の考えをノートに書く。
 それを子どもに板書させ、発表する。
 そこで、
「友だちの意見について、わからないことを質問します。ノートに質問を書きなさい」
 と、指示して、全員が書いたら、それを発表して、質問された子は、答える。
 反論も同様である。
 反論の場合は、1つの意見に絞ったほうがよい。
 討論の授業を作るには、子どもに討論の素地ができていること。
 それに教師に討論の授業を組織する技術と能力が必要である。
 子どもの意見やつぶやきを聞き取ることができ、意見を整理し、話し合いの方向を示せる能力を身につけるために修業することである。
(戸村隆之:東京都公立小学校教師)

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学級の荒れたときに「これが大切ではないか」という声とは何か   坪井 祥

 坪井 祥は、学級の荒れを経験した教師から「これが大切ではないか」とつぎのような声があがっていると述べています。
 子どもたちの悪いところをさらりと受け流して、子どもたちのいいところをよく見る。
 気になって仕方がなかったことを笑って見るぐらいのゆとりが持てたらなと思っている。
 どうしようもないときは誰にでもある。
 教師は何でも自分がしなければならないと思っているが、困ったら「何とかして」と言うべきだ。
 しょい込まないこと。
 そんなときは休んでみることだ。
 そして、遊ぶ、どこかに出かけることだ。
 休んでいることで子どももほっとするのではないか。
 問題を抱かえているときは、ものすごく視野がせまくなる。
 子どもの悪いところがすごく目について自分自身が落ち込んでくる。
 そんな弱点をカバーし合えるのは学年集団だと思う。
 学年担任で何ができるかということを考えた。
 大変な学級の担任だけが落ち込むというのではだめだ。
 状況を打開するのは、何といっても「楽天性」です。
 自分が悪い、何をしてもうまくいかない、と暗く深刻な顔をして子どもたちの前に立ったら、それだけで子どもの心も暗くなります。
「そのうち何とかなる」「私一人じゃないんだ」と明るく考えることができれば、解決への糸口を見いだせるかもしれません。
 教育の原動力は教師の人間性です。
 あわただしさから人間性が枯渇したら問題です。
 教師の生活に「ゆとり」がなくなったら、いい教育ができないのは当たり前のことです。
 荒れを経験した教師に話を聞くと、驚いたことにどの教師も
「卒業後に荒れた子どもに会うと、いまは落ち着いていて、元気に声をかけてくれました」
 と、いった返事がかえってきたのです。
 すべての子どもがこのような状態でないにしても、多くの子どもたちにとっては「荒れ」は発達のための通過儀礼であったのかもしれないのです。
(坪井 祥:元大阪府公立小学校教師。授業研究所元専務理事)

 

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「ほめる・叱る」にはコツがある   伊藤友宣

 「ほめる・叱る」にはコツがあると伊藤友宣はつぎのように述べています。
 ほめるべきときにしっかりほめる、叱るべきときにしっかり叱る、ということをしなくなった大人が最近目立つようになった。
 ほめるも叱るも、態度がしゃんとしたものでなくてはなりません。
 「もうォ、それはダメじゃないのォ。やめなさいよ。やめて。ねェ、お願い」
 と、親が懇願口調で、あれでわが子を叱っているつもりなのか。
 幼児期から親があれでは、この先どうなるのかしらと、ぞっとしてしまいます。
 子どもの自主性を尊重しているつもりで、実際には親としての主導権をしっかり示していく自信がない。
 逆に親が子どもを完全に管理して、子どもがやむなく従うのを従順だと思い誤ることも多いのです。
 親が息をうんと吸って吐く勢いで「はーい、それはダメ」と、ききりと言い切る。
 親があとの様子をしっとりとした態度で見守る。
 子どもは、じっと親の気配を感じる。
 子どもはしてはいけないことをしていると、手元が止まるということになったりするのですね。
 親が強く注意を喚起して、あと、じっくり共感という流れがそこにあります。
 自分の日常の生きていく姿勢が、子どもをほめたり叱ったりする態度にもろにあらわれます。
 どうほめ・叱るか、でなく、充実した生き方ができているかどうかの、親のあり方、教師一人ひとりの生き方の質が、問われているのだという気がするのです。
 親や教師は子どものために、「ほめる・叱る」の意図が、子どもの心に届かないことが多くあります。
 こちらの思い違いもあると覚悟しておく。
 子どものこれまでの習慣や育てられ方というものも、考慮し直してみる。
 まあ、「ほめる・叱る」は試行錯誤して反省を積み上げていくしかない。
 子どものあり方にいかに敏感に反応して、前向きの関係をつくるか、ですからね。
 人間関係は、一種の格闘技。
 相手がどう出てくるか機敏に対応しながら、こちらの出方は、心と体の瞬間の動きに任せる。
 「ほめる・叱る」は、人間関係のひとつのかなめなのですね。
 叱ったあとに、反発が返ってきたりしても、おそれず、生き物の生きる勢いに任せたいさぎよさで子どもに対すること。
 子どものしくじりに気づいたら、気づいた自分の確かさに誇りを抱く。
 子どもに対しても謝るときには謝り、訂正すべきときは訂正すること。
 「ほめる・叱る」には、その時、その呼吸(いき)でという、コツがあるのだと思います。
 コツをはずしていなければ、形がいろいろ違っていても子どもの成長に役だっていく。
 結局は、「ほめる・叱る」ということは、それが必要な急場の、子どもに対するしゃんとした大人の姿勢のあり方のことだと気づくのですね。
「人間」としての、しっかりしたあり方が、時々のほめことばや叱りことばに、微妙に、そして、はっきりと映し出されてしまう。
 要するに、大人がどれほど元気に生きているか、ということになるのではないでしょうか。
(伊藤友宣:1934年神戸生まれ、大学で教育心理学を学び、卒業後は、教育問題、特に親子の関係、いじめ問題などを中心にカウンセリングに取り組む。神戸心療親子研究室主宰)

 

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学級のトラブルは成功の基  今村信哉

 学級のトラブル(難所)は成功の基である。
 私は2学期から小学6年生を担任したことがある。その学級は1学期後半には授業が成立していなかった。
「どんな教師が来たのか」と子どもたちはこちらを見るかと思ったが、目線はバラバラで宙をさまよっていた。
 私は、必死になって目線に方向性をつけようとした。
 それには学級の目標を決めるしかない。
 数日は授業らしい授業もせずどのような学級にしたいのかを話し合った。
 初めは口の重かった子どもたちであったが、徐々に口を開き始めた。
 そして、最終的にできあがったのは「チャーハンクラス」という学級のニックネームと「集まろう、一粒一粒おいしいクラス」というキャッチフレーズであった。
 学級のニックネームについては「ミックスジュースクラス」が対抗馬として最後まで残った。
 しかし、女の子のAさんの、
「ミックスジュースは混ざってしまうと元がなんの素材なのかが分からなくなってしまう。だけど、チャーハンなら何が混ざっているかはよく分かる。だからチャーハンクラスの方がいいと思う」
 の言葉で「チャーハンクラス」に決定した。
 私は長い間、教師をやってきたがあれほど説得力があり、影響力のあった発言は聞いたことがなかった。
 ガチャガチャと話し合っていた子どもたちの目線を方向付けた大きな発言だったのである。
 数ある学級の目標で10年以上経っても空で言うことのできるのはこの目標をおいて他はない。
 その後は堰を切ったように様々な活動が展開された。
 学級づくりの大きな難所を攻略できたのは、「学級の目標づくり」が第1弾の難所。
 そして目標に沿って活動を開始したのが第2弾。
 その後も、次から次へと多くの難所に遭遇した。
 しかし、急造の担任であったということもあり、保護者や管理職を含む学校全体から全面的なバックアップがあった。
 そのために大きな難所を乗り越えることができたのである。
 この「チャーハンクラス」のクラス会が先日あった。子どもたちは22歳になっていた。
 そこで話題になったのは卒業してからのことだった。
 順風満帆というわけではなかったが、そこから確実に立ち直ることができていた。
 口をそろえて言ったことは全員が一丸となって取り組んだ「チャーハンクラスが原点になった」ということである。
「集まろう、一粒一粒おいしいクラス」に戻ったのだ。
 そこには真剣になった自分、励ましあった友だちがいたのである。
 生身の子どもたちが何十人も集まる学級である。
 何事もなく1年が過ぎるはずがない。
 難所はあって当然なのである。
 要はその難所とどう向き合い、どう対処するかである。
 難所は子どもたちにとっては、
「最も踏ん張らなくてはならないところ」
「最も教師を必要としているところ」
 なのだ。そこを学級経営に生かさぬ手はない。
(
今村信哉:埼玉県さいたま市指導主事、小学校長、共立大学客員教授を歴任
)

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