カテゴリー「教育の理念や思い」の記事

いつか芽がでて成長する日を夢見て種を植え続けるのが小学校の教育だ   寶迫芳人

 いつか芽がでて成長する日を夢見て種を植え続けるのが小学校の教育だと寶迫芳人()はつぎのように述べています。
 先生という仕事は、誰にでもできる仕事ではありません。
 少なくとも教育に対する情熱や問題意識を持ち、先生としてどのような子どもたちに育てたいのか、というビジョンを持って、遂行していく意志と力を兼ね備えていなければ先生としては通用しません。
 教師の仕事は増加し、授業について研究する時間さえ、満足に確保することができないのが現状です。
 しかし、このような状況にも屈することなく、自分を磨き続け、雑務の波にのみ込まれることなく、自分に挑戦し続けることができるかが重要なのです。
 教師の仕事をしていて心の底から楽しいと思えることはそう多くはありません。
 どれだけ努力を重ねても、もどかしい思いで終わることもしばしばです。
 子どもたちに誠意をもって接しても気持ちが通じないこともあります。
 どうしたらよいか悩むことが多く、行き詰まってしまって苦しい思いをすることもあります。
 私が子どもたちの前に立つときにいつも意識していることは「教育は種まき」であるということです。
 教室には様々な子どもたちがいます。
 その子にとって大切なことを一人ひとりていねいに教えていきます。
 もしかするとその種は、その子には合っていなかったということも考えられます。
 その子の本当の実態は、外部に表出された言葉や行動などから推しはかるしかなく、本当の実態は見ることはできないからです。
 それでも、今どの種を植えたらよいか考え、決断し、間違えていないことを信じて種を植え続けなければなりません。
 誰かがよい種を植え続けなければ、よい芽がでることはないのです。
 子どもたち一人ひとりが大きく成長するその日を夢見て、いつか芽が出ることを信じ、ただひたすら丹精を込めて種を植え続けるのが小学校の教育だと私は思っています。
(
) 寶迫芳人:1970年生まれ、埼玉県公立小学校教師。

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子どもたちが自分を探し確かめるのが芸術表現である

 芸術教育は表現教育である。絵画も歌も表現する。
 だからよりよく表現させることが芸術教育なのだと教師たちは考える。
 その表現の評価は外に現れたものだけで良否を決めてしまっていいものだろうか。
 教育の観点からみれば「なぜ」が大事なのではないか。
 絵画では絵を描きたいという心が形に現れる。この心への洞察こそ教育の原点だ。
 表現教育の視点は、まず表現を生みだす子どもたちに向けなければならない。
 子どもたちの日常は本人すら気づかない事件や物語がひしめくように起きている。
 一人ひとりの子どもの心の内外でそれらはつながり、にじみ合っている。
 その水脈のなかから、授業で歌いたい理由や歌いたくない理由が紡ぎ出されるのだろう。
 そこにその子どもの表現への重要な手掛かりがある。
 しり込みし、ためらい、いやいやながら授業につきあう子どもたち。ときには、反抗することもあろう。そのどれもが、それぞれの「なぜ」を潜在させている。
 音楽コンクールは、今やただ達者であるだけの演奏はだれも評価しない。
 なぜその演奏者がその音楽をそのように演奏するのか、音が語ってくれない演奏は表現とはいえない。
 芸術表現は負や悪をふくめた生命との緊張関係から多くの芸術作品が生み出されている。
 むしろ苦境に立った絶望や屈折のなかから、最後に紡ぎ出された希求や祈りや愛であったりする。
 表現とは自己表現である。だが、自己とは明白なものではない。
 どこにどのようにして在るのかわからないからこそ、人はなにかの手掛かりを求め、それを探し、確かめようとするのではないか。
 その「探す」ことと「確かめる」ことこそが、なにかを創り出す営みにつながるのではないか。
 しかも、そうしてやっと探し出されたものは、絶えず変貌する。変動しわからなくなってしまう。
 だから、私たちは今日歌っても、明日は別な「わけ」で歌を探すことになるだろうし、歌えない自分に出会うかもしれない。それが生きるということではないか。
 芸術とは、わからないことから、わからないことへと架けられた「生きようとする力の現れ」の軌跡であると言えるかもしれない。
 それは鑑賞にもかかわることだろう。
 芸術を理解するとは、作品の背景や成り立ちを知り意味を学ぶことである。
 だが芸術とは本来、他者の言葉だ。
 わが身を語り手に移して根ざしている考えを、語り手の実在を通して感得できなければ芸術はわかったとはいえない。
 しかしそれは、感動することとは違う。感動とは、芸術に接して自分が変化することだ。
 その意味では「鑑賞も表現」であり、主体的な営みだと言える。
 芸術に触れ、ドキドキして、そして「わからない」自分に戻ってくる。それが芸術との出会いというものではないか。
 わからない自分もまた、絶えず変動し続ける自己のありのままの姿であり、人間を常に行動へと向ける無意識の衝動のかたちである。
(三善 晃:1933年生まれ、作曲家。パリ国立高等音楽院に留学、桐朋学園大学の学長を務めた。国内・海外を問わず受賞多数)

 

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教育は出来事を踏まえ、何度でも出直すもの

 教育を研究するといえば、何を教えるか、どう教えるかが柱になってきた。
 しかし、子どもが、どうとらえているか、どう生きようとしているかの視点は心理学におまかせで、配慮の外に置かれてきた。
 学びながら教え、教えながら学ぶという人間のいとなみをうかびあがらせることが教育ということである。
 教師と子どもがたがいに学び、教え合う。
 そこで多様な出来事が生まれ、予想もしていなかった発見や事態に陥る。
 教育はキレイごとではなく、汗と涙と手あかのどろどろしたものにまみれる。
 教育は、
「うーん、なるほど、これは私の思い通りではなかった、これで一つ教えられた」
 といって、何度でも出直すものである。
(佐伯 胖 1939年岐阜県生まれ、認知心理学者、東京大学・青山学院大学名誉教授。認知心理学の知見に基づく「学び」の過程の分析は画期的)

 

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教育はよりよき変化を模索する中にしか存在しえない

 学校という世界に入ること、それは子どもの目からみれば「勉強」が中心の場に入ることを意味する。
「教え-教えられ」の力関係、「教師-子ども」の関係、「子ども同士」の関係に変容される。
 社会の子どもたちへの期待に適応していくことが求められている。
 こうした変容を長年にわたりもたらしていきた学校制度に対して、子どもたちの叫びやあえぎの声が現われてきている。
 それが、さまざまな出来事を通して問題として認識される。
 そして、その問題への解決としての対応と制度改革をつくり出している。
 その改革を推し進めるべく、教師が対処するのに、すぐに役だつノウハウとそのマニュアルが数多く流通してきている。
 こうした改革の動きの根底で常に問いつづけなければならないのは、私たち自身が自明のうちに志向する、知や学習観と学びのあり方、そしてそれを支えるものとして具体的な学習活動や学習環境のあり方の見直しである。
 制度的文化が暗黙に形作ってきた学校知の枠組みに問いをむけてみる必要があるのではないだろうか。
 その問いへの答えは、新たな知のあり方を模索する教師一人ひとりが独自の形で、実践の場でつねに現在進行形で動き変化する「小さな物語り」の中に見いだすことができるだろう。
 一つの理想モデルへの転換をめざすものとしての教育の「いま」をとらえるのではなく、教育は、よりよき変化を模索する中にしか本来存在しえない。
 変化しつづける中に可能性をみとっていく営みなのであるという認識が求められる。
 よりよい育みを教師各自が模索しつづける中にこそ、新たな学校作りへの方向性があると考える。
 往々にして現代社会の問題や病理を映し出す鏡として学校の問題が語られる。
 しかし映された像をみて単に学校批判をするにとどまるのではなく、今、あらためて「学校ならではの学び」の模索を始めなければならない。
 地域の中で公教育の中核としての学校が担うことを期待される役割やあり方を考えることともいえる。
(秋田喜代美:1957年大阪府生まれ、東京大学教授。教育学者、心理学者。世界授業研究学会副会長。内閣府子ども子育て会議会長。専門は、発達心理学、教育心理学、保育学、学校教育学)

 

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教育は学力形成か人間形成か、できるだけ異質なものを取り込んで学ぶことが求められる

 長くいっしょに研究活動をしていると、当初は異質であった教師たちもだんだんと発想が近づいてきます。井の中の蛙化していきます。自分たちが自覚できなくなってしまう。
「研究集団ことのは」は外部に異質なものを求め、取り込もうとし続けています。
 異質なものと響き合うときにこそ、人間の頭は最も機能します。
 異質なものと反発しあうときにこそ、人間の感情は最も大きな起伏を描きます。
 一人で独自の提案をしているメンバーがたくさんいる。指導主事、管理職になった者もいます。
 おそらく我々が常に異質なものを取り込んできたことによって、広い視野から物事を分析するとか、異なる領域・分野の理論・実践を融合するとか、そうしたことをごく自然に日常としているせいなのだと自分たちでは思っています。
 私は学生時代に共通点と相違点を整理するという思考を身につけました。
 この同時進行で異なる理論を学ぶという経験が、私の思考力を鍛えてくれたと実感しています。
 一人の人間の発想などというものは、時を隔ててもすべてが繋がっている、そういうものなのです。
 十年くらい前までの学校は「学力形成」派よりも「人間形成」派の教師が圧倒的多数でした。それが最近、急速に変化してきているのを感じます。その変化はおそらく、
・教師に対する行政の監理が厳しくなり、教員評価制度が定着して数値目標が設定されるようになったこと。
・保護者のクレームの増加によって、教師が個性を発揮しての教育活動がしずらくなったこと。
・2000年前後から「ゆとり教育」の反動として、「学力向上」が大きく宣伝されたこと。
・世論が「学力向上」路線を支持しているような空気が醸成されていること。
 など、様々な要因があるように思います。
「学力形成派」は、学力はどうしても一般教養や受験学力に重きが置かれがちです。
 これが子どもたちの実態から乖離したところで、カリキュラムが立てられてしまう。こういう弊害を招きやすい構造があります。
「人間形成派」は、経験を絶対視する傾向が強い。
 ですから、教育は人間形成だと強く叫ぶ教師ほど、子どもたちに自分の敷いたレールの上を歩かせたいという欲求を強くもつ傾向があります。
 部活動の熱心な指導者などは、ほとんどがそのタイプだと言って過言ではないでしょう。
 私は、自分の教育観はすべての生徒の特性に合致しているわけでない、ということに教職について5年が過ぎた頃に気づき始めます。
 私の教育観は、私という人間の個性に過ぎない。
 私は生徒たちを洗脳しようとしているのではないかと考えるようになりました。
「この生徒は、私でなく、あの先生が担任だった方が合っていたかもしれない」と思える生徒たちが一定数存在することに気がついたのです。
 それも、私と考えの合わない、ウマが合わない、そんな教師たちの方がです。
 私が自分と合わないと思われる生徒たちも包含できるような教師として大成長を遂げようと決心しました。
 私は意図的に振り子を振ったわけです。
 私は3年間だけ、自分の教育活動のすべてを「あちら側」から構想してみよう、そう考えました。 
 私はアクの強いタイプの人間です。そのくらいの気持ちでやった方が、バランスがとれてちょうどいいのではないかと思ったのです。
 転勤した学校の職員会議は私にとって、腹に据えかねるような発想ばかりを基準に決まっていきましたが、私はその発想を学ぶように努めました。
 管理職や教務主任ともたくさん話をして、彼らがどういう発想で教育活動に取り組んでいるのか、ひたすら学び続けました。
「学力形成派」の本質は「割り切ること」でした。
 生徒たちを集団として捉え、その最大公約数に力を発揮する手法を採ろうとします。犠牲者は少なくて済みます。
「人間形成派」は一人ひとりの生徒を無限の可能性をもつ存在ととらえ、一人ひとりに少しでも触媒となるような指導を与え続けようとします。
 一人ひとりを大事にしようとするあまり、他の生徒を犠牲にすることが少なくありません。
 生徒Aと生徒Bの利害が対立したとき、生徒Aに対する指導が生徒Bにマイナスの指導として機能することがあるからです。指導は安定感を欠きます。
 私はこの中学校で三度卒業生をだしました。どの学級もよい学級でした。
 私は教育技術、授業技術を身につけ、それなりの授業力、学級経営力を身につけていましたから、学力向上も生徒指導もいじめ指導も打った手だてはだいたい当たる、そんな毎日でした。
 行事や成績は担任である私が常にリードすることによってもたらされものでした。
 学級で起こったトラブルのすべてを私が間に入って説得し納得させて解決したのでした。
 しかし、この学級経営が失敗であったと気づきました。高校に進学した二割に近い七人の不登校生徒が出たのです。

 進学した生徒たちの問題行動の要因は、生徒たちが自らの行動の意味をメタ認知(自分自身を客観的に認める能力)ができないことに起因しています。
 生徒同士のトラブルは、双方が自分の世界からものを見て、相手に自分の行動がどう見えるか、周りから見てその行動がどう見えるかということを考えられないことから生じます。
 教師が指導するときにも、その生徒の世界観を壊し、周りの視点、他者の視点を理解させるのに随分と時間がかかります。
 保護者のクレームの多くも、そうした生徒個人の世界観のみで聞いた話を保護者がそのまま信じ込んでしまうところから起こります。
 私は再び振り子を振らなければならなくなったのです。
(堀 裕嗣:1966年北海道生まれ、札幌市立中学の国語科教師。92年、国語教育研究サークル「研究集団ことのは」を設立、道内の民間教育団体でつくる「教師力ブラッシュアップセミナー」の代表も務める)

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著名な実践家である東井義雄は、どのような考え方で教育をおこなっていたのか

1 教育と愛
 愛は「私のもの」という意識のことだと私は思う。
「もの」が「人のもの」ではなくて、「私のもの」になると「あばた」も「えくぼ」に変わってくる。
「こと」が「人ごと」ではなくて「自分のこと」になると、無い力まで出てくる。そういう力まで出てくる。
 そういう不思議なはたらきをするものが「愛」だ。
 主体的な「愛」は、ものを自分ものもとして、かわいがり、育て、調べていく。行動的な学習を通してのみ、育て得るものだと私は信じている。
 それは、身のまわりの物事を、自分のこととして考え、処理をしていくような算数の形によっても育て得るだろう。
 かわいがり・育て・製作する理科というような形でも、育てられなければならない。
 国語では、作文がこの大事な仕事を受け持ってくれる。読みの学習においても読みの身構えの問題として「愛」が問題にされねばならぬ。
2 学習
 学習は、ものしりをつくりあげる教育体系でない。
 身のまわりの事物を、算数は算数の立場で学習する。
 はてな?と不思議がり、こうかもしれないぞと考え、こうしてみたらどうか、と実際にやってみて、なるほどとうなずき、でも、いつでもどこでもそうなるか、とためしてみるというような生き方を、もっと大事にしなければならない。
 理科は、理科の立場から、はてな、おやおや、なぜだろう、こうかもしれないぞ、こうしてみたらどうなるか、なるほど、でも・・・と考え、やってみる、というような在り方を大事にしなければならぬ。
 国語も社会科も、そういうふうな、生きて働いていくものに育てあげることで、宿命にさえ見える現実の壁をつきやぶることができるのだ。
 学習は、そういう学習にならねばならぬ。
3 命の触れ合い
 教師であることの、ほんとうの喜びは、子どもの命に触れないでは得られない。教師の喜びは、命と命が触れ合うところにのみ味わわれる。
 命に触れ得ないような教師は、子どもの命に影響を与えていけたりする道理がない。子どもに、何もしてやることはできない。
 子どもに、何もしてやることのできないような教師は、もはや、教師ではない。
 子どもの命に触れるには、私は教師が「ほんものになるより道はない」と考える。
 子どもが母親を慕うのは、それが「ほんもの」だからだ。
 生きていることのただごとでない底深さ、根深さは、たとえ感傷的にでもいい、知っておく必要があるようだ。
 そうでないと、子どもを守る運動も根のないものになってしまうし、人々の共感を誘うこともできないようだ。
 そして、なにより、教育という仕事が、根のないものになってしまう。
 子どものつぶやきが聞こえなくなっている先生は、先生の資格があるとはいえない。
4 ほんもの
「ほんもの」の親は、自分の子どもが、利口であろうがバカであろうが、いうことをよくきく子であろうがいうことをきかない子であろうが、ひたすら子どもを思いわずらう。
 その「ほんものさ」を子どもは本能的に感じとって、母親を慕うのだ。
「ほんもの」だけが、子どもの命にふれていき、子どもの命に影響を与えることができるのだ。
 私は「ほんもの」になるより道はないと考える。子どもたちが母親を慕うのは、それが「ほんもの」だからだ。
「ほんもの」だけが子どもの命に触れていくもののようだ。
 子どもの命にふれ得ないような教師には、何もできない、ということが本当のようだ。
5 教える教育には限界がある
 私は、はじめ、教育ということは子どもたちに「ああしろ」「こうしろ」「そんなことをしてはいけない」「それはこうするんだ」と、子どもを指図し、叱り、教えることだと、と思っていた。
「先生」と呼ばれるようになって25年、それは本当の教育ではなかったんだと、気づかせられはじめた。
 それなら「教える教育」の限界をつき破るものは何か。それは「ほんもの」になることだけだ。
 人を「ほんもの」にしようとして「教える」のではない。こちらが「ほんもの」になるのだ。
「ほんものでない者」が、子どもに「ほんものになれ」と指図したところで、ききめのあるはずがない。
「ほんものでない者」が「ほんもの」でない自分に対して言わなければならないことを、私たち教師は、教師顔して、他人に言いつづけてきた。
 そこに、私たちの長い間の考えの誤りがあったのではないか。
 以前、クラスに、ものを言わない、困った子どもがいた。
 私は、ものを言わせるように、話しかけ、ともに遊ぶようにしたり、クラスにも話しやすい雰囲気づくりに協力してもらったり、いろいろと働きかけたが、だめであった。
 しかし、よく見ると、その子は掃除で、ほうきの使い方や、片付けがクラスの中で一番うまいのに気がついた。
 ものは言わないが、掃除の動作は、ひとつひとつ美しい言葉ばではないか。
 こんな美しい言葉を毎日、自分の行動で語っている。
 私は、うれしい思いでその子を見るようになった。
 そのうち、その子の目が心なしか微笑んで見えるようになり、ほんのかすかであったが、声を聞くことができた。
 あれだけ、ものを言わせようとしても、私がそうすればするほど、口をつぐんだ子が、だれに強いられたのでなく、自分から口を開いたということはどういうことだろうか。
 指図し、教えることよりも、それを、そのまま抱きとることができるような教師になることこそ、子どもの命を開いていく唯一の道だ、ということが考えられないであろうか。
「ほんもの」の学力とは「子どもの感じ方、思い方、考え方、生き方、その論理の歯車にかみ合った力」でなければならない。これを「生活の論理」という。
 この上に、教科の道筋はあくまで教師が主導権を持つという「教科の論理」を加えて東井義雄の学力観は成立している。
(東井義雄:1912-1991年、兵庫県生れ、小学校教師となり綴方教育で認められる。元兵庫県公立小中学校校長。「ペスタロッチー賞」、兵庫県知事や文部省より「教育功労賞」など多数受賞)

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人生に必要な学力とは何か、学校はどうすればよいか

 私自身、ある時期、子どもに受験勉強を強いるのは悪いことだとは思わない。
 記憶力に余裕のある時期に、めいっぱい詰め込んでおいたほうがいいということには条件付きで賛成だ。
 子ども自身がそのことに動機づけられていればという条件だ。
 本来、進学実績だけを目標にした場合、そのための受験技術は「情報を処理する力」に負うところが大きい。これを狭義の学力と呼ぶことにしよう。
 しかし、人生を開く力はこれだけではない。
 まず、学ぶための動機づけが続くことが必要だ。
 興味関心を持ち続ける力、集中を持続する力、自分の内部エンジンで自分自身を動機づけられる力である。
 さらに、正解が一つとは限らない世の中の諸問題には、自分の持っている知識、技術、経験を総動員して組み合わせ、自分なりの解を導く力がいる。
 状況に応じて自分の持ち味を出せる力。この力を「情報を編集する力」という。これを「広義の学力」と呼んでいいだろう。
 つまり、学力テストで測れる狭義の学力も大事だが、テストでは推し量れない広義の学力も大事だということ。
 ましてや、忍耐力も、発想力も、瞬発力も、持久力も、思いやりも、愛国心も、人間としてのスケールも。
 生きるために必要なさまざまな力は、体育、音楽、美術、技術・家庭のような教科や、体育大会、学芸大会、修学旅行のような行事、部活動や教師や生徒間のコミュニケーションなど、すべての学校機能を通して複合的に養われる。
(藤原和博、1955年生まれ、リクルート社フェロー、東京都初の中学校の民間人校長、大阪府特別顧問、奈良市立高校長等を歴任した。家庭教育の機能が低下したため、親以外の大人とのななめの関係を重視した)

 

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教えること、学ぶこととは、どのようなことなのか

 教えることの基本は、教える人が自ら学ぶ人でなければ、学ぶ子どもに応えられないし、学ぶ力を育てることはできない。
 学びは、一人ひとりが、世界とかかわり、働きかけ、自らを形成し、育てることである。
 知識は、ただ多く貯め込んでも価値は乏しい。学んだ人間が自分にとっての意味をつかみ、それによって世界を見たり、つかんだり、かかわったりできることが大切である。
 教育は、学ぶ人との関係の中で、教える人が自覚的に変えていくことが必要である。
 教える人は、教育的発想だけでなく、学びの側からの視点・発想を併せ持つことは、きわめて大事である。
 遊ぶ、真似る、倣うという生活の中の行為が、学ぶ、知る、覚えることに直結しています。
 幼児や子どもたちは、少なくとも目に見える、耳に聞こえる、手でさわれるような具体的なものは、教わらなくても知っていくのです。
 子どもたちは、自分で知ったことのほうが、はるかに身についていくし、楽しいのです。そうやって、自分の世界をつくり、広げていきます。
 他者に働きかけ、他者から働きかけられるという生活的な豊かな経験が根底にあって、聞く・話すことを身につけ、さらに読む、書くことへと進みます。
 海や川、山の自然の中で遊び、自然とふれあうことは、人(社会)とのふれあいと共に、その人の価値の土台にもなります。
 自然そのものは「教え」たりはしませんが、読み取ろうとする人に対しては、たくさんのメッセージを発しています。
 子どもたちは、そうした生活の中のさまざまな「学び」の成果を蓄えています。
 そのことを忘れてはいけない。教える人は、子どもたちを受け身に立たせて疑問を感じない人であってはならないのです。
 子どもにとって、身の周りにあるすべてのモノや人が新しい出会いであり、それらを知ることで自分の世界が広がっていくのですから、うれしくないはずはありません。
 また「自分だけ」の力でやりたいと願うとともに、自分だけで「できるかどうか」を思案して、考えたり、判断し、選択し、決意したりしているのです。
 学ぶということは、こうしたプロセスを不可欠に伴っていて子どもも例外ではないのです。
 実は、どれほど年をとっても、新しい知見と出会いはあり、広がる喜びやたのしみはあるのです。
 学ぶということは、さまざまなモノやできごとを知り、自らの内に置き続けることなのです。
(国民教育文化総合研究所) 

 

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「お勉強」と「学び」は明確に違う、学びの本質は没頭にある

 自分で行先を決る生き方のためには「学び」が不可欠だ。
 僕が言う「学び」とは、没頭のことだ。
 わき目もふらず没頭し、がむしゃらに取り組める体験のすべてが「学び」だと僕は思っている。
 だから、没頭する対象は数学や英語、料理やダンスだろうと何でもあり得る。その人が心から没頭できていれば、僕はそれを「学び」ととらえている。
「お勉強」と「学び」とを、僕は明確に違うものとしてとらえている。
「お勉強」は、あくまで受動的な行為である。与えられたものをこなす作業である。
 いくら「お勉強」をしても、自分で行き先を決める生き方にはたどり着けない。
「お勉強」で身につくのは、敷かれたレールに乗る習慣だけだ。
 その習慣が身についてしまった人は、テストや問題集がなければ、自ら何かを学ぶことはないだろう。
 なぜなら、彼らが目的としているのは「与えられた課題をこなし、大人に認められたいこと」だけだからである。
「学び」は常に能動的だ。未知の領域に足を踏み入れ、新しい体験や考え方を味わうことのすべてがこれにあたる。
 だから、正解もいらない。すべては「自分で切り拓いていく」営みなのである。
 自ら動かなければ取り組む課題が見つからないことも、没頭する対象がある限りは「楽しい」ことだ。
 だから、彼らは好んで暗中模索を、試行錯誤を繰り返す。
 没頭は、人を立ち止まらせないのだ。常に人を前へ前へと押し出し、新しい体験をつかませようとする。
 だから、当然のことだが、イノベーションを生み出すのは「お勉強」ではなく「学び」だ。
 夢中になっているからこそ、人は一日中それについて思考を巡らし、新機軸を思いつくことができる。
 失敗を恐れずに試行錯誤を重ね、努力や苦労の過程も含めてすべてを楽しむことができるのだ。
 学問の領域も「それに没頭してしまった誰かの」姿である。
 例えば、現代物理学の父アインシュタインが自分の抱いた疑問の検証に寝食を忘れるほど没頭し、そこでの発見を後世に残したからこそ、学問の体系は成熟した。
 実際、歴史に名を残すような人たちは皆、並外れた没頭力をもっていたことで有名である。
 彼らは、心の赴くままに学び続け、道なき道を突き進んでいった。
 学びとは、知の地平線を拡大する。つまりイノベーションを起こしていく過程そのものなのだ。
 それは当然「自分の進むべきルートを自分で作り出す」こととも重なる。
 今、僕たちが目にする教科書も計算ドリルも、誰かの没頭の副産物にすぎない。
 それをただ漫然となぞるお行儀のいい「お勉強」の中に、学びの本質は存在しない。
 新しい知を切りひらき、新しい仕事を生み出し、あなたを未来へと突き動かす本当の学びは、没頭の中にこそあるのだ。
(
堀江貴文:1972年生まれ、実業家、著作家、投資家、タレント。元ライブドア代表取締役社長CEO、証券取引法違反容疑で逮捕され、ライブドアの役職を退いた
)

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教育の原点とは何でしょうか、原点を踏まえて何をすることが教育なのでしょうか

 教育の原点は「子どもを見る」ことです。子どもの実態をつかみ、その実態を良い方向に変えることこそが教育です。
 では、子どもをどう見ればよいのでしょうか?
 大前提として、教師は子どもに興味や好奇心を持ち、大好きになること。
 そのうえで、減点主義で子どもを見ず、育てる目で見ることです。
 私はよく、この子は何のプロになれるだろうということを考えていました。
 私は特別な用事がない限り、教室にいて子どもたちと過ごしてきましたし、毎朝20分間は必ず子どもと汗まみれになって遊んでいました。
 というのも、子どもがいちばん本音を出すのは遊びのときだからです。
 普段は元気な子が一人教室にぽつんと残っている。みんなでドッジボールをしていても、その子にだけボールが回ってこない。こうしたことはすべて異常なのです。
 子どもは笑顔が普通なのに、いじめられていたり、何か不満があると途端に笑顔が消えてしまいます。こうしたサインを見落とさないことが大切です。
 より深く子どもを知るには、子どもの考えを積極的に引き出さねばなりません。
 そこで、子どもに「書かせる」ことが重要になります。
 私が子どもに書かせるために活用していたのは「はてな?帳」です。
「はてな?帳」には、子どもたちが疑問に思ったことを何でも自由に書き込みます。身の回りの疑問や、自分自身や家族のこともよく書いてきます。
 提出されたものに、私は良かったところにアンダーラインを引いてたり、すばらしいと一言だけ書く程度に留めていました。
 教師が書き込むのはよくありません。子どもの発想力を奪って書けなくなってしまいます。
 子どもをどう育てれはよいのでしょうか。
 笑いの多い子どもにそだてなければいけません。
 笑いは「ゆとり」です。ゆとりがあれば、少々のことは笑い飛ばせるもの。
 ですから、私は「1時間に一度も笑いのない授業をした教師は直ちに逮捕する」と言っているのです。笑いの多い授業を心がけてください。
 今の子どもたちを相手にするには「ボケ」と「ツッコミ」の技術が役立ちます。
 子どもがまともにきたときには、少しボケて、かわしてみたり「えっ、そうかなあ」とわざと知らないふりをして、とぼけてみたり。そして、ここぞというときに突っ込むのです。
 子どもたちは乗ってきますし、授業が盛り上がります。
 笑いは雰囲気をつくらないと、いきなりは出ません。私は新しいクラスを持つと、一番大切なことは笑うことだと説いて、初日から笑う練習をさせました。
 笑いの絶えない学校づくりこそが、いじめ等の問題発見にもつながるのです。
 もちろん、時には子どもたちを叱ることも必要です。
 私は注意するときは「8:2の原則」に従っていました。8つほめて、2つ注意する。それも、まずほめて、最後に叱ります。
 子どもの考えを引き出すには、面白い教材を使った、面白い授業をすることも大切です。
 子どもが身を乗り出してくるようなネタを用意して、その考えを引き出し、討論したり、ほめたりしながら鍛えていく。
 教材とともに大切なのは、教師が「教えすぎないこと」だと、私は考えています。
 例えば、包丁を使ってリンゴの皮むきをさせるとしましょう。危なっかしい手つきに、思わず手を貸したい衝動に駆られますが、じっと耐えて待つ。子どもが自分で工夫をしてなしとげることが大事です。
 時には、待つことが子どもを大きく成長させるのだと思います。
 私は授業の最後に、黒板に板書した大事なところを消しながら、毎時間その場で復習するようにしていました。
 その時間にあまり集中していなかった子を指名して、消した部分を答えさせるのです。
 その子がわかっていれば、クラス全員がわかっているだろうと評価できるからです。
 評価とはテストすることだと思わないほしい。点数だけが評価ではありません。
 今まで発言が少なかったが、少し増えた。笑いが少なかったのが、みんなと同じように笑えるようになった。動作が少し俊敏になった。こうしたちょっとした成長を教師の頭のカルテに収めるようにします。
 子どもはそれぞれ成長のタイプが違うので、一人ひとりにあった指導、評価をすることが大切です。
 もう一つ、有田学級にとってなくてはならないものが、学級通信「おたよりノート」です。
 私が保護者に伝えたいことや明日の予定、時事問題や季節の変化などを板書し、それを子どもたちが書き写します。
 ただ書き写すのでは、飽きるので飽きがこないよう語尾を「ございます」や「でR」にするなど工夫をしていました。 
 効果は、書く力が圧倒的に身につくこと。私が黒板に書き終わるのとほぼ同時に、子どもたちも写し終わるほどに成長します。
 また、保護者との信頼関係を築き、共通認識を持つのにも役立ちます。
 私は、子どものことや家庭のことでわからないことがあれば、保護者に「教えてください」と素直に言えるくらいでないといけないと考えています。
(
有田和正:19352014年、筑波大学付属小学校,愛知教育大学教授、東北福祉大学教授、同特任教授を歴任した。教材づくりを中心とした授業づくりを研究し、数百の教材を開発、授業の名人といわれた)
 

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