カテゴリー「教育改革」の記事

授業の多くが体験学習にあてられる「きのくに子どもの村学園」とは、どのような学校でしょうか

 和歌山県の小さな村に、子どもたちの歓声が響き渡る小さな学校がある。「きのくに子どもの村学園」です。
「きのくに」では生きる喜びがあり、互いに尊敬し信頼し合っていて、徹底した自治のもと、生活する一人ひとりの子どもにエネルギーがあふれています。
 元来、学校というのは、何をどのように学ぶのかは教師によって決められ(教師中心主義)。
 同じ年齢の子どもが同じ教材を使い同じペースで、同じ方法で学習する(画一主義)。
 書物に書かれた知識の記憶量によって子どもの能力を測ろうとする(書物中心主義)。
 これでは、子どもたちは知識を教師や書物から伝達されるだけの受動的な存在となってしまいかねない。
 そしてそれは、自分の感情を押し殺すことや、自ら考えることが苦手な子ども、互いに意見を言って他の子どもと合意を図る、という経験に乏しい子どもが育ってしまう。
 すなわち「感情」「知性」「人間関係」のすべての面で「不自由」な子どもの育成につながってしまう危険性がある。
 こうした状況から子どもを解放し「ホンモノ」の学習をするために、「きのくに」では、「自己決定」「個性化」「体験学習」を三原則として学校づくりを進めてきた。
 この三原則を反映させた学習活動が「プロジェクト」である。年度初めにプロジェクトのテーマごとにクラスがつくられる。人数も年齢構成も男女比もさまざまとなる。例えば別荘づくりプロジェクトでは、どのような別荘をつくるのか、誰が何をするのか、活動の進め方は話し合いを通して決められていく。
 このようなプロジェクトを学習の核として、各教科はプロジェクトと関連づけながら実践されていく。プロジェクトの体験をくぐることで、自分たちにとっての意味を感じながら学習が進められる。
「きのくに」が現代の学校教育に投げかけているものは何だろうか。
 増え続けている不登校やいじめ、他者との関係の希薄化・・・。
 そうした現代社会にあって「きのくに」の子どもたちは自他への信頼にあふれ、生き生きと目を輝かせ真剣に学習に取り組み、仲間とともに自分たちの生活を創造している。
 こうした実践は公立学校で行うことは無理だという声があるかもしれないが、「きのくに」は正規の私立学校として認可をうけているという事実により、実現できる可能性がある。
 教育改革が叫ばれている今日、「子どものため」になる学校づくりとは何かを問い続けているといえる。
「きのくに子どもの村学園」は1992年に和歌山県の山中でスタートしました。
 元大阪市立大学教授の堀真一郎が、イギリスのサマーヒルスクールなどを範として創立しました。
 教育思想や実践は、ニールやデューイの流れを汲んでいます。
 子どもたちの多くが寮生活を送りながら学んでいます。
 1学年20名の小さな学校で宿題がなく、テストもありません。
 「先生」と呼ばないで、大人は「○○さん」とか、ニックネームで「ゴンちゃん」などとよばれます。
 子どもは自分のしたい活動(プロジェクト)をよく考えて、その年のクラスを選びます。授業の多くが体験学習にあてられ、どのクラスも異年齢学級です。
 普通の学校の授業に相当する時間「基礎学習」もあります。
 活動(プロジェクト)は「人が生きる」ことを「衣」「食」「住」「表現」の4つの視点から追求していきます。
 小学校では「工務店」「劇団きのくに」「よくばり菜園」など、中学校では「動植物研究所」「劇団バッカス」「くらしの歴史館」などのクラスがあります。
 国内外の教育関係者やマスコミからも注目され、学校の数も増え、福井県勝山市、山梨県南アルプス市、福岡県北九州市、長崎県、英国スコットランドにあります。
 入学の選考は、体験入学によっておこないます。募集時期は学年によって異なります。
 体験入学は学校および寮で過ごします。また保護者と面談し、総合的に合否判定をします。筆記試験はありません。子どもの意思をもっとも尊重します。
(堀真一郎:1943年生まれ、元大阪市立大学教授教授。「二イル研究会」を設立、その代表を務める。大学の教授職を辞めて、ニールのサマーヒル・スクールを範とした新しい学校を目指して、1992年和歌山県橋本市に、きのくに子どもの村小学校を開校。きのくに子どもの村学園理事長。)

 

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書籍「教育は死なず―どこまでも子どもを信じて」がベストセラーとなり映画化された

 長野市の私立篠ノ井旭高校(現:長野俊英高等学校)が1960年に開校し、さまざまな問題を抱える生徒たちを全国から受け入れ、その更生に力を注ぎました。
 篠ノ井旭高校の教育は、大きな評価を得て「教育は死なず」として1981年に映画化されました。
 非行などで全国の高校を退学になった生徒を積極的に受け入れ、当時、全国に例をみない取り組みだっただけに、教師たちの苦労は、なみたいていではなかった。
 若林繁太校長は何度、途中で投げ出そうと思ったかもしれない。それに耐えることが教育なのだと教師たちとともに励まし、いたわり合いながら進めてきた。
 だまされても、だまされても生徒を信じ抜くことは口では容易にいえるが、実践は大へんである。
 また、だまされることを知りつつ、信ずることも大へんなことである。しかし、これは教育の基本的な部分なのである。
 この大へんな取り組みも、教師仲間の励ましで負担が軽くなるものだ。教師集団の意識統一が大切なのもこのためである。
 この取り組みで若林校長が得た最も大きな収穫は「駄目な子はいない」ということであった。
 よほどの生徒であっても、個人的に会うと、淋しがり屋で、心はほんとうに純真であった。
 そんな生徒が、立ち直れないはずがない。誰かが、どこかで、指導していかねばならないと思う。その誰かは、自分だと思ってほしい。
 日本中の教育者が、そんな気持ちになってくれたらと若林校長は念じていた。
 どうか、皆で、この教育荒廃を乗り越えよう。理論よりまず実践が大事である。
 やれば、何とかなるものだ。自分の一生に悔いの残らぬよう始めよう。
 このような仕事に生きがいを感ずる若林校長は幸福だと思っていた。
 それは、精一杯、生徒と取り組んだ後には、とくに、そう感ずるのである。
 学校再建は、どこから手をつけるべきだろうか。若林校長も教師たちも必死になって実践し、かつ悩み、再建の途を探した。
 やがて、再建の第一歩を生活指導からふみ出した。非行をなくそう、それには、非行の原因をつかみ、この原因を除去していくことだ。
 非行は子どもたちが大人、とくに教師にたいする、なんらかのストレスの表現なのだ。
 そして、そのストレスのうちの最大のものは、いわゆる「落ちこぼれ」だ。
 それなら非行をなくすには取りしまりや厳罰主義でのぞむのでなく、授業をわかるようにしよう。
 それが教育の原点である。教育の原点に立って指導を進めることに決した。
 しかし、理論的にはそれが正しいとしても実践することになると簡単にはいかない。
 教師は一人ひとりが自分なりの教育信念を持っている。
 それを調整しながら全教師の歩みを一致させなければ効果があがらない。
 教師の中には相互に真反対の理念を持つ場合も少なくない。
 それを一人ひとり説得し、調整していく。このために膨大な時間と労力が投入された。
 数ヶ月かかって、やっと全教師の意識が統一できた。
 もちろん、内部の細かな部面には未調整のものもあるが、それは今後、気長に調整することにして、大局としては一致することに成功した。
 教職員の意識統一が成立すれば、半ば成功したと思って良い。
 最初、この教育を若林校長が手かけたときの目標でもあった。
 確かに容易な仕事ではなかったが、これは重要なことなのである。
 この教育に取り組むための条件整備として、
(1) 一クラスの定員を30名を標準とする。
(2) 教師の週持時間数をできる限り減少させ、教育研究、教科研修の機会を与える。
 など教師の負担軽減し、全教師合意の上で次のように実施にふみきったのである。
(1)授業公開の原則
 公開授業の目標は、
「一人ひとりの生徒を大切にし、楽しくてわかる授業の実践をめざし、教職員相互間の反省、向上を目的とする」
 授業を大切にするとともに、常に指導技術を向上させるため授業は公開制とした。
 誰でもいつでも、どこの授業を参観してもよい。
 参観した人びとは、必ず参観した授業について批評カードに記入し、提出してもらう。
 授業者は、このカードを参考にいっそう自分の授業を工夫し、完全なものにしてゆく。
 参観者は、地域の小・中・高校の教師たち、保護者、地域の人びとである。
(2)自主的な教科研究
 各教科で独創的な研究を行い、生徒の能力に合致した指導と個々の生徒の到達目標に適応する教育内容を目標に教科活動を進める。
(3)到達目標の作成
 従来の一律的到達目標の設定を避け、生徒の能力に応じた個別的到達目標を設定する。
 各教科は生徒個々に応じた指導に重点をおき、落ちこぼれを出さない工夫を考える。
 やがて、生徒は喜んで宿題をやってくるようになった。
 その理由は、個別的達成目標を勘案して、生徒の能力に応じた宿題が個別的に出される。だから、誰もが同一な努力量ででき、問題を解く喜びを知ることになった。
(4)学力別編成
 学力別編成により生徒の劣等感を起させないよう配慮する。
 生徒の学力格差がおおきいため、A(高校標準以上)~E(小学校程度)クラスまでとなっている。
 クラス選択は生徒の自主性にまかせ移動可能とした。実力が向上すれば下位のクラスは消えていく仕組みになっている。
(5)困難な事象にも真正面から取り組む
 教育の世界は常に新しい事例に対処しなければならない。
 生徒個々の性格がちがうように、いつも同じ指導法では目的が達成できない。
 したがって、その生徒に適応する教育方法を工夫し、実践しなければ効果はあがらないものである。
 しかし、事例に適する類似の指導方法は実践記録の中に必ずあるものである。その類似の指導法を参考にしながら生徒個々の指導方法を確定し実践する。
 ところが、実践記録にもない新しいケースが頻繁に出現した。
 教師たちを悩ませたが、回避することなく、敢然とそれらの事象に対決し、幾多の困難を乗り越え、成功や失敗を繰りかえしながら取り組んだ。
 学校の再建にどう取り組むかを考えていたときに、ある宗教団体の会長が校長室を訪ねてこられた。
 その会長と話しをしていたなかで、鮮明に残っている言葉があった。
「学校が変わるには生徒が変わらなければなりませんよ」
「生徒が変わるには教師が自ら変革しなければならないし、教師を変えるには、校長自らが変わらなければ成功しませんよ」
 なるほどと、と若林校長は思った。
 今まで若林校長は、
「教師たちにどのようにやってもらえば、生徒が良くなるか」と、自分のことを棚にあげて、人にやってもらうことばかりを考えていた。
 自分の変革を枠外において、他の人たちを中心に再建構想をねっていた。
 それでは駄目なんだ。まず「自分の姿勢をどう変えていくか」を中心に構想を組み立てなくては人は感応するものではない。
 若林校長は校長である前に一人の教師なのだ。それを、いままで忘れていた。
 教師を変えるには、教師の一人である自分自身を変えていかねばならない。
 そうすれば、人は必ずついてくる。まず自分が苦しむことだ。
 それでなくては、教師の苦しみがわかるはずがない。
 これはよいことを教えていただいたと若林校長は感謝した。以後、若林校長には迷いは無かった。
「自ら実践することに徹する」ことが若林校長の教育方針に組み入れられたのである。
 それからは、若林校長は生徒とともに掃除をし、クラブ活動に汗を流す日々が続いた。そして、生徒とともに生活することになった。
 若林校長はそれまで、自分の威厳をつくるためにダブルの背広を着ていた。
 そうした外形をつくることに心をくだいた。それをぬいで、もっとも活動しやすく、生徒と同じスタイルのトレパンに着がえた。
 ダブルの背広からトレパンへの移行は「子どもよりの校長」への私の変革だった。いつの間にか生徒たちは、若林校長のことを「トレパン校長」と呼ぶようになったのである。
(若林繁太:1925-2007年、私立篠ノ井旭高校(現・長野俊英高)教諭・校長。読売教育賞受賞。「落ちこぼれを出さない教育」をめざし非行歴のある生徒や中退者を積極的に受け入れる。著書『教育は死なず―どこまでも子どもを信じて (1978年)』がベストセラーとなり、映画化もされた)

 

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学校改革に成功した神奈川県茅ヶ崎市立浜之郷小学校とは

 学校改革が叫ばれて久しいが、それに成功した学校はどれだけあるのだろうか。
 成功しても、教職員の異動のある公立学校で改革を持続させることが難しいが、成功し持続しているのが、神奈川県茅ヶ崎市立浜之郷小学校である。
 1998年4月に開校し、その年の9月に奇跡は起きた。開校時20名以上いた不登校の子どもが一人残らず登校したのである。
 夏休み、子どもたちが自主的に、不登校の子どもたちに学校の様子を伝え、登校を呼びかけた結果であった。
 同校を見学に訪れる参観者は開校5年目にしてのべ5万人を越えた。
 同校を訪れた者は、その静かさに驚くだろう。
 教室では、大人では聞き取りにくいが、子ども同士では十分聞こえる程度の小さな声で話し合いが進んでいく。
 教師はいすに腰掛け聴くことに専念しており、子どもに語りかけるときも声を張ることは少ない。教室は穏やかさのなかに明るさがある。
 同校の授業観は
(1)子ども一人ひとりの考え方や感じ方が徹底的に尊重されて、一人ひとりのリズムでじっくりと対話する時間が大切にされている。
(2)教室に子ども同士の学び合う関係を築くことがめざされている。話すことよりも、聴くことが大切にされている。子どもたちの間で自然と思考がつながっていく。
教室には、子ども一人ひとりの差異と尊厳が大切にされ、子どもが安心して学べる空間となっている。
学校システムの改革は
(1)学校改革への道は、学びの苦しみと楽しみを尊び分かち合う「学びの共同体」へと脱皮するところからでしか出発しえないという佐藤学東大教授の言葉に初代校長の大瀬敏昭が引きつけられ、佐藤教授に教育改革の指導をお願いしたのが挑戦の始まりであった。
(2)校務分掌の「一人一役」制を取り入れ、教師の仕事の80%を授業、研修などの本業にあてることが可能になった。
(3)授業研究は、全体と学年会での日常的なものを含めると、一人年間3回、全体で100回を越える授業が公開されている。
 授業公開にあたって、指導案はなくてもよく、事後の研究会を充実させる。その教師らしいいい授業をめざし、子どもの学びに焦点が置かれ、子どもたちは聴き合っていたかなどといった点が問われる。
(4)親や市民が普段の授業に参加する学習参加の取り組みが行われている。
(石井英真:1977年生まれ、京都大学准教授。授業研究の蓄積に学びながら、学校で保障すべき学力の中身とその形成の方法論について理論的・実践的に研究している。特に、授業を硬直化させるのではなく、むしろ柔軟で創造的なものにするような、目標の明確化とそれに基づく評価のあり方について考えている)

 

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教育界に大きな影響を与えた大正自由主義教育「分団式教育法」とは、どのようなものであったか

 及川平治は、 明石女子師範附属小学校(1907年着任)を舞台として「分団式教育法」などを提唱した。
 明石附属小学校は、
「子どもたちが、自分から進んで学ぶ学校とし、子どもの多様性と個性を生かし、真理の探究法を授ける」
 という方針を立てました。
 この当時は、先生が子どもたちに知識を教え込む授業が多かった。
 及川は明石附属小学校に「分団式動的教育法」という、子どもたちが「自ら学んでいくグループ学習」や「教え合い学習」「体験学習」等を取り入れました。
 この教育法は、今では一般的ですが、当時としては大変先進的な授業であった。
 その反響は大きく、及川の授業を見学しようと全国各地から、年に一万人を超えるほどの参観者が訪れました。
「やってみたい、できるようになりたい」という子どもたちの気持ちを満たしながら、試行錯誤を繰り返させる及川の授業づくりに、参観者の多くが感心しました。
 及川が掲げた教育方針は「児童本位の教育」と称され、児童の「直接経験」を尊び、児童自身の「判断」に訴える教育を施すことが謳われた。
 及川は「子どもの要求=学習動機」こそが、教育の出発点だとした。
「生活体験」を通じて知識や技能を習得させようとの考え方であった。
 及川は、1875(明治8)年に宮城県で貧しい農家の次男として生まれ、苦学して教師となった。
 明治末年から大正、昭和10年代初期まで、兵庫県明石女子師範学校附属小学校で「万年主事」として初等教育の現場で教育改革に挑み続けた。
 及川の教育方法論は、日々の豊富な読書による国内外の教育思想の研究を基礎に構築されていた。
 それを支えていたのは附属小学校の教師・児童、保護者・地域社会、家族であった。
 彼をそうさせたのは及川の人間としての「人柄」にあった。
 及川が附属小学校主事として着任した明治末期には、我が国では「ヘルバルト主義教授法」の形式化、形骸化が顕在化していた。
 学校教育の内実は「人間不在の教育」であった。
 明治30年代から末にかけ、多くの教育改革思想が提唱された。
 及川は、国内外の教育思想を咀嚼し、より実践的な教育方法論の形成に努力した。
 教育理論を説いただけでなく、具体的な教育法も同時に提起した。
 及川の教育方法論と教育実践は、明治・大正・昭和の約40年にわたって展開された。
 最初の段階は、ヘルバルト派の画一的注入教授を克服するための「教育方法」が中心であった。
 1909(明治42)年の「為さしむる主義による、分団式教授法」の提唱である。
 この構想と試みは「分団式動的教育法」「分団式各科動的教育法」(1915)で著わされた。
 これらの著作は当時のベストセラーとなり、明石女子師範学校附属小学校は参観者であふれ、大正前期の教育界に大きな影響を与えた。
 及川の提唱した「分団式動的教育法」は、
(1)教育の動的見地に立つこと
(2)児童の能力不同という事実的見地に立つこと
(3)学習法(研究法)を訓練するという立場に立つこと
 という主張に立脚したものであった。
 彼は文部省の要請により 1 年 4 カ月間、 欧米の教育視察にも赴いている。
 欧米教育視察によって、世界の教育改革運動に触れた及川は、真の動的教育を行うには「カリキュラムの改造」が必要という見解に達した。
 帰国後は、研究対象を「カリキュラム論」に改め、実践的な研究に取り組んだ。
 及川の主張は一貫して「生活と学習との統一的結合」の観点で貫かれた。
 わが国の「個性」を生かす教育の原点は、明治末期からである。
 及川の「分団式動的教育法」は、児童の能力や特性の違いに応じた学習活動を展開した。
 及川の「個性」を生かす授業とは、教授=学習過程を一元化させる立場から、児童の自己活動を重視し、教師を実践者として授業の構成力を要求した。
 形式主義を批判し「指導の個別化・学習の個性化」をねらい、学級の全員がわかる授業をするという理念を念頭に構想された。
 及川の教育方法論と明石女子師範学校附属小学校の「個性」を生かす授業の実践は、大きな遺産となった。
 及川は、大正自由教育運動の先駆者、日本のデューイと評価されている。
(及川平治:1875-1939年、宮城県生まれ、明治末年から昭和10年代初期まで兵庫県明石女子師範学校附属小学校で主事として教育改革に挑み、わが国教育の発展に多大な功績を残した教育家の一人である)

 

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木下竹次の大正時代の新教育運動「他律的教育から自立的学習へ」とは

 木下竹次は大正時代に、学習を、子どもの生活から出発し、生活の向上を図る自律的学習を説いた。
 学習即ち生活,生活即ち学習となる「他律的教育から自立的学習へ」を説き、大正時代の新教育運動を指導する一人となった。
 木下は、全国各地の師範学校を経て、1919(大正8)年,奈良女子高等師範学校教授・同附属小学校主事となった。
 1922年(大正11)に同校で学習研究会を組織し,機関誌「学習研究」を発刊した。
 機関誌「学習研究」の創刊号では、
「学習即ち生活であり,生活即ち学習となる。 日常一切の生活,自律して学習する処, 私共はここに立つ」とし、次のような記事を載せた。
「従来の教育法は、教授,訓練,養護とするのが、我が国に於ける通説であった」
「私は教育、訓練、養護に関する事柄を一括して、之を児童の側面から見て『学習』と称し研究を進めて行かうと思ふ」
 と「学習学」の立場を明らかにした。
 木下は「学習原論」「学習各論」などを著述し,独自学習・相互学習・合科学習・体操的精神・数学的精神・地理的精神などの考え方を呈示した。
 同時に同校で実践した。
 児童たちが身の回りから出発して、さまざまなことに疑問を持ち、自分たちの力で実験し、図書でたしかめていく過程で、児童相互の教えあい、学びあいができると考えた。
 学習教材は児童の生活に即してつくられ、しかも特定の教科の枠にとらわれない全教科学習であった。
「学習は、 学習者が生活から出発して、生活によって生活の向上を図るものである」 とし、分科主義による生活の分断を否定し「生活単位」を学習の題材にする「合科学習」(生活学習)を主張した。
 職員会では事務的な内容は最小限にとどめ、実践に関する論議を行う日常的な研究の場とした。
 月に2回程度、研究授業が行われ、 授業批評会が持たれた。
 一方、実践の基盤となる教養を豊かにすることが求められ、読書会や講演会、映画鑑賞などへの参加を積極的に勧めたといわれる。
 木下は「学習原論」では、
 学習は,学習者が生活から出発して,生活によって生活の向上を図るものである。
 人は人らしく生きるのが目的。学習材料は,自己建設の生活それ自身である。
 学級的画一教育法を打破した自律的学習法は,いずれの学習者も独自学習から始めて相互学習に進む。
 さらに、いっそう進んだ独自学習に帰入する組織方法である。
 実に児童の性質・能力の異なったものは、異なったように活動し,しかも,自由と協同とに富んだ社会化した自己を建設創造しようというのであった。
(木下竹次:1872-1946年福井県生まれ、大正期の新教育の指導者。奈良師範学校、福井県師範学校、鹿児島師範学校などを経て,奈良女子高等師範学校教授・同附属小学校主事。同校で学習研究会を組織し,機関誌「学習研究」を発刊した)

 

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学力向上の秘けつとはなにか

 広島県尾道市立土堂小学校は、2003年4月に新しい校長先生を迎えました。
 陰山英男さんです。陰山さんは、以前勤めていた兵庫県朝来町立山口小学校で子どもたちの学力向上を成し遂げ、全国の親や教師から注目を集めた先生です。
 陰山先生の実践の要は、学習の基礎・基本となる「読み書き計算」の徹底反復。
 特に計算練習として全国で行われている「百ます計算」(岸本裕史氏が考案)は、陰山先生の実践をきっかけに一躍有名になりました。
 そして、校長となった土堂小学校でも、陰山校長は「基礎・基本の徹底反復」をカリキュラムに取り入れました。
「モジュール・タイム」は、週に3時間、基礎・基本の反復練習を集中して行う授業です。
 この授業の導入から1年、土堂小学校の子どもたちは、ぐんぐん力を伸ばしています。
 多くの学校で活用されている標準学力テストの結果が、これまでにない伸びを見せました。
 土堂小学校名物「モジュール・タイム」のスピード感いっぱいの授業を紹介します。
 まず訪れたのは1年生の教室。大きな声で「あえいうえおあお!」と、発声練習から始まりました。
 土堂小学校では「授業中は大きな声で話す」ことを大切にしています。
 発声練習は、恥ずかしがらず大きな声ではっきりと話すための練習です。
 他にも「百珠」による数の基本の確認や、カードをつかった暗算、百ます計算の入門編として行われる「十ます計算」など、次々に移り変わるメニューを元気にこなしていく1年生の集中力には驚かされます。
 5年生の授業では、漢字練習、文学作品の暗唱、「百ます計算」、「百割り」などを紹介します。
 圧巻は「百割り」。これは計算練習の一つで、B4のプリントいっぱいに並んだ割り算100問をタイム計測しながら行います。
 余りが出る面倒な割り算100問をクラス全員が3分以内で解いてしまいます。
 子どもたちの様子は、ゲームでもしているように楽しげです。とても計算練習に取り組んでいるとは思えませんでした。
 こうした基礎・基本の反復練習は、子どもたちの集中力や記憶力、そして何より学ぶ意欲を育てます。
 計算時間が日に日に短くなったり、昨日できなかった問題が今日は出来るようになったり、そうした小さな達成感を積み重ねることで、子どもたちは「やればできる」ことを学ぶのです。
 小学生のうちにたくさんの達成感を味わうことが、人生に負けない自信を育てるのだと、陰山校長は考えています。
 学力向上を目指し陰山校長が行ったもう一つの取り組み、それは子どもたちの「生活改善」です。キャッチフレーズは「早寝、早起き、朝ご飯」。
 各家庭の協力のもと、子どもたちの生活を徹底的に見直しました。学力向上にはその土台となる健康が欠かせないという考えからです。
 その際、子どもたちの生活を知るため役立てたのが「生活改善アンケート」です。
 このアンケートは年1回、全校で一斉に行われます。
「寝る時間は何時か?」「起きる時間は?」
「朝ご飯は何をたべたか?」「朝うんちは出たか?」
「夕飯は誰と食べたか?」「家族と話す時間はあるか?」
 など、子どもたちの生活を細かく調査します。
 今では、土堂小学校の子どもたちのほとんどが、朝7時前に起き、朝ご飯をきちんと食べて学校に来るようになりました。
 こうした変化は、保護者を始め、地域の大人たちの協力があってこそ。
 学力向上は、学校を中心とした地域ぐるみの取り組みなのです。
「子どもが、伸びることに病みつきになって、ここまできた」と語る陰山校長。
 校長の意図をくみ取り、真摯に授業に取り組む先生たち。
 他の学校ではなかなか見ることのできない、活気あふれる授業となっています。
 学力とは「脳の元気」です。
 一定時間にどれだけの情報をより的確に処理できるか。そのために効果的なのは百ます計算に代表される読み書き計算の反復練習です。
 反復練習で脳の神経が太くなり、一つの課題に対して多様な判断ができ、的確な判断ができるようになります。
 今の教育は、基礎ができていないのに、応用力を身につけさせようとしており、うまく機能していないと思われます。
 教育を難しくしているのは、誰も現場をよく知らない。教師に求められる課題が多すぎる。地域が教師を立てない、教師を誇りに思っていないことなどです。
(陰山英男1958年生まれ、元兵庫県公立小学校教師、広島県公立小学校長を経て、立命館小学校副校長、立命館大学教育開発推進機構教授。元大阪府教育委員会委員長)

 

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学力が上がるなど、頑張っている小学校はどのような実践を行っていたのか

 大阪府下の頑張っている小学校を紹介する。
 私がその小学校を訪れたときの第一印象は、子どもたちが「よく遊ぶ」そして「よく聞く」というものであった。
 この小学校で大事にされている「仲間づくり」をおし進めていくうえで「遊び」を重要な活動と位置づけている。
 遊びの時間は、朝8時10分から始業までの「朝遊び」、毎日の休み時間に組み込まれている「班遊び」と、週2回の「クラス遊び」、さらに週2回、放課後に設定されている「放課後遊び」がある。
 教師は、できるかぎり子どもたちの遊びにつきあい、子どもたちの微妙な心身の調子や仲間関係の「あや」を見とり、日々の指導に生かしていく。
 子どもたちは、非常によく人の話を聞く。子どもたちは教師の言葉にしっかりと耳を傾けている。クラスで子どもたちが発言する時にも、しっかりと聞いている。
 もし、人が発言しているときに、おしゃべりしている子がいれば、すかさず周囲からの注意の声が飛びもする。
 低学年の教室では「聞く・話す」のルールの徹底が図られている。
「話していいですか」「はい!」、「聞いてください」「はい!」などというやりとりが、ひんぱんに聞かれる。
 また、教師が
「〇〇さんの聞いてほしい、という気持ちが届いていない人がいるね」
「その座り方、失礼かどうか考えてね」
「手ひざ! 1,2,3,はい集中」
「先生の言うことを、一回で聞いてください」
「失礼な態度はやめましょう。やさしい態度で、聞いてあげてね」
 といった言葉がけが、随時、行われている。
 そうした丹念な指導を通じて、こどもたちの間には、人の話をしっかりと聞くことは他者を尊重することの第一歩であるという常識が打ち立てられることになる。
 この小学校では、子どもたち全体の基礎学力が高いだけでなく、不利な家庭環境のもとにある子どもたちの「落ちこぼれ」を防ぐ、学力の下支えが次のようになされている。
1 わからない時に、わからないと言える学習集団づくり
 教師たちが研修会やふだんの会議・打ち合わせ等で常に立ち返る言葉である。
 教室では「間違う」ことが推奨されている。
 教師たちは折りにふれ「間違ってくれたことによって、みんなの勉強が深まる」という言葉がけを子どもたちに行う。
2 授業と家庭学習とのリンク
 各単元ごとに「みんなでやってみよう」「ひとりでやってみよう」「家でやってみよう」の3つのパートでできている。
 授業の中で、「みんなでやってみよう」の課題にとりくむ。次に「ひとりでやってみよう」にチャレンジする。
 授業の最後にまとめをクラス全体でおこなったあと、「家でやってみよう」の課題を家庭でこなしてくる。
 翌日の授業は、その課題を確認することから始まる。
 家庭学習を重視するポリシーは親に受け入れられている。
 低学年で1時間、高学年で1時間半をメドに家庭学習を課している。
 毎日の国語・算数の復習プリント、漢字・計算ドリル、本読み、自由学習など
3 弾力的な指導体制
 一人の子どもを学級担任だけが見るのではなく、学年全体、学校全体で育てていこうとする。
 一人の子どもを複数の目で見ながら、その子どものよさは何で、その子どものカラーは何で、次にどうしていこうかというのを、みんなの先生と話し合いができる。
 そうしたなかで、教師たちは、自分の見方も変わってくるし、鍛えられてきた面がある。
 みんなでやっていくということを教えられる。
 子どもにとって、いいのか悪いのかという基準だけで柔軟に動いている。
 子どもにこういう力つけてほしい。こういう現状があるからこうしていこう。そのために学年のなかで全員が同じ気持ちを持ってやっていくための打ち合わせが綿密である。
 形式的でなく、悩んでいること、わからんことをすべて言い合う。
4 学力を高めるための指導
(1)基礎学力定着のための指導の徹底
① TT・・・・クラスを二分割して授業をおこなう。
② 習熟度別編成・・・・発展的指導と補充的指導のコース、チェックテストをふまえて、子どもが選択する。
 ③ 毎日学習・・・・・昼休み20分利用して、その日の学習内容を補充する。学年ごと、あき教室でおこなう。
 ④ 放課後学習・・・・週2回学年ベースでおこなう。その子が不得意を補充する。
(2)診断テストによるパーフォーマンスの継続的なチェック
 算数・国語の基本的な学習内容の診断テストが全学年で実施されている。
 結果は、その年度の指導内容に反省が加えられ、次年度の指導方針が定められていく。
(3)日常的な単元末テスト、学期末テスト
(4)方針の決定→活動の実施→結果の総括
 子どもたちの基礎的な学力の定着状況が、恒常的にモニターされている。
(5)大事にされているのが「配慮を要する子ども」(低学力)に対する働きかけ。
 一人ひとりの子どもの達成状況と課題が細かく明らかにされ、その課題をクリアするために、日常的な補充学習や家庭学習のあり方までを含めたプログラムが組まれる。
(志水宏吉:1959年兵庫県生まれ、大阪大学人間科学研究科教授。専門は教育社会学・学校臨床学)

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大正自由主義教育と綴り方教育とは、どのようなものであったのでしょうか

 大正デモクラシーにより、明治時代の画一的で注入主義の授業に対する批判から、教育方法の改革をさまざまな形で試みられるようになった。
 大正新教育運動は、欧米諸国の人材育成を目的とした教育改革の影響を受けていた。たとえば、子どもの自発性を重視するデューイの児童中心主義などに象徴される新教育運動の影響である。
 日本の教師は、これらを背景にした新教育運動のもとで、子どもの自発性を尊重しようとする自由主義的な教育実践を展開することになった。
 大正新教育運動は、子どもの主体性などの思想を教育実践に組み込もうとしたものであった。
 第一次世界大戦を経て、日本の経済が発展し経済的に安定した中間市民層が創出されて、大正新教育を支えることになった。
 私立学校が相次いで設立された。1917(大正6年)の成城小学校の発足を皮切りに、羽仁もと子の自由学園、明星学園、池袋児童の村小学校などが設立され、教師は様々な実践を展開したのである。
 大正新教育のもうひとつの特徴は、師範学校の附属小学校を中心として、その実践が展開したことである。
 たとえば、明石女子師範附属小学校主事であった及川平治は、経験主義の立場から、児童の生活経験を基盤として自律的な活動である「分団式教授法」で、知識や技能を身につけさせようとした。
 奈良女子高等師範学校附属小学校における木下竹次の「生活即学習」という考えに基づく「合科学習」、千葉師範付属小学校の手塚岸衛の自由教育などの実践が展開された。
 しかし、これらの自由主義的教育運動は、その後、日本が軍国主義へと傾斜していくなかで衰退してゆかざるをえなかった。
 これを象徴する事件が川井訓導事件である。
 松本女子師範附属小学校の訓導であった川井が、修身科の授業改革に取り組み、副読本の文学作品を用いて実践していた時、視学官に国定教科書を使用していないことをとがめられ、休職処分にまで追い込まれたのである。
 彼は、国の教育方針に背くつもりはまったくなく、教育方法の改良を図ろうとしたのにすぎなかったが、教育における国家主義を脅かすものとみなされたのである。
 大正自由主義教育運動は、明治時代に日本に移入されたヘルベルトの5段階教授法に見られる形式主義を批判するものとして、大きな意味をもつものであった。
 しかし、国家主義により教育目的の自由な議論が封じられて、教授方法に限られ、方法主義的にならざるを得なかったのである。
 昭和初期の1920年後半から30年代初頭は、たびかさなる経済恐慌の影響を受けて国民生活は窮迫した状況となった。
 この時期の教育運動として特筆すべきは、生活綴方(せいかつ つづりかた)教育である。
 生活綴方とは、子どもたち自身に、生活上の出来事や、それに関わる思考や感情を作文に素直に綴らせるのである。
 その作品をみんなで検討する作文指導を通じて、生活現実のリアルな認識や文章表現力、自己意識や仲間との連帯感、主体性などを育てることをめざす教育方法である。
 その担い手となったのは、農村部の若い教師たちで、貧困という窮迫した生活を生きる子どもたちを、作文教育を通じて生活指導を進めていったのである。
「綴方生活」や「北方教育」などの雑誌は教師たちの交流の場となった。
 生活綴方の運動は1920年末から30年代に各地で展開されたが、特に東北地方で盛んに行われた。
 しかし、生活綴方の運動は、子どもたちに悲惨な生活の現実を直視させることで反政府的な思想を育てるものとして警戒され、1940年以降、治安維持法により綴方教師は検挙されていった。
 戦後、1951年の無着成恭編「山びこ学校」の刊行などを契機として運動が復興し、その実践は新たな展開をみせながら現在も継続されている。
(
櫻井 歓:1972年生まれ、日本大学准教授。専門は教育学、哲学・倫理学)
(
岩本俊一:法政大学非常勤講師)

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先生の意識を変えると生徒が変わり伸びる、先生や学校を変えるには、どうすればよいか

 学校を変えるためには先生の意識を根本から変えなければいけない。私はシンプルなことから始めました。それは挨拶です。
 先生は教室に入ったとき生徒に挨拶します。学校は思い出や感動を生み出す場所です。それには先生の根底に「元気」が必要てす。元気の素になる最初の行動が「挨拶」です。
 私はいろいろな学校に行くことがあります。その学校の雰囲気は挨拶に一番表れます。先生が挨拶できないと生徒に伝播します。
 挨拶は、それだけでお互いにいい気分になります。人間はいつもちゃんと挨拶してくれる人のほうが好きになってしまうところがあります。
 挨拶は習慣です。単純に勇気も必要です。人としての徳においても大切です。人間関係を築くための最初の一歩が挨拶です。
 私は「先生は経験ではなく、志で決まる」と考えています。「志が高く、先生としてのあり方」が身についた先生は視点をはずしません。年齢にかかわらず、「志が高い先生」がいい教師です。
 志の高い先生は、その生徒のためにしてあげられることを常に考えています。志の高さは意識が高さといってもいいでしょう。「こうしたほうが、もっとよくなるだろう」「ここを変えていったらいいだろう」とすぐ気づきます。そして行動します。
 生徒を注意するときも、生徒がよくなるための注意と、先生の怒りを発散させるだけの注意ではまったく違います。志の低い先生は、その場その場で自分の怒りを発散させるだけの注意になりがちです。
 志の高い先生は生徒のことを考えた結果であり、その子のために必要だから注意をします。そうやって「志の高さをずっと持って、真正面からじっくりと生徒に向き合う」のがいい先生なのです。
 先生の志の高さは、三学期が終わったクラスの状態を見ればわかります。クラスの生徒は担任を映している鏡です。終業式のクラスの状態がその担任の状態を表しているのです。
 そのときに人格が豊かな、志の高い、心の温かい子どもたちに満ちあふれていたら、それは担任がそういう人だからです。
 反対に表面だけを追うような、表層的な部分だけで行動したり、ものごとを考える担任がいたとします。そのクラスは三学期の終業式のときには、そのような表層的な部分でしか生きられない子どもばかりのクラスになってしまいます。
 それは長年の教員生活で見ていて、すぐにわかります。よく「何年かたたないと教育は結果が出ない」と言います。そんなことはありません。たまたま悪いクラスにあたった、ということも先生から聞きます。 クラスがよくなるのも悪くなるのも担任しだいです。
 その結果、担任の志の高さが終業式の生徒に表れるのです。そして、学校の志の高さは卒業式を見ればわかります。卒業式は生徒も先生も涙して、なかなか帰りたがらないとき、それを見て私は、すべての担任のクラスがうまくいっている、と思います。
 私たち先生の仕事は3Kに近いものです。きつくて、汚くて、危険です。教材研究、ふだんの業務、部活動を完璧にこなそうとすると、ほとんど休みはありません。教室がいつもきれいな状態であるためには、泥まみれになって掃除もします。
 しかし、こんなに崇高な仕事はないと思っています。仕事してきて「よかった」「うれしかった」と卒業式に生徒と一緒に泣けるような仕事は他にありません。自分の幸せにも直結します。そんな素敵な卒業式を迎えられるように、先生は生徒と日々向き合っています。
 私は生徒を大事にするとともに、先生を大事にしました。先生を大事にしたら、先生が生徒を大事にしてくれます。
 職員室で、校長が先生の良いところをみつけて「ほめ」スターのようにスポットライトを当てて光輝かせてあげる。先生たちが職員室で輝けば輝くほど、先生は教室で子どもたちをスターにするのです。
 人は認められるとうれしくなります。自分を知ってもらえると安心します。校長である私は、先生のことを全部わかってあげなければいけません。
 新しい学校に赴任したとき、先生と面談して「どんな学校にしたいか」とじっくりと話しを聞いた。「生徒と真剣に向き合い、生徒一人ひとりを伸ばしていくことのできる学校」と先生の答えは皆同じだった。
 そして、学校の進むべき道を明確に決め、「子どもが安心して通えて、私たち先生を信用して、信頼して頼れる学校」とした。
 いばっても人は絶対に動きません。いくらかっこいいことを言っても、実際に態度で大事にしているという気持ちが伝わらなければ動きません。全部わかってあげて、真剣に向き合っていきます。私の志が先生に投影されて、先生が変わっていきます。その先生がそれぞれのクラスを変えていくのです。
 私は先生を大事にしましたが、そのなかでも特に着目したのは学校が好きな先生です。情熱があり、学校が好きな先生というのは、生徒が好きで、そして自分を伸ばしたいという表れでもあります。学校が好きな先生たちを中心に変えていったほうが、すべてうまくいきます。
 では、どうやって学校を変えていったのか。まず、学校が好きな先生に「授業をするから見に来てください」と言いました。授業はこうやるんだということを全部話しました。授業のやり方を覚えてもらい、もう一度、本来の自分を取り戻してほしかったのです。
 その後、学校が好きな先生から一気に広がり、授業を見にくる先生は、ものすごい勢いで増えました。しだいに、先生たちも恥ずかしさを捨てて、もうがむしゃらに学ぶんだ、というふうになっていきました。
 情熱的でない先生も、わかりやすい教え方を知ったとき、目を輝かせていました。やはり、先生になる人はみんな心に熱いものを持っていました。
 先生という職人は、腕のたつ職人の言うことはよく聞くものです。そのためには、校長が圧倒的にうまい授業や生徒指導をして見せる必要があります。そうすれば、職人である先生は、頭領である私についてきます。
 学校を変える主役は先生です。
 先生をまず変えます。生徒を変えるよりもまずは先生を変えます。重要なことは先生にワクワクしてもらうこと。先生が自己改善をし続けること。先生が変われば授業が変わる。授業が変われば間違いなく生徒が変わります。
 先生が一致団結しないと学校は変わらない。学校としてみんなが同じ方向に向かって努力すると、先生が伸び、生徒が伸び、学校が伸び良い結果が生まれます。
 学校の進む方向や道は、幅広く設け、ここで先生に好きなようにやってもらう。
 先生はそれぞれでやり方が違う。進む道が狭いと個々の先生の個性を殺してしまうので許容範囲を広くとる。目指すところが同じなので、共通の目的・哲学を根本的な部分で共有するようにします。
(
長野雅弘:1956年名古屋市生まれ、一宮女子高等学校、平安女学院中学校・高等学校等で校長を務めた後、 聖徳大学教授。学校改革において手腕を発揮。入学者が激減してつぶれるとまで噂された女子高校を授業のみの改革で2年目に人気校にしてV字回復させた。生徒のことを第一に考え「絶対に落ちこぼれをつくらない」「学校は感動製造工場」をモットーとし、真摯に生徒と教育に向き合い生徒とその保護者から信頼を寄せられている)


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日本の授業改革(グループ学習や机の配置など)の歴史はどうであったか

 日本人の多くは認識していないが、大正自由教育と戦後新教育の展開で日本の学校は授業改革では世界の最先端を切り開いていた。
 日本の教室の革新は大正自由教育の子ども中心主義の私立実験学校(成城小学校)において創始され、昭和初期に全国の師範学校附属小学校を中心に公立学校にも普及した。
 成城小学校では男女混合4人のグループ学習が行われている。明石師範学校附属小学校の及川平治の分団式動的教育法のように効率性を追求した能力別の編成においては、6人を標準とするグループ学習も実施されていた。公立学校のグループ学習は、男女混合4人のスタイルが多く、昭和初期には相当数、普及していたことが知られている。
 教室の「コの字」型の机の配置も、大正自由教育において創始され、昭和初期に全国の学校に普及した。日本の小中学校において一般化していたグループ学習も「コの字」型の教室の配置も、欧米の一般の学校において普及するのは1970年代以降である。
 戦後の新教育は1947年から1955年ごろまでの間、小中学校の教師の約8割が「学校独自のカリキュラムづくり」を推進し、「単元学習」の実践を展開した。この事実は驚異的と言ってよいだろう。これほど多くの教師が新教育の実践に挑戦した国は日本以外に存在しない。
 しかし、日本の教室は後進性においても特徴的である。高校の一斉授業は100年以上にわたって変化しないまま今日を迎えている。
 日本の教室の後進性は高校だけでなく、小中学校にもみられる。教師が黒板を使い、教科書を中心に説明と発問と指名で子どもの応答を組織する一斉授業の様式は、途上国以外の国では博物館に入っている。
 その事実を参照すると、日本の教室は輝かしい革新性を有しながら、一斉授業という後進性の枠組みに縛られているのが現状である。
(
佐藤 学:1951年生まれ 東京大学教授を経て学習院大学教授。学校を訪問(国内外2800)し、学校現場と共に学び合う学びの改革を進めている)

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