授業はわからせようとする気迫が大事、「下手でも教えられる」という自信を持つことも上手な授業をする条件
授業は上手であることに越したことはありません。
けれども、はじめから、そうそう上手にできるわけでもありませんし、いつもいつも上手にできるものでもありません。
「下手でも教えられる」という自信を持つことも、上手な授業をする一つの大事な条件ではないかと思います。
「なんとしてでも。わからせるぞ」という自信が授業には大切です。
授業に必要な自信は「なんとしてでも、わからせる、わからせることができる」という自信です。
上手そうに見えた授業なのに、案外、子どもに力をつけていないことがあります。
逆に、下手としか言いようのない授業が、意外に子どもに力をつけていることがあります。
それは「本気で子どもにわからせようとしたか」どうかの違いだと思います。
授業はうやむやにしてはなりません。
そのためには、下手でも自分の納得にいくまで教え込もうという構えが必要です。
「うん、わかったッ」と子どもが思わず目を輝かせるのを見届けるまでは、決して後ろに引き退がらないぞ、という構えが必要なのです。
教え方というものは、いろいろあるにちがいありません。
一つの文章を読み取らせるにも、さまざまな方法があるでしょう。ことばの意味一つわからせるのさえ、その方法は三通りや四通りではないでしょう。
それも教材により、子どもにより、ということになれば、さらにさまざまになるでしょう。
そういうものを、早く知り、自分の中に取り込んでいきたいと思います。
そのために、本を読んだり、話を聞いたり、授業を見たり、研究会に出たりして勉強を続けるのです。
そうして取り込んだものが、自分の中にうまく位置づくと、それは授業への糧になります。
ところが、自分ではうまく取り込んだつもりでいても、なかなか位置づかないことがあります。
私の長い教師生活でも、何回かそういう時期が何年目かするとめぐってきて、苦しんだり悩んだりすることがありました。
それを乗り越えるのに「下手でも教えられる」ということが、いつも私の支えになっていてくれたように思います。
とっさにいい方法が出てこないかもしれません。まずい方法しか出てこないかもしれません。
いずれにしろ「なんとしてでもわからせたいと思う」と、きっと何かを見つけ出すことができるでしょう。
「下手でも教えられる」という自信は、それをやり通してみた時に、自分のものになってきます。
そこは、誰の助けもない場です。今の自分の持っている力を、精いっぱいぶつけるより、しようのない場です。迷ったり、わからないなどと言っておれない場です。
そこで出てきた方法は、まずかろうと、まずくなかろうと、ともかく自分でつかみ出すよりしようのなかった方法です。
それは、自分の創案でないかもしれません。
いつか読んだ本の中にあったことかもしれません。
いつか、だれかに聞いた話の中に出ていたかもしれません。
いつかどこかで見た授業の中で感じ取っていたことかもしれません。
それらを組み合わせたり、こねたりしたところで浮かんできたことであったかもしれません。
もし、そうであっても、そうして出てきた時には、それらの勉強が自分の中に生きてきているのです。
自信のない授業を続けていては、そういうことにはなってきません。
いろいろな勉強が生きてくるのも「わからせることができる」という自信のある授業が土台になっている時です。
繰り返します。授業に必要な自信は、下手だから持てないという自信ではありません。「下手でも教えられる」という自信なのです。
(戸田唯巳:1919- 2009年、元兵庫県西宮市立小学校校長、小砂丘忠義賞受賞)
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