カテゴリー「教育史(教育の歴史と変化)」の記事

大正自由主義教育と綴り方教育とは、どのようなものであったのでしょうか

 大正デモクラシーにより、明治時代の画一的で注入主義の授業に対する批判から、教育方法の改革をさまざまな形で試みられるようになった。
 大正新教育運動は、欧米諸国の人材育成を目的とした教育改革の影響を受けていた。たとえば、子どもの自発性を重視するデューイの児童中心主義などに象徴される新教育運動の影響である。
 日本の教師は、これらを背景にした新教育運動のもとで、子どもの自発性を尊重しようとする自由主義的な教育実践を展開することになった。
 大正新教育運動は、子どもの主体性などの思想を教育実践に組み込もうとしたものであった。
 第一次世界大戦を経て、日本の経済が発展し経済的に安定した中間市民層が創出されて、大正新教育を支えることになった。
 私立学校が相次いで設立された。1917(大正6年)の成城小学校の発足を皮切りに、羽仁もと子の自由学園、明星学園、池袋児童の村小学校などが設立され、教師は様々な実践を展開したのである。
 大正新教育のもうひとつの特徴は、師範学校の附属小学校を中心として、その実践が展開したことである。
 たとえば、明石女子師範附属小学校主事であった及川平治は、経験主義の立場から、児童の生活経験を基盤として自律的な活動である「分団式教授法」で、知識や技能を身につけさせようとした。
 奈良女子高等師範学校附属小学校における木下竹次の「生活即学習」という考えに基づく「合科学習」、千葉師範付属小学校の手塚岸衛の自由教育などの実践が展開された。
 しかし、これらの自由主義的教育運動は、その後、日本が軍国主義へと傾斜していくなかで衰退してゆかざるをえなかった。
 これを象徴する事件が川井訓導事件である。
 松本女子師範附属小学校の訓導であった川井が、修身科の授業改革に取り組み、副読本の文学作品を用いて実践していた時、視学官に国定教科書を使用していないことをとがめられ、休職処分にまで追い込まれたのである。
 彼は、国の教育方針に背くつもりはまったくなく、教育方法の改良を図ろうとしたのにすぎなかったが、教育における国家主義を脅かすものとみなされたのである。
 大正自由主義教育運動は、明治時代に日本に移入されたヘルベルトの5段階教授法に見られる形式主義を批判するものとして、大きな意味をもつものであった。
 しかし、国家主義により教育目的の自由な議論が封じられて、教授方法に限られ、方法主義的にならざるを得なかったのである。
 昭和初期の1920年後半から30年代初頭は、たびかさなる経済恐慌の影響を受けて国民生活は窮迫した状況となった。
 この時期の教育運動として特筆すべきは、生活綴方(せいかつ つづりかた)教育である。
 生活綴方とは、子どもたち自身に、生活上の出来事や、それに関わる思考や感情を作文に素直に綴らせるのである。
 その作品をみんなで検討する作文指導を通じて、生活現実のリアルな認識や文章表現力、自己意識や仲間との連帯感、主体性などを育てることをめざす教育方法である。
 その担い手となったのは、農村部の若い教師たちで、貧困という窮迫した生活を生きる子どもたちを、作文教育を通じて生活指導を進めていったのである。
「綴方生活」や「北方教育」などの雑誌は教師たちの交流の場となった。
 生活綴方の運動は1920年末から30年代に各地で展開されたが、特に東北地方で盛んに行われた。
 しかし、生活綴方の運動は、子どもたちに悲惨な生活の現実を直視させることで反政府的な思想を育てるものとして警戒され、1940年以降、治安維持法により綴方教師は検挙されていった。
 戦後、1951年の無着成恭編「山びこ学校」の刊行などを契機として運動が復興し、その実践は新たな展開をみせながら現在も継続されている。
(
櫻井 歓:1972年生まれ、日本大学准教授。専門は教育学、哲学・倫理学)
(
岩本俊一:法政大学非常勤講師)

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日本の授業改革(グループ学習や机の配置など)の歴史はどうであったか

 日本人の多くは認識していないが、大正自由教育と戦後新教育の展開で日本の学校は授業改革では世界の最先端を切り開いていた。
 日本の教室の革新は大正自由教育の子ども中心主義の私立実験学校(成城小学校)において創始され、昭和初期に全国の師範学校附属小学校を中心に公立学校にも普及した。
 成城小学校では男女混合4人のグループ学習が行われている。明石師範学校附属小学校の及川平治の分団式動的教育法のように効率性を追求した能力別の編成においては、6人を標準とするグループ学習も実施されていた。公立学校のグループ学習は、男女混合4人のスタイルが多く、昭和初期には相当数、普及していたことが知られている。
 教室の「コの字」型の机の配置も、大正自由教育において創始され、昭和初期に全国の学校に普及した。日本の小中学校において一般化していたグループ学習も「コの字」型の教室の配置も、欧米の一般の学校において普及するのは1970年代以降である。
 戦後の新教育は1947年から1955年ごろまでの間、小中学校の教師の約8割が「学校独自のカリキュラムづくり」を推進し、「単元学習」の実践を展開した。この事実は驚異的と言ってよいだろう。これほど多くの教師が新教育の実践に挑戦した国は日本以外に存在しない。
 しかし、日本の教室は後進性においても特徴的である。高校の一斉授業は100年以上にわたって変化しないまま今日を迎えている。
 日本の教室の後進性は高校だけでなく、小中学校にもみられる。教師が黒板を使い、教科書を中心に説明と発問と指名で子どもの応答を組織する一斉授業の様式は、途上国以外の国では博物館に入っている。
 その事実を参照すると、日本の教室は輝かしい革新性を有しながら、一斉授業という後進性の枠組みに縛られているのが現状である。
(
佐藤 学:1951年生まれ 東京大学教授を経て学習院大学教授。学校を訪問(国内外2800)し、学校現場と共に学び合う学びの改革を進めている)

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大正時代の後期、ある平凡な小学校教師の大正新教育の指導法とその結果とは

 大正時代の後期、石川一は愛知県にある小学校の平凡な教師であった。彼をとおして大正新教育時代の教師の活動を覗いて見る。
 彼の教育についての新しいここみに関する情報は、木下竹次「学習言論」、小原国芳「児童図書室論」などの本や雑誌、それに研究会参加及び講演があげられる。
 日記には、今までの教育方法を反省する記述が多い。例えば、子どもの学科ができない原因のひとつに教材選択がある。子どもは経験をもとに理解するのであり、「今後私は、教材選択は子どもの実際の生活を土台として進んで行こう」と反省している。
 彼は大正13年に奈良女子高等師範学校附属小学校を視察している。同校は木下竹次が主事として、自学自習「学習時間」を特設し、「学習研究」を発行して実践・理論を紹介していた。同校の教育方針は、子どもが自分で学習する自律的学習を行うことである。
 彼は視察した感想を「全職員が同じ主義のもとで熱心に授業活動をしている。学校に自由気分が充満して、子どもが心から喜んで自由な活動をしている」と記している。
 翌年に、彼は週六日の毎朝一時限目を国語の読み方と算術に当て、子どもの自習を中心とした時間を設定した。自習時間は予習と復習を子どもにさせる。
 試験の成績で学級を四班(上・中・下・劣)に分け、中等以上の子どもには自分で学習する方法を指導し、劣等児は復習に重きを置き、個人指導をする。週一回は研究日をもうけ、解けない問題を子どもから提出させて、子どもたちが相互に研究し、教師は見守り助言する。
 子どもの自発性を重んじ、子ども一人ひとりの個性に注目し、自学自習心を養い、分団授業で、劣等生を救済すること、が意図されていた。
 自学主義の取り組みの結果の彼の感想は
(1)
劣等生の教育に効果がある。進歩も遅遅としているが確かに効果はあると思う。
(2)
自発主義といっても子どもが真に活動してくれなかったら何もならない。この実践で子どもたちの成績を向上しようとしても無理な注文のような気がする。
(3)
子どもの学習心理に立脚した子どもの興味中心の学習も、子どもは知識の必要を感じていない。やはり昔式の教授法が適しているように自分は思う。教師の圧力的指導法でなければ子どもは知識欲を出してくれるものではない。
(
石川辰彦:1954年愛知県生まれ、筑波大学)

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日本は産業と教育の急速な拡充と発展が終わり、勉強の時代は終わった

 日本の子どもは、かつて世界一勉強熱心なことで知られていました。なぜ、勉強しない子どもへと転落してしまったのでしょうか。この謎を解く鍵は、日本の近代化にあると、私は考えています。
 産業と教育の急速な拡充と発展が停滞した時点で教育は破綻します。
 事実、教育危機が新聞の一面に掲載され、毎日のようにテレビで放送され始めたのは、1980年前後のことでした。三重県の尾鷲中学校の校内暴力事件(1980年)が発端でした。この事件以降、全国の中学校の校内暴力が起こり、その他の教育危機が次々と語られるようになりました。
 学級崩壊が顕著になるのは1990年代半ば以降ですが、この現象も、1980年前後に始まる教育危機の勃発の延長上に位置づいています。
 子どもたちの「学び」からの逃走も同様です。
 実際、教育が急速に進展していた時代の日本は、学校と教師への信頼度が世界一高く、子どもの学習への意欲も学習時間も学力の水準も世界一高いことで知られていました。
 そのときは、学校教育によって大半の子どもが親よりも高い教育歴を獲得することができ、親よりも高い社会的地位を獲得することができました。
 しかし、産業と教育の急速な拡充と発展が終わると、もはや大半の子どもは、学校教育によって親よりも高い教育歴を獲得することも、親よりも高い社会的地位を獲得することもできません。
 学校は一部の「勝ち組み」と多数の「負け組み」を振り分ける場所へと変貌しました。多くの子どもたちにとって学校は、失敗と挫折を体験する場所になってしまいました。
 この転換によって、学校と教師への信頼度も学習の意欲や努力も、世界一のレベルから転落しました。勉強の時代は終わったのです。
(
佐藤 学:1951年生まれ 東京大学教授を経て学習院大学教授 学校を訪問(国内外2800)し、学校現場と共に学び合う学びの改革を進めている)

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戦後の教育実践のあゆみ- 学力と自治の保証を求めて-

(1)高度経済成長と学歴社会の到来
 1950年代後半から本格化する高度経済成長政策は、「学歴や学力こそが豊かさを保証するもの」「子どもは少なく産んで大切に育てる」との意識を醸成することになった。
 この「近代家族」特有の意識の大衆化が、学歴社会、大衆教育社会を樹立した。
 教育改革によって単線型学校体系が確立され、大学進学率が上昇し、急激な学歴社会の到来は、学歴獲得競争をともなって子どもたちをまきこんでいった。
(2)
教育の現代化と広がる格差
 1958年の学習指導要領は告示となり、この改訂から経験主義から系統主義へと転換した。そして教育現場への統制力を強めた。また、道徳的な心情を養成するために道徳が特設された。
 1968年の学習指導要領は、現代科学の内容と方法でもって教育内容を編成した「現代化」を打ち出した。子どもたちにとって理解しにくい内容であっても学習可能であるという主張であったが、やがて子どもの格差がひろがり、落ちこぼれが問題となった。
 高度経済成長政策を推し進めるために、経済界から国際的な競争下で創造的な知的能力を育成することが要請された。この能力主義は、高校教育に対して多様化政策として、学校別・学科別・コース別の教育課程が編成され格差を顕在化させていった。
(3)
学力と自治の保障に奮闘する教師たち
 系統主義の立場から戦後初期の新教育に対して批判を行うなかで、民間教育研究団体が結成されることになる。
その主なものは、
「歴史教育者協議会」(1949年)、
「数学教育協議会」(量の体系・水道方式:1951年)、
「科学教育研究協議会」(1954年)、
「仮説実験授業」(問題→予想→討論→実験:1954年)
などであった。その主張は、教育課程の編成において「科学と教育の結合」をはかることである。
 他方、この時期に大西忠治たちによって、小西健二郎の「学級革命」に代表される生活綴り方にもとづく「仲間づくり」論が批判され、「班・核・討議づくり」にもとづく、「学級集団づくり」論が提唱される。
 これは、特設「道徳」の心情主義への批判を前提として、自治能力の形成を集団づくりという実践を行おうとしたもので、「全国生活指導研究協議会」(1959年)を主導する理論と実践となった。
 これら民間教育研究団体の成果は、手弁当の会員たちによる地道な活動によって発展・普及し、現代日本の「教育実践」に多くの示唆を与えている。
 教育の現代化で授業を理解できない子どもが増加し、1971年に落ちこぼれ問題がマスコミを通じて社会問題化した。神戸市立平野小学校で教鞭をとっていた岸本裕史は、落ちこぼれの子どもを救おうと百マス計算を始め、学力の定着(技能の習熟)を楽しく行える方法の開発と、学力形成を支える子どもたちの生活(見えない学力)の点検を同時に追究するようになる。
(
田中耕治:1952年生まれ、京都大学教授、専門は教育方法学(学力論・授業論・評価論)

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子どもの個性を生かす分団式動的教育法 

 及川平治は成績が劣る子どもに適切な教育を実施するために、内容によってグループに分けて学習する分団式教育を行った。
 分団式教育は授業の最初からグループ分けするのではなく、一斉授業の中で、教材内容や、子どもの学習の状況に応じて、「全体」「グループ」「個別」と変化させて学習し、子どもが能動的に学習する力や自学自習する力を育てることを目的とした。
 分団式教育はグループ学習のみならず、全体学習も含んだ教授方法である。
 グループ学習をする分団は固定しないで、教材内容や、学習者の学習理解状況に応じて、日々編成し直した。
及川の提唱した「分団式動的教育法」は、
(1)
教育を固定した形式にとらわれず、動的にとらえる
(2)
子どもの能力は多様であるという事実をふまえる
(3)
学習法を訓練するという立場に立つ
という「三大主張」に立脚したものであった。
 わが国の「個性」を生かす教育の原点は、明治末期からの教育改革の動向と関連し、及川の「分団式動的教育法」は子どもの能力や特性の違いに応じた教授・学習活動を展開させようとするものである。
 及川の「個性」を生かす授業は、教授・学習を一体化して、子どもの自己活動を重視し、教師の授業を構成する力が必要となる。
 形式主義を批判し、「指導の個別化・学習の個性化」をねらい、学級の全員がわかる授業をするという願いで生まれた及川の実践はわが国の大きな遺産となっている。
(
及川平治:18751939年、苦学して教師となり、明治末年から昭和10年代初期まで兵庫県明石女子師範学校附属小学校で主事として教育改革に挑み、わが国教育の発展に多大な功績を残した)

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明治後期の教師の実態とは

 初等教育就学率は明治35(1902)には90%を突破した。教員数もこの15年間で倍増し152千人になった。
 教室では多人数の子どもを教えるという事態が生じ、授業の実力をつける必要が痛感されるようになった。明治30年代に教師向けの教育雑誌が次々に登場し88誌に及んだ。教育雑誌は各教科の授業実践記録の紹介と批評する記事が多く掲載された。
 すべての小学校に校長がおかれたのは1900年以降である。教員も師範学校卒の本科正教員のほか、準教員、代用教員とよばれる教師たちがふえてきた。教員の出身階層が士族から平民とくに農民出身者への移動が進んだ。教員待遇の劣悪化と地域間格差が広がった。生活難による教員の社会的地位の下落が顕著になった。
 他面、教職の専門性は教則の統制的整備とヘルバルト主義教授法の実践による定型化で教職の専門性が確立した。しかし、教育実践の創造的な余地が縮小され、教員の教育の自由が制約された。
明治30年代の教師論は、
(1)
教育という仕事の目的を教師たちに再確認させ蘇生させる。
(2)
戦勝国の大国意識を強調し、教育目的の国家性を高唱する。
(3)
教師の技術水準を向上させる。
教師の出世や待遇の要因をとりこんで、向上させようとした。
(
寺崎昌男:1932年福岡県生まれ、東京大学名誉教授)

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大西忠治(おおにし ちゅうじ)(中学校)  「班・核・討議つくりによる学級集団づくり」

 大西忠治は、1930年香川県に生まれ、香川大学在学時に生活綴方を実践した無着成恭の「山びこ学校」を読んで感銘を受け、教師になる決意をして香川県の中学校教師として24年間働いた。
 大西は一時期、生活綴方実践に傾倒し、それをまねた集団づくりを試みて悪戦苦闘したあげく、集団の力を「集団自身に教え、集団自身に自覚させる」という独自の道筋を開拓していった。
 荒れた教室を目の前にしたとき、教師はどう学級を立て直していけばよいのだろうか。大西はこの問題に、子どもたちの集団がもつ力に着目して立ち向かった。
 大西の手法は「班・核・討議づくり」と呼ばれ、1960年代から1980年代、集団づくりを論じる生活指導論に大きな影響を与えた。民主的な集団をつくることを教えるのではなく、生徒たちに行動を通して学ばせるものとして注目を集め、急速に全国の学校に「班つくり」が普及した。
 ただこの手法については、当初より、集団の意志決定と行動を優先するので、個々の子どもが抑圧される危険性はないか。一人ひとりの子どもに自分を表現させ、学校での学習と実生活と結合させるという生活綴方の視点に注目すべきだ。また班や討議よりも自発的サークルを重視すべきだ、という指摘もあった。さらに教科教育の学力形成と子どもたちの自治の発達とをどう関連づけていくのかについて、今なお課題である。
 1980年代に入ると、校内暴力、いじめ、不登校といった問題が噴出する。大西自身も中学生の変化を感じ、自由で柔軟な自治的集団へと転換していく「ゆるやかな集団つくり」を提唱した。
 人間は、好むと好まざるとにかかわらず、常に集団のなかで生きている。大西は、子どもたちに集団の良いところも悪いところもともに実感させ、子どもたちが自らの手で集団づくりを進めるための方策を教えた。その実践は、子どもたちに集団のなかで生きることを伝えたものとして、現在でもその光を放ちつづけている。
(大西忠治:19301992年、香川県の中学校教師。茨城県茗渓学園中学校長をへて、昭和60年都留文科大教授。生活綴方運動、生徒の学級集団「班・核・討議」づくりの実践にとりくんだ)

(
「時代を拓いた教師たち戦後教育実践からのメッセージ」田中耕治編著 日本標準 2005年 執筆者:西岡加名恵(京都大学准教授))

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打たれ強さと自在の精神を

 授業中、私が教科書を読み始めたとたん「センセー、何ページ」その声に戸惑いがありません。私は「さっき言っただろう、60ページだよ」再び私が読み始めます。1,2分もたたないうちに「センセー、何ページ」と明るい声。思わずキレそうになります。
 要するに、私が生徒に向かって指示したりすることは、自分に向かってのものではなく、ほかの多くの級友に向かって言っていることであると、彼らは思っているのです。自分の名前が呼ばれた時に初めて自分に向けられていると察知するのです。
 かつての学校は、困窮から、はいあがるための場所でした。学校でどう生きるかが、社会でどう自己実現できるかに直結していたのです。学校には見えない「権威」が確かにあったのです。
 今は貧しさが生きるバネになった時代とはまったく違うのです。ベテラン教師であっても、授業をしっかりと成立させるのは至難の業と言わざるをえません。際限のない私語や立ち歩きなど、そんな現象に苦慮している学校がたくさんあるのです。
 授業技術の錬磨と創意工夫によって、克服できるのでしょうか。私は無理だと思います。年間すべての授業を生徒が興味の持てるものにしようなど、しょせん無理な話なのです。懸命に教材研究をし、創意工夫を授業に生かそうとした教師ほど、その限界をよく知っているのではないでしょうか。能力のそれぞれ違った40人の生徒を前にして、彼らが等しく興味を持ち、理解を深められるような授業などありえないということに現場の教師は気づいています。
 技術や工夫は必要ないなどと言っているわけではありません。むしろ最大限の努力はしてしかるべきでしょう。ただ「一生懸命やれば必ず子どもは変わる。変わらないのは技術と工夫が足りないからだ」という精神主義が教師を追いつめてしまうのです。「教師は授業で勝負」だからと自分を追いつめることはありません。
 私は、授業に限らず学校のさまざまな場に、かつての古き良き時代の学校幻想を追い求めるのではなく、今を前提にした、新しい大人と子どもの秩序を生み出すことが大切だと思っています。
 私たち教師が忘れてならないのは、こうした限界を抱かえているという学校というところに身を置いているという時代感覚です。打たれ強さと、精神の自在さが必要だと思います。そこから、旧来の学校観、教育観、子ども観にとらわれない、新しい現実を読み解く方法をつくり出さなければならないと思うのです。
(
赤田佳亮:1953年生まれ、横浜市立中学校教師、組合執行委員)


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良い学校に進学すれば幸せになるという魔法の杖がなくなった

 「しっかり勉強して良い高校、大学に入り、一流企業にすれば、終身雇用によって豊かで幸福な未来が約束されている」という神話が、高度成長期にはあった。
 そしてこの神話が、教師たちに「魔法の杖」を与えていたのだと私は思っている。
 もし、言うことを聞かずに問題行動をおこす生徒がいたら、教師は生徒に「おまえ、そんなことやっていたら、まともなところに進学できないぞ」と言えば、子どもたちは教師の言うことを従順に受け入れるしかないからだ。
 これが私の言う「魔法の杖」だ。これさえ振り回していれば比較的たやすく多くの生徒たちを牛耳ることができた。ともあれ、この「魔法の杖」が通用した時代というのは、教育に対する情熱を持たず、ただ生活の安定だけを求めて教師になったような人間にとって、天国のようなものだったに違いない。
 しかし、今はそういうわけにはいかない。神話が崩れ去り「魔法の杖」など振り回しても何もでてこない。
 にもかかわらず、教師が生徒と距離を置いて畏怖感を持たせようとしたら、自分たちのことを見ていない人間に「言うことを聞け」と言われても「どうせ見てないんだから」と生徒は勝手な行動に走ることになる。
 「先生たちは僕たちのことを何も見ていない。話もしてくれない。自分の都合だけ考えて、僕たちのことを知ろうともしていないんだ」と不信感を募らせるだけだろう。
 ところが、そんな状況になっているにもかかわらず、いまだに多くの教師が過去の方法にしがみついている。相手が言うことを聞かないとなると、さらに畏怖感を抱かせようと思って、それまで以上に生徒との距離を広げようとするのだ。
 高度成長期までの「神話」が消え失せ、社会全体のルールが変わっているのに、教師たちだけは過去のモデルを実践している。こんなことでは、学級崩壊するのも当然の成り行きだと言わざるを得ない。
(義家弘介:1971年生まれ 中学生で不良と呼ばれ高校中退し家から絶縁される。里親の元で大学を卒業し、塾講師、高校教師になり、ドラマ化され評判となる、横浜市教育委員を経て国会議員)

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