カテゴリー「先生の実態」の記事

教育現場を取材していると「さすが子どもに接するプロだな」と感心させられる教師がいる

 埼玉県志木市教育委員会が行った「一度出来たら一生もの授業」を取材しました。今回は一輪車の授業です。
 会場は大にぎわい。はじめは「できるかなあ」と不安げな表情の子どもたちでしたが、1時間もすると「できた!」の声があちこちから上がるようになりました。
 なぜ、わずか1時間でできるようになるのでしょうか。先生の教え方が上手なのはいうまでもありませんが、指示の出し方、集中のさせ方にも秘密があるように思えました。
 よく観察してみると
 
「前を見て」「姿勢を正しく」「こっちにおいで」
 の3つの言葉が聞こえてきました。
 この言葉以外はほとんど聞こえなかったように思います。
 長年、子どもたちを教えてきた教師らしく手慣れたもので、発する言葉は少なくても、じっと子どもを見すえ、子どもに安心感を与えながら指導していました。
 体育館や屋外での指導では危険も伴うので、声を張り上げないといけない。だらだらと話していては、子どもはあきてしまうどころか、ふざけてケガをしかねません。
 要領よく、子どもを集中させるためのポイントは
(1)
要点をまとめた単語を強く印象づける
(2)
子どもをよく見すえる
これは、一輪車の会場で見て思ったことです。
 他の競技にも同じことがいえると思います。子どもたちが、全員動きを伴う場合は、とても有効だと思います。
 この会場には先生方が、その指導方法を学びにたくさんこられていました。
 自信がないと、言葉を多く使いがちです。子どもをしっかり見るためにも、何の言葉が必要なのか、再確認してみるとよいと思います。
 私はマスコミの仕事をはじめて以来、ずっと現場で徹底取材を貫いてきました。ラジオ番組の教育担当として取材に伺った場所は1000カ所を超え、数えきれないくらいの人たちに出会ってきました。
 最近、取材を通して感じるのは、先生方にゆとりがなくなってきているということです。「子どもたちとゆっくり話す時間がなかなかとれなくて」という声を聞くことがあります。
 たとえ短い時間でも、子どもたちが先生とコミュニケーションにとても満足している姿を見ることもたくさんあります。
 
「さすが先生は、子どもに接するプロだな」と感心させられてしまうような、コミュニケーションのコツを心得ている先生方がいらっしゃるのです。そうした先生方は、保護者への接し方もとても上手でした。
(
中村弥和:1968年福岡県生まれ、LICフレグランス代表。アロマとハーブの予防医学の第一人者として20年の経歴、教育ジャーナリスト、人材育成講師として活躍。熊本放送アナウンサーを経て、TBS,ニッポン放送などレギュラー番組を持つ)

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一流の教師と二流、三流の教師とは、なにが違うのか

 最近の教師は、保護者からもやられるので、横着な人は少ないと聞いている。でも、校長にたずねると「いますよ」と必ずいう。
 若い教師の勉強会に招かれ、授業をし講演をした。子どもたちも楽しく授業にのってくれた。すべてが終わり、主催者のA先生の挨拶を聞いて驚いた。私は発言を求めてつぎのように言った。
 
「今、A先生は『学ぶべきものは何もありませんでした』と言いました。私の勉強不足は認めます。だから学ぶべきものはなかったのかもしれません」
 
「しかし、授業は『見る人の実力ほどにしか見えない』のです。実力があれば、新採の先生の授業からでも学べます。見る人、聞く人の実力によって、見え方・聞こえ方が違うものです。このことを考えてほしいのです」
 
「私の授業のよくなかったことのいいわけではありません。本当のことをいっているのです。今日は、大変申し訳ありませんでした」
 A先生の年齢は3639歳の間であった。この年齢の教師は、どうしてこんなに不遜になるのだろうか。3639歳以外にも、不遜な教師はいくらでもいる。ただ割合からいって多いので、すぐに年齢がわかるのである。
 思いだすのは大村はま先生が書いていた「おしゃか様の指」(『教えるということ』共文社)という話である。おしゃか様が天から人間の世界を見ていると、一人の男が荷車を引いて歩いていて、ぬかるみにはまってしまったのが見えた。困った男は一生懸命、引いたり、押したりするが荷車はびくともしない。
 誰か人が通りかかるのを待つことにしたが、いくら待っても誰一人通らない。おしゃか様は、男が人にたよらず、自分の力で何とかぬかるみから荷車を引き出そうと決心したのを知ると、見えない指で、荷車をちょっと押してあげた。
 もし、おしゃか様が「わたしが押してあげたのですよ」といえば、男は、次にこういう困ったことが起きたとき「おしゃか様が助けてくれるのではないか」と、他人にたよる心が起きるだろう。だからこそ、おしゃか様はだまって、見えない指で押してあげたのである。
 私たちは「見えない指」で押されて生きているのである。それに気づくかどうかである。
 一流の教師は、子どもに「自分一人の力で育ったのだ」と思わせることのできる教師である。二流、三流の教師は「先生が教えてあげたから合格できたのだ、成長できたのだ」と恩をきせる教師である。「学ぶべきものはなにもない」という教師も、一流とは言えないだろう。
 子どもが困っているとき、ぐっとがまんして、手を出さないことが本当に子どものためになるのである。野球の選手でも「さよならホームラン」を打ったのに「チームのみんなが打たせてくれたのです」とか、○○賞をもらったとき「ぼく一人がもらったのではなく、チームがもらったのです」などという人がいる。
 これを聞いて「これが一流選手なのだなあ」と思う。二流、三流選手は「ぼくが打ったから勝ちました」「ぼくが投げたから勝ちました」などという。
 一流のお母さんは、子どもに「自分一人で育ったのだ」と自信を持たせることのできる人である。「私がいう通りにしたから成長したのだ」などとはいわない。
 教師でも、お母さんでも、一流になると、すべてわかっているのに「どうしたらよいだろうね」と、子どもに考えさせたり、気づかれないように目に見えない手で支援しているのである。
 
「そんなこともわからないの」と、教えてしまうのは、二流か三流である。
 私たちは、子どもが困っていると、すぐ手を出して助けたくなる。そこをぐっとがまんして、子どもに困難を乗り越えさせることが大切なのだ。
 あるお母さんから「うちの子は、先生に出会ったから今があるのです。ありがたいことです」といわれたことがある。
 
「それは、私の方がいいたいことです。子どもは、このようにして困難を乗り越えるのだ、ということを教えてくれたのはお宅のお子さんですよ」
 
「お宅のお子さんと出会って本当に幸せだったと感謝しています」と申し上げたことがある。今も全く同じ気持ちである。
(
有田和正:19352014年、筑波大学付属小学校,愛知教育大学教授、東北福祉大学教授、同特任教授を歴任した。教材づくりを中心とした授業づくりを研究し、数百の教材を開発、授業の名人といわれた)

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教師は被害者意識を持つと、身構え、実践意欲への意欲も湧きにくくなる

 「教師は何をしているのか」「教師がもっとしっかりしないと」などと、教師批判はこれでもか、これでもかと続きます。
 こうした批判を聞くと、不満、反発の声が教師間で交わされます。「どうして教師だけ責められるのか」「保護者の責任はどうなっているの」と、日頃の思いがどっと吐き出されます。この時ばかりは、校長から若い教師まで思いが一致するのです。
 教師ばかりが責められるのは、健全な時代といえないでしょう。保護者が子育てについてもっと考えなければならないし、世の中の在り方だって改めていく必要はあるでしょう。
 教師は仕事に、もっと誇りをもたなければならないし、広い視野から学校や教師の仕事考えなければならないでしょう。できること、手がけられることから、実践や子どもへの接し方を、改めたり工夫したりするとよい。
 教師は、被害者意識の虜(とりこ)になってしまわないことです。そうなってしまえば、実践への意欲も湧きにくくなるし、心意気も高まらないでしょう。そして、防具に身を固めて、外部に対して、身構える姿勢ばかりが強くなってしまいます。
 教師が誠実に日々の仕事を果していれば、だれに何を言われようと卑屈になることなどありません。被害者意識など、もたなくてもいいのです。
 それと、どのような職業であれ、どれほど誠実に仕事をしていても、批判や注文はあるものだと承知しておくことも必要だと思います。
 外部の人の声に耳を傾ける、謙虚さもとても大切です。両者のバランスをとれる教師が、これからの教職の世界に必要だと思われます。
 教師が被害者意識を持つと、ついつい感情的になって「そんなことはできません」「教師を何だと思っているのですか」などと口にしてしまえば、保護者との関係修復は困難でしょう。
 教師の仕事は、相手が子どもであれ、保護者であれ、長期戦の構えが必要なことがしばしばです。もちろん、短期決戦ですぐに手をうたなければならないこともあります。教師には、それを判断する力が重要です。
(飯田 稔:1933年生まれ。千葉大学附属小学校に28年勤務、同校副校長を経て、千葉県浦安市立浦安小学校校長。千葉経済大学短期大学部名誉教授。学校現場の実践に根ざしたアドバイスには説得力がある)

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まじめで誠実な教師の心が壊れていく時代になった

 私どもの学校教職員の専門病院メンタルヘルスケア・センターでは、初診にこられた場合、主につぎの三点についてお話を聞かせてもらいます。
(1)
この方が精神性疾患のレベルに達しているのか。また、症状レベルでどんなものをもっているのか。悩みのレベルなのか、それとも、もう病気に入っているのかを診ます。
(2)
環境要因はどうなのかについて聞きます。学校でのストレスが決定打になっているのか、もしくは家族のことが決定打になっているのか、どちらがどのぐらいか、ということを診ます。
(3)
さりげなく性格的な偏りはどのぐらいかを診ます。これは悪いという面ばかりではありません。先生というのは、まじめ、誠実、がんばりすぎる、几帳面であるというよい面をもっています。
 それが行きすぎるという場合があるので、それがどの程度なのか、もしくは性格に著しい偏りがあって周りを大変な目に遭わせていないか、というようなことを話の中でさりげなく見立てていきます。
 
患者さんは一つの要因で倒れるというのはレアケースのように思います。三つのうちどの要因がどれだけの割合で関係しているかを私どもが最初の段階で見立てていきます。
 それによって「薬物療法」「休業」「精神療法」のいずれかを行うのかなどを決めて、患者さんに説明をします。休みに入ることが多いように思います。
 うつ病の教師が最も多いのです。うつ病というのは、不満やぐち、怒りを外に出せないために自分のほうに矢が自分のほうに向いてしまい、自分自身を攻撃することによって生じる病気だといわれています。
 教師が、怒っていいところで怒れないという状況に追い込まれているために、自分を責めざるをえなくなって、だんだん心が痛んでくる病気だと私は考えています。
 患者さんには 「脳内の物質の代謝異常です」と説明するようにしています。この代謝を良くするために休みや薬が必要であることを伝えて、納得してもらうようにしています。
 うつ病の背景にある要因は
(1)
多忙化
 教師の「忙しさ」があると思います。教師が多忙で子どもと遊ぶ時間がないのです。私は多忙に加えて孤立感で倒れると思っています。同僚や管理職が必ずしも助けてくれる余裕があるとは限りません。皆さん自分のことで精一杯という状況があります。倒れた多くの教師は「支えられているという実感がない」と言っています。
(2)
人間関係の複雑化
 人間関係が複雑で、そのプレッシャーに耐えられないということがあると思います。子どもや保護者そして地域とあたりまえのように関わっていかなければなりません。転勤をきっかけに孤立感に悩むということが起こります。
(3)
子どもや保護者の変化
 子どもが変わった、保護者が変わったということです。保護者の権利意識が強くなり「やってもらってあたりまえ」ということで大変です。
(4)
地域のつながりの変化
 何か問題が起こると、地域で抱かえるはずの問題が、学校なら仕返されなと、ストレスのはけ口として学校に持ち込まれるということが頻繁にあります。「コンビニの前に生徒がたむろしているので何とかしてほしい」という問題にしても、それはコンビニの問題なのですが、学校に言ってきます。
(5)
環境の変化
 教師は五十代になって頻繁に職場異動をくりかえします。それが、うつの引き金になっているというケースは多いのです。せっかくできた人間関係とチームを奪われます。
 教師であるというだけで、うつになりやすい背景には「支えてくれるつながりを失う」「環境の変化」という要因があるのだと思います。
 つぎに多いのが心身症といわれるものです。「腰が痛い、肩こりがひどい、頭痛がひどい」と様々な身体の症状を訴えるのですが、検査の結果はどこも異常はありません。それでも「おかしい、でもどうしても頭が割れそうに痛い」というようなケースです。
 今は、変な教師が倒れるのではなくて、まじめで誠実だからこそ倒れるという時代になっていると思います。だからこそ、制度をきちんとつくって、しっかりと働ける人材を教育現場にお返ししたいと思います。
 ですが、管理制度ができて、先生方は何かビクビクしています。管理職も教師も謝ってばかりです。それはちょうど指導力不足教員の認定や教員評価制度がはじまった頃から起こっているように私は感じています。
(
井上麻紀: 臨床心理士。公立学校共済組合近畿中央病院メンタルヘルスケア・センター主任心理療法士。学校教職員の専門病院で、教員に特化したメンタルヘルスケアや職場復帰支援している)

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保護者や地域からイチャモンが急増し教師は疲れ果ててしまっている、どうすればよいのでしょうか

 文部科学省が実施した教職員の勤務実態調査(2006)によると、一日の労働時間は11時間(休憩時間は9)、残業が2時間、自宅へ持ち帰り残業が35分です。給食の時間でさえ、教師にとっては貴重な業務時間。クラス全員分の連絡帳に目を通しながらメモし、片手でパンをかじる。これが現実の姿なのです。
 
「おまえとこの生徒がマンションの玄関でたむろしているぞ。早く来て注意せんかい」と言う電話がかかってきたら、教師たちはすぐに飛んでいきます。 
 
「うちの子、最近元気がないねん。学校で何かあったんやろか」という相談があれば、話し合いに出かけます。
 こうした目のまわるような日々は、教育にかける情熱や、子どもとふれあう喜び、そんな根っこからの教師魂が支えているのです。
 けれど、現実は過酷です。年間の病気休職者が8069人、うち、精神性疾患による休職者が4995(文部科学省調査 2007)という現実が、それをはっきりと物語っています。
 世間には学校に対する誤解や偏見がたくさんあります。学校知らずといえるかも知れません。教師たちの精神的なしんどさは、ギリギリのところまできています。でも、いまやそれも難しい状況になってきています。
 国からやつぎ早に降りてくる、場当たり的な「教育改革」は、確実に学校から活力を奪っています。
 さらに、学校はこの20年あまりの間、じつにさまざまな荷物を背負わされてきました。世の中のあらゆる問題の原因が、すべて教育にあるかのように吹聴する一部の政治家やマスコミによって「学校がやって当然だ」という意識が急速にふくらみました。
 たとえば「おい、四丁目の道路に猫の死体があるぞ。子どもの通学路だから何とかしろ!」
 かつて、家庭や地域社会で対応していたものが、すべて学校に求められる構図になっています。それらは本来、学校の守備範囲を超えた領域のはずです。もしも、断ろうものなら徹底的に叩かれる。
 まさに「学校はゴミ箱、教職員はサンドバック」なのです。そうした状況のなか、学校や教師のゆとりと保護者と向き合う気持ちは急速に低下しています。
 実際いま、学校はこれまで考えられなかったような要求の前にうろたえています。
「子どもがケガをさせられて休んだのだから、相手の子も休ませろ」
「担任の能力が低いから、うちの子が非行に走った。担任を変えろ」
「校庭の砂ぼこりで洗濯物が汚れる。なんとかしろ」
「息子が窓ガラスを割ったというが、割れるようなガラスのほうが問題だ」
 すべて本当の話です。学校にもどうしようもできない無理難題(イチャモン)の要求が急増しています。
 そもそも「善意の集団」というレッテルが貼られた学校は、必死になって対応をする。その結果、学校も教師もくたくたに疲れ果ててしまっているのです。
 消費者意識が急速にふくらんでいます。けれど、果たして教育はビールと同じような商品と考えてよいのでしょうか。
 教育においてサービスの受けてである子どもと保護者は、一方的な消費者ではないのです。子どもと保護者と学校は、いっしょになって教育の満足度を高め合うパートナーなのです。
 けれどいま、その事実がまったくかえりみられず、学校は消費の対象に変わろうとしています。保護者と教師のコミュニケーションが薄まり、消費者意識の高まりから間違った関係性がつくられようとしています。そこから保護者と学校のトラブルが発展していきます。
 教育の主人公は、子どもたちです。いまこそ、私たち大人がその事実をしっかり胸にきざみ直しませんか。保護者も学校も地域もまっすぐ子どもを向いて、手を取り合おうではないですか。
 そのためには、保護者と学校・教師が何らかの共同作業をすることです。まず、これが重要だと私は思うのです。
 連携するためには、まず学校の姿を保護者がきちんと理解すること。それが前提条件として必要なのではないか。
 そういう思いから、大阪大学の私の研究室が、大阪府吹田市の片山小学校にお願いして、保護者のための学校ガイドブックをいっしょにつくりました。
 ガイドブックの内容は、たとえば「学校でケガをしたときは、どう給付金を請求すればよいか」「忌引きは何日間欠席できるか」「通知表の評価は何を基準にしているか」といった、知っているようで知らない学校の情報を掲載しています。
 いまの学校は保護者のみなさんが通っていたころとは相当にさまがわりしています。その実像を知ることで親はまず安心するし、学校も知ってもらうことで教育活動をスムーズに進められる。なにより、学校ガイドブックづくりの共同作業の過程で保護者と学校の相互理解が深まり、ともに手をつなぐきっかけになるのではないかと期待しました。
 私たちはPTA、教職員のみなさんといっしょになってつくりました。「学校の先生って、楽な仕事だと思っていたけど、違うんですね」と、何かすることで、PTAのみなさんもはじめてわかったと言います。
 職員室はいつも戦場のようにあわただしい。教師たちはしじゅう走っていて、座っている姿を見たことがない。その現実を肌で知ったのです。近づかなかったら、偏見と先入観で誤解したまま終わったことでしょう。
 いまでは、学校ガイドブックは「学校ナビ」として全国にひろがりつつあります。大事なのは楽しんで作成するということです。つくらされるものではありません。「できたらいいよね」という気持ちで無理をしないことが大切です。
 学校につどう関係者(子ども、保護者、教師など)みんなで「いっしょに考えませんか」という双方向の交流が生まれるようにしていくことが大切です。
(
小野田正利:1955年生まれ、大阪大学教授。専門は教育制度学、学校経営学。「学校現場に元気と活力を!」をスローガンとして、現場に密着した研究活動を展開。学校現場で深刻な問題を取り上げ、多くの共感を呼んでいる)

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中学校の教師として楽しいと思えるようになった、そのわけはなにか

 私が中学校の教師となったのは「第三の非行のピーク」といわれた頃でした。校内暴力の嵐が吹き「今日は入院か」という思いで、文字通り体を張って子どもたちに立ちむかう毎日でした。
 
「一生懸命に関われば、いつか子どもたちに思いは通じる」と信じて「厳しく」あたってきました。私自身、「熱心=よい教師」の姿を夢中で追究してきた。他の価値観が生まれにくいほど学校現場は忙しかったからです。
 最近、思うことがあります。本当にそうなんだろうかと。子どもはもちろん、教師や親までもが追いつめられる状況になってしまっているからです。
 私は、子どもが好きで、子どもたちの未来をいっしょに開く教育という心弾む仕事に携わりたくて教師になりました。それなのに、一生懸命になればなるほど教師であることが苦しくなり、子どもを追いつめるような現実があるからです。
 かつて私には、なめられてはいけないと、生徒の前では緊張していた時期がありました。しかし今は、以前のように肩に力の入った自分と違う、自然な笑顔で子どもたちと接している自分を感じます。けっこう楽しんでいるのです。
 自分の中で何が変化したのか。振り返ってみます。
 私が新任教師の頃、学年が進むにつれて手に負えない子が増え、教師がほんろうされるという状況がありました。一年生のときに厳しくしつけ、「だめなものはダメ」と教師集団として一致して示しながら「この先生たちにはかなわない」という大きな壁を強く印象づける取り組みを重視してすすめました。
 脅しによって指導した形をつくることができる状態、それは教師から見れば、子どもに対して優位性をもって指導にあたることができているという「正常」な状態に見えるかもしれません。
 しかし、子ども側から見れば、自分の思いを表現できず、問題を蓄積させている状態であるともいえます。そして、その段階をこえて脅しが通じなくなったとき、子どもたちの前には全く無力であることを大人たちは知ることになるのです。
 でも、子どもを教師の言うとおりに従わせようとするとき、力や脅しを用いないやり方はむずかしい。あるとき、上履きのままグランドに出ている子どもたちを私は見かけました。反発していた三年生たちです。「いけないよ」と注意をしましたが、中にはいろうとしません。無視された状態です。
 そのままその場を離れるわけにもいかないし、かといって直そうという雰囲気も見られません。そのうち始業のチャイムが鳴りました。誰かが「入ろうぜ」と一言いうと、みんなスッと中に入っていきました。「私の必死の説得よりも、あの子の一言の方がよっぽど指導力があるよ。子どもを動かす力っていったいなんだろうか」と、思わず笑っていました。
 でも「子どもを指示通りに従わせるのが教師の力量」という、ずっとこびりついていた思いから解放され、楽に構えていられる自分も感じていました。以前は「ここで引いたら示しがつかない」と一歩も引かず、ぶつかったものです。
 
「いけないと知っていながら、やるには何かワケがあるんだろう。今度話せるときに聞いてみよう」という、ゆったりとした気持ちで受けとめられるようになったのは、よかったと思います。
 私たちがめざす指導のすすめ方、それは子どもがその気になるようにうながし、変化を待つ関わりなのではないかと思うのです。
 厳しい教師になろうとしていた私は「今は○○するとき。△△してはいけない」と子どもの思いを規制しようとします。そして、自分の思いの範囲で素直に動いてくれる子をいい子、そうでない子を問題のある子と感じるようになっていることに気がつきました。
 こうした問題のある子を思いどおりに動かそうとするとき、ついつい注意する場面が増えてしまいます。私はこうして「だめ、だめ」と子どもから「取り上げる」ことを日常しているけど、その代わりに何を与えているのかと、ふと思うようになりました。
 
「だめ」をいうのが教師の仕事じゃない。もっとその子の意思を尊重してもいいんじゃないかと。問題行動を繰り返す子であっても「○○させない」と、子ども生活を矯正する役割でなく、その子が中学生時代という人生のひとこまを歩くときの伴走者として、とんでもない失敗をしないよう見守りながら、ゆったりとかかわりたいと思うのです。
 問題のある子が問題を起こさないようにと考えるのはムリで、あえてやろうとすればひずみができてしまいます。「これだけ言っても分からない」「素直じゃない」と、子ども側だけを責めてきたような気がします。
 子どものためによかれと思ってやっていることが、まったく違った受けとめ方をされていることがよくあります。「子どもにどう受けとめられているか」を点検し「分かるように伝え方を工夫する」ことで一歩近づけると思うのです。
 学校では「教える」活動が強調されますが「どう受けとめたか」を尊重することで、子ども自身が「学ぶ」チャンスを多くつくることができます。
 子どもがホンネを語り、教師もホンネで返すという対話ができる関係、これは子どもを思いどおりに動かすことにはならず、まどろっこしいやり方に見えますが、実はそれは教師にとっても子どもにとっても心地よく、結果的にはもっとも近道となるやり方だと思うのです。
 子どもが「自分で決め、自分の体験から学ぶ」ということは、大人の立場からすれば、それを「待つ」ということを意味します。子どもが体験し、そこから学ぶように支援する。しかし、いのちや人権にかかわるものなら、きっぱりノーと言う。そういった活動が求められているのだと思います。
 その子の中で今どんな変化が起きているかに心を配り、その子が人生体験を重ねられるようにサポーターとして関わっていけばいいんだと考えるとき、子どもと関わることがとっても楽しくなるのです。
(
宮下 聡:元東京都公立中学校教師。都留文科大学教職相談システム相談員)

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教師のように、本当に感動して泣ける仕事なんて、そうあるもんじゃない

 私たち教師の仕事は、利潤の追求とまったく関係のないところにある。儲けは考えず、生徒の利益が最優先。究極のサービス業である。
 生徒に「わかった!」「できた!」と言ってもらうためならば、寝る間も惜しんであれこれ工夫する。手を替え品をかえ、ヨイショしてみたりもする。一方、ときには人間としての成長も厳しく要求する。
 その中で「どうして通じないの?」と、絶望的な気持ちになったり、自分自身の無力感に押しつぶされそうになったり、あるいは空回りをしているような惨めな気持ちになることだって、往々にしてある。
 しかし、そこでサービスをやめてはいけない。なぜか、それは私たちがいろいろな場面で喜びや感動を少しずつ分けてもらうことで、十分成り立つ商売だからである。
 非行の嵐を乗り越えてきた先輩教師が言っていた。「手のかかった子どもたちの卒業式ほど、泣けちゃうのよね。で、その感動があるから、また次も頑張れるわけ」と。
 ましてや「教える、教わる」「叱る、叱られる」という関係を超越し、人間としてお互いに共感し合えるものを見出すことができれば、それは「教師になってよかった」とか「先生に出あえてよかった」なんていう次元のものではなく、まさに、お互いにとって、本来の意味での「生きる力」に繋がってゆくのではないだろうか。
 私は新採の東京都の中学英語教師となり、大きな挫折感を味わった。私を待ちうけていたのは「大変な学校」で、授業サボタージュ、授業妨害、罵倒、暴力、いやがらせなど、一通りの洗礼は受けた。
 よく同期の教師と連れだってトイレで泣いたものだ。転職情報誌も頻繁に買って読んだ。しかし、それはすべて「こんなはずではなかった」「学校って、こんなところではないはずだ」という、自分の価値観の防衛に由来するものだった。と、今になって思う。
 そっぽを向いてやりたい放題の生徒に「好かれよう」としていた私が、彼らを「好きになることの方がずっと大切だ」と気づいたとたん、気持ちが楽になった。
 
「この仕事はおもしろい」と、自分の仕事への魅力と愛着を感じることがないままに、慌てて辞めてしまわなくって、本当によかったと思っている。
 私を支えてくれた教師集団と、私を育ててくれた生徒とその保護者たちには、いくら感謝しても足りない。現時点で言えることは「いま、この仕事はおもしろい」ということだけである。
 卒業する生徒が最後の授業で書いてくれるメッセージや、封書で渡してくれるような手紙は、私にとってはとても大切な宝物である。たとえば
「先生と別れるのはとてもつらいです。この二年間で私は先生からすごくたくさんのことを教わりました。英語のことだけじゃなくて、これから生きていく上で大切な、本当にいろいろなこと。先生の言った言葉は、いつも共感するっていうか、自分を変えなきゃって思わせるような心に残る言葉でした。困ったときはいつも助けてくれて、いつでも明るくって、すごいなあって思います。私は先生が大好きだし、尊敬しています。なんか人生をムダなくフルに生きこなしてる()って感じで・・・・・」
(
友松利英子:元東京都公立中学校教師・法政大学中学校副校長、新英語教育研究会で活躍した)

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一部保護者による無理難題や学級崩壊を防ぐ対応に教師は疲れている

 校長室を訪れた、ある父親の開口一番の言葉は「あの担任は、若いからだめだ」でした。あちこちで耳にするクレーマーの話。どれ一つとして良い方向に解決したものはないと言えるような有様です。今、日本中いたるところで、よく似た現象が起こっています。
 学校現場で、一部保護者の学校への無理難題により、大半の先生が疲弊している感があります。先生方にとっては、それこそ「戦線恐々の毎日」と言っても過言ではないでしょう。
 新任教員に「あなたの困っていることは?」と問うと、圧倒的に多いのが「保護者対応」です。クレーマーの話がある限り、日本の教育の前進はないと断言できるのではないか。保護者対応のつまずきで教職を去った教師の存在をクレーマーの親たちは知っているのでしょうか。
 疲れ切った先生たちは犠牲者です。その先生に育てられる子どもたちもまた、犠牲者です。私はこうした疲弊した教育現場の状況が日本の教育を悪くしていると思っています。一刻も早くこの状況を打破しない限り、子どもにとって良い教育環境は生まれてきません。
 私は、校長職を辞してからも、若い先生を育てるための教育サークル活動をしています。土曜日に若い先生方と実践事例を持ちより、その時に発したことばの一つひとつについても私たち教師がどう感じ、どう対応すべきかを一緒に考えることにしています。
 私は学級崩壊ということばがマスコミでいわれているとき、使うべきでないと主張しました。私は「学級の中にたった一人でもいい、正常な学級運営を望んでいる子どもがいる限り、学級崩壊というべきでない。それは教育の不在を意味するからだ」と主張した。
 この学級崩壊がいわれている時期に、多くの経験豊かな先生方が教職を去られました。このほとんどの方が
 
「私は一生懸命に教育に携わってきました。しかし、今の子どもたちを見ていると、このまま教師を続けていける自信がありません。昔、共に遊んだり学んだりしたような子どもはもういません」
 
「ちょっとしたことでも『教育委員会に訴える』などと保護者からも攻撃され、教師と子どもの信頼関係や、保護者との連携も失われてしまいました」
と、おっしゃいました。特にベテランと言われる先生方の間で、この傾向が見られました。
 また、一部でありましょうが、子どもへの指導が通らなくなったことが先生一人の指導の問題にされてしまい、先生を助ける職場の雰囲気がなかったり、あってはならないことですが、管理職の対応がまずくて先生が「孤立無援の立場」に追い込まれたりしていた現実があります。
 たいへんでも、今までの経験が活かされていれば、さらには、管理職が全面的に支えていれば、退職につながるようなことはなかったはずです。退職したみなさんは一様に、寂しさを抱えておられたのが印象的でした。
 一部保護者の無理難題と学級崩壊は同時進行しているように思います。
 そのとき、当該の子どもたちや保護者はどうだったでしょうか。先生を退職に追いやったのは自分たちだ、という自覚などありません。このような状況のもとで、一部保護者の学校への理不尽な攻撃がモンスターペアレントなどと問題視されるようになりました。
 一部保護者の担任攻撃は、それまで一生懸命に教育に携わって教師を疲弊させ、教育現場に重苦しい雰囲気と重苦しい進行を残す結果となりました。モンスターペアレントと言っている間にどんどん教育破壊は進んでいるのです。
 今、日本の学校の先生たちは、完全に疲れきっています。かつてそうであったように、先生が「健康で明るく子どもたちと向き合える状況」をつくっていきたいと願っています。
 日本の先生たちが元気を取り戻すことこそが、日本の子どもを元気にすることにつながると思っています。
(
西林幸三郎:大阪市公立小学校教師、大阪市教育委員会教育相談室長、校長を経て、大阪芸術大学初等芸術教育学科教授。児童虐待防止協会執行理事、大津市いじめ事件に関する第三者調査委員会委員、「NPO法人こころの子育てインターねっと関西」運営委員、臨床心理士)

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教師が悩んでいるのは「子どもとの対応」「親との対応」「職場の関係」である

 「悩める教師を支える会」を作って、学校の中で教師の声を聞くと、一番多いのは、子どもとの対応のことです。子どもが変わった。教師が振り回され始めた。前ほど教師の指示がすんなり入らなくなったと、すごく悩んでいます。
 あともう一つ、教師の苦しみとして多いのが、親が変わったということです。親が協力してくれなくなった。例えば、子どもが恐喝をしたと親に伝えても「それでどうしたんですか。先生」と開き直ってしまう親もいます。
 学校を離れて相談を受けた場合、個人的に相談を受けると、多いのが同僚との悩みです。教師同士の関係で決定的に落ち込むということが非常に多い。特にこれは学校を休職、退職まで追い込まれた教師にすごく多いのです。
 あるいは他の教師とトラブルがあったことを管理職に伝えると「あんたはだいたい教師としての能力がないんだ」と言われると、もう自信をなくしてしまう教師もいる。
 教師の悩みは「子どもとの対応」「親との対応」「職場の関係」の、三つに問題があるということです。
1 子どもとの対応
 子どもとの対応でカーッとしたとき、そのまま出てしまったらよくないことが起きるので、そういう時こそ、一呼吸おいて心の余裕をって「自分を見つめる目」を持たなければいけない。
 そういうときほど、穏やかな雰囲気づくりをしていくクラス経営が求められます。例えば、「さん」づけをして言葉づかいを丁寧にしたり、間を取ったり、ヒーリング音楽を活用したりしてクラスの雰囲気をよくするだけでもずい分違う。
 毎朝5分くらい教室のなかで遊びを取り入れてみたり、休憩時間に遊びをしていると、「けんか」がたえなかったクラスなのに、教室が落ち着いてきた。
 今までは、問題を起こす子どもに「お前、何やってんだ」と、怒鳴ったりしていた。そうするとクラスの他の子どもたちもすごくストレスを抱かえていくんですね。
 子どもが何に傷つき、どこで苦しんでいるか気づいてあげる必要がある。そこから、子どもと共感しあえる教師の言葉や対応が生まれてくるのだと思います。子どもに苦しみ痛みに共感できない対応は子どもをいっそう傷つけたり、追い込んでしまう。
 イライラする子どもはどうすればよいか。イライラしっぱなしの子なんかいないから、イライラしていない瞬間に注目するとよい。これができるといいですね。
 問題児ばかりに注目するのではなく、普通の真面目な子や頑張っている子どもたちを取り上げ、周りの子を高めていく。時間がかかるがこのやり方でやっていくしかないなと思います。
 教師は子どもの行動が枠から外れることにこだわり過ぎていると思います。そのことに全力を注ぎ過ぎると、教師と子どもの間に対立しか生まれてこない。だから教師は疲れてしまう。
 私は、子どもは多少問題を起こしてもしょうがないと思っています。個々の問題は教育相談で対応しながら、一方では「子どものパワー」を授業や行事で創造性を生かし活用することだと思います。
2 親との対応
 今は親から教師との対話を求めてくることは少なくなってきています。ですから、私は意図的な工夫をしています。宿題プリントなど一か月ごとにまとめて返却するのですが、そこに互いに感想やコメントを書き合うようにしていくのです。
 子どもに問題があったとき、保護者に、こちらの意図することをわかってもらい、味方になってもらう努力をします。
 そのために、何か問題が起こった時だけに保護者に話をするのではなくて、常日頃から学級懇談会や学級通信の中で、自分の考えを知ってもらうと同時に「子どもたちは、こんなところで頑張っています」とか「お宅のお子さんはこんな感じですよ」というのを伝えていく必要があると感じています。
 子どものいい点を報告したり、親や教師が自身の悩みや生活を語り合うことも必要だと思います。そういう関わりが持てるようになった時、親も真剣になるし、子どもにも変化が現われる。
 小さい頃からの成長をみてきた親の、子どもの見方を教えてもらって、教師と親の視点を合わせて対応策を練り、その子どもを見ていく、という感じで保護者と接していく。親と共同歩調がとれたときの、子どもの回復成長ぶりにはめざましいものがあると思う。
 問題があって保護者が学校に呼び出されると重い足取りで学校に来られる。つらいと思います。子どもに個人的な指導をする場合は、できるだけ家庭訪問して、親と話すとよい。その方がいろいろな視点から話し合いができると思います。
 子どもも含めて親が「どうなりたい」と、思っているか。問題がどうであるかより、この問題が解決した姿がなんであるかが大切ですね。親としてはどうなったらよいか。
 それには、当面は何をしたらいいか。じゃあ、当面それで行きましょうかと。一回方向が定まると後はどんどん変化します。それで落ち着いてしまうということもあります。
 教師は低姿勢でいったほうがいい。冷静で低姿勢でいかないと続かない。とにかくほめるということです。
 親との関係で悩んでいる教師に、まず最初にするアドバイスは「親は簡単に変わりません」ということです。熱心な教師ほど、親を何とか変えようとする。「目の前の子どもたちに何ができるかに視点を変えましょう」と申し上げるんです。
 多くの教師がやってしまうことなんですけど、クレームをつけてくる親に正論で対応しようとすることです。親はキレてしまい、教師もキレる。そうすると悪循環のまま、ののしり合うことが多い。
 つまり、正しいことを言うかどうかは親との間でそんなに大切じゃないんです。まず「関係づくり」に徹しましょう。よく話を聞きましょう。話を聞いてうなずいて、この先生は味方なんだなあ、というふうに感じてもらうことが先決です。
 
「本当にお子さんのことを一生懸命に考えてくださっているのがよくわかりました。私たちはそのために何ができますか」というふうにもっていくとよい。もしかしたら学校のための戦力になってくれるかもしれない。
 だから、カウンセリングマインドというのは相手が責めてきたら、その力を積極的に利用する合気道の精神なんですよ。そういう精神は親との対応でも必要なのかなと思うことがあります。
3 職場の人間関係
 学級崩壊とか親との関係で悩んでいる教師も、それだけで休職や退職にまで追い込まれる教師はそんなにいないんですよ。むしろ「それはあんたの力不足だ。教師としての適性がないんじゃないの」と同僚や管理職から言われて、ものすごく自信を失ってしまった。そういうケースが多いと思います。
 力のある教師が管理職との折り合いの悪さに悩んでいる場合も多い。特に同じ学年の教師との関係がうまくいかないと、決定的に勤めづらい職場になってくる。
 前の学校でよく思われていた教師が転勤で次の学校に行くと、全然だめということもある。
 いつのまにか競争の雰囲気やシステムのなかで教師たちは生きているように思います。教師一人ひとりがバラバラになってきているかなという気がします。
 この学校でやりにくいと思っている教師は自分だけだと思っている教師が多いんですよ。私が「あの先生もちょうど同じこと言ってましたよ」とつなげていって、その学校で不適応を感じている教師が3人くらい集まると学校変革の機動力になったりします。
(
諸富祥彦:1963年福岡県生まれ、明治大学教授。カウンセリング心理学、心理療法、臨床心理学、学校カウンセリング、教師のサポート、日本トランスパーソナル学会会長、日本カウンセリング学会常任理事、悩める教師を支える会代表)

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教師たちが悩んでいることとはなにか

 学校現場で悩んでいる教師をサポートしたいと「悩める教師を支える会」を立ち上げました。全国の学校を年間3040校を訪問してきた私ですが、そこで目撃した学校の現状は、私の想像をはるかに超えていました。
 荒れた子どもたちは教師のコントロールの範囲をはるかに超えていました。こうした子どもたちからの攻撃に、保護者からの攻めが加わります。
 先生をカウンセリングしていますと、教師を辞めたいという人の8割が保護者からの攻撃が大きなきっかけとなったと言います。「困った親とのつきあい方を教えてください」という相談が年々増え、絶えることがありません。
 教師たちは、保護者から次々と矢のようにあびせられるクレームの対応に疲弊しきっています。
 教師の悩みは大きく分けて4つあります。
1 雑用の多さ
 書類の量だけでも10年前にくらべ2.5倍に増えていると言われています。
2 子どもとの関係
 教師をなめて、集団で振り回す子どもが増えています。荒れた子どもたちは教師のコントロールの範囲をはるかに超え、女性教師や一見軟弱そうな男性教師がターゲットにされています。
 ADHDなどの、障がいをともなう多動の子どもたちへの対応が問題になっていますが、彼らへの対応は困難を極めます。授業中パニック状態に陥って教室を飛び出していく。教師は放っておけないので、その子の後を追います。すると残された子どもたちは騒ぎ初めて騒然となる。それが学級の荒れにつながっていくケースがけっこうあるのです。
3 同僚教師や管理職との人間関係
 かつては日本の学校は、先輩教師が後輩教師をサポートし、教師間のチームワークのよさがありました。しかし、学校での成果主義の導入で、教師間や管理職とのあいだに冷ややかな空気が生じ、サポート力が低下しているように思えます。
4 困った親への対応
 困った親に共通しているのは、きわめて利己的、個人主義的で、自分の子どもの立場からしか、ものを考えられないことです。
(1)
わが子しか見えない
 困った親たちの中で、最も一般的なのが「わが子しか見えない」親です。このタイプは授業参観をはじめ、あらゆる学校行事でみられます。
(2)
子どものためのお金を惜しむ
 給食費は払う必要がない、払えるけど払いたくないと思っている親が、経済的な問題で滞納している親を上回っています。
(3)
親の責任を放棄している
 多くは、生活が乱れ、子育ての責任を果たす気がなく、子どもに本気でかかわるのを面倒がります。
(4)
子どもの言いなり
 子どもに甘すぎて、子どもの欲しいものを買い与え、きちんと叱れない親も増えています。
(5)
子どもにキレる
 子育ては根気がいる。そのストレスに耐えきれずにキレてしまう親がすごく増えています。
(6)
学校や教師をストレスのはけ口にする
 子どもの教育には関心がないけれど、文句だけは学校に言う。何かストレスを抱えていて、それをどこかにぶつけたいときに、標的にしやすい学校や教師に向ける。
 以上のような親は一部ですが、言動は笑ってすまされる範囲を超えています。教師を振り回し、学校の機能を破壊しつつあります。
 教師の多くはすばらしい人ばかりです。この教師受難の時代にあえて教師になった人たちばかりです。情熱もあり、教育技術も備わっている教師でも、学級崩壊が起きています。
 いまや、教師の力量があればうまく学級経営ができて、いい授業ができるなんて、言えなくなってきました。その限界を超えたレベルの悪質な保護者や、子どもたちがたくさんいるのです。
(諸富祥彦:1963年生まれ、明治大学教授。専門は臨床心理学、カウンセリング心理学。現場教師の作戦参謀としてアドバイスを教師に与えている。「教師を支える会」会長)

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