カテゴリー「教師の成長・研修」の記事

秋田県が全国学力トップクラスである要因は「探求型授業」と「共同研究システム」にある、どのようなものか

 秋田県は2007年以来、全国学力調査で全国トップクラスの成績を残してきた。
 その要因として「子どもたちの授業姿勢のよさ」「家庭学習が充実」「学校・家庭・地域の連携」などがある。
 なかでも重要なのが「探求型授業」と「共同研究システム」である。
1 探求型授業
 探求型授業は、子どもたちの、話し合い、意見交換を重視した授業である。
 例えば、次のような授業スタイルである。
(
)導入(学習課題の設定)
 教師と子どもたちで学習課題を決める。
(
)展開
1.
自力思考
 子どもたち一人ひとりが思考を展開する。
 自力思考がむずかしい子どもには教師が援助を行う。
2.
グループで対話
 すべての子どもが考えを持てた段階で、4人程度のグループで、考えを出し合いながら対話をしていく。
3.
グループの発表
 ある程度グループでの対話が煮詰まったら、各グループの状況を学級全体に発表する。
4.
学級全体で学び合う
 各グループの発表を、教師と子どもで整理し、共通点、相違点、論争点を明確にする。
 そのうえで、学級全体で学び合う。再度グループの検討に戻す場合もある。
 グループの対話や学級全体の学び合いの過程で、教師は必要に応じて
 ・助言をし、発問をする。
 ・「ゆさぶり発問」をする。
 ・重要な点を取り出して、再度全体の課題として返す。 
(
)授業の終末
 授業の終末で、構造的な板書を振り返りつつ、それまでの探求を振り返る。
 そのうえで、子どもたちは自分の学びを振り返り、文章にし、発表し合う。
 そういった探求によって、より高次の試行錯誤、判断・批判、推理・検証、発見・創造が展開される。
2 共同研究システム
 探求型授業は、深く豊かな教材研究、具体的な目標・ねらい・切れ味のある学習課題や指導言、グルーピングなど、通常の授業以上に高度な指導を求められる。
 そのため、教師一人ひとりの準備が必要となる。
 しかし、一人の努力だけでは限界がある。教師同士が共同して探求型授業をつくり出していく必要がある。
 秋田県では優れた共同での授業研究システムがある。
 そのシステムのなかで、若手教師も質の高い探求型授業を展開する力をつけていく。
 共同研究システムは、校内研究会、小中連携研究会等で研究授業を行う場合、
「事前研究」→「研究授業」→「ワークショップ型検討会」→「事後研究」
が基本となる。
 はじめは学年、教科で研究チームをつくる場合が多い。少しずつ学年や教科を越えた合同研究チームをつくっていくと効果的である。
 教科の専門性は重要である。しかし、専門外だからこそコメントできるというよさもある。
(
)事前研究
 研究会前までの事前研究が重要である。これが授業研究の成否を決める。
 事前研究の弱い授業研究では限られた成果しか得られない。秋田県ではていねいに行う。
 そのために研究チームをつくり、次のような項目について、ていねいで厳しい検討を行う。
1.
教材選択
 単元の系統性を意識しながら、教科書等から選ぶ
2.
教材研究
 深く豊かな教材研究が探求型を実質化する。
3.
目標・ねらいの決定
 この具体性が授業設計を緻密にする。
4.
指導計画の作成
 単元全体の指導過程と到達点・各授業の到達点。
5.
本時案の作成
 はじめは本時の大きな流れから始め、次の細案に進む。
6.
本時案を具体化した細案の作成
 学習課題、指導言、板書を含む
7.
細案に基づくプレ研究授業
 研究チームで授業を行う。教師が子ども役になり実際の流れで授業をしてみて検討し合う。
(
)研究授業
 教師全員が参加する。授業を撮影し映像記録をとる。
(
)研究授業後のワークショップ型授業検討会
 もちろん教師全員が参加する。教科や学年が違う教師が授業検討にかかわることが鍵になる。そのために「ワークショップ型」検討会が有効である。
 まず、教師全員が付箋紙に授業についてのコメントを記入する。
 例えば、授業で評価できる点について水色の付箋紙、課題・改善すべき点はピンクの付箋紙を使う。その2種類の付箋を持ってグループごとに集まる。
 グループ編成は、学年や教科、研究メンバーは分散させる。
 各グループには司会役のリーダーを置く。授業の優れた点と課題・改善点を鋭く抽出する役割を担う。
 模造紙に付箋を内容別に分類しながら貼り付けていく。それらをマジックインキ等で囲み、グループで検討を深めていく。
 全体会で各グループが発表する。
 多くのグループから出された課題・改善点が見えてくる。とくに重要な点については、再度グループで検討する時間を取ることが効果的である。かなり多様な代案が出てくる。
(
)事後研究
 授業を撮影した映像記録を使って、授業研究会の少し後に事後研究をすると、授業の成果と課題・改善点が具体的により鮮やかに見えてくる。
 研究チームで映像を再生しながらリフレクションを行う。
 授業のポイントとなる部分で再生をストップし、検討会で指摘された点を再度確認しつつ、新たな優れた点と課題・改善点を発見していく。
 以上のような共同研究によって若手教師を含め多くの教師が高い授業力を獲得していく。
 主体的、対話的で深い学びを有効に授業に生かせるかどうかは、共同研究を実質化できるかどうかにかかっている。
(
阿部 昇:1954年生まれ。秋田大学教授、附属小学校校長も勤める。専門は国語科教育学。全国大学国語教育学会理事。日本NIE学会理事。秋田県内の小中学校を数多く訪れ、全国学力テストの好成績について分析。私学中高校での教師経験もある)

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学級が荒れ・崩壊したときの経験は必ず生きる、自分なりの実践を創造していくうえで貴重な経験となる

 学級が荒れたときの精神的な苦痛は、他の仕事と比較にならないほど大変なものです。
 子どもたちから「うるせー」「ボケ」「死ね」などという暴言を浴びせられることだって少なくはなく、ときには小学校においてさえ、子どもから暴力を受けることだってあります。
 その屈辱たるや、おそらく想像しがたいほどだと思います。
 授業中立ち歩いたり、四六時中おしゃべりがあり、授業妨害などがあれば、教師としての自信が急速に失われていきます。
 疲れきって、退職を余儀なくされる教師も見られるのは、そのためです。
 それでは、荒れ、崩壊した学級を担任したとき「教師にとってプラスになることはないか」と言えば、けっしてそんなことはありません。
 大変な学級をもつことで、見えてくることも少なくないからです。
 むしろ荒れた子どもたちと接することが、指導力をアップしていくきっかけになることも事実です。
 自分の実践の問題点も浮き彫りになることもしばしばあり、教育観や子ども観を深める機会になることも多いものです。
 そういう意味では荒れた子どもたちと出会うということは、教師が従来の指導の枠や固定観念を崩し、新たな成長を遂げていく時期でもあるのです。
 それは、教師が子どもと教育を再発見する旅立ちでもあります。
 自分の感覚、感性をもとにつかんだものは、本を読んで学んだことと違い、自分なりの実践を創造していくうえで貴重なものです。
 ひとつの発見が実践を豊かにしていく場合が少なくありません。
 私がこれまで、何度か荒れた子どもたちを担任する機会がありましたが、その中で得たことの一つは、度胸がついたということです。日常の実践では重要な意味をもつものです。
 私の場合、荒れた学級を担任した経験によって度胸がつきました。
 度胸がつくと、教師が子どもたちに同じことを言ったとしても、教師のまなざしや顔の表情などの微妙な違いが生じ、子どもたちの受け取り方はかなり違ってくる。
 度胸は実践が困難なときであっても「なんとかなるさ」という思いにさせてくれます。余裕を生むのです。
 ああ、どうしようという焦りを緩和する役割を果たします。必要以上のストレスを防いでもくれます。
 冷静に判断することが可能になり、管理主義的な対応を避けることができるのです。
 このような教師の姿勢は、子どもとの信頼関係をつくっていくうえで不可欠です。
 学級が荒れた場合には「なんとかなるさ」という思いになれるかどうかは、かなり重要なことです。
 荒れをくぐり抜けることで、度胸はつくられていきます。
 一回や二回クラスが荒れてどうしようもなくなったとしても、長い教師生活からみれば、決して無駄なことではないのです。
 人間の心理は複雑です。子どもの心理も複雑です。教育という仕事が毎回毎回うまくいくなどと考えること自体が、そもそも無理なことです。うまくいかないからと言って、落胆ばかり必要はないように思います。
(今泉 博:1949年生まれ、東京都公立小学校教師、北海道教育大教授を経て松本大学教育学部教授。「学びをつくる会」などの活動を通して創造的な授業の研究・実践を広く行う) 

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私は新任の頃から、どのように研修し、コミュニケーション力の指導に力を入れるようになったのか

 若い教師にとって、尊敬できる先輩教師との出会いは何よりも貴重な財産になります。
 私の場合、初任校の研修担当である教務主任でした。「ふだん、どんな授業をしているか見せなさい」と、教室の後ろに立たれました。
「ごんぎつね」を学習していたところでした。私の授業を引き継いだ教務主任が発問しても、子どもたちは何も答えられない。
「今まで、こういう勉強をしていないから仕方がないね」と言われて、私はショックを受けました。
 それまでの私の授業といえば、ただ教材を教えるだけで、指導書さえも見ていないような、お粗末なものだった。
「これではいかん」と思い、同期の教師3人と一緒に毎週勉強会を始めました。教務主任にアドバイスをいただきながら、必要な場面ではじっくり子どもたちに考えさせるなど、授業にメリハリをもたせる大切さを学びました。
 それまで、全く指導方法を知らなかったので、アドバイスがスポンジに浸み込むように入っていきました。
 自分の成長と、学び合う楽しさを実感した私は、その後も教務主任に誘われて特別活動の研究会に参加したり、国語科の教材研究を考えたり、積極的に学ぶようになりました。
 そんな時、桑田泰助先生に声をかけていただきました。当時、全国紙に執筆されるほどの力量のある地元の高名な大先輩。
 恐る恐る勉強会にうかがうと、私の実践はボロクソと言っていいほど厳しく問題点を指摘されました。
「知恵がない者が、いくら頭を絞っても知恵は出てこないよ。人と出会い、本を読んで知恵をつけなさい」と言われました。
 それからというもの、先生の話はひと言も漏らさない意気込みでノートをとり、話に出てきた本を購入し、片っ端から読むようにしました。
 ある日、私は桑田先生に「なぜいつも楽しそうに国語の授業をされるのですか?」と尋ねると、桑田先生は「道楽だから」と笑顔で答えました。
 若い頃の私は、自分の足もとしか見えず、1日をこなすことに精一杯で、授業を楽しむなんて考えもしませんでした。そんな私に、もっとずっと先まで見ることの大切さを教えてくださったのです。
 学ぶことの大切さを知った私は、全国の優れた実践に目を向け、研究会に参加するようになりました。自分の実践にも少しずつ自信をもち始めていました。
 そんな矢先、自分の根本を見つめ直さざるを得ない子どもたちと出会いました。
 教師9年目に受け持った6年生に簡単な自己紹介をしてもらったところ、何人かが涙ぐんでしまったのです。
 他の子どもたちも、話す際の声が、か細かったり、落ち着かない様子で体をずっと動かし続けたりしていて、まともに自己紹介ができる子どもは誰一人もいませんでした。
 クラスで静かな学級崩壊が起こっていたのです。崩壊した学級の冷ややかな子どもたちの現実を見た私は、愕然としました。
 自分に自信をもてず、安心感のない学級をどのように立て直せばいいのか。ゼロどころかマイナスからのスタートです。
 教育書からビジネス書まで手当たり次第に読み、研究会でお世話になっている先生方にアドバイスを求めても、納得できる答えは得られませんでした。
 そんな時、桑田先生から「話すこと」を指導してみたらどうかと助言され、やってみることにしました。
 とはいえ、当時はコミュニケーション力を育てる指導の教材や指導法などありません。私は独自に指導方法を考え、無我夢中で「話す」指導に取り組みました。
 すると、三学期の頃には子どもたちに変化が見られました。仲間とのふれあいを通して、温かい雰囲気の学級になっていったのです。
 これを機に、私は「言葉」の力を豊かにするコミュニケーション力の指導に一層、力を入れるようになりました。
 さまざまな問題を抱かえた子どもたちに自己肯定感をもたせ、教室を安心できる場にしたいと取り組みはじめたのが「ほめ言葉のシャワー」です。
「ほめ言葉のシャワー」は、その日に対象になった子のよいところをみんなで見つけ、帰りの会で発表し合います。
 さらに、朝の会で対象になった子について全員が質問する「ミニライフヒストリー」にも取り組んでいます。
 こうした取り組みの中で、子どもたちは相手を認め、自分自身も認められるようになっていきました。
 教育書やセミナー等を通じて、さまざまな教育実践を学ぶことはもちろん大切です。
 しかし、いくら優れた教育実践に取り組んでも、目の前の子どもたちの実態に合っていなければ、何の意味もありません。
 本当の学びは目の前の教室の中にこそあるのです。
 子どもたちの成長は、教師にとって、自分の取り組みが間違っていない何よりの証です。
 指導には「これは絶対」という正解がありません。だから、今でも日々気づかされることがあります。
 それがとても楽しい。桑田先生がおっしゃっていた「授業は道楽」の意味が、最近少しわかってきたような気がしています。
(
菊池省三:1959年生まれ 福岡県北九州市公立小学校教師、2015年に退職。コミュニケーション教育を長年実践した。「プロフェッショナル-仕事の流儀(NHK)」などに出演、「 菊池道場」(主宰)を中心に全国で講演活動をしている。 北九州市すぐれた教育実践教員表彰、福岡県市民教育賞受賞
)

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子どもが変われば、それに合わせて自分を変えなければ時代にとり残される、成長を止めないのが本当の教師である

 今では、塾にきても全く勉強しない子もいるそうだ。まして、学校は、どんな子どもがいても何の不思議もない。
 何でもきちんとできる「しつけ」がなされている子は、とんでもないことをしない。
 例えば「あいさつ」が笑顔できちんとできる子どもは、授業中あばれたりすることはめったにない。
 基本は「しつけができていない」ことである。これがすべての根源のようである。
 私が飛び込み授業をするときは、いきなり教室に入って、あいさつをする。この「あいさつ」でほぼそのクラスの実力がわかる。
 明るく、にこやかにあいさつのできるクラスは、学習にゆとりがある。もちろん緊張なんかしていない。
 私は、小学校一年の担任が最も重要だと、以前から主張している。一年生の時、きちんとした「しつけ」をしないと、それ以後の担任は大変である。
 初めての学校に伺ったとき、よく昼の清掃を見て回る。教師が子どもと一緒になって、一生懸命やっている学校は、授業もいい。
 子どもまかせにして、教師の姿が全く見えない学校では、授業は絶望的ということが多い。子どもがまともに掃除をしていないのに、注意する教師がいないのだから、遊ぶのは当然である。
 子どもの態度のみだれている学校は、子どもや教師の服装もみだれている。
 一つできないと、それに連動してすべてのことがみだれるものだ。このことに気づき、例えば「あいさつをきちんとするように」とか「清掃をきちんとさせる」など指導のポイントを決めて、きちんと行うことだ。
 これは生活の基礎的技能の不足している子どもの指導といえる。
 私は授業を参観するとき、発言を二つ三つ聞く。そして、子どものノートを5,6人さっと見る。板書や教師の表情は、もちろん見える。
 これで、そのクラスの実力が大体わかる。
 基礎的技能が不足している子どもがたくさんいるということは、
(1)
このことに教師が気づいていない
 教師に力のないことすら見えていない。最も問題だろう。結構いる。指摘すると驚いて、いいわけをする。
(2)
気づいてはいるが、どのように授業したらよいかわからない
 しっかり指導してもらいたい。そうすれば必ず力はつく。
(3)
気づいているが、教師にやる気がない
といったことが考えられる。
 基礎的技能の不足している子どもが多いということは「授業をする教師に、基礎的技能が不足している」ということである。
 地図が読めない子がたくさんいるということは、その教師は地図が読めないので指導できないのである。
 イラストの読み取り技能のない教師に読み取り指導はできない。
 理科などは、教師の技能不足がものすごくはっきりと見える。教師がビーカーや試験管の基礎的な使い方を知らなければ、当然指導はできない。
 教師の力量によって、子どもの基礎的技能が全く違ったものになることは間違いのないことである。
 子どもが大きく変化してきている。塾に行っても遊んでばかりいる子どもが出てくるくらいである。
 とても一筋縄ではいかない子が増えている。
 これに対応した指導技術を身につけなければ、これから教師として指導することはできなくなる。
 指導力不足のため、教師をやめなければならない人が増えてきている。これは、勉強不足か、自信過剰である。
 子どもに基礎的な技能をつけるためには、教師が基礎的技能を体得しなければならない、ということが結論である。これは、子どもをどう指導するか以前の問題である。
 私が「自分を変えなければ」と最初に思ったのは、教師になって初めて卒業生を送り出すときであった。子どもから「先生は暗い。もっと明るく面白い先生になってほしい」と言われた。
 私は、シッョクを受けるとともに「絶対に明るく面白い教師になろう」と思った。
 それから、ネアカ修業を始めた。
 明るく面白い先輩教師を見習い、ユーモアや笑いの本を読みあさった。落語や漫才を聞くことを楽しむようになった。
 ユーモアの最大の先生は子どもであることに気づくまでには、時間がかかった。子どもはもともとネアカで面白いことが大好きである。子どもに学べるかどうかが、成長できるかどうかのポイントである。
 附属小学校に転勤したとき、一年間で11回、研究授業を行った。研究授業を行うたびに、かんぷなきまでたたきのめされ、自分を変えるしかなかった。30歳まで何をしていたのだろうと思った。
 大したものをもっていないのに、自分ではかなりのものを体得したと思っていたのだ。今までのものは捨てさり、新しい自分と自分らしい社会科を創りださねば、これから先、生きていけないと考えた。
 私は「子どもが追及する社会科」をつくり出そうとした。
 子どもたちが追及の鬼になるには、面白い教材が必要であることに気づき「教材開発」に力を入れるようになり、「一寸法師」「バスの運転手」など800くらいネタ開発を行った。
 やればやるほど面白いネタが見つかり、ネタが見つかれば授業をやってみたくなる。
 他人に批判してもらうことが、成長のカテになることに気づき、思いきり批判してもらった。
 私に多少の資質・能力があるとしたら、それは「努力と挑戦」ができることだろうと思う。
 全く変わらない教師もいる。こういう人は「今の自分でいい。今の実力で十分だ」と考えているのだろう。
 子どもが変われば、それに合わせて自分を変えなければ、時代にとり残されることになる。「成長という時計」を止めないのが本当の教師である。
(
有田和正:19352014年、福岡教育大学附属小倉小学校、筑波大学付属小学校,愛知教育大学教授、東北福祉大学教授、同特任教授を歴任した。教材づくりを中心とした授業づくりを研究し、数百の教材を開発、授業の名人といわれた
)

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若い教師がプロの教師にふさわしい力と教師の心をつかむには、どうすればよいか

 教師になれば、年齢や指導力に関係なくプロの教師として振るまうことができる。
 だとすれば、プロの教師にふさわしい力量を自ら求めて身につけなければ、自分に自信が持てず、子どもたちに対して申しわけない。
 若い教師が教師の心をつかむには、どうすればよいか
1 朝の会、帰りの会
 朝の会は「一日のさわやかな出会いをつくる」ためにある。誕生日を祝えば、それだけでさわやかな出会いが生まれる。
 帰りの会は「明日も学校へ行きたいな」と、子どもに思わせるためである。「よかったこと、うれしかったこと」を発表すれば、学級の雰囲気が明るくなる。
2 叱ることを恐れるな
 人を差別したりバカにしたりすることは絶対に許さないという姿勢が担任には必要なのです。中途半端な叱り方はいけません。本気できびしく叱ります。
 長く叱らない。後に残さない。罪を憎んで人を憎まずの精神で臨みましょう。
3 ほめる
 ほめるのは技術ではありません。技術でほめてはダメ。子どもは教師が本気でほめているかどうか、見抜きます。
 おせじ、おだてではなく、ほめずにいられないようになりたいですね。
 教師が何もせずにいて「ほめるところがない」というのはプロの教師ではありません。
 教師は、ほめる場を用意するのです。例えば
「Aくん、ぞうきんを持って、先生と一緒に机の上をふいていこうね」
 こうすれば、仕事をしたAくんをほめることができますね。
「今日は、Aくんがぞうきんで机をていねいにふいてくれましたよ」
 これでわかるように、仕掛けたのは教師ですね。しかし、実行したのは子どもです。子どもは自分でやったんだと思っています。みんなに紹介されたので、うれしさと、自信を持つようになるはずです。
4 保護者との関係を密に
 子どもを理解しようと思えば、保護者を理解しなければならない。保護者の子育ての方法は子どもに反映すると思われるからである。
 教師の方が保護者に近づいていかなければならない。
(1)
参観日に自分の教育観を
 授業参観の後に懇談会がセットされているので、教師はわが教育観を述べて保護者に理解と協力をお願いすることになる。次の三点でよいだろう。
)めざす子ども像
)学級の子どもの実態
)指導の方法や手順など
 注意すべきことは、子どもの具体的な事実をもって話すようにする。子どもの実態を前面に出して自分の教育観を述べていく。
 そうすれば、保護者は、この先生はわが子を大事に思ってくれている、と受けとめる。
 見ず知らずの教師と保護者が、子どもをよくしていこうという点で、理解と協力の関係に立つことができるのである。
(2)
家庭訪問
)子どもの長所を聞く
 私は、家庭訪問は保護者に会って「子どもの長所を具体的に教えてもらう」ため、と考えている。
 つまり、インタビューする人に徹すればよい。保護者が「とりたてた長所はありません」と言っても、ねばり強く聞いていくと話してくれる。
 子どものことを話題にして保護者と教師が楽しくなっていくのである。
)健康と性格を聞く
「〇〇くんの健康や性格の問題で、担任として知っておいた方がよいと思われることがあれば、教えてください」と聞く。秘密は守らなければならない。
)保護者の願い
 保護者がわが子に何を願っているかを聞く。
(3)
学級通信で報告・連絡・相談(ほうれんそう)
 教師の思いを広く全員に伝える手段として、学級通信はますます重要になってきた。
)発刊
 計画的に発刊するようにする。
)読んで楽しくなる内容を
 子どもの生活をよく知らなければニュースが書けず学級通信を出せない。ニユースは明るく楽しいものでありたい。
)子どもたちの作品も
 全文を教師が書かなくてよい。子どもの作品を含む学級通信にすると、内容に変化が出てくる。ただし、どの子にも掲載の機会があるように配慮したい。
)学級の歴史として冊子に
 学年末にこれを冊子にまとめ、表紙をつけると、これが学級の歴史となる。
 表紙の文字やイラストをどうするかは個人にまかせると、ユニークな作品になる。
 子どもたちが自らの学びを自己評価できる具体物にもなる。
5 報告・連絡・相談(ほうれんそ)で人間関係づくりを
 子どもに何かあったときは、同僚の先生や保護者、教頭とよく報告・連絡・相談して、一人で決めないようにします。
 学校の外で研修が終わった時などは必ず管理職に報告しておきたいですね。
 報告・連絡・相談は、とても大事なことです。
6 教師の心をつかむ
 初任者は研修期間をどう過ごすかで、その後の教師生活が左右されるといっても過言ではない。
 その学びは、指導教師等から実践的な「教師の心」をつかむことであると私は考えている。
 学校では思いもよらないことが起きる。それに対応できるマニュアルを求めても、それは無理というもの。だったらどうするか。
「教師は一人ひとりの子どものためにある」
という原点に立ち返り、一つ一つ自分で判断して問題に臨む以外に方法はあるまい。
 その原点を、私はあえて「教師の心」として表現したのである。
(
倉田侃司:1938年広島生まれ、広島大学附属小学校教師を経て広島文教女子大学教授、広島経済大学教授を歴任した
)

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授業の名人に必要なのは才能やセンスではない、ではどうすれば授業名人になれるか

 授業の名人と呼ばれる教師はたくさんいます。しかし、最初から上手だったはずはありません。では何が、名人の域に達するか、凡庸な水準に留まるかを分けるのでしょうか。
 実際、新任早々、独創的な授業を生み出す教師、動物的な勘で子どもの気持ちをつかんで放さない教師がいます。しかし、そういった教師はごくごく少数です。
 ごく普通の才能なりセンスしか持ち合わせない教師が、そこそこの名人になることは十分可能であると思います。
 私は仕事上、数多くの授業の名人に接してきました。センスがよい、才能を感じさせる教師も少なくありません。しかし、それだけに頼って名人になれたわけではありません。
 それどころか、若いときは、むしろ不器用な方であった。子どもたちとの関係もギクシャクして困ったという教師も少なくなかった。
 私も授業が上手ではなかった。どうすれば少しでもいい授業ができるようになるのかを知りたくて、名人と呼ばれる教師を訪ね、全国を歩き回りました。
いったい何が決めてになったのでしょうか。
 各人各様なのですが、授業の上達のために「継続して取り組んできたことがある」ということです。例えば
(1)
毎日、クラスの子一人ひとりに何をしてやれたか考える
 初任校の校長から
「放課後、教卓のところに座り、子どものいない机に一つひとつ目を落としては、今日はこの子はどうしていたか、自分はこの子に今日何をしてやれたかを考えなさい」 
と教えられたといいます。
 それを20年間、授業のある日は1日も欠かさず実行した。
 最初のうちは、思い出せない子がいるものです。申し訳ないという気持ちになります。明日は、まずその子に目を向けようとします。
 すると、これまで見過ごしていたその子ならではのよさ、健気さ、悲しみといったものが、ひたひたと感じられてきます。
 そうして、自分の何が問題か、どこをどうすればよいかも見えてくる。そのことを懸命に思案していく毎日になります。
(2)
教材を集める
 授業づくりに悩んだあげく、教材の重要さに目覚め、毎日、教材の材料となるスクラップづくりに励みました。
 新聞や雑誌を丁寧にながめ、資料やパンフレットなどを集め、おもしろそうなものを、切り抜いてノートに張り付け、いつでも見られるようにしておくのです。
 実際に教材として使えるものは少なく、何年後になるものもあります。
 そうやって、日頃からネタ集めをしておくからこそ、いざというときにいい着想が浮かび、ぴったりの教材を子どもに手渡すことができるのです。
 目を見張るような、すばらしい教材と、それに支えられた授業が一日にして成るものではないという、当たり前の事実を、私たちは思い知らされるのです。
(3)
授業記録を吟味する
 先輩にすすめられて、折りに触れて自分の授業を録音し、授業記録を丹念に吟味してきました。
 取り組んだことのある教師はわかると思いますが、指示が不適切であるとか、説明がわかりにくいといったことに気づくのは序の口です。
 子どもの発言の意図を誤解して板書した時など、すまないことをしたと謝りたい気分になるものです。
 授業中のあの子の発言は、このように受け取ったが、今思い返してみると、違っていたのではないか、という気づきが生じることがあります。
 教師はどうしても、自分が思い描いた流れを中心に据え、個々の子どもの発言を受け止めがちです。子どもの発言をもう一度、吟味する必要があります。
 何が問題であり、どうすればよいかも、突き刺さるほど、感じるものです。
 だからこそ、二度とそのようなことがないようにと、痛みを力に変えながら、謙虚な気持ちで研鑽を積むしかありません。
 あなたが教師であるなら、このような取り組みを毎日続ければ、確実に教師としての力量を向上させていけるに違いないと悟るでしょう。
 名人の域に達するか、平凡な水準に留まるかを分けるのは、たった一つでもいいから、こういった着実に成長できる取り組みを見出し、迷うことなく誠実に継続してきたか否かです。
「継続は力なり」です。それ以外の道はありません。その道を淡々と歩みさえすれば、誰でもそこそこの名人になれると、私は確信します。
 名人と呼ばれる教師たちに何か特別な秘密など一切ありません。
(
奈須正裕:1961年徳島県生まれ、国立教育研究所室長、立教大学教授などを経て上智大学教授。専門は学校教育学 教育方法学等
)

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若い教師が信頼され魅力的な教師になるには、どうすればよいか

 多くの教師は、社会常識を誰からも教わることなく、いきなり「先生」としての立場に身を置くことになる。
 それが十年も続くと、限られた学校という世界だけで世の中をとらえ、価値判断のすべてとなる。
 教師は社会勉強が求められる。世間では人に挨拶するのは当然である。挨拶をあまりしない教師がいる。生徒は口にださないが「生徒に『挨拶しろ』と言う、あの先生こそ、挨拶しなければならないのに」と心の中で思っている。
 人に挨拶をしないというのは「あなたに忠誠を誓わない」というシグナルである。組織内は死を意味する。
 社会常識は名刺の出し方、部屋に入る順番、上座下座などいろいろある。それを教師にしっかり教えてくれる制度はない。歳を取っても非常識の見本のような教師もいる。
 非常識に気づいて行いを改められた人は、確実に一歩成長したといえる。
 私はある人から「やる気と本気の違い、わかりますか?」と質問された。私は答えられなかった。その人は
「やる気には、見返りを期待を期待する心があるのですよ。それが本気となると、見返りを期待するという心が消えて、使命感に変わっているのですよ」
「本気の人の前に立つと、その迫力に圧倒されます」
 果して私は、これまで「本気」になったことがあるのだろうか。使命感があるのかを考えた。私の本気度がまだまだ甘いことに気づかされた。
 仕事を通じて人は成長する。どれぐらい夢中になれるのか、どれくらい情熱を傾けられるのか、現実を生きていく中で少しずつ人は育まれていく。
 泥臭い人生の中にだけ「やりがい」という輝く原石が転がっている。好奇心を失うことなく充実した人生を実現したい。
 自らの強烈な願望と実現しようとする強固な意志が人生を成功へと導く。
 日々、突発的にいろんなことが起きる。それらを冷静に判断しながら、優先順位を誤らぬよう課題の解決をはかっていくことが大切である。
 課題を解決しようとするときは、事実を確認し、メモを取って残しておくとよい。
 課題を解決する場合、組織で動くのが基本である。これを怠ると大きなミスにつながるし、ミスをしても誰も助けてくれない。
 しつこいぐらいに同僚や管理職に報告・連絡・相談(報連相)をし続けることが求められる。そこから信頼が生まれる。逆にそうしなければ信頼は得られないということだ。
 信頼は日常の行いの積み重ねから生まれる。誰に対しても誠実な姿勢を貫くことが大切である。あなたが信頼されるか、されないかは、関係者の人々の総意で、決まっていく。
 仕事で成功する近道は、自分の得手は何かということに早く気づき、それをさらに伸ばすことである。興味関心のあるテーマについて、本を読んだり、人から話を聞いたりして高質な情報を手に入れるよう努めよう。
 それを十年ぐらい継続する中で、少しずつ自分自身の適性が形成されてくる。あなただけのスペシャルな力を身につけよう。
 自分自身の日常の行動や意識を改革するためには、気づいたことをメモに取り、その日のうちにまとめて振り返り、実践を積み重ねないといけない。
 分ったと出来るは全然違う。出来るまで何度も何度も振り返りながら、実践を繰り返すしかない。
 毎日の振り返りと実践の繰りかえしが「出来る」状態にまで自らを高める唯一の方法である。
 仕事を通じて学び、自己の成長が実感できるようとことん取り組み、魅力ある教師になろう。
(
江口宗茂:1959年兵庫県生まれ、学習塾を20数年、組織運営を経て、教育コンサルティング業務会社設立、2011年~2016年私学の中・高等学校の学校長歴任の後、教育コンサルティング業務再開)

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私は教師として「プロならこの場面、どう指導するのだろうか」と考えるようにしている

 私は「プロならこの場面、どう指導するのだろうか」と、常々、考えるようにしている。
 例えば、子どもを叱る場面。プロならば、子どもによって言う言葉を変えるだろう。その子の心に響く言葉を言うように努めるだろう。
 教師が指導をする前に、一呼吸置いてみる。そして、プロならば、どう指導するかを考えてみるのだ。
 私の場合は、周りに実力のある教師がいたので、その人ならどうするかを考えるようにしていた。
 そして、行動した後で、自分の指導を振り返るようにしていた。
 例えば「あの場面で、あとひと工夫、何かできなかっただろうか」と、放課後に、一人で反省していた。
 そして、今日一日の行動を日誌に記録していった。今日の指導の姿をつづっていた。
 日誌には「あの場面は、別の行動のほうがよかったのではないか」という自己反省の記録も多く残されている。
 新任の教師は、つい感情的に指導したり、行き当たりばったりで指導したり、といったこともあるだろう。
 しかし「プロならどう行動するだろうか」と考えれば、それだけでも進歩である。プロの言動を考え、今の自分よりも少し上の行動をめざす。
 こうすれば、前よりも少しましな指導ができるようになるだろう。
 こうしたことを繰り返して、プロらしい指導がだんだんと板についてくるのだと考えている。
 若い教師は、他のクラスの学級運営が気になるものだ。すばらしい学級運営をしているように見えるものだ。
 若い教師は、自分のクラスだけが、何だか、がちゃがちゃとうるさい。そんな劣等感をもちやすい。自分の周りの教師がすばらしく見えるのが若い頃である。
 しかし、実はどのベテラン教師も、苦労を重ねてきたのだ。おおっぴらに話せない過去の一つや二つはある。
 学級崩壊をしたとか、いじめで困ったとか、保護者のクレームに悩まされたとか、様々な困難に出会って、それを乗り越えて今のすばらしい姿があるのだ。
 だからこそ、今、必死になって学級経営をして、良い学級になっているのである。
 それを若い教師は
「力を抜いて学級経営をしているのに、すばらしい学級ができている。自分には力がないのだろうか」
「自分も余裕ある振りをしよう。努力しなくてもいいのかもしれない」
と、勘違いする。偽りの余裕でごまかそうとする。
 ベテランを見て真似すべきは、余裕の裏に隠れている必死さである。
 若い教師は、もっと貧欲に学び、もっと汗を流して行動した方がいい。
 今、しなくてはならないことに全力投球している教師が、子どもからも保護者からも慕われる実力派の教師になっていくのである。
 いかなるプロと言われる教師も、ある日、突然プロ教師になったわけではない。自分の理想を必死で追い続けようとする教師だけが、プロ教師になるのである。
 私は、そういう意味で、プロといわれる教師が歩んできたプロセスこそ、注目すべきだと考えていた。
 そして、めざすべきプロ教師が、自分と同じ年齢のときに、どのようなことをしていたのかを知るように努めてきた。
 そして、同じ年齢のときの実践や教育への情熱に負けないよう、意識して行動するように努めた。
(
大前暁政:1977年生まれ、岡山市立小学校教師を経て、京都文教大学の准教授(理科教育)。理科の授業研究が認められ「ソニー子ども科学教育プログラム」に入賞)

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教師が新たな自分に出会う喜びを得るには、どのようにすればよいか

 教育がむずかしくなったと言われます。「子どもが変わった」「親が変わった」「学級崩壊」と思い当たることは、いくつもあります。
 確かに状況の深刻さは予想以上であると、私も危機感を強めています。しかし、私はこんなときだからこそ教育はやりがいのある仕事だと思いたいのです。
 私は悪戦苦闘という言葉が好きです。子どもは教師にとって、思うようにならない存在です。生きて動いています。泣いたり笑ったり、喜んだり悩んだりしています。日々その連続です。
 そんな中で子どもを人間として自立させていく営みは、まさに悪戦苦闘の日々です。「どんなことが子どもにとってよいのか」と問い続ける教師の姿です。
 それは教師自身が自らの在り方を問い直し「自分を変えようとする営み」を抜きにして語れません。
 そうした実践の中で私たちは、あるときフッと、またあるときは徐々に「教師としての新たな自分にめざめていく」のではないでしょうか。
 それが「教師としてのやりがい」につながっていったときは、教師冥利に尽きます。
 私も校長として三校の小学校に勤務してきました。まさに悪戦苦闘であり、試行錯誤の連続でありました。具体的に取り組んできたことは
(1)
教職員と、学校経営や授業実践、学級経営などを雑談的に語り合っている。
(2)
教室訪問を気軽に行き合ったりして、教師同士が互いにひらかれた実践活動を心がけることのできる職場づくりをする。
(3)
職員室だより「あじさい」を発行し、職員の真摯な実践活動に私自身が学んだことを掲載し、互いに「学び合う教師」として精進する。 
ということです。
 
「明るく元気に実践し、学び合う教師」は、私の憧れです。私はこれまで、そんな教師たちとたくさん出会ってきました。
 厳しさの中で挑戦し、困難から逃げることなく、楽しむかのごとく実践する多くの教師との出会いでした。
 子どもを主人公にした学校づくりに汗を流し、実践してきた何人もの教師の姿を思い浮かべることができます。
 また、自らを変えようと、ひたむきに実践して、教師としての新たな自分に出会い、めざめていった教師もいます。
 学校は零細企業だと私は思います。事務職員を含めた教師一人ひとりが、その学校の子どもたちを育てる当事者なのだという意識こそ大切です。いまこそ、学び合う教師たちでなくてはならいと私は思います。
 教師は、まず同じ学校現場にいる仲間の教師に学びたいものです。仲間と学び合ってこそ、その学校を活性化させ、教師の資質を磨き、めざめさせていくのだと確信するからです。
 しかし、それはキリキリと胃が痛む思いで、実践することではありません。むしろ、明るく元気に「まっ、いいか」と肩の力を抜き、取り組む中で「新たな自分に出会った喜び」「熱中して燃える、やりがい」を得ることができるのだと思うのです。
 私が校長として教師を見ていると苦しく、つらい思いを持った教師が多かった。そんな中で「学び合う教師集団」としての本領が発揮されていたと思う。
 
「信頼される教師になるために」「教師として情熱を燃やすことのできる自分になるために」と、先生方の努力はひたむきであったなと思います。
 そして、徐々に、またはある日突然「新たな自分」に出会い、みずみずしい感性、しなやかな姿勢、ひらかれた大きな度量を感じ取っていく教師たちであったな、と思うのです。
 学校は一枚岩の実践を大切にします。しかし、それ以上に大切なことは、一人ひとりの教師の願い、持ち味が、学校の連帯の中で生かされているかどうかだと、私は思います。 
 学校は校長のリーダーシップによって変わると言われます。
 そのリーダーシップも校長がぐいぐい引っ張っていくような経営ではなく、教職員の知恵や願い、夢やロマンを引き出し、それを学校づくり(子どもを育てる営み)に生かし実現していくものでありたいと私は念じています。
(
前田勝洋:1942年生まれ、元愛知県公立小学校校長。学び合う教師を常に意識して小中学校を学校行脚)

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手のかかる子どもと出会うことで、あなたを真の意味で教師にしてくれる

 ある年、ADHD(注意欠陥/多動性障害)の障がいをもつ子を担任した。医師は「薬の服用なしでは、教育は極めて困難」と診断した。にも関わらず薬の服用はしていなかった。こだわりがあり、嫌なことや苦手なことは絶対やろうとしない子だった。
 体育の授業を無理やりやらせるとパニックになると聞いていた私は見学することを認めた。しかし、周りの子が納得しないから、用具を倉庫から出すなど、できる範囲で手伝いを頼んだ。手伝いができたときはしっかりとほめた。
 私は高跳びの授業の基礎としてゴム跳びをやっていた。ゴム跳びなら自分にもできそうだと、やりたいと言い始めた。できたことをほめると、少し自信が出てきたようであった。
 二学期の運動会の練習のため、私は体育の時間に一学期から倒立を少しずつ行った。次々と学級の子どもたちは倒立ができるようになっていく。それを見ていて自分も頑張りたいという気持ちがでてきたのだ。
 やがて倒立ができるようになった。その小さいとも思える成功体験があったからこそ、これまで欠席していた運動会に参加する意欲が生まれた。これまで嫌なことから逃げていた子が、運動会の練習を休むことなく頑張り、運動会に参加し組体操を成功させたのである。
 強引な指導が一切通用しないという、この子を担任したとき、私の教育観はかなり変化した。
 
「教育とは、成功体験をもとにして、子どもの内なるやる気を引き出し、そして弱い自分に打ち克つように激励してやることが大切だ」ということを腹の底から学んだのである。
 問題を抱かえていた子を担任したときに、初めて教師は今までの指導法をふり返り、反省し、そして成長していくのだということを学んだのもこのときである。
 小学校高学年で低学年の計算ができない。そんな子を担任したこともある。今日できるようになったと思ったら、次の日には計算の仕方を忘れている。漢字も同じ。様々なやり方を試行錯誤しても進歩が見られない。
 そんなとき、カタカナ一つ、文字の発音一つ習得させるのに、数か月も一年かけてやる実践があるのを知った。糸賀一雄さんの障がい児の教育記録である。
 教えても教えても、また忘れてしまう子どもを前にして
 
「いかなる深渕も、一個また一個と、絶ゆる間もなく小石を投じていれば、やがては淵も平地と化すであろう」
 という言葉が印象に残った。
 ここまでの覚悟をもって教育する気概があるのかと、自分に問わざるを得なかった。
 問題を抱かえた子を目の前にして、指導を続けていく中で、今までの教育観がゆさぶられ、教師としてのあり方を根本から問い直さざるを得ないことがある。
 わずか一ミリの成長に全力を費やせるかどうか。
 手のかかる子があなたを、真の意味で教師にしてくれるのである。
(
大前暁政:1977年生まれ、岡山市立小学校教師を経て、京都文教大学の准教授(理科教育)。理科の授業研究が認められ「ソニー子ども科学教育プログラム」に入賞)

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