カテゴリー「優れた先生に学ぶ」の記事

子どもは成長していくことに喜びを感じ、成長できない状態におかれたときに不満を持つ、斎藤喜博はどような教育を行ったのか

 人間は無限の可能性を持っているものであり、自分をより豊かに成長させ拡大し変革していきたいという願いをもっている。
 教育とは、子どもの持っている可能性を引き出し、拡大していくことである。
 人間の美しさ、人間の連帯の美しさを知り、それぞれの人間の持っている無限の可能性を引き出し拡大することこそ教育の仕事である。
 どの子どもも、成長していくことに喜びを感じる。
 しかし子どもたちは、自分一人の力で成長していくことはできない。
 大人なり教師なりの助けを受け、力を借りることによって、はじめて自分の内部にあるものを、よりよく引き出すことができ、心をひらいて成長していくことができるのである。
 これは幼児や小学校の子どもばかりでなく、中学校や高等学校の生徒においても同じである。
 自分を成長させたいと強くねがっている子どもたちが、自分が成長させることができないような不幸な状態におかれたとき、子どもたちは、不満を持ち、反抗的になったり乱暴になったりする。また劣等感を持ち、無気力になったり怠惰になったりする。
 大人や教師はそう考えなければならないことである。
 もともと無気力な子どもとか反抗的な子どもとか、怠惰な子どもとかが固定的にあるものではない。
 学校の授業についていけない子どもとか、「おちこぼれ」などという子どもがあるものではない。
 そうなることをねがっている子どもなども一人もいるはずがない。
 そういう子どもをつくっている大人とか社会とか学校とか教師とかに問題があると考えなくてはならないことである。
 学校は子どもたちが成長していくのを、子どもの学習をとおして手助けするところである。
 学習の主体者は子どもたちであるが、学習の主体者である子どもたちは、教師の適切な助けを借りることによって、確かに創造的に学ぶことができ、自分を生き生きと成長させ変化させていくことができるのである。
 教師は固定した物を固定的に教えていてはだめである。教科を正確に獲得し、拡大し、深化し、再創造させていかなければならない。
 教育という仕事は、子どもたちの具体に応じて、こまかい手入れをしていかなければならないものである。
 子どもたちに、言葉や、身体で表現させたら、その事実のなかにあるよいものとか、悪いものとかをとらえ、その場ですぐに具体的に指摘していかなければならない。
 その事実のなかにあるよいものは拡大し、悪いものは否定して他のものをつくり出させることによって、子どもたちの持っている可能性は、はじめて引き出され形となっていくものである。
 一時間の授業で、子どもや教師が対決し、火花を散らし、つぎつぎと真理を追及し、子どもたちがへとへとになって、満足しきる。
 このような授業をしていれば、子どもたちは自分を出しきり、つかみとった満足がそこにはある。
 専門家である教師がやる授業は、子どもたちが自分の力を出しきり、正確な知識を獲得し、新しい認識とか創造とかをし、それを翌日の授業に持ち込むようなものでなければならない。
 そうなるような必然性とか法則とかを、授業はもったものでなければならない。
 例えば、合唱の指導もそのようにしていったとき、どの子どももが自分を出し、歌をうたうことによって、自分を豊かにふくらませ、自分を新しくし、自分を成長させていくことができるようになる。
 そういう指導をするためには教師は、子どもの事実をみぬく力を持ち、表現の方法を指導する教師としての技術を持っていなければならない。
 またそれらのもとになる、教材への解釈とかイメージとかを持っていなければならない。
 指導を終わって子どもたちが帰ったあと、どのように解釈し、どのような方法で指導したらよいかを教師たちと考える。
 教育という仕事においては、子どもの事実にふれるごとに、問題が生まれ、新しい解釈とかイメージとか、それに即した新しい指導の方法とか技術とかが生まれる。
 子どもの事実にふれるごとに新しい指導の方法や技術が生まれるのである。
 私の方法や技術は教師としての仕事をしながら何百種類を持つようになった。
 まず、自分の方法では子どもができない事実にぶつかる。
 そこで、考え工夫しながら、新しい方法を考えだし試してみる。子どもができるようになって子どもの事実を動かしたことで、新たに自分の方法や技術を獲得したことになる。
 だから教育という仕事は面白いのである。
 子どもの事実を動かすような仕事をしていったとき、子どもたちは無限に教えてくれるのである。
 教師は、絶えず追究し、創造し、新しいものを子どもたちのなかにつくり出していかなければならない仕事である。
 一つのものをつくり出したときには、つぎのより高いものをめざして、追究をはじめ、新しい創造をしていかなければならないものである。そういう仕事を休みなく続けていかなければならないものである。
 対象である子どもたちの事実によって、そのとき必要な形式をつくり出し、形式によって内容をつくり、そこに生まれた内容によって、またつぎの必要な形式をつくり出していかなければならないものである。
 形式は内容をつくるためにあるのであり、内容によって形式はつくり出されていくものである。
 そのときどきに全力をつくして典型をつくり出すが、それは決して目的ではなく、固定した既成のものがあり、それにあてはめていくものではない。
 つねに目の前にある事実と対決しながら、事実のなかから、つぎつぎと新しいものをつくり出していく仕事である。
 そのようにしてつくり出された典型に数多くふれることによって、子どもたちはいよいよ新鮮になり自分を新しくしていくのである。
 教師もまたそういう典型に数多くふれることによって新鮮な人間になっていくのである。
 そういう作業のすじみちのなかで、子どもたちは自分の可能性を引き出し、自分を成長させていくのである。
 そういうところに、教育の仕事の意味があり、特長がある。
 そう決意し、そういう仕事をしつづけようとしないかぎり、典型としての子どもの姿は生まれないし、教育という創造的な仕事をしつづけていくことなどもできない。
 子どもたちは、学校でのそういう授業や行事のなかで、教師や他の人間の力を借りながら、自分のなかに新しいものをつくり出していくのである。
 そのために学校を組織体としての機能を持ったものにし、授業の質を高めることを中心としたのである。
 また、すぐれた教材を集めたり、つくり出したりすることに努力し、専門家としての教師の技術とか技能とかを高いものにしようとする努力をしたのである。
 そうすることによって、子どもたちは自分一人だけでは到達できないような高みにまで、自分の全心身をつかって、喜び勇んでよじのぼっていくようになるのである。
 他の創造的な仕事においてもそうなのであうが、教育の実践はいつでも連山を越えていくようなものである。
 見えている一つの山を越えてほっとしたときは、つぎのより厳しい高い山が見えてくる。
 創造的な仕事であるということが、教育という厳しい、しかもいやな仕事に、堪えることができたし、やり甲斐のある仕事だとも思ったのである。
 実践者である教師は、そういう仕事のなかで人間を変革していくのである。
 また、人間を変革することによって、そのときどきの子どもと対決する実践も創り出せるわけである。
 教育の実践は、現実のなかでの、絶えざる追究と創造のある仕事であるから、またそれをしないかぎり、教師をも子どもをも変革することなどできない仕事である。
(斎藤喜博:1911年-1981年、1952年に島小学校校長となり11年間島小教育を実践し、全国から一万人近い人々が参観した。子どもの可能性を引き出す学校づくりを教師集団とともに実践した。昭和を代表する教育実践者)

 

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吉田松陰のことば

1 宿命は天命と受けいれると、恐れることはない
 宿命は、人間の力や智恵が及ぶものではない。だから、この原因は天にまかせるしかない。
 宿命はいわば天命ともいうべきものである。天命であるからには、それは全て天にまかせ、人間は一途に人として踏み行うべき道を守ればよい。
 生死、困窮、栄達などを素直に受けいれ、わが身の分に応じて正しく生きておれば、何も驚くことはなく、恐れることもない。
2 人と交わる道
 人と交際する際には、相手に対して怨み怒るようなことがあれば、遠慮なく自分の信ずるところを、まごころをもって指摘し、いましめ諭すべきである。
 立派な人の心は空のようなものである。
 雷のように怒りを発することもあるが、それが終われば、再び雲ひとつない青空のようである。その気持ちを心の中に残す、ということはない。
3 人を従わせるのは難しい
 人の生き方を改めさせて、自分の生き方に従わせるのが難しいのは、私が決して人の生き方に従うことができないのと一緒である。
4 立派な人はきざしを見てすぐ行動を起こす
 心ある立派な人は、事のきざしを見て、正しいか、正しくないか、また、時がちょうどよいかすぐ見抜き、すぐに行動を起こし、一日たりともぐずぐずしていない。
5 人が集まる生き方
 自分の尺度のみで他人を批判しない。
 一つの失敗だけで、その人のすべてを駄目だといって見捨てない。
 その人の長所を取り上げ、短所は見ないようにする。
 心中を察して、結果を見ないようにする。
 このような気持ちで生きれば、どこへ行こうとも人が集まってくる。
6 大きな仕事をなしとげる人
 昔より大きな仕事を成しとげる人は、おだやかで人と争わず、ゆったりとして物静かである。
7 志を立てる方法
 志を立てる方法は、特に優れた、会い難い人物に接することにある。
 やる気を起こす方法は、有名な山や川などを巡り歩くことにある。
 心ある立派な人が物事を行うときには、意気込みがどのような状態にあるかだけによる。
8 松下村塾の目標
 困難にくじけない強い意志があって、自分の信じる主義・主張などを堅く守りとおし、正しいことを行う人物となることが、松下村塾の最も目指していることである。
 いたずらに書物を読んでいるだけではない。
9 気持ちの会わない人に対し寛容の心をもつ
 多くの人がいると、おのずと気持ちの合わない者もいるだろう。
 これは、たいてい私心である個人的な感情より起こることである。
 お互いに心を広く持ち、人の言動を受け入れ、他の者の欠点などをきびしく責めないように気を配ることが大切である。
10 人生は永遠に朽ちないことを一つなせば十分である
 人生は極めて短いものであり、夢まぼろしのようなものである。
 そしりを受けることも、ほめられることも一瞬である。
 栄えることも衰えることも瞬時である。
 はかない人生である中で、一つだけでいい、永遠に朽ちない事柄をなし遂げられれば十分である。
11 人はまごころをもつのみ
 人はただ、まごころをもつだけである。まごころは愛すべきであり、敬うべきである。
12 人を大きく育てるには
 人を大きく育てるには、不思議なこと、普通と違うこと、自分を恥ずかしく思うようなこと、喜ぶようなこと、などを見聞きさせることが一番である。
 あたりまえの平凡なことは、新しい経験とはなるでしょうが、それで新たに志しを立て、励むにはたりません。
(吉田松陰 1830~1859年 山口県萩 松本村生まれ、10歳で藩主毛利敬親の前で山鹿流兵学を講じた。藩校明倫館の教授、江戸で佐久間象山に学び改革に目覚める。松下村塾で高杉晋作や久坂玄瑞など育てた。老中暗殺などを策したとして斬首刑に処せられた)

 

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優秀な教師の子どもとのつきあい方とは

 子どもを相手に働くときには、こちらが賢くなければならない。一般的に、つぎの普遍的真理があると考えられる。
1 子どもはシステムを好み、必要としている
 子どもたちは安心感を求める。威厳をもって自分たちを管理監督してくれる人物を求めている。
 クラスのなかにきちんとしたシステムをつくりあげ、明確なルールをつくって、子どもたちが安心感と、居心地のよさを感じられるようにしなければならない。
 子どもたちに好かれたいから、あまり厳しくしない教師は、最初のうちは子どもたちに好かれるが、最終的にはそういう教師を子どもたちは尊敬するようにならないようだ。
2 子どもは、ひとりの人間としてあなた(教師)が好きなら、あなたのために一生懸命に努力する
 クラス内にすぐれた規律を打ちたてることができれば、子どもたちの尊敬を集めることはできる。
 しかし、必ずしも子どもたちがあなたを好きになるわけではない。
 子どもに好かれるために私は
1 新年度がはじまる前に、私という人間について知ってもらうために、受けもつ予定の子ども全員に手紙を出すことにしている。
 手紙には、私がワクワクすることや楽しいことをするのが好きだとわかる写真をたくさん添える。
 新学年の初日には、私自身や私が旅したことのあるさまざまな場所の写真を使って、簡単なスライド・ショーをする。
 わたしが子どもたちと同じ年ごろだったときの写真も披露する。
 早く私になじんでもらいたい、たんなる担任ではなく、それ以上の存在であることを知ってもらいたいからだ。
2 子どもたちの関心を引くためにどんなことでもしてみることだ
 子どもたちの前で、ガードをゆるめる。
 ばかげたことでも、ばつの悪いことでも、羞恥心をかなぐり捨てる。
 子どもたちを味方に引きいれたいなら、威厳にこだわってなどいられない。
3 初日につぎのような話をする
「きみたちが私を好きになってくれるかどうかなんて、私にはどうでもいいことだ。好きになってくれなくても、ちっともかまわない」
「私がここにいるのは、きみたちに勉強をさせるためだから」
「私自身はきみたちの一人ひとりのことを気にかけているし、きみたちにできるかぎり最高の教育をするために全力を尽くすつもりだ」
「そのために必要なことはなんでもするつもりだということを、きみたちは知っておいてもらいたい」
 と話をする。
 少し厳しい言い方だと思われるが、重要な話だ。理由は、
(1) そういっておくことによって、ばかな行動をすれば大目に見てもらえないということを知らせると同時に、私が子どもたちのことを気にかけていて、熱意にあふれていることを知らせることができる。
(2) 子どもたちに私が何を優先しているかを知らせ、これからの1年の土台をつくることができる。
 ただし、そのじつ、子どもたちに好かれる教師になろうと、スライド・ショーをし、踊り、椅子の上に立ち、歌い、演じと、ありとあらゆることをする。
 子どもたちが私を好いてくれようがくれまいがそんなことはどうでもいいというのは、こちらが優位に立つということなのだ。
 子どもに規律を教えて愛さずにいることはありえないし、子どもを愛しているのに規律を教えないということもありえない。
 規律と愛はワンセットでなければならない。
(3)子どもは自分に何を期待されているかを知りたがる
 子どもたちが自動的にあなたの望みどおりの行動をすると期待するのは、非現実的だ。
子どもはあくまでも子どもだから、大人が常識と思えることの多くが、子どもたちにはなじみのないものと映る。
 私が経験から学んだのは、教師が子どもたちに何を期待しているのか、どういう行動をとってほしいと思っているかを正確に説明しさえすれば、最善の努力をするということだ。
 問題を起こした子どもはよく「ぼくが何をした?」といい方をする。
 どこがいけないかを理解していないだけなのだ。
 私は、子どもたちと一対一で話し合う。
 その場合、まず、
「何がいけなかったと思うか、話してくれないか」あるいは
「どうして私が怒っていると思うのか、その理由を教えてくれないかな」
 という言葉で話し合いをはじめる。
 子どもが問題をどうとらえているかを聞くのは、どんなときにもきわめて有用だからだ。
 ほとんどの場合、子どもは大人と問題のとらえ方がまったく異なっているものだ。
 そのため、理由をちゃんと説明してやらなければ、罰を受けたことへの怒りをいつまでももちつづけるだろう。
 子どもたちは、まちがいなく、自分に何が求められているかを知りたがっている。それを説明してやるのが大切だ。
(4)子どもは自分が愛されていることを知りたがっている
 私が子どもたちのことを気にかけ、愛していることを知りたがっている。
 教師が喜んで子どもを買う気があるかどうかをしりたがっている。
 それができれば、それ以降の子どもたちとの関係ははるかにやさしく、より生産的で意味深いものになるはずだ。
(ロン・クラーク:米国の小学校教師。各地を冒険旅行したのち、小学校の教師となる。ハーレムの底辺学校から優秀児を排出し、目覚ましい成果をあげる。2001年28歳のとき全米最優秀教師賞を受賞)

 

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玉田泰太郎(たまだ やすたろう)(小学校)「理科授業づくりの名人」

 玉田泰太郎(19272002年)は、愛媛師範学校、東京理科大学を卒業し、東京都公立小学校教師となった。教職員組合の教育研究集会で活躍し、科教協の会員となり、授業づくりの名人としてよく知られた存在であった。
 玉田の授業は、まず「課題」を出し、それについて子どもたちに「自分の考え」を書かせ、それを発表させ「討論」を組織し、「他の子どもの意見を聞いて、自分の意見を書かかせ」たうえで、課題に決着をつける「実験」を行い、「実験でわかったこと」を書かせる。
 つまり、「課題」→「自分の考えを書く」→「討論」→「他の子どもの意見を聞いて、自分の意見を書く」→「実験」→「実験でわかったことを書く」の順に授業を進めるのである。
 玉田の授業は、子どもの前で多くを語らない。玉田が学習課題をだし、それについて子どもたちが自分の考えをノートに書く。机間巡視でそれをのぞき込みながら授業を組み立て、対立する意見を選び出して、指名発表により討論させる。
 玉田による説明はほとんどないが、子どもたちは、自分の考えを書くこと、ひとの考えを聞くこと、再び考えノートに書くことを通して、教師のねらいに導かれていく。

 最後に決着をつけるための実験を行い、実験の結果とわかったことをノートに書き、正しい気付きへと導く。早く書けた子どもからノートを読ませる。
 先生が最後に「ほんとうはこうなんだ」と言わなくてすむ(学習課題方式の)授業、それが玉田流である。なぜこんなに集中して授業に参加できるのかと思うくらい子どもが集中している。

 玉田の学習課題は、子どもたちみんなが到達してもらいたい目標である、その目標は子どもたちが獲得できるように、具体的な内容や手順を持った本質的な概念や法則である。
 玉田が授業中にノートに書かせる指導は、子どもにとってはクラスの中で何を学び、どのように自分の考えが変化したかを自分自身で確認することができる。
 教師にとっては子どものノートを見ることにより授業の評価を行う大切な手がかりとなる。

 玉田は自らの授業づくりを名人芸とするのではなく、共有財産にすべく努力した。
 そのために、玉田は若い時から授業記録と、それにもとづいて仲間たちと授業研究を行うことの重要性を主張していた。
 毎日の授業こそ実践的な研究の場であるとする玉田の強い意志があった。この日々の授業研究の地道な積み上げこそ、まさしく授業の名人を誕生させる動因となったことを忘れてはならないだろう。


「時代を拓いた教師たちⅡ 教育実践から教育を問い直す」田中耕治編著日本標準 2009


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杉渕鉄良(すぎぶち てつよし)(小学校)2「どの子も伸ばし、できるようにする」

 小学校教育の優れた実践家であった斎藤喜博は「創造と発見をともなう授業は、徹底的に事実につき、リズム感やドラマ的なものとかが、みごとに結合してはじめて実現するものである」と述べている。この言葉をまさに体現する授業を創り出す小学校教師が、「教育の鉄人」こと、杉渕鐵良である。
 杉渕は高校3年生のとき産休補助に来た先生がきっかけで、少林寺拳法に出会った。道場に週三回通い、初段まで取得した。自分が強くなりつつ後輩を教えた。この頃から、教えるのは好きだった。担任の先生に「君は小学校教師の方がいいよ」と言われ小学校教師になることにした。
 東京都公立小学校に就任し、朝と休み時間、放課後、子どもとずっと遊んで好かれていたため、授業が下手でも、自分が言うことをまじめに聴いてくれた。岸本裕史の本を参考に、百マス計算や漢字練習など、基礎学力の訓練を毎日行っていた。全員が百マス計算で2分を切るようになり、学級が元気になってきた。毎日やると力がつくということを実感した。
 さらに実践と並行して、東井義雄(『村を育てる学力』など)や、なかでも斎藤喜博の本を愛読し、とくに『全集1 教室愛・教室記』を読んで、こういう子どもたちを育てたい、斎藤喜博を超えたい!と思った。
 先輩教師が「文学教育連盟」の講座に誘ってくれた。そこで国語の授業を見て、ショックを受けた。子どもがいきなり立ち、教師が指名しないのにどんどん発言していく。すぐに授業者を教えてもらい、次の日から実践した。子どもが各自、教材文について考えたことを何でも書き、学級全体に発表し、教師はそれにコメントするという方法である。こんな発想もあるのだと視野が広がった。
 向山洋一の本を読み講演会を聴きに行くと向山氏に声をかけられ「東京青年塾」という若手教師のサークルに誘われた。毎月実践レポートを書いていき、向山氏に検討してもらい、全国の熱心な教師たちと、実践について思いっきり語り合った。
 このサークルで教わったのが「教科書見開き1 頁で問題を100問作れ」である。5年間毎日やり通した。この修行は、後の「一文解釈」の基礎になった。また「映像で自分の授業を記録しろ」とも言われた。毎日、授業をテープで録音して聞いた。怒ってばっかりなど、授業中には気づけなかった自分の行動に愕然とした。
 学芸会の指導にも力を入れた。親友の阿部肇が劇団の演出家でもあり毎日家に行って教えてもらった。
 3年目に研究主任になり認められたうれしさから、力量を高めるべく、「学校体育同志会」というサークルの研究会に参加し実践レポートを持っていった。学校では信頼を得、器械運動教育の研究を学校全体ですることになった。校内研では教師全員が授業を公開し記録を書いた。学校づくりの取り組みである。
 この頃から「子どもを全員できるようにする」という信念のもと、実践に突き進んでいた。鈴木鎮一『愛に生きる 才能は生まれつきではない』(講談社)を読んで衝撃を受けたことにある。日本人は誰でも何の苦なしに日本語をしゃべっている。それは、生まれてから今まで教育を受けてきたからであり、正しい訓練を続ければ、すべての子どもが育つと述べられていた。自分はどの子も伸ばすと決意した。
 5年目に実践論文を4カ月で100本書き、東京青年塾の法則化夏合宿に持って行った。その合宿でサークルをやめた。子どもを伸ばすためではなく、名声や運動のために本・論文を書く方向にサークルが傾いていることに、賛同できなくなったためである。
 教師7年目に転勤になる。1年生担任で自閉症の子を受け持った。どうしたらいいかわからなかった。その子は集中力が長く続かず、授業中ふらっと教室を出てしまう。そこで、この子も他の子と一緒に学習できるシステムとして創り上げたのが「ユニット授業」である。
 授業を細かい単位に分け、組み合わせた。国語なら、漢字まじりの文章の復唱と高速読みを1分ずつ、漢字100問テストを5分、教科書音読を3分、「表現読み」を3分、「ごんぎつね」についての話し合いを20分、まとめを書く活動を10分というように、である。100マス計算も、10マス計算に変えた。
 このように学習内容を短時間で交換すると、自閉症の子も少しずつ学習するようになっていった。ただこの子には、これまで学んできた授業技術が通用しない。そこで、子ども全員の記録を毎日細かく取り、その子にどんな手を打ったらよいか考えるようになった。この作業を通して、子どもは一人ひとり違うこと、障害があってもその違いに応じた工夫をすれば、どの子も伸びることに気づいた。
 ある晩、ひらめきがあって「どの子も伸ばす」という問題意識やこれまでバラバラだった個々の実践を「基礎の時間」「追究学習」「表現」の三つを柱として、教科という枠を取り外し、この三つで一週間の時間割を構成するようにした。以下、三つの柱を紹介する。
(1)
「基礎の時間」では、毎朝30 分、計算と漢字、音読の習熟のための練習を行う。
(2)
「追究学習」では、まず、子どもが「見たこと」(興味あることを考え調べた)作文を家で毎日書いてくる。学校で「発表会」を毎日30分程行う。一人1 週間に1 回発表する。さらに、週5日の「追究学習」の時間には、全員が同じ題材について学習する。「発表会」で出た?で、「これはもっと時間をかけて話し合いたい」「みんなで追究したい」と決まったものが題材になる。
(3)
「表現」では、子どもたちが色々な形で自己表現する。描く、歌う、身体表現などである。子どもたちの歌声をもっときれいな声にしたいと鎌田典三郎の本やビデオに学びながら、「歌う声」の指導を始めた。学習発表会で声がきれいになったのを目の当たりにして、保護者の中には感動で泣く方もいた。
 こうして無我夢中に修行した7年間から、今の実践に受け継がれている、基礎と追究、表現という柱が生まれた。そこには、当時流行していた他の教師の実践を追試をするのではなく、優れた教師の精神を取り入れ、自分独自の実践を創り上げた。
 結婚し、子どもが生まれ、子育てに関わるようになると、子どもの見方が変わった。どの子どもも親にとって大事でかけがえのない子ということが、実感として理解できるようになった。子育てで時間がなくなり、仕事優先順位をつけて仕事するようになった。寝る前に頭の中で授業を映像として思い出すことを始めた。
 1993年には、サークルの合宿で、学級経営のプロである小学校教師の堰八正隆(芦田恵之助の弟子、斎藤喜博と全国を行脚)と出会い生涯の師匠となった。
 1994年からは「子どもが創る授業」を実践し始めた。日直と教科係のシステムを作った。日直は「これから○○を始めます」など号令を出したり、次の日の学習計画を立てたりする。教科係は授業を進める。ただし、子どもに完全に任せると大変な事態になる。そこで、まず子どもに授業を進めさせ、そのよい点を認め、不足している点についてはお手本を見せてイメージを持たせたり、ポイントやコツをアドバイスしたりして、またやらせる。その上で、個別支援もした。
 
「感化の教育」にも取り組んだ。鍵山秀三郎の『凡事徹底』を読み掃除を一層徹底した。全校児童の靴を揃えたり、ゴミを拾ったりを黙って毎日行う。「子どもたちが手伝うようにならないかな」という思いを押さえて続けていると、掃除自体が楽しくなってきた。靴が揃った時の空気、教室がきれいになった感じがたまらない。
 
「子どもをこうしてやろう」という意識がなくなった時、子どもたちのほとんどが進んで掃除するようになってきた。教師がひたむきに行動すれば、教師の楽しい、気持ちいいという思いが伝わり、子どもは活動したくなるのだと気づいた。
 ただこのようにずっと順風満帆であったわけではなく、失敗もした。5年生の女の子を叱ると、母親が「うちの子は傷ついています。学校に行かせません」という手紙が来た。その子は1週間程不登校になった。家に行ってみると、その子の写真が、壁一面、天井全部に貼ってある。この子の家庭状況を知っていれば、もっと優しく対処できたのに、と反省した。自分の強気な性格で、子どものことをわかっていないのにわかっているつもりになっていた。
 この頃、学校での人間関係もうまくいかず、学校づくりをするために、自分が徹底的に変わろうと決意する。正義感が強すぎて人に厳しくなりがちであり、他人の落ち度を指摘してその場の雰囲気が壊れてしまう。そこで、自分の人格を変えるべく、姿勢を正して瞑想する岡田虎二郎の静坐をしたり、一流と言われる人の話を聞いたりして、優しくなろうとした。しかしながら、性格を変えるのは難事業であった。原点に戻って学級づくりをするべく、転勤することを決める。性格改造にはこの後15年ほどかかることになる。
 1997年に神津島の小学校に赴任した。小学校は荒れており、机がいたずら書きで黒く、消してもまた書く。今までの教育技術が通用しなかった。まずは島を知り、地域の人に味方になってもらうことが肝心だと思った。男親の多くは漁師である。
 島で震度6の地震が起きた。自分以外の教師はみな、夏休みには本土に避難した。島の子がまだ50人くらい残っている。そこで、自分は家族とともに残り、復興の手伝いをした。こうして、地域の人が信頼してくれるようになった。
 2000年に阿部氏の支援を受けながら、ソーラン節の踊りの指導を始めた。地域で評判になった。三つの柱に「歌う声」やソーラン節、掃除が加わり、子どもたちは学力面だけではなく、海岸のごみを毎朝自主的に拾うなど、行動面でも伸びてきた。全校児童が週に1 回集って音読と歌を発表し合い、互いに刺激を受ける、全校授業というシステムも創ることができた。
 2002年に新河岸小学校に転勤する。そこでは基礎学力づくりの時間を学校全体で導入しようと提案し、校長先生が賛成してくれた。「子どもを伸ばす」という理念を教師全体で共有し、新河岸小の次の三つのシステムを構築することができた。
(1)
チャレンジタイム:毎朝15分、基礎学力づくりをする。
(2)
全校チャレンジ:月に1回15分間、全校児童の前で、各学級が音読や歌の発表をする。上級生の発表を聴いてあこがれを持ち、また下級生の発表を聴いて負けていられないと奮い立てるためのしかけである。
(3)
基礎・基本、振り返かえり時間:45分の授業の中に510分基礎・基本の時間を入れ、授業末には2~5分、授業の「振り返り」を書かせることである。基礎・基本の時間には、国語なら新出漢字や文法事項、ことわざ、慣用句などを、テンポよく学習する。
 このように基礎・基本を重視したのは、考えるためには前提として知識が必要であり、知識は何回も反復して初めて定着すると捉えていたためである。
 新河岸小のシステムは公立小学校の挑戦として注目を集め、2003年テレビ番組「ガイアの夜明け」で自分の実践が紹介された。2004年には、模擬授業を岸本氏が見てくれ「10マス計算は自分の100マスを発展させてすごい」と認めてくれ、うれしかった。
 このような基礎・基本の徹底、追究に向けた子ども主体の話し合い、歌や踊り、絵などの表現といった教育のスタイルはこの後も引き継がれる。しかしながら、2006 年頃から、ある変化が現れる。書かせてから発表させるのではなく、まず発表させてそれを書いてまとめさせるというスタイルに変容していく。
 指導の一手は、教科学習だけではなく、給食指導や健康診断などあらゆる場面で打ちこまれ続けている。例えば服を素早くエレガントに着替えさせることで、リズムを壊さないスピードの気持ちよさを体感させる。こうして身につけた瞬発力が、10マス計算や「指名なし発言」などでの思考の速さに波及するのである。
 班ごとに学び合うことにも取り組んでいる。漢字の復唱や書き取り、教科書の表現読み、発表する題材についての話し合い、音読と歌の練習などの様々な学習内容を、リズムよく班ごとに子どもたちが進めるというものである。班を導入したのは、全員できないと次に進めないので、自然と「学び合い」や「教え合い」ができるからである。
 
「どの子も伸ばす」という信念のもと、一人ひとりを見て、その子を伸ばすためにあらゆる一手を打ち、そのからみあいである日、子どもがふっと伸びる。これが子ども全員の成長に向けて教師が自己改革していく一つの道であると、杉渕先生は示してくれている。
 
「教師をやっていると、色んな発見があって、挫折もある。でもそういうのが一個一個刻み込まれていく中で、教師自身が成長していくみたいなところがありますよね。だから、教師って色んなことが楽しいんじゃないかと思うのですよ」と述べている。
(
細尾萌子:近畿大学教職教育部講師。日仏の授業や教育評価が専門。思考力や表現力を育むパフォーマンス評価について現場の教師とともに研究)

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斎藤喜博(さいとう きはく)(小学校)子どもの持っている可能性を引き出す

Photo_2  斎藤喜博、1911年~1981年、群馬県出身、群馬師範(現群馬大学教育学部)卒。小中学校の教師、1952年に島小学校校長となり11年間島小教育を実践し、全国から一万人近い参観者があった。その後、境東小学校や境小学校で校長を務め、子どもの可能性を引き出す学校づくりを教師集団とともに実践した。教授学研究の会を発足させ、多くの教師や研究者たちの参加のもと、子どもの可能性をひらく授業の創造や教師教育に尽力した。
 その後宮城教育大学教授をつとめる。昭和を代表する教育実践者の一人。また、早くからアララギ派の歌人としても活躍し、ケノクニ選者をながく務めた。斎藤喜博全集は、第25回毎日出版文化賞(全18巻、国土社)を受賞した。
 

 
 斎藤が卒業して赴任した群馬県の玉村小学校は校長を中心にして学校中が活気にあふれ、低学年は能力別の学級編制をし、それぞれの子どもの持っている能力を最大限にのばそうとしていた。しかし斎藤は、教師としての抱負もなく、気弱で消極的で自分のからを固くまもっている人間だった。ただ、受け持った二年生の子どもは可愛く、争うように斎藤の身体にぶらさがってきた。
 三年目に四年生76名の子どもの担任となった。能力差がはなはだしかった。それで、1年から3年までの算数と国語の教材を調査しテストをした。どの子がどの漢字がよめないかを一覧表にしてみた。
 その調査をもとにして個人別に特別の時間を設け、学習させ、指導していった。算数は、一位の加法・減法・・・の順に練習問題をつくり画用紙の裏表にはり、順に教室にかけておいた。子どもたちはこれを使って、朝も放課後も練習をした。子どもたちはわからないところがあると斎藤や友だちにたずねた。自信がつくと斎藤のところに検定を受けにきた。
 国語も算数の練習の場合と同じように個人で辞書を引いて勉強したり、斎藤や友だちに質問して学習し、検定を受けにきた。合格すれば表に○をつけ、つぎの学習へと進んでいくのだった。
 一つの教材の授業が終わるとテストをした。基本的な問題を出し、できない子どもは学習させたりして、全員に百点をとらせるようにした。
 とにかく斎藤は、気負いこんで努力した。だからほとんど教室にはいりきりだった。朝、学校へいくと子どもは検定を受けるのを待っていたし、放課後も待っていた。
 日曜日も斎藤は教室に入り、子どもの学習具をつくったりしていた。毎日子どもたちの日記を家に持ち帰り、書き込んだり、本を読んだりして夜ふかした。子どもたちといるとき、斎藤は明るく楽しそうに遊んだ。斎藤教室の空気は実に明るくのびのびとしていた。

 斎藤が自分の身を打ち込んで実践すればするほど、今まで見えなかった新しいもの豊かなものが斎藤の目の前に事実として出てきた。その実践の事実によって斎藤が目をひらかされ、斎藤は新しいものをつくりだし、豊かになっていった。そういう豊かな実践をしたいからこそ斎藤は芸術や科学、他人から学んで自分を肥やし高めた。
 教師としてのスタートはひ弱で病弱であった斎藤がそのような厳しい実践をすることにより、強じんで豊かな教師になっていったのである。
 斎藤は歌人であったことが、教育の仕事のなかで非常に役に立った。有名な歌人である土屋文明の人間性や歌を学ぶことによって、自分や自分の歌を高めることができたのだ。巨大な先生にみてもらえる安心感から、巨木を追っかけて、思いきって「これでもか、これでもか」というように歌をつくった。
 弱弱しかった斎藤が、自分を新しく、太くし、創造的な教育の仕事をすることができたのだ。斎藤はそのことを誇りにし、しあわせに思っていた。
 斎藤は先生たちに、詩でも童話、脚本、作曲、絵、記録、何んでもよいから何かの表現活動をすることをすすめた。一つは解放された人間だけに表現活動があり、表現することによって人間は解放され、生き生きとした創造的な仕事ができるようになると思っていたからである。
 もう一つは、教育の実践は苦しみやはかなさをともなう。教育以外の表現活動をしていないと、長続きしないと思っていたからだ。教育の仕事は結果が子どもの上に現われる。しかし、その子どもたちは、他の芸術作品のように定着させておくことはできないものである。
 教育の仕事はすればするほど孤独で、さまざまな苦しみやはかなさがつきまとっている。長く続けていくためには教育以外に自分の表現活動をもっていないと、ささえがないから、きびしい仕事を続けることはできないと思っていたからである。
 そうしてまた、そういう芸術的な表現活動ができること自体が、創造的な仕事をしなければならない教師の大事な条件の一つだとも思っていたからである。
 斎藤は正岡子規の「真砂なす数なき星のそのなかに吾に向ひて光る星あり」の歌がすきだ。口ずさみながら星をみたり、草や木をみたりするが、真砂のようにたくさんある星のなかから、自分と心を通い合わせている星を持つことができることに感動した。
 こういう自然との心の通い合いのできる人間であって、はじめて、子どもとも心を通い合わせることができるのだ。自然から学び、自然と心を通い合わせ、自然や人間の本質とじかに交流できるようになる必要がある。自然や人間から豊かにものを学びとり、自分を豊かに変革していけるような謙虚な人間になることが大事であると考えていた。
 自然をよくみることは、子どもをよくみつめることと同じだからだ。自然の本質とじかにふれあうことができるということは、子どもの本質とじかにふれ合うことができるということだからだ。
 教育という仕事は具体的な仕事であり、具体的に子どもを動かし子どもをよくしていかなければならない仕事である。したがって具体的な子どもの事実についていき、具体的に子どもの事実を動かすことをしない限り、教師としての責任を果たすことはできない。
 数学のできない子どもをできるようにし、跳び箱のとべない子どもをとべるようにするという、具体的に事実を動かすことのできる技術を持つということである。子どもたちはとべないと思った跳び箱がとべたとき、だめだと思っていた数学ができるようになったとき、自信を持ち喜びを持ち、可能性が引き出され、能力をつくり出されるのである。
 教師は専門家としての技術を身につけ、技術をつくり出していかなければならないのである。もし専門家としての教師の仕事をしようとすれば、仕事へのきびしさとか集中とかを学ばなければならない。教室の仕事に専念し、仕事によって自分をつくり出し、自分の仕事をつくり出していく努力をしなくてはならないと考えていた。
 教師の仕事は一般論をいったり、甘い常識的なことをやっていたのでは成立しないのである。教師の表現である技術によって、具体的に行われるものであり、教師の表現の武器としての技術を鋭くみがくことによって、はじめて教師の仕事は成立していくのである。

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多くの教師に影響を与えた斎藤喜博の仕事とはどのようなものであったか

 子どもたちは学校で自分たちの可能性が引き出され、さまざまな文化に接することを通じて人間の生き方をつくる糧を求めている。それに応えるだけの力を持っていることを示したのが斎藤喜博であった。
 師範学校を卒業して1930年に群馬県の玉村小学校に勤務した。早くから実践記録や教育随想を書き、今読んでも魅力を感じる「教室愛」を30歳のときに刊行した。41歳のとき島小学校の校長となり、名が広く知られるようになった。島小11年間に公開研究会を開催し一万人をこえる参加者に感動を与え続けた。
 斎藤は授業を芸術と同じような創造的行為と考えていた。そのために必要なのは教師が「自分の教材解釈」をもち、「子どもが見える」ことと斎藤はととらえていた。常識的な教材解釈では子どもたちに緊張や対立を生まない。多様な教材解釈が可能になるためには、特別な感性が必要になるが斎藤にはそれが具わっていた。教師にとって「子どもが見える」ことがすべてであると斎藤は言う。その教師の経験や知識とか願いが基にあって、すぐれた勘が出て、子どもが見え、子どもが呼びかけてくるのです。斎藤は見える人であった。
 斎藤の教師教育の中心になっていたのは、見える眼を鍛えるということにあった。例えば付属小学校でのダンスの指導を私が見学していると、斎藤は「この子どもたちの中でいちぱんよい動きをしているのはどの子ですか」と私に即答を求められ、斎藤の講評を聞くことで、私は鍛えられていった。
 斎藤は短歌をつくり、教育の仕事をした。選歌をするとき、斎藤はいちばんその人らしい短歌を選んだ。そうすると選ばれた人は、ああこれが私のものだったと意識する。そうするとその方向に進む。
 教育も同じで、子どもは社会の影響を受けて通俗的なもと、その子どもでなければならないものを持っている。教師がその子の持っているほんものを引き出したとき、子どもの人間性も拡大していくと考えた。斎藤は「子どもの無限の可能性を引き出すことが教育である」と言った。このことは斎藤が教育の実践の中でつかんだ事実である。したがって、授業をするからには、必ず子どもの力を引き出したという結果が生まれてこなければならないと斎藤は述べている。
 斎藤が校長であった島小学校ではたくさんの実践記録が書かれた。共通した内容は、教師が子どもたちにどう話しかけ、何を引き出していくかということである。一番の問題はどう発問したらよいかである。発問が明確におこなわれるということは、教材の解釈が的確にされているからだ。教師の説明、子どもや教室全体の描写、授業の展開における教師の心理状態についての自己解釈、子どもの発言についての解釈、授業の中での新しい発見、授業の結果についての評価、反省などである。
 斎藤は教師たちに自分の記憶によって授業記録をまとめることを求めた。授業が終わったとき、どの子がどんな思考をし、どんな表情をし、どんな発言をし、教師がどんなことをいって授業が展開していったか、そのまま再現できなければならない。描写力が弱いということは、子ども一人ひとりを豊かにつかまえていない、授業を的確につかまえていないということができる。このことができれば、もっと授業はダイナミックになり、教師の人間全体の大きな力が、子どもをゆさぶっていくような授業ができるようになる。
 斎藤のいう教育の創造的な仕事は、つねに目の前にある事実と対決しながら、事実のなかから、つぎつぎと新しいものをつくりだしていくことである。つくり出されたとき、子どもは明るく美しくなり、しなやかで清潔な姿になるのである。授業のなかで、瞬間瞬間に美しいものをつくり出すことができないのは、その仕事のどこかに問題があると考えられる。新しいものをつくり出されないとき、暗くなったり、閉ざされたものになる。
 教師の仕事は、担任がかわり、子どもがかわるたびに、その子どもに即した新しい出発をしなければならない。考え方でも、方法でも、出発点からはじめ、新しくやりなおしをしなければならないものである。絶えざる創造を仕事の上にしていかなければならない。
 教育は創造を重ねていけば、そのときどきに質の高い授業が生まれ、目をみはるような新鮮な子どもが生まれてくる。光のようなものとして人々の心のなかに残る。それが消えていくものであっても、次の新しい創造が生まれてくることに教師としての希望と喜びがある。
 もともと教師の仕事は、仕事をすればするほどあやまちをおかすようなものである。そのあやまちのなかから、次の新しいものを創り出していくのが教育である。そういうあやまちや苦悶と、自分の仕事との衝突のなかからだけ教育という仕事は生まれるのである。
 教師は精根かたむけた子どもたちから批判され、裏切られるようなことが数多くある。そういう痛手を受けながら、それに堪えぬき、いっそうの思いをこめて、いま自分の前にいる子どもに、全力を傾けたとき、初めて教育という仕事は出発する。深く思いをたたえた仕事をしたとき、そこに新しい自分が生まれ、仕事が生まれ、また子どもが生まれてくる。
 斎藤はこういう意味での孤独さを教師が体験し、それに徹したとき、はじめて教師は弱さに徹した強さを持ち、きびしい強い仕事も生まれてくるのだと思うと述べている。
 斎藤は一回性の授業に打ち込み、授業の原理を解明する教授学を構築しようとした。しかし、授業のもつ人間的課題と研究的課題の二律背反が成立を難しいものにした。教育学は変わらなければいけないと斎藤は考えていたが、現実はそうはならなかった。これからも立て難い。教師の授業を創造する斎藤の理論は実践的指針となるべきもので「斎藤喜博システム」として考えればよいのではないか。
(横須賀 薫 1937年生まれ、元宮城教育大学学長を経て十文字学園女子大学学長。教員養成や授業に関する研究を主に行った)

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大西忠治(おおにし ちゅうじ)(中学校)  「班・核・討議つくりによる学級集団づくり」

 大西忠治は、1930年香川県に生まれ、香川大学在学時に生活綴方を実践した無着成恭の「山びこ学校」を読んで感銘を受け、教師になる決意をして香川県の中学校教師として24年間働いた。
 大西は一時期、生活綴方実践に傾倒し、それをまねた集団づくりを試みて悪戦苦闘したあげく、集団の力を「集団自身に教え、集団自身に自覚させる」という独自の道筋を開拓していった。
 荒れた教室を目の前にしたとき、教師はどう学級を立て直していけばよいのだろうか。大西はこの問題に、子どもたちの集団がもつ力に着目して立ち向かった。
 大西の手法は「班・核・討議づくり」と呼ばれ、1960年代から1980年代、集団づくりを論じる生活指導論に大きな影響を与えた。民主的な集団をつくることを教えるのではなく、生徒たちに行動を通して学ばせるものとして注目を集め、急速に全国の学校に「班つくり」が普及した。
 ただこの手法については、当初より、集団の意志決定と行動を優先するので、個々の子どもが抑圧される危険性はないか。一人ひとりの子どもに自分を表現させ、学校での学習と実生活と結合させるという生活綴方の視点に注目すべきだ。また班や討議よりも自発的サークルを重視すべきだ、という指摘もあった。さらに教科教育の学力形成と子どもたちの自治の発達とをどう関連づけていくのかについて、今なお課題である。
 1980年代に入ると、校内暴力、いじめ、不登校といった問題が噴出する。大西自身も中学生の変化を感じ、自由で柔軟な自治的集団へと転換していく「ゆるやかな集団つくり」を提唱した。
 人間は、好むと好まざるとにかかわらず、常に集団のなかで生きている。大西は、子どもたちに集団の良いところも悪いところもともに実感させ、子どもたちが自らの手で集団づくりを進めるための方策を教えた。その実践は、子どもたちに集団のなかで生きることを伝えたものとして、現在でもその光を放ちつづけている。
(大西忠治:19301992年、香川県の中学校教師。茨城県茗渓学園中学校長をへて、昭和60年都留文科大教授。生活綴方運動、生徒の学級集団「班・核・討議」づくりの実践にとりくんだ)

(
「時代を拓いた教師たち戦後教育実践からのメッセージ」田中耕治編著 日本標準 2005年 執筆者:西岡加名恵(京都大学准教授))

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加藤末吉(かとう すえきち) (小学校)  「先生が共有すべき技術」

 東京高等師範学校付属小訓導であった加藤末吉先生の授業は、的確な授業技法で手綱さばきは軽快・明朗であざやかであった。
 著書の『教壇上の教師』(明治41(1908)年)や『教師たらんとする人のために』(明治44(1911)年)などにおいて、先生が共有すべき技術を追求しました。
 そのなかで、授業は、先生という活きた人格を通して、子どもに接触するのであるから、子どもに接する先生の言語及び態度のいかんが、生きた知能を伝え、生きた徳性を養ううえに、大きな影響をおよぼすこと。
 小学校の先生として備えなければならないことは、崇高な人格をもっていること。子どもを導く知識と技術を備えていること。子どもに対する言語・態度の研究ができていること。
 そして、先生が教室に臨むときは、戦場に臨むように一種の戦闘力がなくてはならないこと。授業の大秘術は、先生が身をもって子どもの地位に降り、子どもの世界に入ること。すなわち、先生は識者たる身をもって、しばらく子どもとなり、子どもたちを、先生の達し得た修練達識の境に登らせることにある。
 授業の技術を他から研修することは難しい。多くは先生自身の工夫経験によって自得するものである。
 教材・教具の準備は、授業の成功の半ばに値するものである。
 先生の感化力という偉大な効果は、言語の表現に負うものである。言語は、教化するのに適している。ことばは流ちょうなのはよいが、相手が子どもであるから、平易明晰でなければならない。そして、先生のことばは生気があり、話しに魂があり、活力を備えていて、子どもたちが感銘を深くすることができること。
 また、ことばに愛情がこもっていて、子どもを動かし、先生の教育愛を子どもに感じさせること。子どもに対しても、その人格を重んじてやることは極めて重要なことであり、適当な敬語を用いることは大切である。

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堀 裕嗣(ほり ひろつぐ)(中学校)  教師生活のスタートは「綴り方教師」

 学生時代は「生活綴り方」の本を読みあさり「二十四の瞳」が大好きな学生でした。私は1991年に中学校の国語教師になりました。私の教師生活のスタートは「綴り方教師」でした。国語科の授業で文学作品を触媒にどれだけ生徒たちに自己認識作文を書かせられるか、生活作文の指導でどれだけ本音を引き出せるか、それだけが私にとって授業の成否を決める試金石でした。授業のまとめとして、その日の学習課題について生徒たちに二百字作文を書かせました。
 その二百字作文を毎晩、全員分ワープロ打ちすることを常としていました。生徒たちにそれを配布してフィードバックしようという意図と、研究発表の資料にしようとする意図をもっていましたから、私の中には一石二鳥的な感覚があって苦にはなりませんでした。この生徒作文をワープロ打ちしたものは座席表型で、B4判1枚になっていました。
 生徒たちの二百字作文に見られた反応を分類し、生徒たちの誰が何を根拠にどのように解釈しているか、そして授業が進むにつれてその反応がどのように変容しているか、それを分析することを常としていました。
 こういうことを続けていますと、授業が進むにつれて生徒たちの作文の分量が少しずつ増えていきます。
「ああ、この子の反応が一気に振れた」とか「ああ、この子が初めて二枚目の原稿用紙に進んだ」とか「ああ、この子は頑固なくらいに解釈が動かないんだなあ」とか、そんなことばかりを考えながら過ごしていたのです。私にとっては教師としての無上の喜びでした。
 教師としてスタートしたとき、私は人間形成を重視しました。勉強なんて二の次、まさに人との関わり合いのなかでこそ人間は成長する、そうした人間観、教育観を抱いて教職に就きました。
 教職に就いて最初の五年間、担任を持ち、私という人間として生徒たちに接することによって、私によって大きな成長を遂げる生徒たちがいる代わりに、その裏で私という教師によって傷つき、成長が保障されない生徒がいたのではないか、そういう想いを抱きました。実際、リストカットを繰り返す生徒、高校に行って不登校に陥る生徒、このような出来事がたくさんあったのです。私の想いを具現化することを第一義と考えてなどいられない、私はそう感じました。私はアクの強い人間です。私が自分と合わないと思われる生徒たちも包含できるような教師として成長を遂げようと決意しました。
 私はこの後、おもしろい教師であること、個性的な教師であることを目指すのはやめることにしました。私は校内で付き合う人間を変え、生徒たちへの接し方を変えました。生徒たちを集団としてとらえ、手立てを最大公約数で選択して判断していく教師になろうと決意したのです。それを機に膨大な教育技術を学ぶようになっていきます。
 また、学級経営でも自分のオリジナリティを求めるのではなく、周りの先生方と方針を話し合いながら、一致した基準で生徒指導にあたることを旨とするようになっていきます。現在の私の主張を形づくっているすべての萌芽がその時期にあたります。
(
堀 裕嗣:1966年北海道生まれ、札幌市立中学の国語科教師。92年、国語教育研究サークル「研究集団ことのは」を設立、道内の民間教育団体でつくる「教師力ブラッシュアップセミナー」の代表も務める)


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