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笑いが出る楽しい授業をするには、どうすればよいでしょうか

 有田正和は講演会の冒頭でよく「1時間の授業で、一度も笑いのない授業をした教師は、授業終了後、ただちに逮捕する」と、よく言っていた。
 有田は、ユーモアというのは「対応の技術」だと考えている。「子どもが何かいったとき、かんはつを入れず面白い対応ができること、これが本当のユーモアではないだろうか」と述べている。
 有田自体、ユーモア小話だけで本を何冊も書けるほど面白いネタをいくつも持っている楽しい人なのだが、決して自分が主役になろうとはしない。授業における「笑い」の主役は、あくまでも子どもである。
 有田の有名な実践であるバスの運転手の授業記録の一部を紹介する。
教師「バスにはタイヤが何個ついていますか」という発問の後の授業の様子である。(「社会科発問の定石化」明治図書・8182ページ)
子どもA:「前に1個に、うしろに2個」
教師(有田):「Bくん、起立。これはどちらが正しいですか?」
子どもB:「8個」
子どもC:「それじゃスピードが遅くなるんだよ」
子どもB:「6個だ、6個。えーっ、待って。だって、後ろに4つに、前に2個だもん」
教師(有田):「うそばっかり」
 授業の核となるBくんに話をふり、さらに「うそばっかり」と挑発する。この一言でBくんはヒートアップ、他の子どもたちからは笑い声、参観者は大爆笑となったであろう。
 この場面、シンプルにまとめると「ある子にネタをふって、その発言につっこむ」ということになる。
 まず、話を誰にふるかがポイントになる。有田氏は、ここで、話を盛り上げてくれそうな発言をするBくんを指名している。
 しかも、このBくんは、けっこう打たれ強い。だからこそ「うそばっかり」というようなツッコミができる。
 これは、クラスの子どもたち一人ひとりのことをしっかり把握しているからこそ、できることである。
 
「対応力」を磨くことは、一朝一夕で身につくものではないが「あの子は発想が面白い」とか「打たれ強い」など、クラスの子どもたちのことを理解することは、やる気さえあれば、ある程度はクリアできる。
 そして、その上で 「教師は笑顔で授業を行う」
 気の利いたツッコミはできなくても、笑顔で子どもたちの言動に対応することは、意識さえすれば誰にでもできるはずである。
 教師の笑顔は、子どもたちも笑顔にする。「授業は楽しいものだよ」ということを教師は表情でしめさなくてはならない。スマイルは教師の義務だと有田は考えている。
 これは技というより、人間性といった方がよいだろう。ネクラからネアカな人間になる。これも教師の義務であると考えている。せめて子どもの前だけでも教師はスマイルを絶やさないようにしたいものである。
 有田が見た名人や有能な教師はみんな笑顔がすてきである。スマイルのある教師の授業は、やわらかく、暖かく、子どもたちものびのびと学習している。
 授業は子どもがわからない状態から、わかるようにすることです。私は授業をするとき「今日、子どもと何で勝負しようか」と考える。おもしろい授業をするには、「何で勝負するか」ということを、第一に考えよう。
 有田の場合は、一人か二人の子どもをターゲットにして、その子をこの一時間で
「学習意欲を引き出す。学び方を教える。見えない(わからない)ものを見える(わかる)ようにする」
ことを、どうやって引き出していくかを考える。
 ですから、授業を考える時に、まず、子どものイメージをつかんで、見えないものを見えるようにする。そのプロセスで学び方をつけ、学習意欲を引き出していくわけです。やっぱり子どもたちをベースにして、教材はあくまでも手段です。目的ではありません。
 楽しい授業の一番大事なのは、厳選された教材で学び方を育てる。しかも、子どもたちがとことん追求するような、意欲を引き出す。
 そうするには、やっぱり子どもたちが追及する材料を、子どもたちを予想して、これなら追究するだろうというような面白い材料を準備するということが必要ではないかと思います。
 「笑いを持ち込むと教室の空気がゆるんでしまう」「笑わせたら子どもになめられる」と、笑いを敬遠する教師も少なくありません。ユーモラスな話をすれば、子どもは身を乗り出して聞くはずです。子どもたちに集中力や注意力、学ぼうというエネルギーがうまれるのです。
 むろん、いつまでも笑わせていてはダメでで、次の瞬間には、そのエネルギーを学ぶほうへと仕向けていく必要があります
(
有田和正:19352014年、筑波大学付属小学校,愛知教育大学教授、東北福祉大学教授、同特任教授を歴任した。教材づくりを中心とした授業づくりを研究し、数百の教材を開発、授業の名人といわれた)

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教師にとって最も必要な資質とは何か、また授業の実力を高めるにはどうすればよいか

 教師としての楽しみは「教師になってからの努力」によってこそ、もたらされます。初心を忘れ、現状に安住して過ごすようになると、教師人生の楽しみは半減してしまうでしょう。「進みつつある教師のみ人を教える権利あり」という言葉を心に刻んで進むべきだと思います。
 人生において、自分自身の資質や力量を高めていくことほど、すばらしいことはありません。自分の上達を実感できることは最高の喜びです。
 上達していくためには、他の人からの意見や批判によって、それまでの自分の考え方や感じ方を省みることが必要です。常に「自分の現状の否定と破壊」を自らに課する必要があると言えるでしょう。
 つらいこと、聞きにくいことにも、耳を傾けなければなりません。自分を変えて、変えて、変え続けることによって、徐々に望ましい自分になっていくのです。
 私はこれまで、たくさんのすばらしい先生がたにお会いしてきました。共通するのは、謙虚で素直だということでした。
 教師にとって何よりも大切なのは、自分が人間として教師としても、まだまだ未熟である、という自覚を常に持つことです。そうすれば、より向上したいという意欲がわいてくるものです。
 自分が未熟であることを自覚し、謙虚であり続ければ、正直になります。自分をよく見せようとする必要などありません。
 すると、教師自身が楽になるだけでなく、勇気を持って子どもたちと向き合えることになります。自分が間違っていたとわかったら、素直に改めていけばよいのです。
 自分を省みつつ、向上させていく教師には、子どもたちも心を開き、その姿勢を見て学び、成長していくのです。
 この「謙虚さ」と「向上心」の二つは、すべての教師にとって最も重要な資質と言えるでしょう。
 自分をより高く伸ばそうと思うなら、優れた人に直接会うことが最も近道です。いろいろと問いかけ話の糸口をつくることが望ましい。そして素直に聞くことです。
 上達の一番の条件は素直さです。まずは素直に教えを受け入れ
(1)
その指摘は、私の授業のどこにあてはまるだろうか。
(2)
その指摘を取り入れると、私の授業のどこが変わってくるのだろうか。
(3)
そのように実践したら、私の授業はどういうことになるのだろうか。
(4)
この指導は、私の授業のどこをどう改めよということになるのだろうか。
というように、自分の実践をまな板にのせて、受け入れることが大切です。そうすることによって、より良い実践が生まれてくるはずです。
 授業のレベルを上げるには、優れた授業者の授業を参観することが、最も効果的です。その場合も、発問法を見るとか、受けの技術を見るとか、学習形態の組織の仕方を見るとか、はっきりとした問題意識を持ち、具体的な目的を持って見ることが大切です。
 さらに、自分のふだんの授業を他の人に見てもらうことは、いっそうよい勉強になります。研究授業の回数は多ければ多いほどよいのです。それは教材研究や授業の腕を磨いていくことに役立つのです。
 授業では、子どもたちの反応を見ながら、常に工夫を加えていきましょう。授業を行った後に、指導案に授業の気付きをメモ書きし、反省を記入することをくり返すとよいでしょう。日頃の積み重ねが実力を高めます。
 授業の実践を記録するには、学級通信を利用するのもよい。授業の様子や学級のできごと、教師の思いや意見を記すと、特別に時間をかけなくても、教育実践の記録を積み重ねることができます。
 経験はぼんやりと繰り返しながら積んでも力にはならない。「こうしてみよう」「あれを加えてみよう」「あそこを削ってみよう」と、常に意図的に積むことが肝要なのです。
 私は本当に優れた先達との出会いに恵まれてきました。多くのことを教えてくださる。それが自分の成長の糧となるのです。すばらしい喜びとなるのです。
 一つひとつの出会いに意味を見い出せるかどうか、ということこそが、実は人間の成長の分かれ目のような気がします。
(
野口芳宏:1936年生まれ、元千葉県公立小学校校長、植草学園大学名誉教授。千葉県教育委員会委員長職務代理者、日本教育技術学会理事・名誉会長、授業道場野口塾等主宰)

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面白くなければ授業ではない、教師の道に惚れ込み、面白さを見出すのがいい

 教師にとって授業が面白くなければ、子どもにとっても面白いはずがない。面白いということは、笑いがあるということである。笑いがある授業は楽しいのである。野口芳宏は面白い授業を求め続けている。
 笑いというものは楽しい時にしか生まれないから。良い授業には必ず楽しさがある。子どもの表情が生き生きするのである。そういう面白い授業を子どもたちにしていく、心がけが必要である。
 しかし、むろん笑いだけが面白さではない。笑いはしないが、考え合い、問いつめ、新しい解決の糸口を見つけ出せた時の喜びは格別すばらしいものである。
 そういった「知的興味の充足」も「面白さ」である。そのような面白さは、問いや、課題の質によって決まってくるとも言える。
 知的な面白さのコツは、ちょっとむずかしい問題を出し、初めは「わからない」と思わせ、少しずつその不満状態を解決していくプロセスをドラマにしていく点にある。
 野口の「うてとこ」の授業(「子どもを動かす授業の技術20+α」明治図書刊)などはその一例になろう。
 また、初めの考えが、時間の経過とともに否定され、やがて脱皮し、成長していくそのプロセスも、十分に子どもの知的興味をかきたてる。
 さらに、子どもが教師を乗り越えていくこともまたすばらしいドラマを生み、子どもを大いに楽しませる。
 教師の解答に不満や誤りがあり、子どもがそれを見つけ、教師の考え方を改めさせていくという面白さは、本当に教師も子どもも燃えに燃えることになる。その例としては、野口の実践「菜畑」が好適である。
 いずれにせよ、授業は面白くなければいけない。面白くなければ授業ではない、とさえ言ってよいだろう。野口は、あえて自らにそう言いきかせている。それをめざすところに、授業の腕を磨く楽しみもまた生まれてくるに違いない。
 教師の道を選んだなら、教師の道に面白さを見出し、教師の道に惚れ込んで、のめりこみをするのがいい。
 だから、どうしても教師という仕事、授業という仕事に面白味を見いだせないとしたら、教師としての人生はさぞ味気ないものになるだろう。また、そういう教師に教わる子どもたちの不幸も大きいことになるのではないか。
 私は人生にとって何に「面白さ」を見出すかということがたいへん、たいせつであるように思うのである。できうれば自らの選んだ職業の中に「面白さ」を見出し、それにのめりこんでみることが良いと思う。そういう、のめりこみの姿勢こそが、自らの人生の「探究」そのものになるのだと思うのである。 
(
野口芳宏:1936年生まれ、元千葉県公立小学校校長、植草学園大学名誉教授。千葉県教育委員会委員長職務代理者、日本教育技術学会理事・名誉会長、授業道場野口塾等主宰)

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教科書をどの子にもよくわかるように、まちがいなく教えていくことが授業だろうか

 私は教師になって最初の頃、教科書に書いてあることを、どの子にもよくわかるように、ていねいに、そしてまちがいなく教えていくことを授業と考えていたようである。そのことに何の疑問もなく過ごしていた。
 私は、授業とは「子どもに問題を投げかけ、考えさせ、発表させ、助言し、補足し、励まして」やっていけばいいのだと信じきっていたようである。
 そういう私が、授業について「国語の短い文章を、なぜ、何時間も時間をかけて教えねばならないのか」と、はじめて問題意識をもつようになったのは、一年目が終わろうとする頃であった。
 「『これは、こういう意味だ、忘れないように覚えておくんだぞ』と、あっさり教えることは、なぜいけないのか」「なぜ、発問とか助言だとか『遠まわりなやりとり』をしなければならないのか」という問題である。
 私は学年主任に質問した。主任は「きみ、国語の読み取りかたは、読みとり『方』なんだよ」と「方」に力を入れておっしゃった。私の頭に、いなずまのような光が走り「ああ、そうだったのか『方』だったのか」と、すべてが一気にわかったような気がした。
 というのは、ちょうどその頃私は、国語教育の大家の先生のまねをして「さるも木からおちる」という諺を教材に子どもたちがどのように読みとるか授業で調べたことがあったのである。
 
「さるが木からおちたということである」という子どもが半数以上あった。「も」という助詞を無視して読んでいるのである。 
 ところが「も」に注目した子どもの中にも、
「さるは人まねがうまい。それで、人が木からおちたので、さるもまねをして木からおちた」
「その木は、さるすべりの木だった。それで、木からおちた」
「その木は雨あがりでよくすべった。それで、木からおちた」
「木のぼりのうまいさるでも、ゆだんをしていると木からおちるということだ」
「さるにかぎらず何でも、あまりいい気になってゆだんしていると、失敗するということだ」
というように「十人十色」の読み方をしていたことを思い出したからである。
 まず、子ども一人ひとりの「読みとり方」を確かめる。
 
「さるが・・・・」と読んだ子どもには「さるも・・・・」と読んだ子どもをぶつからせていく。
 それによって「さるが・・・・」の子どもが「も」に目ざめていく。「さるもまねをして木からおちた」と読んだ子どもが得意になる。
 それに対して「きみたちは得意になっているが『おちた』じゃなくて『おちる』になっているよ」と批判する子どもがあらわれてくる。みんなが「おちる」になっていることに目ざめていく。
 このようにして、表現を手がかりにして、どの子も、客観性のある読みとり「方」ができるように練りあげていく仕事が、読解力を育てる授業というものであったのだ。
 したがって、その意味を与えてしまってはいけなかったのだ。私はすべてが、うなずけた気がしたのである。
 それといっしょに思い出したのは私が教育実習生のとき、国語の授業で「わが国民性の長所短所」という授業をした。そのときの批評で
「東井くん、国語の授業は修身(道徳)の授業とはちがうんだよ」と言われたことを思い出した。きっと、国語の教科書に書いてある中身を、どんな子どもにもよくわかるようにと考えて、一生懸命に教え込もうとしていたのであろう。
 それに対して「わが国民性の長所短所を、どの子にもよくわかるように教えることよりも、子ども自身が、それをわかりたいと考え、一字一字をも大切にしながら、わかりとっていこうとする、そのわかりとり『方』をこそ、練り鍛えなかったら、国語授業とはいえないんだぞ」と教えられたのにちがいない。
 ということも、いっぺんにわかった気がしたのである。
 子どもの「方」からスタートし「方」を練りあげる仕事は、国語の授業だけのものであろうか。算数にも、理科にも、社会科にも「方」がある。十人十色のそれがある。その「方」を見きわめ「方」から出発して「方」を練りあげていく。それが「授業」というものだ、といえるのではないだろうか。
 授業の創造ということは、テクニックの追求ではない。教師が古い自分を切り捨て、新しい自分を生み出していく、創造的な仕事である。授業に既製品はない。
 子どものころ受けた授業の形だとか、どこかで見た模範授業だとかが頭を縛って、それが授業を個性も生気もないものにしている。教科書に出てくるから教えるという安易さが、授業を空回りさせ、人間を駄目にする授業をはびこらせている。
 教科書にあることを、にぎやかに話し合わせても、願いもなく、人間そのものを根本からゆさぶるものでなければ、授業にはならない。
 教科書にあるのは素材である。それが生きたものになるかどうかは、教師に願いがあるかどうかにかかっている。願いがぼやけていては授業にならない。願いに、まずわが身を燃え上がらせる。
 話術をまねしても駄目、板書を写し取ってまねしてもだめ。技術というものは、それを使う人のやむにやまれぬ願いが具体化されたものだから、その願いを学ばないで形骸だけをまねても駄目になるのは当然。
 願いや心だけでも駄目。技術だけでも駄目。この二つが一つにとけて力になる。
 授業とは直接関係ないように見える教師と子どもの信頼関係、これなくしては授業も成り立たない。
(
東井義雄:19121991年、 兵庫県生まれ、小・中学校長。ペスタロッチ賞を受賞。生活の中から問題を解決していく学力を育てた「村を育てる学力」が大きな反響を呼ぶ。生活綴り方教育の代表的な実践家)

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子どもが授業に熱中するにはどうすればよいか 

 授業づくりで第一に考えるべきことは、なにで子どもの気持ちを引きつけ、興味をもたせるかということである。
 子どもが興味をもち、しかもよくわかり、追究できるネタを考え出すことが、授業を進める上で最も大切なことだと思う。
 
「ネタ」つまり「教えたいもの」をはっきりと持ったとき、授業になり得るということだ。しかし「教えたいもの」を鮮明にもたねばならないが、決して教えてはならないのである。
 わたしは、授業の計画をたてるとき、授業のネタを何にしようかと、いつも迷い、悩む。
 例えば、A児の考えとB児の考えをネタにしようか。それとも、実物や写真、絵などでゆさぶることにしようか。おもしろい話をしてこの話をもとに考えさせようか。C児に発表させてみんなで検討することにしようか。等々と頭を悩ませる。
 それで、他人の指導案を見たり、授業を見たりするとき
(1)
ネタは何か
(2)
それを子どもはおもしろがって追究しているか
(3)
子どもにネタを追究させるために、教師はどんな手をうっているか
という目で見るようになった。
 子どもが遊んでいる授業は、ネタのない授業だといえる。一人ひとりの子どもが、確かに問題をもち、予想がたち、追究の方向がみえ、問題追究に熱中するようになったとき、勝負が成立したといえる。
 そして、追究の途中で、子どもの考えを大きくゆさぶり、目を開かせ、より確かな統一のある考えに発展させることができれば、より確かに勝負が成立したといえる。
 勝負を成立させるためには、
(1)
子どもが、今どんな考えをもって授業に臨もうとしているか、どんな知識や経験をもっているかつかむこと。
(2)
子どもの考えに対して、どんなネタをぶつければよいかつかむこと。
この二つのことが最低限必要である。
 ユニークな授業をするためには、子どもの能力・興味関心にマッチした、よいネタをつかむことがポイントである。
 ネタには、子どもの思考のすじ道をふまえ、しかも、真実に迫っていく契機が含まれていることが必要である。
 何としても、子どもがネタにひっかかるようにしなければならない。ひっかかって、追究していく過程で、より真実に迫っていくような内容を含んでいなければならない。
 こういうネタをどうみつけるか。これが、授業前の一つの勝負である。おもしろいネタをたくさんストックしておいて、子どもの状況に応じて、自由自在に勝負してみたいというのがわたしの夢である。
(
有田和正:19352014年、筑波大学付属小学校,愛知教育大学教授、東北福祉大学教授、同特任教授を歴任した。教材づくりを中心とした授業づくりを研究し、数百の教材を開発、授業の名人といわれた)

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子どもたちの可能性を授業で引き出すにはどうすればよいか

 教育という仕事は、子どもたちの具体に応じて、こまかい手入れをしていかなければならないものである。
 子どもたちに、言葉でなり、声でなり、身体でなり表現させたら、その事実のなかにある、よいものとか悪いものとかをとらえ、その場ですぐに具体的に指摘していかなければならない。
 その事実のなかにあるよいものは拡大し、悪いものは否定して他のものをつくり出させることによって、子どもたちの持っている可能性は、はじめて引き出され形となっていくものである。
 そういう指導をするためには教師は、子どもの事実をみぬく力を持ち、表現の方法を指導する教師としての技術をもっていなければならない。
 また、それらのもととなる、教材への解釈とかイメージとかを持っていなければならない。
 教育という仕事においては、子どもの事実にふれるごとに、問題が生まれ、新しい解釈とかイメージとか、それに即した新しい指導の方法とか技術が生まれる。だから教育という仕事は面白いのである。
 事実を動かすような仕事をしていったとき、子どもたちは無限に教えてくれるのである。教師は、子どもに学ばせることによって自らも学んでいる。 
 教育の実践は、事実を大切にし、子どもを動かし、子どもを変える事実を日々つくり出していかなければならないものである。
 教師は子どもを動かしていく仕事である。教師の仕事は、授業という、教師と子どもが対決する作業によって、的確に具体的に子どもを動かしていかなければならない仕事である。授業は子どもを動かし変えることができ、子どもたちを新鮮に強じんにすることができる。
 授業で、教師が子どもや教材のなかから課題や問題をつくり出し、子どもたちの考えを引き出し、子どもたちから出た考えをつぎつぎと打ちくだいたり、発展させていくことによって、集中や緊張が生まれ、創造が生まれていくのである。
 そして、その課題や問題をみんなが理解し解決すると、子どもたち全体が豊かな気持ちになりリラックスする。「緊張や集中」と「リラックス」のどちらもある授業によってリズムが生まれてくる。
 そういう授業をすることによって、すべての子どもたちが、心をひらき、自分をおいかけて追究し、自分をつくり出すようになるのである。そのなかで子どもたちは新鮮になり、清純になり強じんになっていくのである。
 子どもが生き生き学習するには、教師が意図的に組織し構成することによって生まれてくる。教材のなかにある本質とか方向とか問題点とかをとらえ、それをもとにして子どもたちに働きかけ、それに対して子どもたちの出す発言とか行動とか反応とかの事実を見て、それらを組織し発展させていくことによって、はじめて可能になる。
 授業を組織し構成するということは、教師が子どもに働きかけていることであり、教師が子どもたちのなかに入っていることである。すぐれた組織がされ構成がされた場合は、それだけで子どもたちが生き生きとなり、心をひらいて学習に参加するようになる。
 授業は明確な方向性を持ち、単純化されていなければならない。それではじめて授業は力を持ち、リズムとドラマを持ち、新しいものを生み出していくようになる。
 教材の方向性と授業の方向性をどこで一致させるかということが、授業展開を成功させる条件である。一つの教材によって方法論を持つことが、授業での教師の方向性であり授業に方向性があることである。
 教材の方向性を考える。現実の子どもを考える。自分の方向を考える。教材のなかからもっとも適切なものを抜き出し拡大する。
 展開を単純化しようとする場合は、何をどうきりすてるかということが大事になる。教師が「読み取ったもの・解釈したもの・疑問に思ったもの・発見したもの」のなかから、こんどの授業では「何を取り上げ・何と何は切りすてるか」を決定する。授業展開に方向性を持たせるために、単純化し明確にするために惜しげもなく切りすてるとよい。
(
斎藤喜博:1911年-1981年、元小学校校長。島小学校などに優れた実践を残した昭和の代表的な実践者)

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授業で大切なこと、子ども・保護者とのコミュニケーションで大事なこととは何か

 教師の仕事のなかでは、「楽しい授業をして子どもとたくさん遊ぶ」ということが、最も大切だと考えています。ただ、最近の学校を見ていると、教育改革のもとで先生たちの仕事が増え、教材研究が不十分になったり、子どもと遊ぶ時間がないという、本末転倒な状況が起きているように思います。
 教師にとっていちばん大事な仕事がおそろかになってしまうのであれば、教育改革はむしろ逆効果です。先生たちが元気いっぱいで授業に臨んだり子どもたちと遊んだりする、という状況をつくっていかないと、日本の教育は良くならないと思います。
 私は中学校でチョーク一本の昔型の授業をやっていたんです。私が社会科の授業で大切にしていたことや面白い授業というのは、例えば、エリザベス一世の話をする時は、マントを身に着けて水たまり上をぱっと飛ぶ。黒板の前を舞台に俳優のようなつもりで、演技満点で踊りながら歌いながらというような授業をしていたから、割合おもしろい授業やったんちゃうかな。
 お粗末なお話を一席というような調子で、「今日は○○について」と言うて、ボケとツッコミでげらげら笑わせながら、せやけど黒板に書いたことは大事なことやから「絶対これ写しといて」とか「これだけはちゃんと覚えてや」と。だから社会科は割合、好きになってくれたと思います。
 私が中学校の現場を離れて18年ほど経ったとき、向山洋一という法則化運動の代表と授業対決をするという話があって、小学六年生に授業をすることになったのです。18年もブランクがあったので、周囲からは「無理だ」と言われ反対されましたが、それでも自信がありました。試しに子どもたちと私のフィーリングがあうかどうかを確かめに、小学校に給食を食べに行ったのです。そのあと子どもたちと体育館でバレーボールやりました。私が帰るときには、みんなが集まって挨拶してくれて「これで自分は授業ができる」と確信しました。
「意欲・やる気・こころ」があって、子どもたちと心が通じ合ったら、たとえ18年間チョークを持っていなくても、年齢が多少上でも、授業をすることはできると思います。意欲というのは勝手に生まれるわけではなく、子どもと触れ合うことを通して育つものです。
 学校の先生も多忙化するなかで、教育への意欲を持てなくなっているのではないでしょうか。「よし、授業をやるぞ」という、明るくて、はつらつとした先生でないと、子どもたちの意欲も育たないと思います。
 私が子どもたちや保護者、同僚の先生とのコミュニケーションを取るのに気をつけていることがあります。私はあまり腹が立たない方で、ぼろかすに子どもに言われても、あるいは、保護者にきついこと言われても、同僚の教師から批判されても、割合、言われたときは平気なほうで「考えます。えらいすいません」とか言うてね、ニコニコして受け止めるほうなんですね。
 家に帰ってから、腹たってね、寝るときに「くっそう、なんであんなこと言われなあかんねん」と思いながら、枕抱きしめて泣くんやけど。そやけど、言われたときは、腹たてんようにしている。いつでも受け止める。受け入れる。言われている最中は受容。受け止める。抱きしめる。そういうように努力して、あんまりかっかせんようにしているというのが、私がコミュニケーションをとるときの姿勢ですね。
 思春期の子どもとのつきあい方は、大きく受けとめることだと私は思います。受容することです。それから、一緒に手をつないで親と一緒に頑張ろうなという姿勢です。
 私は校名を聞けば「こわーっ」と後ずさりされる困難校で勉強したいと校長先生にお願いしたら,即かなえられ8年間勤務することになりました。振り返れば,今の私をつくってくれたのは,この8年間とも言えます。
 荒れている子どもたちに、本気になってつきあったらどんなにすばらしいか。見た目にはしんどい子でも、子どもの可能性を徹底的に信じてやって下さい。だまされてもいいんです。子どもは変わるという気持ち、その子どもにくらいついていってください。子どもは必ず変わります。子どもの可能性を最大限信じる先生になってください。
 子どもと向い合って、いつも親は怒る側で、子どもは怒られる側、先生はいつも正しくて子どもは悪いというのではなくて、一緒に頑張ろうという「同行二人」の関係です。一緒の方向を向いて歩いて行くというのが、思春期の子どもの子育てのポイントになると思います。
(
野口克海:1942年-2016年、大阪府公立中学校教師、大阪府教育委員会理事、堺市教育長、文部科学省教育課程審議会委員、園田学園女子大学教授、大阪教育大学監事を経て子ども教育広場代表)

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優れた授業にするには、教師はどうすればよいか

 よい授業は明確な方向性を持ち、単純化されていなければならない。それではじめて授業は力を持ち、リズムとドラマを持ち、新しいものを生み出していくようになる。
 よい授業は、教師が生身の人間としての教材解釈、方法を持ち、生身の人間である子どもと授業のなかで激突させ、そのなかで自分の解釈も方法も変更していくような授業である。
 子どものなかにある可能性が、豊かに引き出され拡大していくように演出していかなければならない。一人ひとりの子どもの可能性を引き出し拡大するという目的や意図を持った演出でなければならない。
 一方的に教師の持っているものを押しつけていくというものであってはならない。授業で可能性をだしていけるという、子どもの意識や喜びがあり、教師に対する信頼感があることが前提になる。教師の人間の豊かさと、子どもとの心のふれ合いにより、豊かな授業展開となる。
 どのように演出すれば子どもの持っている力が最高にでるか配慮していかなければならない。それにふさわしい材料を与え、ふさわしい演出をしていかなければならない。
 演出は直観的である。演出は時々刻々に展開し変化していく対象の瞬間をとらえてとっさの処置をとらなければならないので、きわめて直観的なものであり、条件反射的にやらなければならない場合が多い。
 教師の演出により、子どもや学級が組織され、相互交流が起き、それぞれの子どもが持っている力が二倍にも三倍にもなって出てくる。子どもの出した疑問や思考は、それを教師がとり上げ、組織化していくことによってはじめて生かされ発展していくものである。
 緊張関係をつくり出す。緊張関係がないと、教師も子どもも一歩も前進しないし、新鮮な創造的なものは生まれてこない。問題を投げかけることによって大きく波紋を起こし、それによってみんなが激しく衝突し、葛藤を起こしそのなかから新しい考えや疑問や問題をみんなのなかにつくり出す。
 演出は、子どもと子どもの交流・衝突・葛藤のなかでひびき合いを集団のなかにつくり出すことによって、子どもの可能性が引き出され、拡大・深化し再創造されていく。このことにより、子どもは明るくなったり、自信を持ったり、人を大事にしたり親しんだりすることのできる人間になっていく。
 教師の声は、形式的で大きな声、不明確、重く、冷たく、押しつけ的、しめつけられたような声であってはならない。声の質が明確で、人間的に豊かで内面が表出する声を持たなければならない。
 教師は子ども・学級・学校が、今どういうものをもっているか、どういうものを必要としているかを、はっきりと見定め、それを明確に把握しなければならない。
 教材にはかならず展開の核になり中心になるものがある。それを教師がしっかりとつかまえておかないと、授業展開はスムーズにいかない。
 教材の方向性と授業の方向性をどこで一致させるかということが、授業展開を成功させる条件である。
 教材のなかからもっとも適切なものを抜き出し拡大する。展開を単純化しようとする場合は、何をどうきりすてるかということが大事になる。
 教材を分析、疑問を持ち、自分に問いかけたり、発見したりして、そのなかから新しい疑問、思考、論理とかを積み重ねていくようにする。
 教材の解釈は、隅から隅まで詳細にわかっていること。教材のあらゆる部分について、いくとおりもの解釈や考えや発見や疑問を持っていなければならない。
 教師が「読み取ったもの・解釈したもの・疑問に思ったもの・発見したもの」のなかから、こんどの授業では「何を取り上げ・何と何は切りすてるか」を決定する。
 どの子どもは教材のどの部分を、どのように解釈しているか、どういう疑問を持っているか、どういうような誤りをしているかということを知っていなければならない。一人ひとりの子どもがどのように変化したり発展したりしているか絶えず詳細に的確に記憶していなければならない。
 例えば、子どものかすかなつぶやき、なにげない発言、目にみえないような表情の動きとかのなかにある、可能性の芽とか真実とかを見落とさず、敏感にとらえ、みんなのものとしてとりあげたり、生かしたり、創造的に発展させたりするような仕事ができなければならない。
 授業展開に方向性を持たせるために、単純化し明確にするために惜しげもなく切りすてる。子どもに理解困難だと思われるところをみつけだしておく。そして、子どもの状態に即して教えたり考えさせたりすることができるようにしておく。
 重要な問題について、子どもがどのような思考や解釈のあやまりをするか予想を立てておく。それに対して教師としての説明の仕方とか、反ばくの仕方とかを考えておく。
 この作業のとき、教師自身がそれまでの自分の解釈や考えをもう一度疑ってみたり、幾つかのちがう考えや解釈をつくり出しておくことも必要である。これにより、授業展開を豊かにしたり、子どもの考えを否定したり、反ばくしたりすることもできるからである。
 教材・子どもを固定的に見ない。教材や子どもは絶えず変化する。教材は子どもの変化に伴い、その価値、必要度が絶えず変化し流動していくものである。教材とか子どもに対する解釈は、固定化したものではなく、対象の側に立って、そのなかにある真実とか方向とかをみきわめ、それをさらに高い正しいものへと引き出していくものでなければならない。
 教師は、豊かな感覚を持ち、すぐれた解釈力とか洞察とかを持ち、とっさに対象に対応したり変化させたりすることのできる力を豊かに持った人間になっていなければならない。
 他人の高い実践をみることと、人間の質を高める努力と授業の経験を重ねることからより実践は高まる。目標を高くかかげ、実践をそれに近づける努力があって教師の人間も実践も高まってくる。
 教師が創造的な人間にならなければならない。教師が創造的な人間になるためには、自分の実践に身を打ちこみ、実践により自分を変え、自分の可能性を出し、自分を創造的にしていくことである。
(斎藤喜博:1911年-1981年、群馬県生まれ。1952年に島小学校校長となり11年間子どもの可能性を引き出す学校づくりを教師集団とともに実践し、全国から一万人近い人々が参観した。退職後全国各地の学校を教育行脚、「教授学研究の会」を主宰した。多くの教師に影響を与えた昭和を代表する教育実践者)

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よい授業は集中・明るさ・解放感がある、授業の深さをつくるものとは何か

 よい授業のよしあしを見分けることはそんなに難しいことではないのです。私は、かつて斎藤喜博氏と共に学校の全学級の授業を何度も見ていくうちに、少しずつみえるようになってきた。
 最初のうちは、授業している先生を見たり、その言葉に耳を傾けてしまいがちですが、次第に子どもたちに目がいくようになり、授業を学級の全体としてみることができるようになったと思っています。授業を教室の前の方から子どもたちの表情が見える位置からみるのが良いと思います。
 そうしますと、子どもは整然と授業に参加しているようにみえるのに、子どもたちはちっとも楽しそうでないとか、逆に先生はぼんやりしているようにみえるのに、なぜか子どもたちは楽しそうに授業に参加しているとか、見掛けではないものもみえるようになってきたと思います。
 私は授業というもののこういう感覚的なとらえ方というのは、とても大事だと思っています。それから 斎藤喜博氏は「よい授業には集中と解放感がある」とつぎのように言っています。
「よい授業をみていると、教室全体が一つになって集中している。ところが、悪い授業は、くいいるように中へ集中しないで、ふわふわと外へ向かって気持ちが流れている」
「また、よい授業は、教室へ入った瞬間、花が開いたような明るさとか解放感とかがある。先生と子どもが明確に一つの問題に集中し、一人ひとりが自分を解放して生き生きと学習に立ち向かっている」
 授業の進行は、教師と子ども、子どもと子どものやりとりによってつくられます。不安定なものです。最初ははっきりしていることでも、やりとりが進めば進むうちにあいまいになることがあります。授業の集中が崩れるのは、ほとんどこのためです。
 それを支え、持続させていくのが教師の力であり、授業の組織化と呼ばれることなのです。
「子どもというのは、集中する力を持っている。ただし集中する力というものは、教師がきびしく授業を組織する時だけ、その集中する力は引き出されてくるのです。集中すべき対象があると、ものすごく集中するのですけれど、対象がないと、とめどなく散乱するわけです」と林竹二氏は言っておられました。
 追究の対象は、子どもたちの討議の間に消化され、姿を変えます。ですから、表面的なものにとらわれていたのでは、子どもたちの集中を維持し、学習を発展させることは困難です。
「子どもが集中するのは、授業の中に異なる視点からの異なる意見がたえずあって、それが子どもたちの考えをゆさぶるときである」と、すぐれた授業の実践者であった武田常夫は言っています。
 このような集中した授業の状態は、放っておいては持続されませんし、深まることはありません。教師が授業を組織する時に実現するものなのです。
 子どもへの発問は、まっすぐ尋ねたのでは、子どもの思考を刺激しない。また、子どもの答えをそのまま受け取ってはだめなことがしばしばあります。切り返したり、ひっくり返したりして、念をおしていかなければいけないのです。
 たとえば、小学校一年生の理科の授業で、アサガオの種の発芽の条件を考えさせるとき。
種と土との関係はあたりまえだと思われることを裏返しにして
「このアサガオの種を、机の上にまいたら花が咲くかな?」となげかけてみると、はじめ子どもたちは笑いこけて、「種は、土にまくのにきまっている」と、とりあわない。
「この机の上よ、みんなの机よ。そこにこのアサガオの種をおいていたら花が咲くだろうか?」と、かさねてたずねてみた。「咲かないよ。咲くはずないよ」
「だけどー。お水かけたら、もしかしたら芽がでるかもしれないよ」こうして、発芽についての討論が進みます。
「アサガオの芽がでるのにはどうしたらよいでしょう?」と発問するよりも、はるかに刺激的です。
 授業を見ていますと、教師によっては読ませっぱなしで、何ら評価を加えないということがよくあります。これではせっかくの子どもたちの活動も、次の展開へさっぱり生きていかないのではないかと思ってしまいます。そういう意味で、教師が評価する価値は大きいと思います。
 教師はどちからというと叱責、注意など、子どもたちのよくない点、不十分な面の指摘が、得意と言っては変ですが、慣れているようなところがあります。
 しかし、評価が大切なのは、賞賛のようによい点をとりあげて激励してやることです。それが子どもの気持ちを引き立て、授業の世界に引き込む力となります。
 この点では、幼児教育の先生は実によく気を配っていると思います。だれでもほめられればやる気が出るものです。
 選択肢を使った発問は問題を整理するのによい。思考の対象が明確になるということです。何を考えればよいかがはっきりするということです。これは授業において大切なことです。
 しかし、それだけに、あまりそれに頼りすぎると危険なことにもなります。授業が底の浅いものになりがちだからです。そういう意味では、選択肢による発問は、中心になる課題を追究する前提として問題を整理する場合などに有効なのだと思います。
 授業中に、教師が子どもに説明することがたいへん多くあります。教科書は、子どもに知らないことを提供することを目標にして編集されています。それでいきおい授業は、知らないことを知っている言葉を使って説明するということになりがちです。それが単に言葉の置き換えだけにとどまってしまうと、深い授業にはならないのです。
 イメージを使って描写することで、子どもたちの頭の中に「絵・音・匂いとか」をつくりだし、説明することがあります。
 たとえば「俳句『すすき』を考えてください。この俳句の場合、どちらかというと、すすきは一本とか二十本とかでなく、広い野原がすすきでいっぱいになっているのではないかな。一本一本のすすきなどは見えない。見渡すかぎり、すすきが綿をひろげたようになっている」(斎藤喜博)
 このように、言葉による描写力を教師が獲得し、その力を高めることは、そんなに簡単なことではありません。ふだんから意識的に訓練し、実際に試してみるなどの努力が必要となるでしょう。
 子どもの生活経験にありそうな具体的な例と結びつけて説明することがよくあります。その効果も大きいものがあります。
 たとえば「自分の可愛い子が『母ちゃん、足がきれちゃった』なんて言ったときに、・・・みんなの家のお母さんはどうなんだ? お母さんは、空のほうをみて涼しい顔しているかな。・・・『あら大変、どうしたの』(動作してみせる)こうやるでしょう」(斎藤喜博)
 このように具体例が授業中にとっさに生まれてくるようになると、授業の力は非常に高くなってくるのだと思います。
 比喩を使って説明する場合があります。それを引き合いに出すことによって、あることの本質がはっきりしたり、うまく説明ができるというものです。
 たとえば腹式呼吸の説明で「息を吸うとき、お腹が出なけりゃだめでしょう。だって、お菓子か何かもらうときに、袋を小さくしたら入らないでしょう。うーんとふくらませなければ空気が入らないでしょう。それを、息を吸うときに引っ込むんじゃ、入らないでしょう」(斎藤喜博)
 授業中、子どもに行動・活動・作業など、さまざまな指示が言葉でなされています。
 指示において大事なことは、授業展開の局面に応じて、その指示の意味や要求の内容や程度が子どもに明確に、納得のいくように伝わることです。
 子どもたちは教師の指示の意味がよくのみこめないで、うろうろしていることがあります。こういうとき、教師の方は、自分の指示が不明確だったことを棚に上げて、子どもを叱ったりしていることがけっこうあるものです。叱る前に自分の指示の出し方を反省してみることが必要なことでしょう。
(横須賀 薫 1937年生まれ、元宮城教育大学学長を経て十文字学園女子大学学長。教員養成や授業に関する研究を主に行った)

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教師が授業で必要な専門的な力や基礎訓練とは何か

 教師は授業者としての専門的な力をもっていなければならない。
 教師としての専門的な力を持っていることによって、教師は授業をつくり出すことができ、授業のなかで、どの子どももが持っている可能性を豊かに引き出すことができるからである。
 教師がそういう専門家となるためには、専門家としての基礎訓練を受けなければならない。
 一般教養とか教材に対する専門的な力を持っていることはとうぜんとした上で、さらに具体的に仕事をする上に必要な、授業の一般的な原則とか技術とか方法を身につけていなければならないことである。
 さらに必要なことの一つは、具体的に子どもと対面した場合の教師の豊かな表現力である。自分の持っている内容とか子どもに伝えたいものとかを、身体とか声とか表情で十分に表現できるということである。
 そういう力が教師にあったとき、授業は豊かになり生きたものとなる。子どもたちは授業のなかに全心身ではいってくるからである。
 いままでの教師は、大学においても現場においても、専門の教師としての技術とか、技術にともなう表現方法とかを専門的に訓練されるということはなかった。
 やはり教師は、技術や表現方法の基礎訓練を大学や現場において受ける必要がある。そうでないと、教師にどんなねがいがあっても、授業は貧相で形式的なものになり味気ないものになってしまうだけである。
 そういう意味で島小学校の教師たちは、自分たちの一般教養を高めたり、人間を豊かにする努力をするとともに、自分たちを解放された表現の豊かな人間になるための努力をした。
 授業実践をし、授業研究・教材研究をするとともに、職員合唱をやったり、職員演劇をやったり、舞踏をやったり、歩く練習をしたりした。朗読とか話し方とかの訓練もした。また、絵や文章をかいて、その合同批評会をしたりもした。
 たとえば、音楽に合わせて、教師全員がいっしょに前後左右に動きながら、さまざまの表現をする練習をする。演出者の指示で教師は表情をさまざまに変える。そこには少しの恥じらいも、てらいもない。外が暗くなるまで練習をした。
 舞踏とかステップとか歩く練習とかは校庭でもした。先生たちが全力をあげて表現している姿から、子どもたちもまたさまざまなものを学び、自分たちを解放していったわけである。
 教師はそういうことができてはじめて解放されていくのである。解放された人間になったとき、授業での自分の表現を豊かで自然なものにしていくことができるわけである。
 またそういう授業をすることによって、さらに表現力も身につき、解放された生き生きとした教師になっていくわけである。
(斎藤喜博:1911年-1981年、群馬県生まれ。1952年に島小学校校長となり11年間子どもの可能性を引き出す学校づくりを教師集団とともに実践し、全国から一万人近い人々が参観した。退職後全国各地の学校を教育行脚、「教授学研究の会」を主宰した。多くの教師に影響を与えた昭和を代表する教育実践者)

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