カテゴリー「教育の理念や思い」の記事

教育は学力形成か人間形成か、できるだけ異質なものを取り込んで学ぶことが求められる

 長くいっしょに研究活動をしていると、当初は異質であった教師たちもだんだんと発想が近づいてきます。井の中の蛙化していきます。自分たちが自覚できなくなってしまう。
「研究集団ことのは」は外部に異質なものを求め、取り込もうとし続けています。
 異質なものと響き合うときにこそ、人間の頭は最も機能します。
 異質なものと反発しあうときにこそ、人間の感情は最も大きな起伏を描きます。
 一人で独自の提案をしているメンバーがたくさんいる。指導主事、管理職になった者もいます。
 おそらく我々が常に異質なものを取り込んできたことによって、広い視野から物事を分析するとか、異なる領域・分野の理論・実践を融合するとか、そうしたことをごく自然に日常としているせいなのだと自分たちでは思っています。
 私は学生時代に共通点と相違点を整理するという思考を身につけました。
 この同時進行で異なる理論を学ぶという経験が、私の思考力を鍛えてくれたと実感しています。
 一人の人間の発想などというものは、時を隔ててもすべてが繋がっている、そういうものなのです。
 十年くらい前までの学校は「学力形成」派よりも「人間形成」派の教師が圧倒的多数でした。それが最近、急速に変化してきているのを感じます。その変化はおそらく、
・教師に対する行政の監理が厳しくなり、教員評価制度が定着して数値目標が設定されるようになったこと。
・保護者のクレームの増加によって、教師が個性を発揮しての教育活動がしずらくなったこと。
・2000年前後から「ゆとり教育」の反動として、「学力向上」が大きく宣伝されたこと。
・世論が「学力向上」路線を支持しているような空気が醸成されていること。
 など、様々な要因があるように思います。
「学力形成派」は、学力はどうしても一般教養や受験学力に重きが置かれがちです。
 これが子どもたちの実態から乖離したところで、カリキュラムが立てられてしまう。こういう弊害を招きやすい構造があります。
「人間形成派」は、経験を絶対視する傾向が強い。
 ですから、教育は人間形成だと強く叫ぶ教師ほど、子どもたちに自分の敷いたレールの上を歩かせたいという欲求を強くもつ傾向があります。
 部活動の熱心な指導者などは、ほとんどがそのタイプだと言って過言ではないでしょう。
 私は、自分の教育観はすべての生徒の特性に合致しているわけでない、ということに教職について5年が過ぎた頃に気づき始めます。
 私の教育観は、私という人間の個性に過ぎない。
 私は生徒たちを洗脳しようとしているのではないかと考えるようになりました。
「この生徒は、私でなく、あの先生が担任だった方が合っていたかもしれない」と思える生徒たちが一定数存在することに気がついたのです。
 それも、私と考えの合わない、ウマが合わない、そんな教師たちの方がです。
 私が自分と合わないと思われる生徒たちも包含できるような教師として大成長を遂げようと決心しました。
 私は意図的に振り子を振ったわけです。
 私は3年間だけ、自分の教育活動のすべてを「あちら側」から構想してみよう、そう考えました。 
 私はアクの強いタイプの人間です。そのくらいの気持ちでやった方が、バランスがとれてちょうどいいのではないかと思ったのです。
 転勤した学校の職員会議は私にとって、腹に据えかねるような発想ばかりを基準に決まっていきましたが、私はその発想を学ぶように努めました。
 管理職や教務主任ともたくさん話をして、彼らがどういう発想で教育活動に取り組んでいるのか、ひたすら学び続けました。
「学力形成派」の本質は「割り切ること」でした。
 生徒たちを集団として捉え、その最大公約数に力を発揮する手法を採ろうとします。犠牲者は少なくて済みます。
「人間形成派」は一人ひとりの生徒を無限の可能性をもつ存在ととらえ、一人ひとりに少しでも触媒となるような指導を与え続けようとします。
 一人ひとりを大事にしようとするあまり、他の生徒を犠牲にすることが少なくありません。
 生徒Aと生徒Bの利害が対立したとき、生徒Aに対する指導が生徒Bにマイナスの指導として機能することがあるからです。指導は安定感を欠きます。
 私はこの中学校で三度卒業生をだしました。どの学級もよい学級でした。
 私は教育技術、授業技術を身につけ、それなりの授業力、学級経営力を身につけていましたから、学力向上も生徒指導もいじめ指導も打った手だてはだいたい当たる、そんな毎日でした。
 行事や成績は担任である私が常にリードすることによってもたらされものでした。
 学級で起こったトラブルのすべてを私が間に入って説得し納得させて解決したのでした。
 しかし、この学級経営が失敗であったと気づきました。高校に進学した二割に近い七人の不登校生徒が出たのです。

 進学した生徒たちの問題行動の要因は、生徒たちが自らの行動の意味をメタ認知(自分自身を客観的に認める能力)ができないことに起因しています。
 生徒同士のトラブルは、双方が自分の世界からものを見て、相手に自分の行動がどう見えるか、周りから見てその行動がどう見えるかということを考えられないことから生じます。
 教師が指導するときにも、その生徒の世界観を壊し、周りの視点、他者の視点を理解させるのに随分と時間がかかります。
 保護者のクレームの多くも、そうした生徒個人の世界観のみで聞いた話を保護者がそのまま信じ込んでしまうところから起こります。
 私は再び振り子を振らなければならなくなったのです。
(堀 裕嗣:1966年北海道生まれ、札幌市立中学の国語科教師。92年、国語教育研究サークル「研究集団ことのは」を設立、道内の民間教育団体でつくる「教師力ブラッシュアップセミナー」の代表も務める)

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著名な実践家である東井義雄は、どのような考え方で教育をおこなっていたのか

1 教育と愛
 愛は「私のもの」という意識のことだと私は思う。
「もの」が「人のもの」ではなくて、「私のもの」になると「あばた」も「えくぼ」に変わってくる。
「こと」が「人ごと」ではなくて「自分のこと」になると、無い力まで出てくる。そういう力まで出てくる。
 そういう不思議なはたらきをするものが「愛」だ。
 主体的な「愛」は、ものを自分ものもとして、かわいがり、育て、調べていく。行動的な学習を通してのみ、育て得るものだと私は信じている。
 それは、身のまわりの物事を、自分のこととして考え、処理をしていくような算数の形によっても育て得るだろう。
 かわいがり・育て・製作する理科というような形でも、育てられなければならない。
 国語では、作文がこの大事な仕事を受け持ってくれる。読みの学習においても読みの身構えの問題として「愛」が問題にされねばならぬ。
2 学習
 学習は、ものしりをつくりあげる教育体系でない。
 身のまわりの事物を、算数は算数の立場で学習する。
 はてな?と不思議がり、こうかもしれないぞと考え、こうしてみたらどうか、と実際にやってみて、なるほどとうなずき、でも、いつでもどこでもそうなるか、とためしてみるというような生き方を、もっと大事にしなければならない。
 理科は、理科の立場から、はてな、おやおや、なぜだろう、こうかもしれないぞ、こうしてみたらどうなるか、なるほど、でも・・・と考え、やってみる、というような在り方を大事にしなければならぬ。
 国語も社会科も、そういうふうな、生きて働いていくものに育てあげることで、宿命にさえ見える現実の壁をつきやぶることができるのだ。
 学習は、そういう学習にならねばならぬ。
3 命の触れ合い
 教師であることの、ほんとうの喜びは、子どもの命に触れないでは得られない。教師の喜びは、命と命が触れ合うところにのみ味わわれる。
 命に触れ得ないような教師は、子どもの命に影響を与えていけたりする道理がない。子どもに、何もしてやることはできない。
 子どもに、何もしてやることのできないような教師は、もはや、教師ではない。
 子どもの命に触れるには、私は教師が「ほんものになるより道はない」と考える。
 子どもが母親を慕うのは、それが「ほんもの」だからだ。
 生きていることのただごとでない底深さ、根深さは、たとえ感傷的にでもいい、知っておく必要があるようだ。
 そうでないと、子どもを守る運動も根のないものになってしまうし、人々の共感を誘うこともできないようだ。
 そして、なにより、教育という仕事が、根のないものになってしまう。
 子どものつぶやきが聞こえなくなっている先生は、先生の資格があるとはいえない。
4 ほんもの
「ほんもの」の親は、自分の子どもが、利口であろうがバカであろうが、いうことをよくきく子であろうがいうことをきかない子であろうが、ひたすら子どもを思いわずらう。
 その「ほんものさ」を子どもは本能的に感じとって、母親を慕うのだ。
「ほんもの」だけが、子どもの命にふれていき、子どもの命に影響を与えることができるのだ。
 私は「ほんもの」になるより道はないと考える。子どもたちが母親を慕うのは、それが「ほんもの」だからだ。
「ほんもの」だけが子どもの命に触れていくもののようだ。
 子どもの命にふれ得ないような教師には、何もできない、ということが本当のようだ。
5 教える教育には限界がある
 私は、はじめ、教育ということは子どもたちに「ああしろ」「こうしろ」「そんなことをしてはいけない」「それはこうするんだ」と、子どもを指図し、叱り、教えることだと、と思っていた。
「先生」と呼ばれるようになって25年、それは本当の教育ではなかったんだと、気づかせられはじめた。
 それなら「教える教育」の限界をつき破るものは何か。それは「ほんもの」になることだけだ。
 人を「ほんもの」にしようとして「教える」のではない。こちらが「ほんもの」になるのだ。
「ほんものでない者」が、子どもに「ほんものになれ」と指図したところで、ききめのあるはずがない。
「ほんものでない者」が「ほんもの」でない自分に対して言わなければならないことを、私たち教師は、教師顔して、他人に言いつづけてきた。
 そこに、私たちの長い間の考えの誤りがあったのではないか。
 以前、クラスに、ものを言わない、困った子どもがいた。
 私は、ものを言わせるように、話しかけ、ともに遊ぶようにしたり、クラスにも話しやすい雰囲気づくりに協力してもらったり、いろいろと働きかけたが、だめであった。
 しかし、よく見ると、その子は掃除で、ほうきの使い方や、片付けがクラスの中で一番うまいのに気がついた。
 ものは言わないが、掃除の動作は、ひとつひとつ美しい言葉ばではないか。
 こんな美しい言葉を毎日、自分の行動で語っている。
 私は、うれしい思いでその子を見るようになった。
 そのうち、その子の目が心なしか微笑んで見えるようになり、ほんのかすかであったが、声を聞くことができた。
 あれだけ、ものを言わせようとしても、私がそうすればするほど、口をつぐんだ子が、だれに強いられたのでなく、自分から口を開いたということはどういうことだろうか。
 指図し、教えることよりも、それを、そのまま抱きとることができるような教師になることこそ、子どもの命を開いていく唯一の道だ、ということが考えられないであろうか。
「ほんもの」の学力とは「子どもの感じ方、思い方、考え方、生き方、その論理の歯車にかみ合った力」でなければならない。これを「生活の論理」という。
 この上に、教科の道筋はあくまで教師が主導権を持つという「教科の論理」を加えて東井義雄の学力観は成立している。
(東井義雄:1912-1991年、兵庫県生れ、小学校教師となり綴方教育で認められる。元兵庫県公立小中学校校長。「ペスタロッチー賞」、兵庫県知事や文部省より「教育功労賞」など多数受賞)

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人生に必要な学力とは何か、学校はどうすればよいか

 私自身、ある時期、子どもに受験勉強を強いるのは悪いことだとは思わない。
 記憶力に余裕のある時期に、めいっぱい詰め込んでおいたほうがいいということには条件付きで賛成だ。
 子ども自身がそのことに動機づけられていればという条件だ。
 本来、進学実績だけを目標にした場合、そのための受験技術は「情報を処理する力」に負うところが大きい。これを狭義の学力と呼ぶことにしよう。
 しかし、人生を開く力はこれだけではない。
 まず、学ぶための動機づけが続くことが必要だ。
 興味関心を持ち続ける力、集中を持続する力、自分の内部エンジンで自分自身を動機づけられる力である。
 さらに、正解が一つとは限らない世の中の諸問題には、自分の持っている知識、技術、経験を総動員して組み合わせ、自分なりの解を導く力がいる。
 状況に応じて自分の持ち味を出せる力。この力を「情報を編集する力」という。これを「広義の学力」と呼んでいいだろう。
 つまり、学力テストで測れる狭義の学力も大事だが、テストでは推し量れない広義の学力も大事だということ。
 ましてや、忍耐力も、発想力も、瞬発力も、持久力も、思いやりも、愛国心も、人間としてのスケールも。
 生きるために必要なさまざまな力は、体育、音楽、美術、技術・家庭のような教科や、体育大会、学芸大会、修学旅行のような行事、部活動や教師や生徒間のコミュニケーションなど、すべての学校機能を通して複合的に養われる。
(藤原和博、1955年生まれ、リクルート社フェロー、東京都初の中学校の民間人校長、大阪府特別顧問、奈良市立高校長等を歴任した。家庭教育の機能が低下したため、親以外の大人とのななめの関係を重視した)

 

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教えること、学ぶこととは、どのようなことなのか

 教えることの基本は、教える人が自ら学ぶ人でなければ、学ぶ子どもに応えられないし、学ぶ力を育てることはできない。
 学びは、一人ひとりが、世界とかかわり、働きかけ、自らを形成し、育てることである。
 知識は、ただ多く貯め込んでも価値は乏しい。学んだ人間が自分にとっての意味をつかみ、それによって世界を見たり、つかんだり、かかわったりできることが大切である。
 教育は、学ぶ人との関係の中で、教える人が自覚的に変えていくことが必要である。
 教える人は、教育的発想だけでなく、学びの側からの視点・発想を併せ持つことは、きわめて大事である。
 遊ぶ、真似る、倣うという生活の中の行為が、学ぶ、知る、覚えることに直結しています。
 幼児や子どもたちは、少なくとも目に見える、耳に聞こえる、手でさわれるような具体的なものは、教わらなくても知っていくのです。
 子どもたちは、自分で知ったことのほうが、はるかに身についていくし、楽しいのです。そうやって、自分の世界をつくり、広げていきます。
 他者に働きかけ、他者から働きかけられるという生活的な豊かな経験が根底にあって、聞く・話すことを身につけ、さらに読む、書くことへと進みます。
 海や川、山の自然の中で遊び、自然とふれあうことは、人(社会)とのふれあいと共に、その人の価値の土台にもなります。
 自然そのものは「教え」たりはしませんが、読み取ろうとする人に対しては、たくさんのメッセージを発しています。
 子どもたちは、そうした生活の中のさまざまな「学び」の成果を蓄えています。
 そのことを忘れてはいけない。教える人は、子どもたちを受け身に立たせて疑問を感じない人であってはならないのです。
 子どもにとって、身の周りにあるすべてのモノや人が新しい出会いであり、それらを知ることで自分の世界が広がっていくのですから、うれしくないはずはありません。
 また「自分だけ」の力でやりたいと願うとともに、自分だけで「できるかどうか」を思案して、考えたり、判断し、選択し、決意したりしているのです。
 学ぶということは、こうしたプロセスを不可欠に伴っていて子どもも例外ではないのです。
 実は、どれほど年をとっても、新しい知見と出会いはあり、広がる喜びやたのしみはあるのです。
 学ぶということは、さまざまなモノやできごとを知り、自らの内に置き続けることなのです。
(国民教育文化総合研究所) 

 

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「お勉強」と「学び」は明確に違う、学びの本質は没頭にある

 自分で行先を決る生き方のためには「学び」が不可欠だ。
 僕が言う「学び」とは、没頭のことだ。
 わき目もふらず没頭し、がむしゃらに取り組める体験のすべてが「学び」だと僕は思っている。
 だから、没頭する対象は数学や英語、料理やダンスだろうと何でもあり得る。その人が心から没頭できていれば、僕はそれを「学び」ととらえている。
「お勉強」と「学び」とを、僕は明確に違うものとしてとらえている。
「お勉強」は、あくまで受動的な行為である。与えられたものをこなす作業である。
 いくら「お勉強」をしても、自分で行き先を決める生き方にはたどり着けない。
「お勉強」で身につくのは、敷かれたレールに乗る習慣だけだ。
 その習慣が身についてしまった人は、テストや問題集がなければ、自ら何かを学ぶことはないだろう。
 なぜなら、彼らが目的としているのは「与えられた課題をこなし、大人に認められたいこと」だけだからである。
「学び」は常に能動的だ。未知の領域に足を踏み入れ、新しい体験や考え方を味わうことのすべてがこれにあたる。
 だから、正解もいらない。すべては「自分で切り拓いていく」営みなのである。
 自ら動かなければ取り組む課題が見つからないことも、没頭する対象がある限りは「楽しい」ことだ。
 だから、彼らは好んで暗中模索を、試行錯誤を繰り返す。
 没頭は、人を立ち止まらせないのだ。常に人を前へ前へと押し出し、新しい体験をつかませようとする。
 だから、当然のことだが、イノベーションを生み出すのは「お勉強」ではなく「学び」だ。
 夢中になっているからこそ、人は一日中それについて思考を巡らし、新機軸を思いつくことができる。
 失敗を恐れずに試行錯誤を重ね、努力や苦労の過程も含めてすべてを楽しむことができるのだ。
 学問の領域も「それに没頭してしまった誰かの」姿である。
 例えば、現代物理学の父アインシュタインが自分の抱いた疑問の検証に寝食を忘れるほど没頭し、そこでの発見を後世に残したからこそ、学問の体系は成熟した。
 実際、歴史に名を残すような人たちは皆、並外れた没頭力をもっていたことで有名である。
 彼らは、心の赴くままに学び続け、道なき道を突き進んでいった。
 学びとは、知の地平線を拡大する。つまりイノベーションを起こしていく過程そのものなのだ。
 それは当然「自分の進むべきルートを自分で作り出す」こととも重なる。
 今、僕たちが目にする教科書も計算ドリルも、誰かの没頭の副産物にすぎない。
 それをただ漫然となぞるお行儀のいい「お勉強」の中に、学びの本質は存在しない。
 新しい知を切りひらき、新しい仕事を生み出し、あなたを未来へと突き動かす本当の学びは、没頭の中にこそあるのだ。
(
堀江貴文:1972年生まれ、実業家、著作家、投資家、タレント。元ライブドア代表取締役社長CEO、証券取引法違反容疑で逮捕され、ライブドアの役職を退いた
)

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教育の原点とは何でしょうか、原点を踏まえて何をすることが教育なのでしょうか

 教育の原点は「子どもを見る」ことです。子どもの実態をつかみ、その実態を良い方向に変えることこそが教育です。
 では、子どもをどう見ればよいのでしょうか?
 大前提として、教師は子どもに興味や好奇心を持ち、大好きになること。
 そのうえで、減点主義で子どもを見ず、育てる目で見ることです。
 私はよく、この子は何のプロになれるだろうということを考えていました。
 私は特別な用事がない限り、教室にいて子どもたちと過ごしてきましたし、毎朝20分間は必ず子どもと汗まみれになって遊んでいました。
 というのも、子どもがいちばん本音を出すのは遊びのときだからです。
 普段は元気な子が一人教室にぽつんと残っている。みんなでドッジボールをしていても、その子にだけボールが回ってこない。こうしたことはすべて異常なのです。
 子どもは笑顔が普通なのに、いじめられていたり、何か不満があると途端に笑顔が消えてしまいます。こうしたサインを見落とさないことが大切です。
 より深く子どもを知るには、子どもの考えを積極的に引き出さねばなりません。
 そこで、子どもに「書かせる」ことが重要になります。
 私が子どもに書かせるために活用していたのは「はてな?帳」です。
「はてな?帳」には、子どもたちが疑問に思ったことを何でも自由に書き込みます。身の回りの疑問や、自分自身や家族のこともよく書いてきます。
 提出されたものに、私は良かったところにアンダーラインを引いてたり、すばらしいと一言だけ書く程度に留めていました。
 教師が書き込むのはよくありません。子どもの発想力を奪って書けなくなってしまいます。
 子どもをどう育てれはよいのでしょうか。
 笑いの多い子どもにそだてなければいけません。
 笑いは「ゆとり」です。ゆとりがあれば、少々のことは笑い飛ばせるもの。
 ですから、私は「1時間に一度も笑いのない授業をした教師は直ちに逮捕する」と言っているのです。笑いの多い授業を心がけてください。
 今の子どもたちを相手にするには「ボケ」と「ツッコミ」の技術が役立ちます。
 子どもがまともにきたときには、少しボケて、かわしてみたり「えっ、そうかなあ」とわざと知らないふりをして、とぼけてみたり。そして、ここぞというときに突っ込むのです。
 子どもたちは乗ってきますし、授業が盛り上がります。
 笑いは雰囲気をつくらないと、いきなりは出ません。私は新しいクラスを持つと、一番大切なことは笑うことだと説いて、初日から笑う練習をさせました。
 笑いの絶えない学校づくりこそが、いじめ等の問題発見にもつながるのです。
 もちろん、時には子どもたちを叱ることも必要です。
 私は注意するときは「8:2の原則」に従っていました。8つほめて、2つ注意する。それも、まずほめて、最後に叱ります。
 子どもの考えを引き出すには、面白い教材を使った、面白い授業をすることも大切です。
 子どもが身を乗り出してくるようなネタを用意して、その考えを引き出し、討論したり、ほめたりしながら鍛えていく。
 教材とともに大切なのは、教師が「教えすぎないこと」だと、私は考えています。
 例えば、包丁を使ってリンゴの皮むきをさせるとしましょう。危なっかしい手つきに、思わず手を貸したい衝動に駆られますが、じっと耐えて待つ。子どもが自分で工夫をしてなしとげることが大事です。
 時には、待つことが子どもを大きく成長させるのだと思います。
 私は授業の最後に、黒板に板書した大事なところを消しながら、毎時間その場で復習するようにしていました。
 その時間にあまり集中していなかった子を指名して、消した部分を答えさせるのです。
 その子がわかっていれば、クラス全員がわかっているだろうと評価できるからです。
 評価とはテストすることだと思わないほしい。点数だけが評価ではありません。
 今まで発言が少なかったが、少し増えた。笑いが少なかったのが、みんなと同じように笑えるようになった。動作が少し俊敏になった。こうしたちょっとした成長を教師の頭のカルテに収めるようにします。
 子どもはそれぞれ成長のタイプが違うので、一人ひとりにあった指導、評価をすることが大切です。
 もう一つ、有田学級にとってなくてはならないものが、学級通信「おたよりノート」です。
 私が保護者に伝えたいことや明日の予定、時事問題や季節の変化などを板書し、それを子どもたちが書き写します。
 ただ書き写すのでは、飽きるので飽きがこないよう語尾を「ございます」や「でR」にするなど工夫をしていました。 
 効果は、書く力が圧倒的に身につくこと。私が黒板に書き終わるのとほぼ同時に、子どもたちも写し終わるほどに成長します。
 また、保護者との信頼関係を築き、共通認識を持つのにも役立ちます。
 私は、子どものことや家庭のことでわからないことがあれば、保護者に「教えてください」と素直に言えるくらいでないといけないと考えています。
(
有田和正:19352014年、筑波大学付属小学校,愛知教育大学教授、東北福祉大学教授、同特任教授を歴任した。教材づくりを中心とした授業づくりを研究し、数百の教材を開発、授業の名人といわれた)
 

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教育実践で、一般的法則をつくり出すことができるか

 教育実践家の中で一般的法則をつくり出す教育実践「学」への志向をもっていた人はそれなりにいるが、その強さにおいて昭和を代表する教育実践家の一人の斎藤喜博は特筆すべき存在である。
 斎藤喜博は、次のように書いている。
「教育実践家の幸福の一つは、実践がわれらに無限の教育問題を投げかけてくれるということである。実践によってわれわれ自身の学問ができるということである」
「われわれの研究は教育することである。それは、われわれ自身を高め、同時に子どもたち一人ひとりを高める仕事である」
「教育実践家は指導記録をとって、学者はそれを読み、実際を見て、それを理論づける義務がある。そういう立場から打ち立てられた教育学は、実践家の役に立つ科学的な教育学となるわけである」
 そして、この主張は後年まで変わることなく「科学的な教育学」つまり「教授学」となっていくのである。さらに
「つくりださなければならい問題は、教授学および授業展開の一般的法則をつくり出すことである」
 そして、斎藤喜博が教育研究者に要請することは、
「人間として豊かなものをもつ。事象を全体的・総合的にとらえる。ひとつの具体的事実の中に本質的なものをつかみとる力をもつべき」
「そのためには、創造体験をもつべきであるし、自分で授業に立ち向かう体験をしてみることが必要ではないか」と
 斎藤喜博の教授学のキーパーソンになったのが元東京大学教授の稲垣忠彦氏である。その稲垣氏は授業の定型化を基本的には否定的に評価している。
「授業の定型化は、現象としては授業の手続きが固定化し、授業が一定のパターンによってわくづけられていることを意味している」
「実践の主体である教師に即してみるならば、授業における目的・内容の選択が限定され、授業の過程における子どもへの対応力が失われ、教師の方法の選択が限られていることを意味している」
「明治以降の規範的な定型の支配が一般的であった」
「このような状況の克服の努力の一つに斎藤喜博の実践がある。39年間の教師生活を通じて、多くの教師との協力によってつくられてきた授業の事実を重要なてがかりとして、授業を創造しつつ、その理論化をすすめている」
 しかし、教育実践、特に授業実践を科学研究や芸術創作の成果と結びつけながら、新しい教育学、いわゆる教授学をつくり出す仕事は言うほどには容易なものではなかった。
 斎藤喜博にしても稲垣忠彦氏にしても、教科の最新の研究成果、すぐれた授業実践、それを理論化する研究の成果を総合することが教授学構築の課題であることを鮮明にしていたが、実際は高い壁に直面していたことになる。
 授業は基本的に教師と子ども集団との間の言語的コミュニケーションの過程である。
 その進行過程ははなはだ不安定なもので、常に予定する軌道からはずれる危険性をはらんでいる。
 しかも授業というものはテレビ番組のように予定通りの進行が保たれることに価値があるものではない。その安全な進行を虜るあまり、子どもたちの感性の発想から遠くなってしまう事態がしばしばおこる。
 教師の予定や想定を越える進行が起こったとき、子どもたちの認識活動がかえって活性化するという性格をはらんでいる。
 それはある意味で授業というものがもつ宿命なのである。
 斎藤喜博は、島小学校の実践を背景にして、次のように書いている
「一時間の授業で、子どもや教師が対決し、火花を散らし、つぎつぎと真理を追及し、子どもたちがへとへとになって、満足しきる」
「このような授業をしていれば、子どもたちは自分を出しきり、つかみとった満足がそこにはある」
「専門家である教師がやる授業は、子どもたちが自分の力を出しきり、正確な知識を獲得し、新しい認識とか創造とかをし、それを翌日の授業に持ち込むようなものでなければならない」
「そうなるような必然性とか法則とかを、授業はもったものでなければならない」
 斎藤喜博は学校における一時限の授業の充実、そこに生きる子どもたちの集中と解放にすべてを賭けたのだと思う。
 斎藤喜博がたくさん書き残した教師論も授業技術論もそのためにあり、そういう授業の実現を可能とする学校を各地につくろうとして晩年、全国を行脚することになったのである。
 しかし、教育の世界は、このような方向を追究することにはならなかった。
 子どもたちのために一時限の授業づくりに苦闘する道を選択することはしなかった。
 それよりは、できるだけ楽にやれる道を求め、教育ジャーナリズムもそれを推奨したのである。
 しかし私は、日本の教師たちが一時限の授業に集中と解放を実現することに、教師としての生きがいや喜びを見出す日がいつかきっと来ることを信じたい。
 そのときのために、斎藤喜博の思想や真の姿を後世の伝えておこうとしているのである。
(横須賀 薫:1937年生まれ、元宮城教育大学学長・十文字学園女子大学学長。教員養成や授業に関する研究を主に行った)

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教育は人格形成をめざすが、授業で子どもたちを指導することと、子どもの人格形成とは、どのようなかかわりがあるのか

 私は戦前、広島県の江田島にあった海軍兵学校で終戦を迎えた。約20km離れた広島市の上空にくっきりとキノコ雲が浮かんでいるのが今でもはっきり目に焼きついている。
 混乱する中、ともかく人生はじめからやり直しということで、理系の大学に編入学し卒業後は横浜市立の中学校教師なった。
 横浜市は米軍の爆撃で市内一面焼け野原になっていたので、人々は小さな小屋を作り、食べ物は農家へ芋や麦など買い出しにいってなんとか生きていた。
 生徒たちは盗みなどの問題行動も多い。日本を背負っていく子どもがこんな状況ではどうなっていくのか「教育」がよほどしっかりしなくてはと私は思った。
 私の周りには問題をもつ子どもがたくさん集まってきた。学校の宿直の日には、夜になると男子生徒7,8人がやってきて、雑魚寝となる。トランプをしたり、芋をふかしてみんなで食べた。
 私は教育学も心理学も学習していないが、熱意だけはあった。
 理科教師で、ボイルの法則やエンジンの構造などを教えながら、これが「人格形成にどうかかわるのか」ということがいつも気になっていた。
「教育は、人格の完成をめざし・・・・」といわれるが、これと理科の指導はどうかかわるのか。
 先輩教師に聞くと「態度の乱れは、心の乱れだから、態度を正せば、心の乱れも直るんだ。きみも経験を積めばわかるよ」
と言われておしまい。
 私は、どうしても納得できなかった。やはり教育学を学ばなくては、また人格論について研究しなくてはと考え、4年間の中学校教師をやめて、東京教育大学に入学し研究を始めた。
 教育は「人格形成」にかかわる。人格形成をめざす各教科の授業のあり方が求められる。
 子どもが立派な行動をとるようになるためには、まず大人が模範を示すことが基にある。人格形成をめざす教育活動は、
「よくわからせる」(理解)
「やり方を身につけさせる」(技能)
「やる気を引き出す」(意欲)
の3つそろった指導を行うことである。
 心の教育という場合、心とは何であろうか。
 心とは、人間すべてを「かけがえのない存在」と考えて、自分・他人の区別なく、すべてをいつくしむ態度をもたらす働きである。
 われわれが、親近感をもつ人間は、完成された人格よりも、欠点や悩みをもつ人間性のあふれた人であろう。
 子どもが親近感をもつ教師も、やはり人間的な教師であろう。
 例えば、廊下ですれちがったとき、肩をたたいて、ほほ笑みかける教師、子どもといっしょに昼休みに遊ぶ教師、このような教師に子どもは人間性を感じるだろう。
 子どもと共感的な関係になるためには、まず、教師が赤裸々な人間になり、子どもに開放する。そして、教師は自分自身の人間性そのもので、子どもに応じる。
 教師は、子どもから「生成しつつある人間」と、みられること。つまり、目標に向かってつねに努力し続けている人間とみられることが大切である。
 そのような「生成しつつある教師」は、自分の人間的な弱さを子どもの目の前にあらわにすることができる。
 教師が自分自身の人間性そのもので子どもに応じるならば、子どもも自分の心を開放して、ありのままの姿(人間性)を示すだろう。
 そして、教師と子どもは「人と人」の共感的関係をつくりだすことができる。
 生徒指導は、教師の人間性、生き方(人間観)をぬきにしては成り立たない。
 その教師の生き方(人間観)、それから出てくる目標、その目標を具体化した指導内容、その指導内容に最も適切と思われる指導方法・技術が、首尾一貫していなければならない。その人間観にはどんな内容が考えられるか
(1)
人間は自由意志をもって自分の行動を決定する
 このような人間観に立つから、子どもの自主性を育てることが成り立つ。
 生徒指導の究極のねらいは、子どもに自己指導能力を育てることである。
(2)
あるがままに人間を見る
 人間と行動を結びつけて、悪い行動をしたから悪い人と決めつけると立ち直れなくなる。
 これまでの過去の先入観にとらわれず「いま」の子どもをありのままにみる。
(3)
人間は発達の可能性をもっている
 教師が子どもに対してやるべきことは、子どもが発達の可能性を自分で発見し、発達させることができるように、多様な活動の場と機会を与えることである。
(4)
人間は、相手を自分の一部として関係づけてとらえる
 子どもの行動を教師が自分のあり方と関係づけてとらえる。例えば、授業中、子どもが私語したら、自分の授業の進め方と関係づけて考えることである。
 教師が自己変革へと努力する。そこに子どもと共に努力する教師の姿がある。
 生徒指導を支える人間観から、次の生徒指導の機能が引き出される
(1)
子どもに自己指導の能力を育てるために「自己決定の場」を用意すること。
(2)
子どもが「役に立つ」存在であることを経験することにより、一人ひとりの子どもたちが、独自性と自己存在感を得るようにする。
(3)
「教師と子ども」また「子ども同士」が共感的な関係(出会い)を基盤にして生徒指導が展開されること。
(
坂本 昇一:1927年神奈川県生まれ、横浜市中学校教師、都立教育研究所員、千葉大学教育学部教授を経て、同名誉教授、聖徳大学教授、同児童学研究所長。2000年日本生徒指導学会を設立。学校五日制の提言者
)

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クラスが荒れ、授業中に私語する子どもたちが、集中して取り組む授業をすれば「子どもたちが何のために学校に通って学ぶのか」に応えることができる

 クラスが荒れ、授業中おしゃべりしたり、マンガを読んでいる子どもたちも、集中して取り組むような授業はできないものか。そんな思いで取り組んだのが、つぎの授業です。
 荒れていた子どもたちも、全員が集中して学習ができました。
 授業の始めに、家から持ってきた手さげ袋をみんなに見せながら
「実はこの袋の中に、授業で使うものが入っているんだけど、何だろう?」
と切り出すことから授業を始めました。
 すると、かなりの子どもたちは目を、袋に集中します。先生は何を持ってきたんだろうと、興味しんしんなのです。マンガを読んでいた子も、うれしいことに私の方へ目をむけているのです。
 子どもたちは、頭の中で想像します。ある子は「算数の時間だから、〇〇だろう」と考えるだろうし「あの袋に入るものだから、△△じゃないか」というように予想する子もいます。その内面の活動が集中(内的緊張)を生みます。
 次はどうなるか興味が湧くようなところで、「間」をとることによって、イメージがぐーんと広がっていくものです。
「じつは、これなんです」と言って、最初に白い皿のように見える容器を見せました。
 すると、子どもたちから「植木鉢などの受け皿」じゃないか「プリンの容器」「ゼリーの容器」など、いろいろな意見が出されました。
 底の模様を見せると、知っている子がいて「それはカマンベールチーズ」の容器だと、すぐ当てました。
 次に紙袋から取り出したのは、新聞紙に包んだものでした。提示の仕方も、ワンパターンではなく、変化をもたせるようにします。
 子どもたちは、もちろん何かわからないのですが、大きさから推理していきます。人間ってすごいものです。どのくらいの大きさかがわかれば、予想して当ててしまうのですから。
子ども:「湯飲み茶わんでしょ」
教師:「近いけど違います」
子ども:「コップ」
教師:「とっても近いです」
教師:「みんなのお家の人で、これをよく使う人がいるんじゃないかな。先生もこれを使って飲むのが好きです」
子ども:「グラス」「ワイングラス」
教師:「そう、ワイングラスだよ」
と言って、新聞紙からワイングラスを出します。
 どの子も知的好奇心が高まり、集中して授業に参加しています。当たった子は、うれしそうにニコニコしています。
教師:「次のものは、重いものなんだけど」
と言いながら、紙袋に手を入れて重そうにしていると、
子ども:「先生、それつけものの重石でしょ」
という声。
教師:「確かにつけものの重石のかわりにもなります」
と語ると
子ども:「鉄でできているのですか」
という質問が出されました。
教師:「そう」
と言ってうなずくと
子ども:「それは、筋肉を鍛えるダンベル(アレー)でしょ」
と見ぬいていきます。
こんな感じで木で出来ている花瓶も、子どもたちは当てていきました。
 この四つのものを黒板の前に並べ、その断面図をそれぞれのものの上の方に板書しました。
教師:「じつは、これらのものに共通して言えるものがあるんだけど、何だろうか?」
と言うと、共通ということがピーンとこないような表情をしている子どもたちが、かなりいるのです。
 こういうときは、子どもだけではなく、教師も学びを深めるときです。
 そこで、共通ということは、どういうことかを、とらえさせるために、とっさに思いついたのは、手もとにあった「ホッチキス」と「のり」と「サインペン」の三つでした。
 あらかじめ準備していたわけではないので、教室の机の上にあるものを使う以外に方法はなかったのです。この三つのものを見せて話し合うことにしました。
教師:「この三つはそれぞれちがうけど、共通するものの、似ている点や同じ点があるのでしょ」
と質問すると、子どもたちから出てきたのは「文房具」「材料がどれも、プラスチックでてきていることが同じ」だという意見。
教師:「材料に注目したところがいいね」
教師:「ノーベル賞を受賞した湯川秀樹という物理学者は、物事の違いの中に共通なものを見つけることが、創造にとって重要だという意味のことを言っているけど、みんなも、一瞬のうちにとらえてしまうから、すごい能力だね」
とコメントすると、子どもたちはうれしそうな表情をしています。
教師:「ほかにあるかな?」
子ども:「先生、使えばどれもなくなる」
教師:「さすがです。量に注目したところがいいね」
というような、やりとりをするなかで、子どもたちは「共通」ということを、だんだん理解していきました。
教師:「それじゃ、今黒板の前に並べたものに共通しているものはなんだろう?」
と問いかけると、今度はかなりの子どもたちは気がついたらしく、すぐ手があがりました。
子ども:「真ん中に線を引くと、左と右の形が同じになる」
という意見がだされました。そのうちに一人の子が
子ども:「同じ形にならない場合がある。中心を通らないような線を引くと、同じ形にはならない」
教師:「そうだね、ある考えが成り立つ場合を考えることも大切だけど、その考えが成り立たない場合の条件を考えることも、とっても大事なんだよ」
 子どもたちは鋭い感性で、大事なことをぽんぽん見つけていきます。
 その考えがどんなに重要な意味をもっているかを、ひとこと語ることで、子どもたちは対象を深く見つめる視点を自然に学んでいきます。
教師:「今みんなが発見したように、左と右、あるいは上下が同じ形になるようなものを線対称な形といい、この線を対象軸と言う」
ことを確認して学習を終わりました。
 子どもたちは、今日、線対象について学習することはまったく知らなかったのです。この日は、線対称の学習の第一時間目でした。自分たちの力で線対象を発見したことは、とってもうれしいことだったのです。
 いつも誰か集中しない子がいるものですが、この日は全員が参加した授業ができました。授業したなあという実感をもつことができました。
 推理し想像しながら、みんなで発見していくような授業は、子どもたちも大好きです。学習意欲に欠けるような子が、このように目を輝かせて学習する事実に、私たちは着目していかなければなりません。
 子どもたちは、知的好奇心が高まり、未知の世界との出会いがあるような学習には、むしろ飢えているのです。
 共同で学ぶことで、一時間前には想像もできなかった世界と出会うことができる。
 学級の友だちと対話・討論することで、自分も賢く人間としても豊かなになってきている。
 この実感の積み重ねこそが「何のために学校に通って学ぶのか」という問いに応える、道ではないかと思っています。
(今泉 博:1949年生まれ、東京都公立小学校教師を経て北海道教育大副学長(釧路校担当)、「学びをつくる会」などの活動を通して創造的な授業の研究・実践を広く行う) 

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子育てや教育のキーワードとは何でしょうか、思春期の子どもに具体的にどう接すればよいか

 人間が生きていくうえで、甘えは絶対必要なものです。決して甘えるなと言ってはならない。
 甘えは、ひとことで言うと、相手の愛情を求めることです。
 甘えが満たされるとき「自分は愛されている」と感じます。「自分は愛される価値のある存在なんだ」と感じます。
 相手に対する信頼と自己肯定感が育ちます。それが安心感につながります。
 自己肯定感は、
「自分は大切な人間だ」「生きている価値があるんだ」「自分は自分でいいんだ」という気持ちのことで、子育て、教育のキーワードで、これ以上大切な言葉はありません。
 この土台があって初めて、しつけや学力が身についていきます。
 相手を信じることのできる人は、思いやりを持ち、深い人間関係を築くことができます。
 甘えが満たされないとき、相手に怒りが生じ、甘えさせてもらえるだけの価値のない人間なんだと思います。それが続くと、周囲に対する不信感や怒りとなり、自己肯定感が低くなります。
 そういう人は、相手を信じることも、甘えることもだきないので、攻撃的になったりしやすく、高じると、さまざまな問題行動や、心の失調となって表れてきます。
 どうすればよいのでしょうか。
 話を聴いてもらうことで、子どもは、親に甘えたい気持ちが満たされ、安心します。また、小学生の間なら、抱っこや、スキンシップなども、まだ十分、有効です。
 少なくとも小学生の間くらいまでは、十分甘えを受け止めてかまいません。
 十歳以降は、親離れしていく時期で、依存の対象は親から友だちに変わってきます。それでも、親の存在は大切です。
 子どもはさまざまに裏切られ、傷つきます。そんなとき、親はしっかり受け止めてやってほしいと思います。
 反抗は自立のサインです。子どもは、批判的なことも口にし、自己主張を始めます。
 そういう話を、しっかり聴く、ということです。子どもはよく見ています。正しいことを、きちんと認めることで、子どもも、自分の感じ方や判断に自信が持てるようになるのです。
 小学校高学年以降、思春期に入ると、自立は、反抗や親への批判、攻撃という形を取ってきます。
 反抗や批判をしてくる、ということは自立がうまく進んでいるということです。子育てが間違っていなかった、と喜んでほしい。
 反抗期が激しく出る場合があります。それはたいてい、それまで反抗ができず、よい子でいたか、あるいは抑えつけられていたため、思春期に一気に爆発した場合に多い。
 そういう場合は、付き合うのに、相当、苦労と忍耐が必要です。
 では、子どもをどのようにして自立させればよいのでしょうか。
 子どもに安心感を与え、自信をもたせる、ということです。
 子どもは自分で悩んで、考えて、成し遂げることで自信を持つのです。
 人から言われた通りにやって、成功しても、子どもの自信にはなりません。ですから、できるだけ手出し、口出しは控えたほうがよいのです。
 子どもが失敗したときは
「ここまで、よくできたじゃないか。ここまで、できただけでもりっぱだ。次は、きっと成功するよ」
 と言われると、自信を回復します。
 思春期にある子どもたちに、どう接していけばよいのでしょうか。
 ひと言でいうと「子どもの揺れに付き合う」「子どものあとをついていく」ということです。子どもに指示、命令をしない。
 子どもの前に立って「あっちへ行け」と指示しない。手を引っ張らない。背中を無理に押さない。先回りしない。ちゃんと歩きだすまで「待つ」ということです。
 もう一つは「見放さない」という態度です。
 子どもに振り回されて「もう知らん、勝手にしろ」と突き放さない。
 子どものあとをついていって、子どもが振り返ったら親が「大丈夫だよ」とうなずいてくれるという関係です。
 ただし、どこへ行こうと「分かったよ」と、ついていくことではありません。
 本当に危ない所に向かっていくときは、きちんと止める。これも「見放さない」ということです。
 思春期に具体的にどう関わればよいのでしょうか。
 まず大切なのは「親が肩の力を抜く」ということです。
 思春期になるまで育ててきました。たとえ親がいなくても、これから何とか生きていくことはできます。ですから、子育てで一番大変な時期はもう過ぎました。
 もう中学生になった子に、いまさらああしろ、こうしろと言っても、そんなに変わりません。
 ここまできたからには、なるようにしかならん、といった現実を認めてしまって、肩の力を抜くということです。
 親が肩の力を抜くと、親が楽になります。親が楽になると子どもも楽になります。
 そうすると、険悪な家庭の雰囲気も次第に和んで、笑いが出るようになります。
 せめて家庭だけでも、ほっとしたいと、みんなが願っているのではないでしょうか。
 思春期に親として出来ることは何でしょうか。
 一番簡単で、大切なことは「話を聴く」ということです。
 思春期の子どもはあまり親に話をしてきません。しかし、ごくたまに、親に話を聴いてほしいと思うことがあります。そういう時には、親がいくら忙しくても、しっかり聴くということです。
 また、親に頼み事をしてくることがあります。よほどの事情があるのですから、そういうときは、親は徹夜をしてでも、真剣に応える必要があります。
 かんじんな時に、親に拒否されたり、無視されたりすると、もう親を当てにしなくなり、相談もしてこなくなります。
 子どもの心が順調に育つために一番大切なことは、自己肯定感を育むことです。そのために大切なことは、子どもを「ほめる」ことです。
 思春期の子どもでも、心にスッと入るほめ言葉は「ありがとう」です。
 上から目線でほめられると思春期の子どもはイライラします。ところが、感謝の言葉である「ありがとう」は、人間として対等です。
 自己肯定感を育む「ありがとう」というほめ言葉は、さまざまな人間関係で苦しむ、思春期の子にこそ、必要なのかもしれません。
(
明橋大二:1959年大阪府生まれ、精神科医。真生会富山病院心療内科部長。専門は精神病理学、児童思春期精神医療。NPO法人子どもの権利支援センターぱれっと理事長)

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