カテゴリー「優れた授業とは」の記事

有名な実践家、東井義雄が考え実践していた授業とはどのようなものか

1 授業に既製品はない
 授業の創造ということは、テクニックの追求ではない。教師が古い自分を切り捨て、新しい自分を生み出していく、創造的な仕事である。
2 教師が子どものころ受けた授業の形だとか、どこかで見た模範授業だとかが頭を縛ってしまって、それが授業を、個性も生気もないものにしている。
3 教科書に出てくるから教えるという安易さが、授業を空回りさせ、人間を駄目にする授業をはびこらせている。
4 教科書にあることを、にぎやかに話し合わせても、教師の願いもなく、人間そのものを根本からゆさぶるものでなければ、授業にはならない。
5 教師の願い
(1)
教科書にあるのは素材である。それが生きたものになるかどうかは、教師に願いがあるかどうかにかかっている。願いがぼやけていては授業にならない。
(2)
願いに、まずわが身を燃え上がらせる。
(3)
願いが技術を生み出す。
(4)
話術をまねしても駄目、板書を写し取ってまねしてもだめ。技術というものは、それを使う教師のやむにやまれぬ願いが具体化されたものだから。その教師の願いを学ばないで形骸だけをまねても駄目になるのは当然である。
6 教師の力
 教師の願いや心だけでも駄目。教師の技術だけでも駄目。この二つが一つにとけて教師の力になる。
7 教師と子どもの信頼関係
 三センチの道幅だけあっても、自転車は走れない。授業とは直接関係ないように見える「教師と子どもの信頼関係」これなくして授業は成り立たない。
8 遺産相続
 ひらがな一字だって、私たちの先祖が何代も何代もかかって生み出した遺産。心をこめて遺産相続させてやりましょう。
9 授業は何でもない当り前のことを、心をこめて工夫し、大切にしていかなければならない。
10
授業で子どもをどう変えていくか
(1)
子どもという「人間」と少しも関わりのないような授業を授業だと考えていないか。
(2)
今日、私たちが授業で追求し研究しなければならないことは「授業で子どもをどう変えていくか」ということである。
(3)
授業に熱心というだけでは、子どもに本当の力をつけてやることはできない。熱心であればある程、うっかりしていると詰め込みになりやすいものを私たちは持っている。
11
授業の中で、ひとりひとりの生まれがいと、日本人の幸せを切り開いていくような愛と創造のエネルギーをどう育てていくかが、授業研究の関心にならなければならぬ。
12
「勉強の主人公を育てる授業」「育ちあい、磨きあえる授業」をめざそう。
13
いくらうまい授業をやったところで、うまい発表会をやったところで、りっぱに見える運動会をやったところで、それが「ひとり」「ひとり」の子どもの確立につながらないのでは「教育」とは言えない。
14
磨きあいとは、AとBとCが寄れば、Aの中にも、Bの中にも、Cの中にもなかったすばらしいものが生まれてくること。
15
私たちは、子どもたちの勉強意欲の底に、いつも村や町や国や人類に対する愛を念じるべきである。それがないと意欲が本当の意欲になりにくい。
16
生活の論理と教科の論理のかみあわせで
(1)
子ども、一人ひとりは、その子どもの感じ方、思い方、行ない方を持っている。その底には、その子どもをして、そう感じ、そう思い、そう行なわせるような論理的なものがはたらいている。
(2)
その論理的な必然をさらに、堀り進んでいくと、父母の感じ方、思い方、教師の感じ方、思い方にも続いていく。
(3)
それから、家風だとか、家の財産だとか、地域の人たちの生活様式だとか、風習だとか、伝統だとか、文化だとかも重要な関連を持っている。
 これらのものに支えられながら展開している子どもの感じ方、思い方、行ない方の筋道を「生活の論理」とよびたい。
(4)
子どもに教えようとすることがらは、客観化された「論理性」「法則性」を持っている。
 そして、それは、そのことがらの中だけでなく、他の教えたいことがらの「論理性」「法則性」ともつながっている。算数には算数の、国語には国語の、学問の筋道がある。それが「教科の論理」である。
(5)
授業は「生活の論理」と「教科の論理」の効果的な、かみあわせがないとだめである。
17
子どもはつまずきの天才 
(1)
子どもはつまずきの天才である。
(2)
「3+3は5だ」と、つまずく子は、その子なりの理屈、論理が必ずある。
(3)
「子どもの論理」を知らないでは、私たちの仕事は実を結ばない。
(4)
「3+3は6だ」ということを、感動をもって分からせる授業をしようと思ったら「3+3は5だ」と、つまずく子を大切にすることだ。
(5)
授業は「つまずいてる子」の目玉が光ってくるようなものでないと、「つまずいていない子」にとってもたいくつなものだ。
(
東井義雄:19121991年 兵庫県生まれ 小中学校長、ペスタロッチ賞を受賞、地域の生活を取り上げる生活綴り方教育の代表的な実践家)

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授業がうまくいかない原因とは、どうすれば優れた授業になるか

 教材研究も十分にした。資料も準備した。しかし、授業がうまくいかない。子どもが食いつかないということがある。
 おかしいなあと思い、よく考えてみると、子どもの能力にマッチした教材が提示されていないことが原因と考えられる場合がある。
 教師が興味にまかせて調べた、むずかしい内容を、そのまま子どもにぶつけていることである。
子どもの実態を把握した上での教材のかみくだきが不足しているように思う。
「こんな考えをしている、このくらいの能力の子どもに、こんな教材をぶつけたら、子どもがこんな追究をして、考えがこうなった」というような研究を積み重ねていかないと、一般性のある研究になっていかないのではないだろうか。
「教材は、子どものためにある」といわれる。しかし、子どものどんな点に対して教材があるか問われていないのではないかと思う。
 教材を選定するとき「子どものどんな点に対して、教材のどういう内容が、どのように有効か」
ということを考えておき、これを仮説として授業に取り組むことが必要ではないだろうか。
 教材研究をするとき「具体的にターゲットの子どもを思いうかべて、この子に、この教材をぶつけたら、どんな反応を示すか」と考えながら行うのである。そうすれば、教材を取り上げた理由もはっきりする。
 授業においても、当然その子に注目し、その子むきの発問をすることになり、ものすごく具体化する。
 これがズバリ当たれば、子どものとらえ方や教材の選定に自信がもてるようになる。うまくいかなければ、どこがおかしいか反省材料になる。
 反省も具体的にでき、次への発展材料となる。このようなことを重ねていくことによって、教材の程度やおもしろさがつかめると同時に、子どもを見る目ができていく。
 私はたくさんの授業を見続けてきました。優れた授業に共通するポイントと思われることは
(1)授業がうまい教師は、一番やりたいことや、教材をこのように提示すれば子どもたちが熱中するということを念頭において、その展開にふさわしい目標を考えて指導案を書いている。そうすれば、かたい目標にとらわれることはなくなり、おもしろい授業ができるようになる。
(2)優れた授業は、教材の内容が鮮明でおもしろい。身近にあって誰でも気づきそうな、おもしろい情報を集め、ユニークな資料にまとめている。身近なことから広い世界が見えるものが教材としてよいのである。
(3)優れた授業の発問や指示には、子どもがよく反応し、多様なおもしろい考えを出している。
(4)授業のうまい教師は子どもの見とりがうまく対応がみごとである。対応の技術は教師の総合的な腕で、授業の善し悪しがこれできまるほど大切なものである。
(5)板書は授業のねらい・内容・方法と教師の学力や人間性が表れる。板書のうまい教師は構造的でわかりやすく、子どもが書けるスピードでゆったりと書き、文字もきれいで、色も使い分け、絵や線を入れたりして工夫している。
(6)優れた授業をする教師は、いつも笑顔で表情がやわらかい。子どもたちを包み込む雰囲気をもっている。話し方がうまく、子どもたちを引きつけている。ここぞというときに、おもしろいパフォーマンスをして子どもたちが喜ぶ。

(有田和正:19352014年、福岡教育大学附属小倉小学校、筑波大学付属小学校,愛知教育大学教授、東北福祉大学教授、同特任教授を歴任した。教材づくりを中心とした授業づくりを研究し、数百の教材を開発、授業の名人といわれた)

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教え上手な教師はモデルとなる子どもを想定して授業をする 

 クラスを、できのいい人、中ぐらいの人、思わしくない人の三つのグループに分け、それぞれのグループで一人ずつ典型的な人を想定します。すぐれた教師はこういうモデル抽出を活用しています。
 上中下に分布したうちの、上ランクの子しか授業内容が理解できていないようであれば、もう少し掘り下げて、中ランクの子まで届くようにし、下のランクの子どもへの手当ては授業の後半に集中させようといった策をとるのです。
 今日の授業のねらいを達成するためには、Aくんのやる気を刺激してみようとか、B子ちゃんにわからせたらこの授業は成功だなどと、特定の一人を選んで、その子の意欲を引き出し、理解を深めるよう授業を行うのです。
 教材を発掘するときにも、ある特定の子どもを思い浮かべて「あの子を熱中させるのに、このネタは適切だろうか」などと考える。
 また、授業中にモデルの子に質問を集めて
「そんなことまで知っているのか、キミはすごいなあ」
「でも、あとでもう一回質問するぞ。もうちょっとむずかしいことを聞くからな」
などと、その子を中心にして進めていく。そうすることで、理解をほかの子どもに広げていくのです。
 こうしたやり方は、授業を一人の子どもだけに偏らせはしないかと思う人がいるかもしれません。しかし、代表的な「個人」を通じて全体は見えてくるものです。
 モデルの子どもを基準にすることで、ほかの子どもの理解度などもよくわかってくる。だから、グループ全体への理解を図りたいときこそ、全体を代表する個人への浸透を心がけなくてはなりません。
 むろんモデルにすべき一人は、いつも特定されているわけではない。ケースバイケースでそのつど選択します。
 私の経験からいうと、最大公約数的な平均的な子どもをモデルに選んだときは、授業が無難なものになり、おもしろみに欠けることが多い。全体の理解度も中程度で終わってしまいがちです。
 もっとも大きな成果が望めるのは、やはり意欲が薄い、ノリが悪いといった子どもをターゲットにして
「この子の心をつかむにはどうしたらいいだろう」
と、工夫する場合のようです。
 それは失敗するリスクも大きいのですが、うまくいったときの全体への波及効果は最大となり、教師の技量向上にも通じていくからです。
(
有田和正:19352014年、福岡教育大学附属小倉小学校、筑波大学付属小学校,愛知教育大学教授、東北福祉大学教授、同特任教授を歴任した。教材づくりを中心とした授業づくりを研究し、数百の教材を開発、授業の名人といわれた)

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教え上手な教師とは、どのような教師でしょうか

 子どもを育てる教え上手な教師は、多く教えることよりも、少なくしか教えないことに知恵を絞る。なぜならそれが、子どもをより深く考えることに、導くきっかけになるからである。
 少なくしか教えないことが大切になってきます。花も水をやりすぎては根腐れしてしまいます。水は足りないくらいのほうが花もよく育つのです。
 けれども、私たち教師は、つい水をやりすぎてしまう。親切で熱心な教師ほど「なぜ、これがわからないんだ」と、あれこれ口をはさみ、手を出す、過剰な指導をしてしまう。
 子どもが自ら「はてな?」と疑問を抱き、好奇心を働かす前に、エサを口に運ぶように教えてしまう。
 そして、その教えすぎが「また、先生が教えてくれるだろう」という頼る心を植えつけて、子どもの主体性を損ね、依存性を育ててしまうのです。
 したがって、答えをすぐには教えない忍耐力が必要になってきます。
 子どもが考えはじめたら、しばらくだまって見守る。迷路に入ったり、堂々めぐりをはじめたら、少しだけヒントを与えて押してあげる。ふたたび考え出したら、また、しばらく見守る。
 この「待つ」と「押す」のくり返しが教える技術のツボであり、本当に子どもを育てることになるのです。
 教えていることが、教わっている子どもに、いかにも見え見えなのは失格です。「見えない」のが理想です。
 答えを隠したり、答えるまで遠回りさせたりしながら、大事なことほどすぐには教えない。最短距離では教えないことが肝要なのです。深く教えようとしたら、回り道を恐れないことが大切なのです。
 ただし、回り道するときに気をつけなければいけないことは「教え惜しみ」をしすぎないことです。解決がいつまでも得られないと、途中でざせつしてしまいます。限界が見えたら、解答を与えて疑問を氷解してあげることが肝心なのです。
 思考を深める高度な発問をする前に、子どもが思考の入り口まで誘導するやさしい質問が重要になってくるのです。「ポストの色は何色ですか」と、だれでも手をあげられる場面をつくるようにします。すぐれた教師ほど「どんな子どもも答えられる」問いをいくつか用意しているものです。
 あえて、やさしい課題に取り組ませて成功体験をさせて、それを次の、よりハードルの高い課題への意欲につなげていく。こうした「布石」は、必ず必要になってくるのです。
 少ししか教えない、大事なことほど教えない、正しいことばかり教えない、という「教え惜しむ」指導法によって、子どもたちの学ぶ意欲を引き出し、その考えを深く豊かに耕すのです。
「教え惜しみ」の技術の内容をかいつまんでいえば、
・答えをすぐには教えず、自分の頭で考えさせる
・すぐに答えを要求せず、ゆっくりと考えさせる
・あえて大事なポイントを隠してヒントだけ与える
・わざとあいまいなことや間違ったことを提示して、固定観念や既成概念に揺さぶりをかける
そのような「自ら考えさせる」技術を使うことで、子どもたちを深い思考へと誘導するのです。
 学校は、子どもを育てようとして、熱心な教師ほど、かゆいところに手を届かせるようにして、懇切ていねいに過剰に教えてしまうものです。
 しかし、何もかも教えようとすると、かえって少なくしか伝わらないものです。また、教えすぎは教わる人の考える主体性を奪ってしまうことにもなります。
(
有田和正:19352014年、福岡教育大学附属小倉小学校、筑波大学付属小学校,愛知教育大学教授、東北福祉大学教授、同特任教授を歴任した。教材づくりを中心とした授業づくりを研究し、数百の教材を開発、授業の名人といわれた)

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笑いが出る楽しい授業をするには、どうすればよいでしょうか

 有田正和は講演会の冒頭でよく「1時間の授業で、一度も笑いのない授業をした教師は、授業終了後、ただちに逮捕する」と、よく言っていた。
 有田は、ユーモアというのは「対応の技術」だと考えている。「子どもが何かいったとき、かんはつを入れず面白い対応ができること、これが本当のユーモアではないだろうか」と述べている。
 有田自体、ユーモア小話だけで本を何冊も書けるほど面白いネタをいくつも持っている楽しい人なのだが、決して自分が主役になろうとはしない。授業における「笑い」の主役は、あくまでも子どもである。
 有田の有名な実践であるバスの運転手の授業記録の一部を紹介する。
教師「バスにはタイヤが何個ついていますか」という発問の後の授業の様子である。(「社会科発問の定石化」明治図書・8182ページ)
子どもA:「前に1個に、うしろに2個」
教師(有田):「Bくん、起立。これはどちらが正しいですか?」
子どもB:「8個」
子どもC:「それじゃスピードが遅くなるんだよ」
子どもB:「6個だ、6個。えーっ、待って。だって、後ろに4つに、前に2個だもん」
教師(有田):「うそばっかり」
 授業の核となるBくんに話をふり、さらに「うそばっかり」と挑発する。この一言でBくんはヒートアップ、他の子どもたちからは笑い声、参観者は大爆笑となったであろう。
 この場面、シンプルにまとめると「ある子にネタをふって、その発言につっこむ」ということになる。
 まず、話を誰にふるかがポイントになる。有田氏は、ここで、話を盛り上げてくれそうな発言をするBくんを指名している。
 しかも、このBくんは、けっこう打たれ強い。だからこそ「うそばっかり」というようなツッコミができる。
 これは、クラスの子どもたち一人ひとりのことをしっかり把握しているからこそ、できることである。
 
「対応力」を磨くことは、一朝一夕で身につくものではないが「あの子は発想が面白い」とか「打たれ強い」など、クラスの子どもたちのことを理解することは、やる気さえあれば、ある程度はクリアできる。
 そして、その上で 「教師は笑顔で授業を行う」
 気の利いたツッコミはできなくても、笑顔で子どもたちの言動に対応することは、意識さえすれば誰にでもできるはずである。
 教師の笑顔は、子どもたちも笑顔にする。「授業は楽しいものだよ」ということを教師は表情でしめさなくてはならない。スマイルは教師の義務だと有田は考えている。
 これは技というより、人間性といった方がよいだろう。ネクラからネアカな人間になる。これも教師の義務であると考えている。せめて子どもの前だけでも教師はスマイルを絶やさないようにしたいものである。
 有田が見た名人や有能な教師はみんな笑顔がすてきである。スマイルのある教師の授業は、やわらかく、暖かく、子どもたちものびのびと学習している。
 授業は子どもがわからない状態から、わかるようにすることです。私は授業をするとき「今日、子どもと何で勝負しようか」と考える。おもしろい授業をするには、「何で勝負するか」ということを、第一に考えよう。
 有田の場合は、一人か二人の子どもをターゲットにして、その子をこの一時間で
「学習意欲を引き出す。学び方を教える。見えない(わからない)ものを見える(わかる)ようにする」
ことを、どうやって引き出していくかを考える。
 ですから、授業を考える時に、まず、子どものイメージをつかんで、見えないものを見えるようにする。そのプロセスで学び方をつけ、学習意欲を引き出していくわけです。やっぱり子どもたちをベースにして、教材はあくまでも手段です。目的ではありません。
 楽しい授業の一番大事なのは、厳選された教材で学び方を育てる。しかも、子どもたちがとことん追求するような、意欲を引き出す。
 そうするには、やっぱり子どもたちが追及する材料を、子どもたちを予想して、これなら追究するだろうというような面白い材料を準備するということが必要ではないかと思います。
 「笑いを持ち込むと教室の空気がゆるんでしまう」「笑わせたら子どもになめられる」と、笑いを敬遠する教師も少なくありません。ユーモラスな話をすれば、子どもは身を乗り出して聞くはずです。子どもたちに集中力や注意力、学ぼうというエネルギーがうまれるのです。
 むろん、いつまでも笑わせていてはダメでで、次の瞬間には、そのエネルギーを学ぶほうへと仕向けていく必要があります
(
有田和正:19352014年、筑波大学付属小学校,愛知教育大学教授、東北福祉大学教授、同特任教授を歴任した。教材づくりを中心とした授業づくりを研究し、数百の教材を開発、授業の名人といわれた)

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教師にとって最も必要な資質とは何か、また授業の実力を高めるにはどうすればよいか

 教師としての楽しみは「教師になってからの努力」によってこそ、もたらされます。初心を忘れ、現状に安住して過ごすようになると、教師人生の楽しみは半減してしまうでしょう。「進みつつある教師のみ人を教える権利あり」という言葉を心に刻んで進むべきだと思います。
 人生において、自分自身の資質や力量を高めていくことほど、すばらしいことはありません。自分の上達を実感できることは最高の喜びです。
 上達していくためには、他の人からの意見や批判によって、それまでの自分の考え方や感じ方を省みることが必要です。常に「自分の現状の否定と破壊」を自らに課する必要があると言えるでしょう。
 つらいこと、聞きにくいことにも、耳を傾けなければなりません。自分を変えて、変えて、変え続けることによって、徐々に望ましい自分になっていくのです。
 私はこれまで、たくさんのすばらしい先生がたにお会いしてきました。共通するのは、謙虚で素直だということでした。
 教師にとって何よりも大切なのは、自分が人間として教師としても、まだまだ未熟である、という自覚を常に持つことです。そうすれば、より向上したいという意欲がわいてくるものです。
 自分が未熟であることを自覚し、謙虚であり続ければ、正直になります。自分をよく見せようとする必要などありません。
 すると、教師自身が楽になるだけでなく、勇気を持って子どもたちと向き合えることになります。自分が間違っていたとわかったら、素直に改めていけばよいのです。
 自分を省みつつ、向上させていく教師には、子どもたちも心を開き、その姿勢を見て学び、成長していくのです。
 この「謙虚さ」と「向上心」の二つは、すべての教師にとって最も重要な資質と言えるでしょう。
 自分をより高く伸ばそうと思うなら、優れた人に直接会うことが最も近道です。いろいろと問いかけ話の糸口をつくることが望ましい。そして素直に聞くことです。
 上達の一番の条件は素直さです。まずは素直に教えを受け入れ
(1)
その指摘は、私の授業のどこにあてはまるだろうか。
(2)
その指摘を取り入れると、私の授業のどこが変わってくるのだろうか。
(3)
そのように実践したら、私の授業はどういうことになるのだろうか。
(4)
この指導は、私の授業のどこをどう改めよということになるのだろうか。
というように、自分の実践をまな板にのせて、受け入れることが大切です。そうすることによって、より良い実践が生まれてくるはずです。
 授業のレベルを上げるには、優れた授業者の授業を参観することが、最も効果的です。その場合も、発問法を見るとか、受けの技術を見るとか、学習形態の組織の仕方を見るとか、はっきりとした問題意識を持ち、具体的な目的を持って見ることが大切です。
 さらに、自分のふだんの授業を他の人に見てもらうことは、いっそうよい勉強になります。研究授業の回数は多ければ多いほどよいのです。それは教材研究や授業の腕を磨いていくことに役立つのです。
 授業では、子どもたちの反応を見ながら、常に工夫を加えていきましょう。授業を行った後に、指導案に授業の気付きをメモ書きし、反省を記入することをくり返すとよいでしょう。日頃の積み重ねが実力を高めます。
 授業の実践を記録するには、学級通信を利用するのもよい。授業の様子や学級のできごと、教師の思いや意見を記すと、特別に時間をかけなくても、教育実践の記録を積み重ねることができます。
 経験はぼんやりと繰り返しながら積んでも力にはならない。「こうしてみよう」「あれを加えてみよう」「あそこを削ってみよう」と、常に意図的に積むことが肝要なのです。
 私は本当に優れた先達との出会いに恵まれてきました。多くのことを教えてくださる。それが自分の成長の糧となるのです。すばらしい喜びとなるのです。
 一つひとつの出会いに意味を見い出せるかどうか、ということこそが、実は人間の成長の分かれ目のような気がします。
(
野口芳宏:1936年生まれ、元千葉県公立小学校校長、植草学園大学名誉教授。千葉県教育委員会委員長職務代理者、日本教育技術学会理事・名誉会長、授業道場野口塾等主宰)

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面白くなければ授業ではない、教師の道に惚れ込み、面白さを見出すのがいい

 教師にとって授業が面白くなければ、子どもにとっても面白いはずがない。面白いということは、笑いがあるということである。笑いがある授業は楽しいのである。野口芳宏は面白い授業を求め続けている。
 笑いというものは楽しい時にしか生まれないから。良い授業には必ず楽しさがある。子どもの表情が生き生きするのである。そういう面白い授業を子どもたちにしていく、心がけが必要である。
 しかし、むろん笑いだけが面白さではない。笑いはしないが、考え合い、問いつめ、新しい解決の糸口を見つけ出せた時の喜びは格別すばらしいものである。
 そういった「知的興味の充足」も「面白さ」である。そのような面白さは、問いや、課題の質によって決まってくるとも言える。
 知的な面白さのコツは、ちょっとむずかしい問題を出し、初めは「わからない」と思わせ、少しずつその不満状態を解決していくプロセスをドラマにしていく点にある。
 野口の「うてとこ」の授業(「子どもを動かす授業の技術20+α」明治図書刊)などはその一例になろう。
 また、初めの考えが、時間の経過とともに否定され、やがて脱皮し、成長していくそのプロセスも、十分に子どもの知的興味をかきたてる。
 さらに、子どもが教師を乗り越えていくこともまたすばらしいドラマを生み、子どもを大いに楽しませる。
 教師の解答に不満や誤りがあり、子どもがそれを見つけ、教師の考え方を改めさせていくという面白さは、本当に教師も子どもも燃えに燃えることになる。その例としては、野口の実践「菜畑」が好適である。
 いずれにせよ、授業は面白くなければいけない。面白くなければ授業ではない、とさえ言ってよいだろう。野口は、あえて自らにそう言いきかせている。それをめざすところに、授業の腕を磨く楽しみもまた生まれてくるに違いない。
 教師の道を選んだなら、教師の道に面白さを見出し、教師の道に惚れ込んで、のめりこみをするのがいい。
 だから、どうしても教師という仕事、授業という仕事に面白味を見いだせないとしたら、教師としての人生はさぞ味気ないものになるだろう。また、そういう教師に教わる子どもたちの不幸も大きいことになるのではないか。
 私は人生にとって何に「面白さ」を見出すかということがたいへん、たいせつであるように思うのである。できうれば自らの選んだ職業の中に「面白さ」を見出し、それにのめりこんでみることが良いと思う。そういう、のめりこみの姿勢こそが、自らの人生の「探究」そのものになるのだと思うのである。 
(
野口芳宏:1936年生まれ、元千葉県公立小学校校長、植草学園大学名誉教授。千葉県教育委員会委員長職務代理者、日本教育技術学会理事・名誉会長、授業道場野口塾等主宰)

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教科書をどの子にもよくわかるように、まちがいなく教えていくことが授業だろうか

 私は教師になって最初の頃、教科書に書いてあることを、どの子にもよくわかるように、ていねいに、そしてまちがいなく教えていくことを授業と考えていたようである。そのことに何の疑問もなく過ごしていた。
 私は、授業とは「子どもに問題を投げかけ、考えさせ、発表させ、助言し、補足し、励まして」やっていけばいいのだと信じきっていたようである。
 そういう私が、授業について「国語の短い文章を、なぜ、何時間も時間をかけて教えねばならないのか」と、はじめて問題意識をもつようになったのは、一年目が終わろうとする頃であった。
 「『これは、こういう意味だ、忘れないように覚えておくんだぞ』と、あっさり教えることは、なぜいけないのか」「なぜ、発問とか助言だとか『遠まわりなやりとり』をしなければならないのか」という問題である。
 私は学年主任に質問した。主任は「きみ、国語の読み取りかたは、読みとり『方』なんだよ」と「方」に力を入れておっしゃった。私の頭に、いなずまのような光が走り「ああ、そうだったのか『方』だったのか」と、すべてが一気にわかったような気がした。
 というのは、ちょうどその頃私は、国語教育の大家の先生のまねをして「さるも木からおちる」という諺を教材に子どもたちがどのように読みとるか授業で調べたことがあったのである。
 
「さるが木からおちたということである」という子どもが半数以上あった。「も」という助詞を無視して読んでいるのである。 
 ところが「も」に注目した子どもの中にも、
「さるは人まねがうまい。それで、人が木からおちたので、さるもまねをして木からおちた」
「その木は、さるすべりの木だった。それで、木からおちた」
「その木は雨あがりでよくすべった。それで、木からおちた」
「木のぼりのうまいさるでも、ゆだんをしていると木からおちるということだ」
「さるにかぎらず何でも、あまりいい気になってゆだんしていると、失敗するということだ」
というように「十人十色」の読み方をしていたことを思い出したからである。
 まず、子ども一人ひとりの「読みとり方」を確かめる。
 
「さるが・・・・」と読んだ子どもには「さるも・・・・」と読んだ子どもをぶつからせていく。
 それによって「さるが・・・・」の子どもが「も」に目ざめていく。「さるもまねをして木からおちた」と読んだ子どもが得意になる。
 それに対して「きみたちは得意になっているが『おちた』じゃなくて『おちる』になっているよ」と批判する子どもがあらわれてくる。みんなが「おちる」になっていることに目ざめていく。
 このようにして、表現を手がかりにして、どの子も、客観性のある読みとり「方」ができるように練りあげていく仕事が、読解力を育てる授業というものであったのだ。
 したがって、その意味を与えてしまってはいけなかったのだ。私はすべてが、うなずけた気がしたのである。
 それといっしょに思い出したのは私が教育実習生のとき、国語の授業で「わが国民性の長所短所」という授業をした。そのときの批評で
「東井くん、国語の授業は修身(道徳)の授業とはちがうんだよ」と言われたことを思い出した。きっと、国語の教科書に書いてある中身を、どんな子どもにもよくわかるようにと考えて、一生懸命に教え込もうとしていたのであろう。
 それに対して「わが国民性の長所短所を、どの子にもよくわかるように教えることよりも、子ども自身が、それをわかりたいと考え、一字一字をも大切にしながら、わかりとっていこうとする、そのわかりとり『方』をこそ、練り鍛えなかったら、国語授業とはいえないんだぞ」と教えられたのにちがいない。
 ということも、いっぺんにわかった気がしたのである。
 子どもの「方」からスタートし「方」を練りあげる仕事は、国語の授業だけのものであろうか。算数にも、理科にも、社会科にも「方」がある。十人十色のそれがある。その「方」を見きわめ「方」から出発して「方」を練りあげていく。それが「授業」というものだ、といえるのではないだろうか。
 授業の創造ということは、テクニックの追求ではない。教師が古い自分を切り捨て、新しい自分を生み出していく、創造的な仕事である。授業に既製品はない。
 子どものころ受けた授業の形だとか、どこかで見た模範授業だとかが頭を縛って、それが授業を個性も生気もないものにしている。教科書に出てくるから教えるという安易さが、授業を空回りさせ、人間を駄目にする授業をはびこらせている。
 教科書にあることを、にぎやかに話し合わせても、願いもなく、人間そのものを根本からゆさぶるものでなければ、授業にはならない。
 教科書にあるのは素材である。それが生きたものになるかどうかは、教師に願いがあるかどうかにかかっている。願いがぼやけていては授業にならない。願いに、まずわが身を燃え上がらせる。
 話術をまねしても駄目、板書を写し取ってまねしてもだめ。技術というものは、それを使う人のやむにやまれぬ願いが具体化されたものだから、その願いを学ばないで形骸だけをまねても駄目になるのは当然。
 願いや心だけでも駄目。技術だけでも駄目。この二つが一つにとけて力になる。
 授業とは直接関係ないように見える教師と子どもの信頼関係、これなくしては授業も成り立たない。
(
東井義雄:19121991年、 兵庫県生まれ、小・中学校長。ペスタロッチ賞を受賞。生活の中から問題を解決していく学力を育てた「村を育てる学力」が大きな反響を呼ぶ。生活綴り方教育の代表的な実践家)

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子どもが授業に熱中するにはどうすればよいか 

 授業づくりで第一に考えるべきことは、なにで子どもの気持ちを引きつけ、興味をもたせるかということである。
 子どもが興味をもち、しかもよくわかり、追究できるネタを考え出すことが、授業を進める上で最も大切なことだと思う。
 
「ネタ」つまり「教えたいもの」をはっきりと持ったとき、授業になり得るということだ。しかし「教えたいもの」を鮮明にもたねばならないが、決して教えてはならないのである。
 わたしは、授業の計画をたてるとき、授業のネタを何にしようかと、いつも迷い、悩む。
 例えば、A児の考えとB児の考えをネタにしようか。それとも、実物や写真、絵などでゆさぶることにしようか。おもしろい話をしてこの話をもとに考えさせようか。C児に発表させてみんなで検討することにしようか。等々と頭を悩ませる。
 それで、他人の指導案を見たり、授業を見たりするとき
(1)
ネタは何か
(2)
それを子どもはおもしろがって追究しているか
(3)
子どもにネタを追究させるために、教師はどんな手をうっているか
という目で見るようになった。
 子どもが遊んでいる授業は、ネタのない授業だといえる。一人ひとりの子どもが、確かに問題をもち、予想がたち、追究の方向がみえ、問題追究に熱中するようになったとき、勝負が成立したといえる。
 そして、追究の途中で、子どもの考えを大きくゆさぶり、目を開かせ、より確かな統一のある考えに発展させることができれば、より確かに勝負が成立したといえる。
 勝負を成立させるためには、
(1)
子どもが、今どんな考えをもって授業に臨もうとしているか、どんな知識や経験をもっているかつかむこと。
(2)
子どもの考えに対して、どんなネタをぶつければよいかつかむこと。
この二つのことが最低限必要である。
 ユニークな授業をするためには、子どもの能力・興味関心にマッチした、よいネタをつかむことがポイントである。
 ネタには、子どもの思考のすじ道をふまえ、しかも、真実に迫っていく契機が含まれていることが必要である。
 何としても、子どもがネタにひっかかるようにしなければならない。ひっかかって、追究していく過程で、より真実に迫っていくような内容を含んでいなければならない。
 こういうネタをどうみつけるか。これが、授業前の一つの勝負である。おもしろいネタをたくさんストックしておいて、子どもの状況に応じて、自由自在に勝負してみたいというのがわたしの夢である。
(
有田和正:19352014年、筑波大学付属小学校,愛知教育大学教授、東北福祉大学教授、同特任教授を歴任した。教材づくりを中心とした授業づくりを研究し、数百の教材を開発、授業の名人といわれた)

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子どもたちの可能性を授業で引き出すにはどうすればよいか

 教育という仕事は、子どもたちの具体に応じて、こまかい手入れをしていかなければならないものである。
 子どもたちに、言葉でなり、声でなり、身体でなり表現させたら、その事実のなかにある、よいものとか悪いものとかをとらえ、その場ですぐに具体的に指摘していかなければならない。
 その事実のなかにあるよいものは拡大し、悪いものは否定して他のものをつくり出させることによって、子どもたちの持っている可能性は、はじめて引き出され形となっていくものである。
 そういう指導をするためには教師は、子どもの事実をみぬく力を持ち、表現の方法を指導する教師としての技術をもっていなければならない。
 また、それらのもととなる、教材への解釈とかイメージとかを持っていなければならない。
 教育という仕事においては、子どもの事実にふれるごとに、問題が生まれ、新しい解釈とかイメージとか、それに即した新しい指導の方法とか技術が生まれる。だから教育という仕事は面白いのである。
 事実を動かすような仕事をしていったとき、子どもたちは無限に教えてくれるのである。教師は、子どもに学ばせることによって自らも学んでいる。 
 教育の実践は、事実を大切にし、子どもを動かし、子どもを変える事実を日々つくり出していかなければならないものである。
 教師は子どもを動かしていく仕事である。教師の仕事は、授業という、教師と子どもが対決する作業によって、的確に具体的に子どもを動かしていかなければならない仕事である。授業は子どもを動かし変えることができ、子どもたちを新鮮に強じんにすることができる。
 授業で、教師が子どもや教材のなかから課題や問題をつくり出し、子どもたちの考えを引き出し、子どもたちから出た考えをつぎつぎと打ちくだいたり、発展させていくことによって、集中や緊張が生まれ、創造が生まれていくのである。
 そして、その課題や問題をみんなが理解し解決すると、子どもたち全体が豊かな気持ちになりリラックスする。「緊張や集中」と「リラックス」のどちらもある授業によってリズムが生まれてくる。
 そういう授業をすることによって、すべての子どもたちが、心をひらき、自分をおいかけて追究し、自分をつくり出すようになるのである。そのなかで子どもたちは新鮮になり、清純になり強じんになっていくのである。
 子どもが生き生き学習するには、教師が意図的に組織し構成することによって生まれてくる。教材のなかにある本質とか方向とか問題点とかをとらえ、それをもとにして子どもたちに働きかけ、それに対して子どもたちの出す発言とか行動とか反応とかの事実を見て、それらを組織し発展させていくことによって、はじめて可能になる。
 授業を組織し構成するということは、教師が子どもに働きかけていることであり、教師が子どもたちのなかに入っていることである。すぐれた組織がされ構成がされた場合は、それだけで子どもたちが生き生きとなり、心をひらいて学習に参加するようになる。
 授業は明確な方向性を持ち、単純化されていなければならない。それではじめて授業は力を持ち、リズムとドラマを持ち、新しいものを生み出していくようになる。
 教材の方向性と授業の方向性をどこで一致させるかということが、授業展開を成功させる条件である。一つの教材によって方法論を持つことが、授業での教師の方向性であり授業に方向性があることである。
 教材の方向性を考える。現実の子どもを考える。自分の方向を考える。教材のなかからもっとも適切なものを抜き出し拡大する。
 展開を単純化しようとする場合は、何をどうきりすてるかということが大事になる。教師が「読み取ったもの・解釈したもの・疑問に思ったもの・発見したもの」のなかから、こんどの授業では「何を取り上げ・何と何は切りすてるか」を決定する。授業展開に方向性を持たせるために、単純化し明確にするために惜しげもなく切りすてるとよい。
(
斎藤喜博:1911年-1981年、元小学校校長。島小学校などに優れた実践を残した昭和の代表的な実践者)

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