カテゴリー「教育の理念や思い」の記事

「お勉強」と「学び」は明確に違う、学びの本質は没頭にある

 自分で行先を決る生き方のためには「学び」が不可欠だ。
 僕が言う「学び」とは、没頭のことだ。
 わき目もふらず没頭し、がむしゃらに取り組める体験のすべてが「学び」だと僕は思っている。
 だから、没頭する対象は数学や英語、料理やダンスだろうと何でもあり得る。その人が心から没頭できていれば、僕はそれを「学び」ととらえている。
「お勉強」と「学び」とを、僕は明確に違うものとしてとらえている。
「お勉強」は、あくまで受動的な行為である。与えられたものをこなす作業である。
 いくら「お勉強」をしても、自分で行き先を決める生き方にはたどり着けない。
「お勉強」で身につくのは、敷かれたレールに乗る習慣だけだ。
 その習慣が身についてしまった人は、テストや問題集がなければ、自ら何かを学ぶことはないだろう。
 なぜなら、彼らが目的としているのは「与えられた課題をこなし、大人に認められたいこと」だけだからである。
「学び」は常に能動的だ。未知の領域に足を踏み入れ、新しい体験や考え方を味わうことのすべてがこれにあたる。
 だから、正解もいらない。すべては「自分で切り拓いていく」営みなのである。
 自ら動かなければ取り組む課題が見つからないことも、没頭する対象がある限りは「楽しい」ことだ。
 だから、彼らは好んで暗中模索を、試行錯誤を繰り返す。
 没頭は、人を立ち止まらせないのだ。常に人を前へ前へと押し出し、新しい体験をつかませようとする。
 だから、当然のことだが、イノベーションを生み出すのは「お勉強」ではなく「学び」だ。
 夢中になっているからこそ、人は一日中それについて思考を巡らし、新機軸を思いつくことができる。
 失敗を恐れずに試行錯誤を重ね、努力や苦労の過程も含めてすべてを楽しむことができるのだ。
 学問の領域も「それに没頭してしまった誰かの」姿である。
 例えば、現代物理学の父アインシュタインが自分の抱いた疑問の検証に寝食を忘れるほど没頭し、そこでの発見を後世に残したからこそ、学問の体系は成熟した。
 実際、歴史に名を残すような人たちは皆、並外れた没頭力をもっていたことで有名である。
 彼らは、心の赴くままに学び続け、道なき道を突き進んでいった。
 学びとは、知の地平線を拡大する。つまりイノベーションを起こしていく過程そのものなのだ。
 それは当然「自分の進むべきルートを自分で作り出す」こととも重なる。
 今、僕たちが目にする教科書も計算ドリルも、誰かの没頭の副産物にすぎない。
 それをただ漫然となぞるお行儀のいい「お勉強」の中に、学びの本質は存在しない。
 新しい知を切りひらき、新しい仕事を生み出し、あなたを未来へと突き動かす本当の学びは、没頭の中にこそあるのだ。
(
堀江貴文:1972年生まれ、実業家、著作家、投資家、タレント。元ライブドア代表取締役社長CEO、証券取引法違反容疑で逮捕され、ライブドアの役職を退いた
)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

教育の原点とは何でしょうか、原点を踏まえて何をすることが教育なのでしょうか

 教育の原点は「子どもを見る」ことです。子どもの実態をつかみ、その実態を良い方向に変えることこそが教育です。
 では、子どもをどう見ればよいのでしょうか?
 大前提として、教師は子どもに興味や好奇心を持ち、大好きになること。
 そのうえで、減点主義で子どもを見ず、育てる目で見ることです。
 私はよく、この子は何のプロになれるだろうということを考えていました。
 私は特別な用事がない限り、教室にいて子どもたちと過ごしてきましたし、毎朝20分間は必ず子どもと汗まみれになって遊んでいました。
 というのも、子どもがいちばん本音を出すのは遊びのときだからです。
 普段は元気な子が一人教室にぽつんと残っている。みんなでドッジボールをしていても、その子にだけボールが回ってこない。こうしたことはすべて異常なのです。
 子どもは笑顔が普通なのに、いじめられていたり、何か不満があると途端に笑顔が消えてしまいます。こうしたサインを見落とさないことが大切です。
 より深く子どもを知るには、子どもの考えを積極的に引き出さねばなりません。
 そこで、子どもに「書かせる」ことが重要になります。
 私が子どもに書かせるために活用していたのは「はてな?帳」です。
「はてな?帳」には、子どもたちが疑問に思ったことを何でも自由に書き込みます。身の回りの疑問や、自分自身や家族のこともよく書いてきます。
 提出されたものに、私は良かったところにアンダーラインを引いてたり、すばらしいと一言だけ書く程度に留めていました。
 教師が書き込むのはよくありません。子どもの発想力を奪って書けなくなってしまいます。
 子どもをどう育てれはよいのでしょうか。
 笑いの多い子どもにそだてなければいけません。
 笑いは「ゆとり」です。ゆとりがあれば、少々のことは笑い飛ばせるもの。
 ですから、私は「1時間に一度も笑いのない授業をした教師は直ちに逮捕する」と言っているのです。笑いの多い授業を心がけてください。
 今の子どもたちを相手にするには「ボケ」と「ツッコミ」の技術が役立ちます。
 子どもがまともにきたときには、少しボケて、かわしてみたり「えっ、そうかなあ」とわざと知らないふりをして、とぼけてみたり。そして、ここぞというときに突っ込むのです。
 子どもたちは乗ってきますし、授業が盛り上がります。
 笑いは雰囲気をつくらないと、いきなりは出ません。私は新しいクラスを持つと、一番大切なことは笑うことだと説いて、初日から笑う練習をさせました。
 笑いの絶えない学校づくりこそが、いじめ等の問題発見にもつながるのです。
 もちろん、時には子どもたちを叱ることも必要です。
 私は注意するときは「8:2の原則」に従っていました。8つほめて、2つ注意する。それも、まずほめて、最後に叱ります。
 子どもの考えを引き出すには、面白い教材を使った、面白い授業をすることも大切です。
 子どもが身を乗り出してくるようなネタを用意して、その考えを引き出し、討論したり、ほめたりしながら鍛えていく。
 教材とともに大切なのは、教師が「教えすぎないこと」だと、私は考えています。
 例えば、包丁を使ってリンゴの皮むきをさせるとしましょう。危なっかしい手つきに、思わず手を貸したい衝動に駆られますが、じっと耐えて待つ。子どもが自分で工夫をしてなしとげることが大事です。
 時には、待つことが子どもを大きく成長させるのだと思います。
 私は授業の最後に、黒板に板書した大事なところを消しながら、毎時間その場で復習するようにしていました。
 その時間にあまり集中していなかった子を指名して、消した部分を答えさせるのです。
 その子がわかっていれば、クラス全員がわかっているだろうと評価できるからです。
 評価とはテストすることだと思わないほしい。点数だけが評価ではありません。
 今まで発言が少なかったが、少し増えた。笑いが少なかったのが、みんなと同じように笑えるようになった。動作が少し俊敏になった。こうしたちょっとした成長を教師の頭のカルテに収めるようにします。
 子どもはそれぞれ成長のタイプが違うので、一人ひとりにあった指導、評価をすることが大切です。
 もう一つ、有田学級にとってなくてはならないものが、学級通信「おたよりノート」です。
 私が保護者に伝えたいことや明日の予定、時事問題や季節の変化などを板書し、それを子どもたちが書き写します。
 ただ書き写すのでは、飽きるので飽きがこないよう語尾を「ございます」や「でR」にするなど工夫をしていました。 
 効果は、書く力が圧倒的に身につくこと。私が黒板に書き終わるのとほぼ同時に、子どもたちも写し終わるほどに成長します。
 また、保護者との信頼関係を築き、共通認識を持つのにも役立ちます。
 私は、子どものことや家庭のことでわからないことがあれば、保護者に「教えてください」と素直に言えるくらいでないといけないと考えています。
(
有田和正:19352014年、筑波大学付属小学校,愛知教育大学教授、東北福祉大学教授、同特任教授を歴任した。教材づくりを中心とした授業づくりを研究し、数百の教材を開発、授業の名人といわれた)
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

教育実践で、一般的法則をつくり出すことができるか

 教育実践家の中で一般的法則をつくり出す教育実践「学」への志向をもっていた人はそれなりにいるが、その強さにおいて昭和を代表する教育実践家の一人の斎藤喜博は特筆すべき存在である。
 斎藤喜博は、次のように書いている。
「教育実践家の幸福の一つは、実践がわれらに無限の教育問題を投げかけてくれるということである。実践によってわれわれ自身の学問ができるということである」
「われわれの研究は教育することである。それは、われわれ自身を高め、同時に子どもたち一人ひとりを高める仕事である」
「教育実践家は指導記録をとって、学者はそれを読み、実際を見て、それを理論づける義務がある。そういう立場から打ち立てられた教育学は、実践家の役に立つ科学的な教育学となるわけである」
 そして、この主張は後年まで変わることなく「科学的な教育学」つまり「教授学」となっていくのである。さらに
「つくりださなければならい問題は、教授学および授業展開の一般的法則をつくり出すことである」
 そして、斎藤喜博が教育研究者に要請することは、
「人間として豊かなものをもつ。事象を全体的・総合的にとらえる。ひとつの具体的事実の中に本質的なものをつかみとる力をもつべき」
「そのためには、創造体験をもつべきであるし、自分で授業に立ち向かう体験をしてみることが必要ではないか」と
 斎藤喜博の教授学のキーパーソンになったのが元東京大学教授の稲垣忠彦氏である。その稲垣氏は授業の定型化を基本的には否定的に評価している。
「授業の定型化は、現象としては授業の手続きが固定化し、授業が一定のパターンによってわくづけられていることを意味している」
「実践の主体である教師に即してみるならば、授業における目的・内容の選択が限定され、授業の過程における子どもへの対応力が失われ、教師の方法の選択が限られていることを意味している」
「明治以降の規範的な定型の支配が一般的であった」
「このような状況の克服の努力の一つに斎藤喜博の実践がある。39年間の教師生活を通じて、多くの教師との協力によってつくられてきた授業の事実を重要なてがかりとして、授業を創造しつつ、その理論化をすすめている」
 しかし、教育実践、特に授業実践を科学研究や芸術創作の成果と結びつけながら、新しい教育学、いわゆる教授学をつくり出す仕事は言うほどには容易なものではなかった。
 斎藤喜博にしても稲垣忠彦氏にしても、教科の最新の研究成果、すぐれた授業実践、それを理論化する研究の成果を総合することが教授学構築の課題であることを鮮明にしていたが、実際は高い壁に直面していたことになる。
 授業は基本的に教師と子ども集団との間の言語的コミュニケーションの過程である。
 その進行過程ははなはだ不安定なもので、常に予定する軌道からはずれる危険性をはらんでいる。
 しかも授業というものはテレビ番組のように予定通りの進行が保たれることに価値があるものではない。その安全な進行を虜るあまり、子どもたちの感性の発想から遠くなってしまう事態がしばしばおこる。
 教師の予定や想定を越える進行が起こったとき、子どもたちの認識活動がかえって活性化するという性格をはらんでいる。
 それはある意味で授業というものがもつ宿命なのである。
 斎藤喜博は、島小学校の実践を背景にして、次のように書いている
「一時間の授業で、子どもや教師が対決し、火花を散らし、つぎつぎと真理を追及し、子どもたちがへとへとになって、満足しきる」
「このような授業をしていれば、子どもたちは自分を出しきり、つかみとった満足がそこにはある」
「専門家である教師がやる授業は、子どもたちが自分の力を出しきり、正確な知識を獲得し、新しい認識とか創造とかをし、それを翌日の授業に持ち込むようなものでなければならない」
「そうなるような必然性とか法則とかを、授業はもったものでなければならない」
 斎藤喜博は学校における一時限の授業の充実、そこに生きる子どもたちの集中と解放にすべてを賭けたのだと思う。
 斎藤喜博がたくさん書き残した教師論も授業技術論もそのためにあり、そういう授業の実現を可能とする学校を各地につくろうとして晩年、全国を行脚することになったのである。
 しかし、教育の世界は、このような方向を追究することにはならなかった。
 子どもたちのために一時限の授業づくりに苦闘する道を選択することはしなかった。
 それよりは、できるだけ楽にやれる道を求め、教育ジャーナリズムもそれを推奨したのである。
 しかし私は、日本の教師たちが一時限の授業に集中と解放を実現することに、教師としての生きがいや喜びを見出す日がいつかきっと来ることを信じたい。
 そのときのために、斎藤喜博の思想や真の姿を後世の伝えておこうとしているのである。
(横須賀 薫:1937年生まれ、元宮城教育大学学長・十文字学園女子大学学長。教員養成や授業に関する研究を主に行った)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

教育は人格形成をめざすが、授業で子どもたちを指導することと、子どもの人格形成とは、どのようなかかわりがあるのか

 私は戦前、広島県の江田島にあった海軍兵学校で終戦を迎えた。約20km離れた広島市の上空にくっきりとキノコ雲が浮かんでいるのが今でもはっきり目に焼きついている。
 混乱する中、ともかく人生はじめからやり直しということで、理系の大学に編入学し卒業後は横浜市立の中学校教師なった。
 横浜市は米軍の爆撃で市内一面焼け野原になっていたので、人々は小さな小屋を作り、食べ物は農家へ芋や麦など買い出しにいってなんとか生きていた。
 生徒たちは盗みなどの問題行動も多い。日本を背負っていく子どもがこんな状況ではどうなっていくのか「教育」がよほどしっかりしなくてはと私は思った。
 私の周りには問題をもつ子どもがたくさん集まってきた。学校の宿直の日には、夜になると男子生徒7,8人がやってきて、雑魚寝となる。トランプをしたり、芋をふかしてみんなで食べた。
 私は教育学も心理学も学習していないが、熱意だけはあった。
 理科教師で、ボイルの法則やエンジンの構造などを教えながら、これが「人格形成にどうかかわるのか」ということがいつも気になっていた。
「教育は、人格の完成をめざし・・・・」といわれるが、これと理科の指導はどうかかわるのか。
 先輩教師に聞くと「態度の乱れは、心の乱れだから、態度を正せば、心の乱れも直るんだ。きみも経験を積めばわかるよ」
と言われておしまい。
 私は、どうしても納得できなかった。やはり教育学を学ばなくては、また人格論について研究しなくてはと考え、4年間の中学校教師をやめて、東京教育大学に入学し研究を始めた。
 教育は「人格形成」にかかわる。人格形成をめざす各教科の授業のあり方が求められる。
 子どもが立派な行動をとるようになるためには、まず大人が模範を示すことが基にある。人格形成をめざす教育活動は、
「よくわからせる」(理解)
「やり方を身につけさせる」(技能)
「やる気を引き出す」(意欲)
の3つそろった指導を行うことである。
 心の教育という場合、心とは何であろうか。
 心とは、人間すべてを「かけがえのない存在」と考えて、自分・他人の区別なく、すべてをいつくしむ態度をもたらす働きである。
 われわれが、親近感をもつ人間は、完成された人格よりも、欠点や悩みをもつ人間性のあふれた人であろう。
 子どもが親近感をもつ教師も、やはり人間的な教師であろう。
 例えば、廊下ですれちがったとき、肩をたたいて、ほほ笑みかける教師、子どもといっしょに昼休みに遊ぶ教師、このような教師に子どもは人間性を感じるだろう。
 子どもと共感的な関係になるためには、まず、教師が赤裸々な人間になり、子どもに開放する。そして、教師は自分自身の人間性そのもので、子どもに応じる。
 教師は、子どもから「生成しつつある人間」と、みられること。つまり、目標に向かってつねに努力し続けている人間とみられることが大切である。
 そのような「生成しつつある教師」は、自分の人間的な弱さを子どもの目の前にあらわにすることができる。
 教師が自分自身の人間性そのもので子どもに応じるならば、子どもも自分の心を開放して、ありのままの姿(人間性)を示すだろう。
 そして、教師と子どもは「人と人」の共感的関係をつくりだすことができる。
 生徒指導は、教師の人間性、生き方(人間観)をぬきにしては成り立たない。
 その教師の生き方(人間観)、それから出てくる目標、その目標を具体化した指導内容、その指導内容に最も適切と思われる指導方法・技術が、首尾一貫していなければならない。その人間観にはどんな内容が考えられるか
(1)
人間は自由意志をもって自分の行動を決定する
 このような人間観に立つから、子どもの自主性を育てることが成り立つ。
 生徒指導の究極のねらいは、子どもに自己指導能力を育てることである。
(2)
あるがままに人間を見る
 人間と行動を結びつけて、悪い行動をしたから悪い人と決めつけると立ち直れなくなる。
 これまでの過去の先入観にとらわれず「いま」の子どもをありのままにみる。
(3)
人間は発達の可能性をもっている
 教師が子どもに対してやるべきことは、子どもが発達の可能性を自分で発見し、発達させることができるように、多様な活動の場と機会を与えることである。
(4)
人間は、相手を自分の一部として関係づけてとらえる
 子どもの行動を教師が自分のあり方と関係づけてとらえる。例えば、授業中、子どもが私語したら、自分の授業の進め方と関係づけて考えることである。
 教師が自己変革へと努力する。そこに子どもと共に努力する教師の姿がある。
 生徒指導を支える人間観から、次の生徒指導の機能が引き出される
(1)
子どもに自己指導の能力を育てるために「自己決定の場」を用意すること。
(2)
子どもが「役に立つ」存在であることを経験することにより、一人ひとりの子どもたちが、独自性と自己存在感を得るようにする。
(3)
「教師と子ども」また「子ども同士」が共感的な関係(出会い)を基盤にして生徒指導が展開されること。
(
坂本 昇一:1927年神奈川県生まれ、横浜市中学校教師、都立教育研究所員、千葉大学教育学部教授を経て、同名誉教授、聖徳大学教授、同児童学研究所長。2000年日本生徒指導学会を設立。学校五日制の提言者
)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

クラスが荒れ、授業中に私語する子どもたちが、集中して取り組む授業をすれば「子どもたちが何のために学校に通って学ぶのか」に応えることができる

 クラスが荒れ、授業中おしゃべりしたり、マンガを読んでいる子どもたちも、集中して取り組むような授業はできないものか。そんな思いで取り組んだのが、つぎの授業です。
 荒れていた子どもたちも、全員が集中して学習ができました。
 授業の始めに、家から持ってきた手さげ袋をみんなに見せながら
「実はこの袋の中に、授業で使うものが入っているんだけど、何だろう?」
と切り出すことから授業を始めました。
 すると、かなりの子どもたちは目を、袋に集中します。先生は何を持ってきたんだろうと、興味しんしんなのです。マンガを読んでいた子も、うれしいことに私の方へ目をむけているのです。
 子どもたちは、頭の中で想像します。ある子は「算数の時間だから、〇〇だろう」と考えるだろうし「あの袋に入るものだから、△△じゃないか」というように予想する子もいます。その内面の活動が集中(内的緊張)を生みます。
 次はどうなるか興味が湧くようなところで、「間」をとることによって、イメージがぐーんと広がっていくものです。
「じつは、これなんです」と言って、最初に白い皿のように見える容器を見せました。
 すると、子どもたちから「植木鉢などの受け皿」じゃないか「プリンの容器」「ゼリーの容器」など、いろいろな意見が出されました。
 底の模様を見せると、知っている子がいて「それはカマンベールチーズ」の容器だと、すぐ当てました。
 次に紙袋から取り出したのは、新聞紙に包んだものでした。提示の仕方も、ワンパターンではなく、変化をもたせるようにします。
 子どもたちは、もちろん何かわからないのですが、大きさから推理していきます。人間ってすごいものです。どのくらいの大きさかがわかれば、予想して当ててしまうのですから。
子ども:「湯飲み茶わんでしょ」
教師:「近いけど違います」
子ども:「コップ」
教師:「とっても近いです」
教師:「みんなのお家の人で、これをよく使う人がいるんじゃないかな。先生もこれを使って飲むのが好きです」
子ども:「グラス」「ワイングラス」
教師:「そう、ワイングラスだよ」
と言って、新聞紙からワイングラスを出します。
 どの子も知的好奇心が高まり、集中して授業に参加しています。当たった子は、うれしそうにニコニコしています。
教師:「次のものは、重いものなんだけど」
と言いながら、紙袋に手を入れて重そうにしていると、
子ども:「先生、それつけものの重石でしょ」
という声。
教師:「確かにつけものの重石のかわりにもなります」
と語ると
子ども:「鉄でできているのですか」
という質問が出されました。
教師:「そう」
と言ってうなずくと
子ども:「それは、筋肉を鍛えるダンベル(アレー)でしょ」
と見ぬいていきます。
こんな感じで木で出来ている花瓶も、子どもたちは当てていきました。
 この四つのものを黒板の前に並べ、その断面図をそれぞれのものの上の方に板書しました。
教師:「じつは、これらのものに共通して言えるものがあるんだけど、何だろうか?」
と言うと、共通ということがピーンとこないような表情をしている子どもたちが、かなりいるのです。
 こういうときは、子どもだけではなく、教師も学びを深めるときです。
 そこで、共通ということは、どういうことかを、とらえさせるために、とっさに思いついたのは、手もとにあった「ホッチキス」と「のり」と「サインペン」の三つでした。
 あらかじめ準備していたわけではないので、教室の机の上にあるものを使う以外に方法はなかったのです。この三つのものを見せて話し合うことにしました。
教師:「この三つはそれぞれちがうけど、共通するものの、似ている点や同じ点があるのでしょ」
と質問すると、子どもたちから出てきたのは「文房具」「材料がどれも、プラスチックでてきていることが同じ」だという意見。
教師:「材料に注目したところがいいね」
教師:「ノーベル賞を受賞した湯川秀樹という物理学者は、物事の違いの中に共通なものを見つけることが、創造にとって重要だという意味のことを言っているけど、みんなも、一瞬のうちにとらえてしまうから、すごい能力だね」
とコメントすると、子どもたちはうれしそうな表情をしています。
教師:「ほかにあるかな?」
子ども:「先生、使えばどれもなくなる」
教師:「さすがです。量に注目したところがいいね」
というような、やりとりをするなかで、子どもたちは「共通」ということを、だんだん理解していきました。
教師:「それじゃ、今黒板の前に並べたものに共通しているものはなんだろう?」
と問いかけると、今度はかなりの子どもたちは気がついたらしく、すぐ手があがりました。
子ども:「真ん中に線を引くと、左と右の形が同じになる」
という意見がだされました。そのうちに一人の子が
子ども:「同じ形にならない場合がある。中心を通らないような線を引くと、同じ形にはならない」
教師:「そうだね、ある考えが成り立つ場合を考えることも大切だけど、その考えが成り立たない場合の条件を考えることも、とっても大事なんだよ」
 子どもたちは鋭い感性で、大事なことをぽんぽん見つけていきます。
 その考えがどんなに重要な意味をもっているかを、ひとこと語ることで、子どもたちは対象を深く見つめる視点を自然に学んでいきます。
教師:「今みんなが発見したように、左と右、あるいは上下が同じ形になるようなものを線対称な形といい、この線を対象軸と言う」
ことを確認して学習を終わりました。
 子どもたちは、今日、線対象について学習することはまったく知らなかったのです。この日は、線対称の学習の第一時間目でした。自分たちの力で線対象を発見したことは、とってもうれしいことだったのです。
 いつも誰か集中しない子がいるものですが、この日は全員が参加した授業ができました。授業したなあという実感をもつことができました。
 推理し想像しながら、みんなで発見していくような授業は、子どもたちも大好きです。学習意欲に欠けるような子が、このように目を輝かせて学習する事実に、私たちは着目していかなければなりません。
 子どもたちは、知的好奇心が高まり、未知の世界との出会いがあるような学習には、むしろ飢えているのです。
 共同で学ぶことで、一時間前には想像もできなかった世界と出会うことができる。
 学級の友だちと対話・討論することで、自分も賢く人間としても豊かなになってきている。
 この実感の積み重ねこそが「何のために学校に通って学ぶのか」という問いに応える、道ではないかと思っています。
(今泉 博:1949年生まれ、東京都公立小学校教師を経て北海道教育大副学長(釧路校担当)、「学びをつくる会」などの活動を通して創造的な授業の研究・実践を広く行う) 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

子育てや教育のキーワードとは何でしょうか、思春期の子どもに具体的にどう接すればよいか

 人間が生きていくうえで、甘えは絶対必要なものです。決して甘えるなと言ってはならない。
 甘えは、ひとことで言うと、相手の愛情を求めることです。
 甘えが満たされるとき「自分は愛されている」と感じます。「自分は愛される価値のある存在なんだ」と感じます。
 相手に対する信頼と自己肯定感が育ちます。それが安心感につながります。
 自己肯定感は、
「自分は大切な人間だ」「生きている価値があるんだ」「自分は自分でいいんだ」という気持ちのことで、子育て、教育のキーワードで、これ以上大切な言葉はありません。
 この土台があって初めて、しつけや学力が身についていきます。
 相手を信じることのできる人は、思いやりを持ち、深い人間関係を築くことができます。
 甘えが満たされないとき、相手に怒りが生じ、甘えさせてもらえるだけの価値のない人間なんだと思います。それが続くと、周囲に対する不信感や怒りとなり、自己肯定感が低くなります。
 そういう人は、相手を信じることも、甘えることもだきないので、攻撃的になったりしやすく、高じると、さまざまな問題行動や、心の失調となって表れてきます。
 どうすればよいのでしょうか。
 話を聴いてもらうことで、子どもは、親に甘えたい気持ちが満たされ、安心します。また、小学生の間なら、抱っこや、スキンシップなども、まだ十分、有効です。
 少なくとも小学生の間くらいまでは、十分甘えを受け止めてかまいません。
 十歳以降は、親離れしていく時期で、依存の対象は親から友だちに変わってきます。それでも、親の存在は大切です。
 子どもはさまざまに裏切られ、傷つきます。そんなとき、親はしっかり受け止めてやってほしいと思います。
 反抗は自立のサインです。子どもは、批判的なことも口にし、自己主張を始めます。
 そういう話を、しっかり聴く、ということです。子どもはよく見ています。正しいことを、きちんと認めることで、子どもも、自分の感じ方や判断に自信が持てるようになるのです。
 小学校高学年以降、思春期に入ると、自立は、反抗や親への批判、攻撃という形を取ってきます。
 反抗や批判をしてくる、ということは自立がうまく進んでいるということです。子育てが間違っていなかった、と喜んでほしい。
 反抗期が激しく出る場合があります。それはたいてい、それまで反抗ができず、よい子でいたか、あるいは抑えつけられていたため、思春期に一気に爆発した場合に多い。
 そういう場合は、付き合うのに、相当、苦労と忍耐が必要です。
 では、子どもをどのようにして自立させればよいのでしょうか。
 子どもに安心感を与え、自信をもたせる、ということです。
 子どもは自分で悩んで、考えて、成し遂げることで自信を持つのです。
 人から言われた通りにやって、成功しても、子どもの自信にはなりません。ですから、できるだけ手出し、口出しは控えたほうがよいのです。
 子どもが失敗したときは
「ここまで、よくできたじゃないか。ここまで、できただけでもりっぱだ。次は、きっと成功するよ」
 と言われると、自信を回復します。
 思春期にある子どもたちに、どう接していけばよいのでしょうか。
 ひと言でいうと「子どもの揺れに付き合う」「子どものあとをついていく」ということです。子どもに指示、命令をしない。
 子どもの前に立って「あっちへ行け」と指示しない。手を引っ張らない。背中を無理に押さない。先回りしない。ちゃんと歩きだすまで「待つ」ということです。
 もう一つは「見放さない」という態度です。
 子どもに振り回されて「もう知らん、勝手にしろ」と突き放さない。
 子どものあとをついていって、子どもが振り返ったら親が「大丈夫だよ」とうなずいてくれるという関係です。
 ただし、どこへ行こうと「分かったよ」と、ついていくことではありません。
 本当に危ない所に向かっていくときは、きちんと止める。これも「見放さない」ということです。
 思春期に具体的にどう関わればよいのでしょうか。
 まず大切なのは「親が肩の力を抜く」ということです。
 思春期になるまで育ててきました。たとえ親がいなくても、これから何とか生きていくことはできます。ですから、子育てで一番大変な時期はもう過ぎました。
 もう中学生になった子に、いまさらああしろ、こうしろと言っても、そんなに変わりません。
 ここまできたからには、なるようにしかならん、といった現実を認めてしまって、肩の力を抜くということです。
 親が肩の力を抜くと、親が楽になります。親が楽になると子どもも楽になります。
 そうすると、険悪な家庭の雰囲気も次第に和んで、笑いが出るようになります。
 せめて家庭だけでも、ほっとしたいと、みんなが願っているのではないでしょうか。
 思春期に親として出来ることは何でしょうか。
 一番簡単で、大切なことは「話を聴く」ということです。
 思春期の子どもはあまり親に話をしてきません。しかし、ごくたまに、親に話を聴いてほしいと思うことがあります。そういう時には、親がいくら忙しくても、しっかり聴くということです。
 また、親に頼み事をしてくることがあります。よほどの事情があるのですから、そういうときは、親は徹夜をしてでも、真剣に応える必要があります。
 かんじんな時に、親に拒否されたり、無視されたりすると、もう親を当てにしなくなり、相談もしてこなくなります。
 子どもの心が順調に育つために一番大切なことは、自己肯定感を育むことです。そのために大切なことは、子どもを「ほめる」ことです。
 思春期の子どもでも、心にスッと入るほめ言葉は「ありがとう」です。
 上から目線でほめられると思春期の子どもはイライラします。ところが、感謝の言葉である「ありがとう」は、人間として対等です。
 自己肯定感を育む「ありがとう」というほめ言葉は、さまざまな人間関係で苦しむ、思春期の子にこそ、必要なのかもしれません。
(
明橋大二:1959年大阪府生まれ、精神科医。真生会富山病院心療内科部長。専門は精神病理学、児童思春期精神医療。NPO法人子どもの権利支援センターぱれっと理事長)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

教育に最も不足し必要とされているのが「笑いやユーモア」である、子どもと一緒に笑える教師は、子どもと一緒に歩める教師である

 子どもを教えるのに笑いは不要であると考える教師は、子どもたちが笑うことによって緊張感や集中力がそがれてしまうのを恐れているようです。
 笑わせると「教室の空気が緩んでしまう」「子どもになめられてしまう」と、恐れているのです。
 子どもに「やる気」を醸成するのは、教える教師のしかつめらしい、もったいぶった態度ではありません。楽しく明るい、フランクな姿勢です。
 ユーモアや笑いは「場の空気をやわらかく、明るく、楽しく」し、学びの敵どころか、大いなる援軍なのです。
 教師がユーモラスな話をすれば、子どもは身を乗りだして聞くはずです。そのとき、集中力が増し、学ぼうというエネルギーが生まれているのです。
 むろん、いつまでも笑わせていてはダメで、次の瞬間には、笑いのエネルギーを学ぶほうへと仕向けていく必要があります。
 私は、授業の導入にユーモアをいつも心がけていました。例えば、ユーモア集などの本の話を自分なりにアレンジしたり、日常生活で起きたちょっとおかしなことを小話にして、授業の導入で子どもたちにしょっちゅう聞かせたりしていました。
 私が心がけている、子どもを楽しませ、明るくさせるユーモラスな言動の秘訣は
(1)
自分を笑うこと
 自分の失敗やとんちんかんな言動を笑いのネタにするのです。自分を笑っているかぎりは、だれかを傷つけることもありません。
 例えば、授業中、わざと間違えて、子どもの注意を喚起することもありました。
 子どもの気持ちがダレているときや、集中力を欠いているなと思えたときに、数字の6を8と間違えて書き、子どもたちに「先生、数字が違っているよ」などと指摘させることで、子どもたちの注意力を再喚起させるような方法です。
(2)
自分が笑うこと
 子どもたちを笑わせようとしたら、まず自分から笑うことが大事です。それだけで場の空気はなごむのです。
 例えば、子どもが何かおもしろいことを言ったとき、いのいちばんに教師である自分が大いに笑うようにつとめていました。
 そういう場合、私は子どもたち相手に、お笑い芸人のようなつもりでした。そうすることで教室にオープンでくだけた空気を醸しだし、授業を少しでも楽しく、おもしろく感じさせる工夫をしていたのです。
 子どもと一緒に笑える教師は、子どもと一緒に歩める教師であり、子どもとともに進める教師だという信念があったのです。
 このようなユーモア、明るさや楽しさというものは、教えるという行為のかなり重要な部分を占めるものだと思います。
 笑いは教わる子どもたちを学習好きにするための潤滑剤であり添加物でもあるのです。「授業が楽しい」「勉強するのがおもしろい」と感じられれば、子どもの学力は自然に伸びていくからです。
 逆に、一時間の授業のうちに、一度も笑いがない、ユーモアの要素がない教室は子どもにとっては牢獄に等しいものでしょう。
 日本の教育現場にもっとも不足していて、もっとも必要とされているのが、笑いでありユーモアなのです。
(有田和正:19352014年、福岡教育大学附属小倉小学校、筑波大学付属小学校,愛知教育大学教授、東北福祉大学教授、同特任教授を歴任した。教材づくりを中心とした授業づくりを研究し、数百の教材を開発、授業の名人といわれた)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

教育で大切なことは、子どもの実態を知ること、笑いのある面白い授業である、どうすればできるか

 教育の原点は「子どもを見る」ことです。常に子どもの実態をつかみ、その実態を良い方向に変えることこそが教育です。その前提として、教師が子どもに興味や好奇心を持ち、大好きになる。そのうえで、減点主義で見ず、育てる目で見ることです。
 私は特別な用事がないかぎり教室にいて、子どもたちと過ごしてきました。毎朝20分間は必ず子どもと汗まみれになって遊んできました。子どもがいちばん本音を出すのは遊びのときだからです。
 いじめられていたり、何か不満があると途端に笑顔が消えてしまいます。ふだんは元気な子がひとり教室にぽつんと残っている。みんなでドッジボールしていてもその子にだけボールが回ってこない。こうしたことはすべて異常なのです。こうしたサインを見落とさないことが大切です。
 より深く子どもを知るには、その考えを積極的に引き出さねばなりません。日頃の発言から考えを知ることはできますが、それだけでは弱い。
 そこで「書かせる」ことが重要になります。書かせるために、私は子どもたちに「はてな?帳」を活用していました。「はてな?帳」には、子どもたちが疑問に思ったことを何でも自由に書き込みます。身の回りの疑問のほかに、自分自身や家族のこともよく書いてきます。
 この「はてな?」の目のつけどころや掘り下げ方で、子どもたちの学習の意欲やレベル、心の状態までもがわかるようになります。提出されたら、私は良かったところにアンダーラインを引いたり「すばらしい」と一言だけ書く程度にし、子どもの発想力を奪わないようにしました。
 もう一つ、有田学級で大事なツールが、学級通信です。私が保護者に伝えたいことや、明日の予定、時事問題や季節の変化などを板書し、それを子どもたちが書き写します。飽きないよう語尾を「ございます」や「でR」にするなど工夫をしていました。
 効果は、書く力がすごく身に付くこと。また、保護者との信頼関係を築き、共通認識を持つのにも役立ちます。私は、子どものことでわからないことがあれば、保護者に「教えてください」と素直に言えるくらいでないといけないと考えています。保護者との信頼関係なくして子どもを評価し指導することはできません。
 子どもたちを笑いの多い子どもに育てなければいけません。笑いはゆとりです。ゆとりがあれば少々のことは笑い飛ばせるもの。ですから私は「1時間に一度も笑いのない授業をした教師は直ちに逮捕する」と言っているのです。笑いの多い授業を心掛けてください。
 今の子どもたちを相手にするには「ボケとツッコミ」の技術が役立ちます。子どもがまともにきたときには、少しボケてかわしてみたり「えっ、そうかなぁ?」と、とぼけてみたり。そして、ここぞというときに突っこむのです。子どもたちは乗ってきますし、授業が盛り上がりますよ。
 笑いは雰囲気をつくらないと、いきなりは出ません。そこで、私は新しいクラスを持つと、いちばん大切なのは笑うことだと説いて、初日から笑う練習をさせていました。
 もちろん、叱ることも必要です。八つほめて、二つ注意する。まずはほめて、最後に叱ります。
 子どもの考えを引き出すためには、面白い教材を使った面白い授業をすることも大切です。子どもが身を乗り出してくるようなネタを用意して、その考えを引き出し、討論したり、ほめたりしながら鍛えていく。
 教材とともに大切なのは、教師が「教えすぎないこと」だと、私は考えています。子どもが自分でなしとげることが大事です。教師に子どもたちを「見守る忍耐力」が必要です。待つことが子どもを大きく成長させるのだと思います。
 授業の最後には、板書の大事なところを消しながら、毎時間その場で復習するようにしていました。その時間にあまり集中していなかった子を指名し、消した部分を答えさせるのです。この子がわかっていれば、クラス全員がわかっているだろうと評価できるからです。
 このように、授業は一瞬一瞬が評価であり、指導です。休み時間や掃除、給食など、子どもたちが学校で過ごすすべてが評価と指導に結びつきます。評価と指導は常に一体なのです。
 評価とはテストすることだと思わないでほしい。今まで発言が少なかったのが、少し増えた。笑いが少なかったのが、みんなと同じように笑えるようになった。こうしたちょっとした成長を、教師が小きざみな目当てを設定しつつ評価する。その評価を教師が頭の中に記憶するようにします。
(
有田和正:19352014年、筑波大学付属小学校,愛知教育大学教授、東北福祉大学教授、同特任教授を歴任した。教材づくりを中心とした授業づくりを研究し、数百の教材を開発、授業の名人といわれた)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

人間は教育により人間となる

 「人間は教育によってはじめて人間になることができる」と人間は教育されなければならないと述べている。
 未開の状態で生まれてくる人間は、教育をとおしてこそ人間のなかに備わっているさまざまな素質を発展させ、それによってはじめて人間になることができるのである。
 したがって、われわれがなさねばならないことは、その使命を達成するために必要な強制をともなった教育なのである。
(カント:17241804年 ドイツの哲学者、思想家、大学教授。「純粋理性批判」、「実践理性批判」、「判断力批判」を発表し、批判哲学を提唱。ドイツ古典主義哲学(ドイツ観念論哲学)の祖。後の西洋哲学全体に強い影響を及ぼした)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

生命を輝かせて生きるという教育を施していくべきだ

 生命を輝かせて生きるという教育を施していくべきだと野々村直道はつぎのように述べています。
 島根県にある海星高校野球部の監督時代、私は広島県江田島で合宿した。旧日本海軍の兵学校の特攻隊の遺品を展示した資料館に生徒たちを連れていって死を直視させてきた。資料館で、同じ年齢の少年の遺書を読み、国や家族のために、自ら進んで死地に赴き若い命を奉じた事実を知らせたのだ。
 命を自分のために使うことしか知らなかった生徒たちは、少年たちに衝撃を受けた。死と向き合うことで、本当の生命の輝きを自覚できたのだ。
 生徒たちは、祖国愛や家族愛の深さに心を打たれ、死を覚悟した少年たちの心に触れ、魂がゆさぶられ、感謝と真心をもって野球の練習に取り組み始めた。
 命をかけた行為を知ったことで、今まで辛いと思っていた練習への見方が変わり、怠け心は恥ずかしいことだと気づいたのだ。言い訳をしたり、弱音を吐かなくなったのです。明らかに生き様を変え、腹一杯食べられるいまの社会に感謝しだしたのだ。
 生徒たちは好きな野球ができ、甲子園をめざせる平和な社会は当たり前だと思っていたが、それが実はすごいことだと気づいた。すべてが感謝から始まった。
 驚いたことに、チームは江田島合宿を始めてから10年間で九回、甲子園に出場できた。この結果は、若くして命を散華した少年たちの心に触れたことと無縁ではない。
 誰にも等しく訪れる死というものを自覚し、その時までは与えられた生命に感謝して強く生き、人生を全うすることが大切なのである。死という終焉に向けて、どう生命を輝かせて生きるか。そういう教育を施していくべきだと思う。
(
野々村直道:1951年島根県生まれ、甲子園に9度も出場した元高校野球部監督、教育評価家)


| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧

その他のカテゴリー

いじめの指導 さまざまな子どもの指導 ものの見方・考え方 カウンセリング 不登校 人間とは(心理・行動・あり方) 人間の生きかた 保育幼稚園 保護者との協力関係をつくる 保護者にどう対応するか 保護者の実態 優れた先生に学ぶ 優れた学級担任とは 優れた授業とは 優れた教科授業例 先生の実態 危機管理 叱る・ほめる・しつける 各国の教育 各国の教育改革 各教科の授業 同僚・管理職との関係 問題行動の指導 国語科の授業 地域 子どもから学ぶ 子どもたちに対する思い 子どもたちの関係づくり 子どもと向き合う 子どもの失敗 子どもの実態 子どもの成長をはかる 子どもの指導の方法 子どもの見かた 子どもの話し方 子育て・家庭教育 学び合う学び 学力 学校の実態 学校組織 学校経営と組織 学校行事 学級づくり 学級の組織と活動 学級の荒れ 学級崩壊 学級通信 学習指導・学力 学習指導案 実践のための資料 家庭 宿題 掃除 授業づくり 授業のさまざまな方法 授業の実態 授業の展開・演出 授業の技術 授業中の生活指導 教師との関係 教師と子どもの関係づくり 教師に必要とされる能力 教師の人間としての生きかた・考えかた 教師の仕事 教師の心の安定 教師の成長・研修 教師の話しかた 教師の身体表現力 教材・指導案 教材研究 教育の技術 教育の方法 教育の理念や思い 教育史(教育の歴史と変化) 教育改革 教育法規 教育行政(国・地方の教育委員会) 新学級づくり 特別支援教育 理科の授業 研究会開催情報 社会環境(社会・マスコミ・地域) 社会科の授業 算数・数学科の授業 経営とは 英語科の授業 評価 話の聞きかた