カテゴリー「教育史(教育の歴史と変化)」の記事

吉田松陰に学ぶ、人の育て方とは

 教育者としての理想像を吉田松陰に見出した川口雅昭先生は、30年に及ぶ松陰研究を続けています。
 吉田松陰は山口県萩で生まれ、萩藩の山鹿流兵学師範だったおじから厳しい教育を受けて育ち、10歳のとき藩校の教壇に立ち、翌年には藩主毛利敬親の前で講義をしました。
 松陰は全国各地を旅して、さまざまな人の教えを受けて見聞を広め世界への目を開かされました。
 外国を自分の目で見たいと考え、黒船に乗り込み外国への密航を図りますが失敗。自首し、江戸から萩の野山獄へ送られます。
 やがて実家で幽囚中、若者らが教えを求めて来るようになり、松下村塾を受け継ぎます。
 松下村塾は、15坪ほどの瓦葺き平屋建てで、わすか2年余の教育期間ながら、高杉晋作・久坂玄瑞・伊藤博文・山県有朋といった後世に名を刻した多くの人材を輩出しました。
 塾生には「読書だけではだめだ。実行が大事だ」と説き、個性を重んじ、一方的に教えるのではなく議論しながら共に学び、多くの志士を育てました。
 その後、松陰は日米修好通商条約に調印したことを厳しく批判するようになり、幕府による安政の大獄が始まる中、幕府は過激な言動を恐れ、松陰は江戸へ送られ処刑され満29歳で亡くなりました。
 しかし、志ある人々が立ち上がって日本を変えるべきだという松陰の志は、塾生らに受け継がれ、討幕へ、明治維新へと、時代を大きく動かしていきました。
 松陰先生の真の偉大さは「現代でも、若者たちを社会のために勉強しようという気にさせ続けていること」だと川口先生語ります。
 松陰は教育者だが「教育」は和語では「教える」で、その語源は「愛(お)しむ」だそうだ。つまり「愛することが人を育てる」ことだ。教育者に必要な心構えだろう。
 人を育てること、つまり「人づくり」の目的は「よき人になる」ことである。現在の教育からはここがすっぽり抜けてしまってはいないかと川口先生。
 子どもから「なんのために勉強しなければならないの?」と聞かれた経験のある人は少なくないだろう。また、そういう疑問は誰しも一度は抱いたことがあるだろう。
「学は人たる所以を学ぶなり」つまり「人間とは何か、いかにあるべきかを学ぶこと」「人間とはどういう生き方をすればよいかを考える」ことが学ぶことだと松陰は述べている。
 勉強するのは、自分がわかるため、心を磨くため、いかに生きるかということである。
 松陰は弟子に先生を訪ねて質問せよと門下生全員に紹介状を持たせた。落ちこぼれずに自己教育を続けられる人間を作ろうとした。
 川口先生の講話の中でもとりわけ心に響くのは「自己教育」という考え方だ。
 自己教育とは「自分の関心のある学問を主体的に継続すること」だ。
 自己教育は、先生がいて、行き詰まったら、先生の指導を受ける。主体は能動的に学ぶ方にある。学習能力を自得することだ。
 自己学習と独学の違いは「行き詰ったときに質問にいける先生がいるかどうか」だ。
 さらに「同じ訊きにいくなら一流の人に訊け。一流の人は決して門前払いしない。」と川口先生は言う。
 人を育てることにおいては「やる気にさせる」ということがとても重要である。
 教師というものは、生徒たちに「教師のようになりたい」と思わせることができないと、どんな教育理念を持っていてもダメだ。
 人に暗示をかけ、悟らせてあげることを「人を點醒(てんせい)す」と吉田松陰は言った。
 松陰は、そばにいる人間に、やる気をひきおこさせる「點醒(てんせい)」の達人だったと川口先生いいます。
 點醒とは人づくりの基底にある最も大切な教えではないだろうか。
 その人に接するだけで、やる気を興させてくれる人がいる。點醒的資質のある指導者というべきであろう。
 これは何も天性のものばかりとは限らない。人を指導する立場にあるものは、努力によりこのような資質をこそ、自得して行くべきではないか。
 今、教育にも子育てにも活かせたいものだ。
 松下村塾で多くの人材が育ったのは、子どもたちは松陰のようになりたかったのだ。
 また川口先生は「自分がいなければならない」という人物になれと。
 人を育てるには、ひとつ忘れてならないのは「待つ」ということだ。
 松陰は「人間が育つのにもっとも必要なのは能力ではなく、時間である」と。
 つまり教え子が成長するのを待つことが大切だ。
 しかし、逆に、時間をかけさえすればすべての人が「モノ」になるかというとそうではない。大切なことは「大器」たらんとする志を持ち続け、人知れず、日々の努力を継続することであろう。
 今自分が何をすればいいのか、川口先生は、
1 今自分がいる場所で、今できることを全力でやれ。
2 成長しない人間が成長する人を育てられない。
3 まずこれというものひとつに集中し、しっかりした幹を作れば、枝葉はいくらでもつく。
4 独学でなく自己教育を一心不乱に行う。
(川口雅昭:1953年山口県生まれ、山口県立高校教師、山口県史編さん室専門研究員などを経て、人間環境大学特任教授。師範塾塾長。吉田松陰研究の第一人者)

 

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大正時代に提唱した手塚岸衛の「自由教育」はどのようなものであったか

 手塚岸衛は、1919年に千葉師範学校附属小(現千葉大教育学部附属小)の主事となる。
 ここで教育の画一性を廃し、子どもの自発性、自主性を最大限に発揮させるという自由教育を提唱し、その名を全国に知られるようになる。
 1921年東京師範学校の講堂で開かれた八大教育主張の大会で、手塚は「自由教育論」の演題で「子ども自らが、自らの力を出して自己を開拓して進む力をつけてやるのが教育である」と主張した。
 その後、1926年、千葉県大多喜中学校校長となるが、配属将校の扇動によって校長排斥運動を生徒らが起こしたことが原因となり、辞職に追い込まれる。
 1928年、東京で、自由主義的教育の理想を掲げ、幼稚園・小学校・中学校からなる自由ヶ丘学園を創立した。
 大正デモクラシーの影響を受けた手塚は、試験や通信簿をなくし、子どもの個性を尊重した教育を行った。
 手塚は教育に没頭していきますが、資金繰りの困難さに加えて、生徒管理の難しさに失意のうちに病没してしまった。手塚の死去によって学園は苦境に陥った。
 大正期の教育は、大正デモクラシーの影響をうけて、明治時代の画一的な注入主義教育を、子どもの生活や学習を中心としたものに転換しようとする「新教育(自由教育)運動」が全国的に高まりをみせた。
 児童の個性の尊重と自由な学習を目指した「児童中心主義」的な方法であった。
 東京の成城小学校(校長:沢柳政太郎、主事:小原国芳)、児童の村小学校(校長:野口援太郎)、奈良女子高等師範学校附属小学校(主事:木下竹次)、千葉師範学校附属小学校(主事:手塚岸衛)、明石女子師範学校(主事:及川平治)などがよく知られる存在となっていました。
 この自由教育は県内から全国へと拡大してゆく傾向を示した。しかしながら、県教育行政部局、教育者などから自由教育に反対する者もでてきた。手塚は、
「その反対の多くは経過に等しい経験に基づく素朴なる常識論か」
「しからずんば、自由の語感を毛嫌ひして―あのカントの厳粛な哲学上の自由であるのに気づかずに―これを排斥する俗説か」
「または、たゞ何事も旧に泥み新を厭うて真をも捨てる守旧主義か」
「時には彼等が自由教育などゝは小癪な片腹痛い言分であるとする感情論さへ交つてゐるとさへ思はさせられた」
 と述べている。
 手塚じたいが反体制派の教育家であったかのような誤解をその後に生んでいったきらいもある。
 各学級の級長は校長による任命制から子どもたち自身による直接選挙での選出に改め、全校朝会を5,6年生による自主運営に委ねるなど、当時としては画期的な改革を試み、「分別扱」(小集団方式)と「共通扱」の臨機応変の展開による授業形態の改革などとともに注目を集めた。
(手塚岸衛:1880- 1936年栃木県生まれ、福井、群馬、京都女子の各師範学校の教師を経て千葉師範学校附属小学校の主事になり自由教育を提唱し、その名を全国に知られるようになる。千葉県中学校長となるが辞職に追い込まれた。1928年、東京で自由ヶ丘学園を創立するが道半ばで病没した)

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社会が変わり、教師がものわかりのいい、やさしい態度で接すれば、生徒はおしゃべりをやめない、それでは学校は成り立たない、どうすればよいか

 河上亮一先生は、1966年に中学校の教師になった。
 河上先生は、戦後の民主教育を受け、生徒をのびのび自由に育てたい、ものわかりのいい教師になりたいと思って教師になった。
 だけど、それでは学校は成り立たない。
 授業中、ものわかりのいい、やさしい態度で接すれば、生徒はおしゃべりをやめない。掃除だって放っておけば生徒はやろうとしない。
 現実には、教師が怒鳴って、生徒をむしやりやらせなきゃいけない場面がいっぱいでてくる。
 叱って育てる教育は必要不可欠であるにもかかわらず、日本の社会はそれを軽視している状況にある。状況は相当に深刻である。
 叱ることが大切だからといって、むやみに叱っても混乱するだけだ。叱るには、覚悟と戦略が必要なのだ。そのためには、
(1)学校の「大わく」をしっかり固める
 まず、学校は家庭や社会と違うことを、生徒にはっきりと示す必要がある。
 学校は生徒に基礎的学力、生活の仕方、人とのつきあい方を身につけさせ、一人前の国民にするところで、生徒はそのために来ているのだ、ということを示すことである。
 「おしつける」ところと、生徒が「大枠のなかで自由に活動するところ」をハッキリわけて生徒に示すことが大切なのだ。
 このことについて、教師の間に共通認識をつくることが出発点である。
 教師の間に共通認識をつくらなければ、教師が個人的にどんなに頑張って叱っても、トラブルになるだけで、ほとんど意味がない。
(2)教師と生徒の関係をハッキリさせる
 学校は、基本的に生徒が教師の言うことをきき、教え教えられるという関係が成立しなければ何も始まらない。現在、この根本がくずれているのである。
 やさしい、ものわかりのよい教師など論外だ。
 生徒との距離をとり、クールに生徒に接することを基本とすべきだ。
 べたべたと生徒にくっついていたら、叱ることなどできはしない。
 教師自身が自分の仕事を誠実に行うことが必要だ。
 例えば、いつも時間にルーズな教師が、生徒のチャイム着席を叱ることはとても難しい。
(3)教師がみんなで同じように叱る
 家庭でもほとんど叱られたことがない子どもが相手である。
 教師たちが共通の原理をハッキリ示して、同じような場面で、教師がみんな同じように叱ることが大切だ。
 教師がバラバラでは叱ることなど無理である。
(4) 学校の役割や目的は、学校生活では必要なことであることを生徒に訴え続ける
 学校を成立させる必要から、学校の役割や目的を生徒におしつけることだ。
 例えば、学校の役割や目的である授業をしっかり受ける。掃除をしっかりやる等である。
 クールに、ていねいな言葉でハッキリ叱ることが大切だ。
 それに違反したからといって、人間として悪いということではない。
 道徳的ではないからだ。生徒の内面には立ち入らず、外側だけを規制するということだ。
 言うことをきかない悪い生徒だと、ヒステリックに叱れば生徒と泥沼におちいる。
 だから、納得させようといろいろ説得すると混乱し、最もまずいことになる。
 教師はこの区別をきちんとしていない。ここが落とし穴である。
 守れない生徒がでてくるのは当然のことである。
 学校生活では必要なことであり、それを守らないと学校の目的が達成できないから努力してほしい、ということをしつこく言い続けることである。
 生徒との根くらべと考えていい。できれば全教師が一致して要求し続けるほうが効果が大きい。
 教師と生徒の力関係に左右されるので、時と場合によって戦術を立てる必要がある。
(5)人間の生き方にかかわる「道徳的なこと」について叱る
 人と人とのつきあい方について、叱らねばならないことがでてくる。いじめについてもこの分野に関することである。
 しかし、これは教師が子どもと人間として向き合うことになり、かなり難しいことである。
 叱る教師の人間的な力量が試されるからである。
 つまり、権威がなければ無理なのだ。
 教師は自分の人間の大きさをじゅうぶんに自覚したうえで叱らねばならない。
(6)すべての生徒を同じように差別をせずに叱る
 子どもは「えこひき」を最もいやがる。なかなか言うことをきかない子どももいる。
 すべての子どもに対して、同じように叱るのはエネルギーと根気がいる。仕事だと思って根気よくやることだ。
 ただし、力のある教師であれば、叱り方にバリエーションをつけるとよい。
(7)叱るということと、言うことをきかせることは別
 これをゴッチャにしている教師が非常に多い。
 叱るとは、学校としてのサインをハッキリだすということである。
 サインをだし続けることに徹する必要がある。
 言うことをきかせるためには、ある種の力が必要なのだ。
 教師個人として生徒に言うことをきかせるには、権威というものが必要である。
(8)教師が自分で権威をつくる
「子どもが教師を信頼すること」が権威のよりどころである。
 教師としての仕事をハッキリさせ、それを誠実に実行していくことが大切だ。
 難しいことだが、自分で権威をつくるしかないのである。
 生徒に言うことをきかせるためには、教師として生徒の前にしっかり立つ必要がある。
 生徒と距離をとり、ていねいな言葉づかいで、きちんと対し、要求することはハッキリ要求することが必要だ。
 生徒とベタベタして、ものわかりよく対応していたのでは、生徒におしつけることなどできはしない。
 権威は、親や地域社会の支持が不可欠である。
 子どもの危機的な現状を率直に親にぶっつけ、親と手を結んで子どもを育てるという方向が必要だ。
 以上の原則をもとに、学校の現状を冷静に把握し、自分としての戦略を立ててみよう。
 そのうえで、具体的な場面でどのような叱り方をすべきかを考えるのだが、これは個々の教師が、その場その場で生みだすしかなく、マニュアルに頼るなどできることではない。
 学校は、基礎的な学力や社会的な生活習慣を生徒に身につけさせて、一人前の人間として社会におくりだす。これが教師の役目なんだからね。
 たとえ生徒が嫌がっても、押しつけて教えなきゃいけないことはあるんだ。
 昔は、親も地域の大人たちも、
「おまえらは、まだまだ未熟なんだから、学校で頑張っていろんなものを身につけなきゃ大人になれないぞ」
「学校は家や町中とは違うところなんだ。嫌なことも我慢しなければならないよ」
「学校へ行ったら先生の言うことを聞くんだぞ」
 そういう地域の力に支えられ、教師の権威もその上に成り立っていた。
 その後、高度経済成長で、近所づきあいや地域のつながりがなくなり、地域が崩壊して、一軒一軒の家庭が孤立してしまった。
 子どもの教育の関心も「しつけ」よりも「進学」になった。
「学校にさえ行ってくれれば、嫌なことはしなくていい」と親が子どもに思うようになった。
 教師の権威も低下した。
 その後、マスコミの学校たたきが始まった。
 生徒の自由・人権を尊重しろ、生徒も教師も平等だ。
 学校のあらゆる教育活動を攻撃した。
 これで、教師たちは生徒を叱ることもできない状況に追い込まれていった。
 生徒の間にも「嫌なことなら、教師の言うことなんか、べつに聞かなくてもいい」という雰囲気が広まった。
 そして現在、日本の学校が完全に崩壊しないで何とかもちこたえているのは、真面目にコツコツやっている教師が日本中にいっぱいいるからだ。
 授業中に生徒が騒げば、根気よく注意するし、掃除しない生徒には「しっかりやれ」と叱っている。
 生徒がゆうことを聞かなくても、最後まで頑張って立ち向かっている教師に支えられている。
 今や、教師の力だけでは通用しなくなってきている。どうにかできるわけがない。
 授業中のおしゃべりを注意すれば「私だけじゃない、先生が命令する権利があるのかよ」と言う生徒もいる。
 みんなで取り組むことも、年々難しくなってきている。
 昔であれば、合唱コンクールでも女子生徒が男子のケツをたたいて、ケンカしながら合唱を作っていったけど、最近の生徒はそこまで、お互いに踏み込まないからね。
 放っておくと、我慢してつらいことに挑戦するなんてこともしない。
 教師が挑発したり、励ましたりしないとね。
 今、生徒たちは「自分のことが一番大事」「好きなことは何をやってもいい」と思ってるわけだよね。
 教育改革の大枠や柱は、政治が決めるわけ。私たち教師が決める立場にない。
 私たち教師にできることは、
「教育改革によって、現場の教師はこんなふうに生徒と対応するようになってきた」
「生徒は、こう変わってきた」
 という実態を、外に向かってアナウンスすることなんじゃない。やらなきゃまずいと思う。
 河上先生は、
「学校と生徒の現状を伝うようと、書けるだけ書いて、チャンスがあれば、テレビや新聞にも出たい」
「それは、やんなくちゃ、いけないことだから」と訴えている。
(河上亮一:1943年東京都生まれ、埼玉県公立中学校教師、プロ教師の会主宰、教育改革国民会議委員等を経て日本教育大学院大学教授。埼玉県鶴ヶ島市教育委員会教育長。マスメディアに多数出演し、著書多数)

 

 

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大正自由主義教育と綴り方教育とは、どのようなものであったのでしょうか

 大正デモクラシーにより、明治時代の画一的で注入主義の授業に対する批判から、教育方法の改革をさまざまな形で試みられるようになった。
 大正新教育運動は、欧米諸国の人材育成を目的とした教育改革の影響を受けていた。たとえば、子どもの自発性を重視するデューイの児童中心主義などに象徴される新教育運動の影響である。
 日本の教師は、これらを背景にした新教育運動のもとで、子どもの自発性を尊重しようとする自由主義的な教育実践を展開することになった。
 大正新教育運動は、子どもの主体性などの思想を教育実践に組み込もうとしたものであった。
 第一次世界大戦を経て、日本の経済が発展し経済的に安定した中間市民層が創出されて、大正新教育を支えることになった。
 私立学校が相次いで設立された。1917(大正6年)の成城小学校の発足を皮切りに、羽仁もと子の自由学園、明星学園、池袋児童の村小学校などが設立され、教師は様々な実践を展開したのである。
 大正新教育のもうひとつの特徴は、師範学校の附属小学校を中心として、その実践が展開したことである。
 たとえば、明石女子師範附属小学校主事であった及川平治は、経験主義の立場から、児童の生活経験を基盤として自律的な活動である「分団式教授法」で、知識や技能を身につけさせようとした。
 奈良女子高等師範学校附属小学校における木下竹次の「生活即学習」という考えに基づく「合科学習」、千葉師範付属小学校の手塚岸衛の自由教育などの実践が展開された。
 しかし、これらの自由主義的教育運動は、その後、日本が軍国主義へと傾斜していくなかで衰退してゆかざるをえなかった。
 これを象徴する事件が川井訓導事件である。
 松本女子師範附属小学校の訓導であった川井が、修身科の授業改革に取り組み、副読本の文学作品を用いて実践していた時、視学官に国定教科書を使用していないことをとがめられ、休職処分にまで追い込まれたのである。
 彼は、国の教育方針に背くつもりはまったくなく、教育方法の改良を図ろうとしたのにすぎなかったが、教育における国家主義を脅かすものとみなされたのである。
 大正自由主義教育運動は、明治時代に日本に移入されたヘルベルトの5段階教授法に見られる形式主義を批判するものとして、大きな意味をもつものであった。
 しかし、国家主義により教育目的の自由な議論が封じられて、教授方法に限られ、方法主義的にならざるを得なかったのである。
 昭和初期の1920年後半から30年代初頭は、たびかさなる経済恐慌の影響を受けて国民生活は窮迫した状況となった。
 この時期の教育運動として特筆すべきは、生活綴方(せいかつ つづりかた)教育である。
 生活綴方とは、子どもたち自身に、生活上の出来事や、それに関わる思考や感情を作文に素直に綴らせるのである。
 その作品をみんなで検討する作文指導を通じて、生活現実のリアルな認識や文章表現力、自己意識や仲間との連帯感、主体性などを育てることをめざす教育方法である。
 その担い手となったのは、農村部の若い教師たちで、貧困という窮迫した生活を生きる子どもたちを、作文教育を通じて生活指導を進めていったのである。
「綴方生活」や「北方教育」などの雑誌は教師たちの交流の場となった。
 生活綴方の運動は1920年末から30年代に各地で展開されたが、特に東北地方で盛んに行われた。
 しかし、生活綴方の運動は、子どもたちに悲惨な生活の現実を直視させることで反政府的な思想を育てるものとして警戒され、1940年以降、治安維持法により綴方教師は検挙されていった。
 戦後、1951年の無着成恭編「山びこ学校」の刊行などを契機として運動が復興し、その実践は新たな展開をみせながら現在も継続されている。
(
櫻井 歓:1972年生まれ、日本大学准教授。専門は教育学、哲学・倫理学)
(
岩本俊一:法政大学非常勤講師)

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日本の授業改革(グループ学習や机の配置など)の歴史はどうであったか

 日本人の多くは認識していないが、大正自由教育と戦後新教育の展開で日本の学校は授業改革では世界の最先端を切り開いていた。
 日本の教室の革新は大正自由教育の子ども中心主義の私立実験学校(成城小学校)において創始され、昭和初期に全国の師範学校附属小学校を中心に公立学校にも普及した。
 成城小学校では男女混合4人のグループ学習が行われている。明石師範学校附属小学校の及川平治の分団式動的教育法のように効率性を追求した能力別の編成においては、6人を標準とするグループ学習も実施されていた。公立学校のグループ学習は、男女混合4人のスタイルが多く、昭和初期には相当数、普及していたことが知られている。
 教室の「コの字」型の机の配置も、大正自由教育において創始され、昭和初期に全国の学校に普及した。日本の小中学校において一般化していたグループ学習も「コの字」型の教室の配置も、欧米の一般の学校において普及するのは1970年代以降である。
 戦後の新教育は1947年から1955年ごろまでの間、小中学校の教師の約8割が「学校独自のカリキュラムづくり」を推進し、「単元学習」の実践を展開した。この事実は驚異的と言ってよいだろう。これほど多くの教師が新教育の実践に挑戦した国は日本以外に存在しない。
 しかし、日本の教室は後進性においても特徴的である。高校の一斉授業は100年以上にわたって変化しないまま今日を迎えている。
 日本の教室の後進性は高校だけでなく、小中学校にもみられる。教師が黒板を使い、教科書を中心に説明と発問と指名で子どもの応答を組織する一斉授業の様式は、途上国以外の国では博物館に入っている。
 その事実を参照すると、日本の教室は輝かしい革新性を有しながら、一斉授業という後進性の枠組みに縛られているのが現状である。
(
佐藤 学:1951年生まれ 東京大学教授を経て学習院大学教授。学校を訪問(国内外2800)し、学校現場と共に学び合う学びの改革を進めている)

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大正時代の後期、ある平凡な小学校教師の大正新教育の指導法とその結果とは

 大正時代の後期、石川一は愛知県にある小学校の平凡な教師であった。彼をとおして大正新教育時代の教師の活動を覗いて見る。
 彼の教育についての新しいここみに関する情報は、木下竹次「学習言論」、小原国芳「児童図書室論」などの本や雑誌、それに研究会参加及び講演があげられる。
 日記には、今までの教育方法を反省する記述が多い。例えば、子どもの学科ができない原因のひとつに教材選択がある。子どもは経験をもとに理解するのであり、「今後私は、教材選択は子どもの実際の生活を土台として進んで行こう」と反省している。
 彼は大正13年に奈良女子高等師範学校附属小学校を視察している。同校は木下竹次が主事として、自学自習「学習時間」を特設し、「学習研究」を発行して実践・理論を紹介していた。同校の教育方針は、子どもが自分で学習する自律的学習を行うことである。
 彼は視察した感想を「全職員が同じ主義のもとで熱心に授業活動をしている。学校に自由気分が充満して、子どもが心から喜んで自由な活動をしている」と記している。
 翌年に、彼は週六日の毎朝一時限目を国語の読み方と算術に当て、子どもの自習を中心とした時間を設定した。自習時間は予習と復習を子どもにさせる。
 試験の成績で学級を四班(上・中・下・劣)に分け、中等以上の子どもには自分で学習する方法を指導し、劣等児は復習に重きを置き、個人指導をする。週一回は研究日をもうけ、解けない問題を子どもから提出させて、子どもたちが相互に研究し、教師は見守り助言する。
 子どもの自発性を重んじ、子ども一人ひとりの個性に注目し、自学自習心を養い、分団授業で、劣等生を救済すること、が意図されていた。
 自学主義の取り組みの結果の彼の感想は
(1)
劣等生の教育に効果がある。進歩も遅遅としているが確かに効果はあると思う。
(2)
自発主義といっても子どもが真に活動してくれなかったら何もならない。この実践で子どもたちの成績を向上しようとしても無理な注文のような気がする。
(3)
子どもの学習心理に立脚した子どもの興味中心の学習も、子どもは知識の必要を感じていない。やはり昔式の教授法が適しているように自分は思う。教師の圧力的指導法でなければ子どもは知識欲を出してくれるものではない。
(
石川辰彦:1954年愛知県生まれ、筑波大学)

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日本は産業と教育の急速な拡充と発展が終わり、勉強の時代は終わった

 日本の子どもは、かつて世界一勉強熱心なことで知られていました。なぜ、勉強しない子どもへと転落してしまったのでしょうか。この謎を解く鍵は、日本の近代化にあると、私は考えています。
 産業と教育の急速な拡充と発展が停滞した時点で教育は破綻します。
 事実、教育危機が新聞の一面に掲載され、毎日のようにテレビで放送され始めたのは、1980年前後のことでした。三重県の尾鷲中学校の校内暴力事件(1980年)が発端でした。この事件以降、全国の中学校の校内暴力が起こり、その他の教育危機が次々と語られるようになりました。
 学級崩壊が顕著になるのは1990年代半ば以降ですが、この現象も、1980年前後に始まる教育危機の勃発の延長上に位置づいています。
 子どもたちの「学び」からの逃走も同様です。
 実際、教育が急速に進展していた時代の日本は、学校と教師への信頼度が世界一高く、子どもの学習への意欲も学習時間も学力の水準も世界一高いことで知られていました。
 そのときは、学校教育によって大半の子どもが親よりも高い教育歴を獲得することができ、親よりも高い社会的地位を獲得することができました。
 しかし、産業と教育の急速な拡充と発展が終わると、もはや大半の子どもは、学校教育によって親よりも高い教育歴を獲得することも、親よりも高い社会的地位を獲得することもできません。
 学校は一部の「勝ち組み」と多数の「負け組み」を振り分ける場所へと変貌しました。多くの子どもたちにとって学校は、失敗と挫折を体験する場所になってしまいました。
 この転換によって、学校と教師への信頼度も学習の意欲や努力も、世界一のレベルから転落しました。勉強の時代は終わったのです。
(
佐藤 学:1951年生まれ 東京大学教授を経て学習院大学教授 学校を訪問(国内外2800)し、学校現場と共に学び合う学びの改革を進めている)

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戦後の教育実践のあゆみ- 学力と自治の保証を求めて-

(1)高度経済成長と学歴社会の到来
 1950年代後半から本格化する高度経済成長政策は、「学歴や学力こそが豊かさを保証するもの」「子どもは少なく産んで大切に育てる」との意識を醸成することになった。
 この「近代家族」特有の意識の大衆化が、学歴社会、大衆教育社会を樹立した。
 教育改革によって単線型学校体系が確立され、大学進学率が上昇し、急激な学歴社会の到来は、学歴獲得競争をともなって子どもたちをまきこんでいった。
(2)
教育の現代化と広がる格差
 1958年の学習指導要領は告示となり、この改訂から経験主義から系統主義へと転換した。そして教育現場への統制力を強めた。また、道徳的な心情を養成するために道徳が特設された。
 1968年の学習指導要領は、現代科学の内容と方法でもって教育内容を編成した「現代化」を打ち出した。子どもたちにとって理解しにくい内容であっても学習可能であるという主張であったが、やがて子どもの格差がひろがり、落ちこぼれが問題となった。
 高度経済成長政策を推し進めるために、経済界から国際的な競争下で創造的な知的能力を育成することが要請された。この能力主義は、高校教育に対して多様化政策として、学校別・学科別・コース別の教育課程が編成され格差を顕在化させていった。
(3)
学力と自治の保障に奮闘する教師たち
 系統主義の立場から戦後初期の新教育に対して批判を行うなかで、民間教育研究団体が結成されることになる。
その主なものは、
「歴史教育者協議会」(1949年)、
「数学教育協議会」(量の体系・水道方式:1951年)、
「科学教育研究協議会」(1954年)、
「仮説実験授業」(問題→予想→討論→実験:1954年)
などであった。その主張は、教育課程の編成において「科学と教育の結合」をはかることである。
 他方、この時期に大西忠治たちによって、小西健二郎の「学級革命」に代表される生活綴り方にもとづく「仲間づくり」論が批判され、「班・核・討議づくり」にもとづく、「学級集団づくり」論が提唱される。
 これは、特設「道徳」の心情主義への批判を前提として、自治能力の形成を集団づくりという実践を行おうとしたもので、「全国生活指導研究協議会」(1959年)を主導する理論と実践となった。
 これら民間教育研究団体の成果は、手弁当の会員たちによる地道な活動によって発展・普及し、現代日本の「教育実践」に多くの示唆を与えている。
 教育の現代化で授業を理解できない子どもが増加し、1971年に落ちこぼれ問題がマスコミを通じて社会問題化した。神戸市立平野小学校で教鞭をとっていた岸本裕史は、落ちこぼれの子どもを救おうと百マス計算を始め、学力の定着(技能の習熟)を楽しく行える方法の開発と、学力形成を支える子どもたちの生活(見えない学力)の点検を同時に追究するようになる。
(
田中耕治:1952年生まれ、京都大学教授、専門は教育方法学(学力論・授業論・評価論)

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子どもの個性を生かす分団式動的教育法 

 及川平治は成績が劣る子どもに適切な教育を実施するために、内容によってグループに分けて学習する分団式教育を行った。
 分団式教育は授業の最初からグループ分けするのではなく、一斉授業の中で、教材内容や、子どもの学習の状況に応じて、「全体」「グループ」「個別」と変化させて学習し、子どもが能動的に学習する力や自学自習する力を育てることを目的とした。
 分団式教育はグループ学習のみならず、全体学習も含んだ教授方法である。
 グループ学習をする分団は固定しないで、教材内容や、学習者の学習理解状況に応じて、日々編成し直した。
及川の提唱した「分団式動的教育法」は、
(1)
教育を固定した形式にとらわれず、動的にとらえる
(2)
子どもの能力は多様であるという事実をふまえる
(3)
学習法を訓練するという立場に立つ
という「三大主張」に立脚したものであった。
 わが国の「個性」を生かす教育の原点は、明治末期からの教育改革の動向と関連し、及川の「分団式動的教育法」は子どもの能力や特性の違いに応じた教授・学習活動を展開させようとするものである。
 及川の「個性」を生かす授業は、教授・学習を一体化して、子どもの自己活動を重視し、教師の授業を構成する力が必要となる。
 形式主義を批判し、「指導の個別化・学習の個性化」をねらい、学級の全員がわかる授業をするという願いで生まれた及川の実践はわが国の大きな遺産となっている。
(
及川平治:18751939年、苦学して教師となり、明治末年から昭和10年代初期まで兵庫県明石女子師範学校附属小学校で主事として教育改革に挑み、わが国教育の発展に多大な功績を残した)

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明治後期の教師の実態とは

 初等教育就学率は明治35(1902)には90%を突破した。教員数もこの15年間で倍増し152千人になった。
 教室では多人数の子どもを教えるという事態が生じ、授業の実力をつける必要が痛感されるようになった。明治30年代に教師向けの教育雑誌が次々に登場し88誌に及んだ。教育雑誌は各教科の授業実践記録の紹介と批評する記事が多く掲載された。
 すべての小学校に校長がおかれたのは1900年以降である。教員も師範学校卒の本科正教員のほか、準教員、代用教員とよばれる教師たちがふえてきた。教員の出身階層が士族から平民とくに農民出身者への移動が進んだ。教員待遇の劣悪化と地域間格差が広がった。生活難による教員の社会的地位の下落が顕著になった。
 他面、教職の専門性は教則の統制的整備とヘルバルト主義教授法の実践による定型化で教職の専門性が確立した。しかし、教育実践の創造的な余地が縮小され、教員の教育の自由が制約された。
明治30年代の教師論は、
(1)
教育という仕事の目的を教師たちに再確認させ蘇生させる。
(2)
戦勝国の大国意識を強調し、教育目的の国家性を高唱する。
(3)
教師の技術水準を向上させる。
教師の出世や待遇の要因をとりこんで、向上させようとした。
(
寺崎昌男:1932年福岡県生まれ、東京大学名誉教授)

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