カテゴリー「教師の成長・研修」の記事

若い教師がプロの教師にふさわしい力と教師の心をつかむには、どうすればよいか

 教師になれば、年齢や指導力に関係なくプロの教師として振るまうことができる。
 だとすれば、プロの教師にふさわしい力量を自ら求めて身につけなければ、自分に自信が持てず、子どもたちに対して申しわけない。
 若い教師が教師の心をつかむには、どうすればよいか
1 朝の会、帰りの会
 朝の会は「一日のさわやかな出会いをつくる」ためにある。誕生日を祝えば、それだけでさわやかな出会いが生まれる。
 帰りの会は「明日も学校へ行きたいな」と、子どもに思わせるためである。「よかったこと、うれしかったこと」を発表すれば、学級の雰囲気が明るくなる。
2 叱ることを恐れるな
 人を差別したりバカにしたりすることは絶対に許さないという姿勢が担任には必要なのです。中途半端な叱り方はいけません。本気できびしく叱ります。
 長く叱らない。後に残さない。罪を憎んで人を憎まずの精神で臨みましょう。
3 ほめる
 ほめるのは技術ではありません。技術でほめてはダメ。子どもは教師が本気でほめているかどうか、見抜きます。
 おせじ、おだてではなく、ほめずにいられないようになりたいですね。
 教師が何もせずにいて「ほめるところがない」というのはプロの教師ではありません。
 教師は、ほめる場を用意するのです。例えば
「Aくん、ぞうきんを持って、先生と一緒に机の上をふいていこうね」
 こうすれば、仕事をしたAくんをほめることができますね。
「今日は、Aくんがぞうきんで机をていねいにふいてくれましたよ」
 これでわかるように、仕掛けたのは教師ですね。しかし、実行したのは子どもです。子どもは自分でやったんだと思っています。みんなに紹介されたので、うれしさと、自信を持つようになるはずです。
4 保護者との関係を密に
 子どもを理解しようと思えば、保護者を理解しなければならない。保護者の子育ての方法は子どもに反映すると思われるからである。
 教師の方が保護者に近づいていかなければならない。
(1)
参観日に自分の教育観を
 授業参観の後に懇談会がセットされているので、教師はわが教育観を述べて保護者に理解と協力をお願いすることになる。次の三点でよいだろう。
)めざす子ども像
)学級の子どもの実態
)指導の方法や手順など
 注意すべきことは、子どもの具体的な事実をもって話すようにする。子どもの実態を前面に出して自分の教育観を述べていく。
 そうすれば、保護者は、この先生はわが子を大事に思ってくれている、と受けとめる。
 見ず知らずの教師と保護者が、子どもをよくしていこうという点で、理解と協力の関係に立つことができるのである。
(2)
家庭訪問
)子どもの長所を聞く
 私は、家庭訪問は保護者に会って「子どもの長所を具体的に教えてもらう」ため、と考えている。
 つまり、インタビューする人に徹すればよい。保護者が「とりたてた長所はありません」と言っても、ねばり強く聞いていくと話してくれる。
 子どものことを話題にして保護者と教師が楽しくなっていくのである。
)健康と性格を聞く
「〇〇くんの健康や性格の問題で、担任として知っておいた方がよいと思われることがあれば、教えてください」と聞く。秘密は守らなければならない。
)保護者の願い
 保護者がわが子に何を願っているかを聞く。
(3)
学級通信で報告・連絡・相談(ほうれんそう)
 教師の思いを広く全員に伝える手段として、学級通信はますます重要になってきた。
)発刊
 計画的に発刊するようにする。
)読んで楽しくなる内容を
 子どもの生活をよく知らなければニュースが書けず学級通信を出せない。ニユースは明るく楽しいものでありたい。
)子どもたちの作品も
 全文を教師が書かなくてよい。子どもの作品を含む学級通信にすると、内容に変化が出てくる。ただし、どの子にも掲載の機会があるように配慮したい。
)学級の歴史として冊子に
 学年末にこれを冊子にまとめ、表紙をつけると、これが学級の歴史となる。
 表紙の文字やイラストをどうするかは個人にまかせると、ユニークな作品になる。
 子どもたちが自らの学びを自己評価できる具体物にもなる。
5 報告・連絡・相談(ほうれんそ)で人間関係づくりを
 子どもに何かあったときは、同僚の先生や保護者、教頭とよく報告・連絡・相談して、一人で決めないようにします。
 学校の外で研修が終わった時などは必ず管理職に報告しておきたいですね。
 報告・連絡・相談は、とても大事なことです。
6 教師の心をつかむ
 初任者は研修期間をどう過ごすかで、その後の教師生活が左右されるといっても過言ではない。
 その学びは、指導教師等から実践的な「教師の心」をつかむことであると私は考えている。
 学校では思いもよらないことが起きる。それに対応できるマニュアルを求めても、それは無理というもの。だったらどうするか。
「教師は一人ひとりの子どものためにある」
という原点に立ち返り、一つ一つ自分で判断して問題に臨む以外に方法はあるまい。
 その原点を、私はあえて「教師の心」として表現したのである。
(
倉田侃司:1938年広島生まれ、広島大学附属小学校教師を経て広島文教女子大学教授、広島経済大学教授を歴任した
)

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授業の名人に必要なのは才能やセンスではない、ではどうすれば授業名人になれるか

 授業の名人と呼ばれる教師はたくさんいます。しかし、最初から上手だったはずはありません。では何が、名人の域に達するか、凡庸な水準に留まるかを分けるのでしょうか。
 実際、新任早々、独創的な授業を生み出す教師、動物的な勘で子どもの気持ちをつかんで放さない教師がいます。しかし、そういった教師はごくごく少数です。
 ごく普通の才能なりセンスしか持ち合わせない教師が、そこそこの名人になることは十分可能であると思います。
 私は仕事上、数多くの授業の名人に接してきました。センスがよい、才能を感じさせる教師も少なくありません。しかし、それだけに頼って名人になれたわけではありません。
 それどころか、若いときは、むしろ不器用な方であった。子どもたちとの関係もギクシャクして困ったという教師も少なくなかった。
 私も授業が上手ではなかった。どうすれば少しでもいい授業ができるようになるのかを知りたくて、名人と呼ばれる教師を訪ね、全国を歩き回りました。
いったい何が決めてになったのでしょうか。
 各人各様なのですが、授業の上達のために「継続して取り組んできたことがある」ということです。例えば
(1)
毎日、クラスの子一人ひとりに何をしてやれたか考える
 初任校の校長から
「放課後、教卓のところに座り、子どものいない机に一つひとつ目を落としては、今日はこの子はどうしていたか、自分はこの子に今日何をしてやれたかを考えなさい」 
と教えられたといいます。
 それを20年間、授業のある日は1日も欠かさず実行した。
 最初のうちは、思い出せない子がいるものです。申し訳ないという気持ちになります。明日は、まずその子に目を向けようとします。
 すると、これまで見過ごしていたその子ならではのよさ、健気さ、悲しみといったものが、ひたひたと感じられてきます。
 そうして、自分の何が問題か、どこをどうすればよいかも見えてくる。そのことを懸命に思案していく毎日になります。
(2)
教材を集める
 授業づくりに悩んだあげく、教材の重要さに目覚め、毎日、教材の材料となるスクラップづくりに励みました。
 新聞や雑誌を丁寧にながめ、資料やパンフレットなどを集め、おもしろそうなものを、切り抜いてノートに張り付け、いつでも見られるようにしておくのです。
 実際に教材として使えるものは少なく、何年後になるものもあります。
 そうやって、日頃からネタ集めをしておくからこそ、いざというときにいい着想が浮かび、ぴったりの教材を子どもに手渡すことができるのです。
 目を見張るような、すばらしい教材と、それに支えられた授業が一日にして成るものではないという、当たり前の事実を、私たちは思い知らされるのです。
(3)
授業記録を吟味する
 先輩にすすめられて、折りに触れて自分の授業を録音し、授業記録を丹念に吟味してきました。
 取り組んだことのある教師はわかると思いますが、指示が不適切であるとか、説明がわかりにくいといったことに気づくのは序の口です。
 子どもの発言の意図を誤解して板書した時など、すまないことをしたと謝りたい気分になるものです。
 授業中のあの子の発言は、このように受け取ったが、今思い返してみると、違っていたのではないか、という気づきが生じることがあります。
 教師はどうしても、自分が思い描いた流れを中心に据え、個々の子どもの発言を受け止めがちです。子どもの発言をもう一度、吟味する必要があります。
 何が問題であり、どうすればよいかも、突き刺さるほど、感じるものです。
 だからこそ、二度とそのようなことがないようにと、痛みを力に変えながら、謙虚な気持ちで研鑽を積むしかありません。
 あなたが教師であるなら、このような取り組みを毎日続ければ、確実に教師としての力量を向上させていけるに違いないと悟るでしょう。
 名人の域に達するか、平凡な水準に留まるかを分けるのは、たった一つでもいいから、こういった着実に成長できる取り組みを見出し、迷うことなく誠実に継続してきたか否かです。
「継続は力なり」です。それ以外の道はありません。その道を淡々と歩みさえすれば、誰でもそこそこの名人になれると、私は確信します。
 名人と呼ばれる教師たちに何か特別な秘密など一切ありません。
(
奈須正裕:1961年徳島県生まれ、国立教育研究所室長、立教大学教授などを経て上智大学教授。専門は学校教育学 教育方法学等
)

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若い教師が信頼され魅力的な教師になるには、どうすればよいか

 多くの教師は、社会常識を誰からも教わることなく、いきなり「先生」としての立場に身を置くことになる。
 それが十年も続くと、限られた学校という世界だけで世の中をとらえ、価値判断のすべてとなる。
 教師は社会勉強が求められる。世間では人に挨拶するのは当然である。挨拶をあまりしない教師がいる。生徒は口にださないが「生徒に『挨拶しろ』と言う、あの先生こそ、挨拶しなければならないのに」と心の中で思っている。
 人に挨拶をしないというのは「あなたに忠誠を誓わない」というシグナルである。組織内は死を意味する。
 社会常識は名刺の出し方、部屋に入る順番、上座下座などいろいろある。それを教師にしっかり教えてくれる制度はない。歳を取っても非常識の見本のような教師もいる。
 非常識に気づいて行いを改められた人は、確実に一歩成長したといえる。
 私はある人から「やる気と本気の違い、わかりますか?」と質問された。私は答えられなかった。その人は
「やる気には、見返りを期待を期待する心があるのですよ。それが本気となると、見返りを期待するという心が消えて、使命感に変わっているのですよ」
「本気の人の前に立つと、その迫力に圧倒されます」
 果して私は、これまで「本気」になったことがあるのだろうか。使命感があるのかを考えた。私の本気度がまだまだ甘いことに気づかされた。
 仕事を通じて人は成長する。どれぐらい夢中になれるのか、どれくらい情熱を傾けられるのか、現実を生きていく中で少しずつ人は育まれていく。
 泥臭い人生の中にだけ「やりがい」という輝く原石が転がっている。好奇心を失うことなく充実した人生を実現したい。
 自らの強烈な願望と実現しようとする強固な意志が人生を成功へと導く。
 日々、突発的にいろんなことが起きる。それらを冷静に判断しながら、優先順位を誤らぬよう課題の解決をはかっていくことが大切である。
 課題を解決しようとするときは、事実を確認し、メモを取って残しておくとよい。
 課題を解決する場合、組織で動くのが基本である。これを怠ると大きなミスにつながるし、ミスをしても誰も助けてくれない。
 しつこいぐらいに同僚や管理職に報告・連絡・相談(報連相)をし続けることが求められる。そこから信頼が生まれる。逆にそうしなければ信頼は得られないということだ。
 信頼は日常の行いの積み重ねから生まれる。誰に対しても誠実な姿勢を貫くことが大切である。あなたが信頼されるか、されないかは、関係者の人々の総意で、決まっていく。
 仕事で成功する近道は、自分の得手は何かということに早く気づき、それをさらに伸ばすことである。興味関心のあるテーマについて、本を読んだり、人から話を聞いたりして高質な情報を手に入れるよう努めよう。
 それを十年ぐらい継続する中で、少しずつ自分自身の適性が形成されてくる。あなただけのスペシャルな力を身につけよう。
 自分自身の日常の行動や意識を改革するためには、気づいたことをメモに取り、その日のうちにまとめて振り返り、実践を積み重ねないといけない。
 分ったと出来るは全然違う。出来るまで何度も何度も振り返りながら、実践を繰り返すしかない。
 毎日の振り返りと実践の繰りかえしが「出来る」状態にまで自らを高める唯一の方法である。
 仕事を通じて学び、自己の成長が実感できるようとことん取り組み、魅力ある教師になろう。
(
江口宗茂:1959年兵庫県生まれ、学習塾を20数年、組織運営を経て、教育コンサルティング業務会社設立、2011年~2016年私学の中・高等学校の学校長歴任の後、教育コンサルティング業務再開)

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私は教師として「プロならこの場面、どう指導するのだろうか」と考えるようにしている

 私は「プロならこの場面、どう指導するのだろうか」と、常々、考えるようにしている。
 例えば、子どもを叱る場面。プロならば、子どもによって言う言葉を変えるだろう。その子の心に響く言葉を言うように努めるだろう。
 教師が指導をする前に、一呼吸置いてみる。そして、プロならば、どう指導するかを考えてみるのだ。
 私の場合は、周りに実力のある教師がいたので、その人ならどうするかを考えるようにしていた。
 そして、行動した後で、自分の指導を振り返るようにしていた。
 例えば「あの場面で、あとひと工夫、何かできなかっただろうか」と、放課後に、一人で反省していた。
 そして、今日一日の行動を日誌に記録していった。今日の指導の姿をつづっていた。
 日誌には「あの場面は、別の行動のほうがよかったのではないか」という自己反省の記録も多く残されている。
 新任の教師は、つい感情的に指導したり、行き当たりばったりで指導したり、といったこともあるだろう。
 しかし「プロならどう行動するだろうか」と考えれば、それだけでも進歩である。プロの言動を考え、今の自分よりも少し上の行動をめざす。
 こうすれば、前よりも少しましな指導ができるようになるだろう。
 こうしたことを繰り返して、プロらしい指導がだんだんと板についてくるのだと考えている。
 若い教師は、他のクラスの学級運営が気になるものだ。すばらしい学級運営をしているように見えるものだ。
 若い教師は、自分のクラスだけが、何だか、がちゃがちゃとうるさい。そんな劣等感をもちやすい。自分の周りの教師がすばらしく見えるのが若い頃である。
 しかし、実はどのベテラン教師も、苦労を重ねてきたのだ。おおっぴらに話せない過去の一つや二つはある。
 学級崩壊をしたとか、いじめで困ったとか、保護者のクレームに悩まされたとか、様々な困難に出会って、それを乗り越えて今のすばらしい姿があるのだ。
 だからこそ、今、必死になって学級経営をして、良い学級になっているのである。
 それを若い教師は
「力を抜いて学級経営をしているのに、すばらしい学級ができている。自分には力がないのだろうか」
「自分も余裕ある振りをしよう。努力しなくてもいいのかもしれない」
と、勘違いする。偽りの余裕でごまかそうとする。
 ベテランを見て真似すべきは、余裕の裏に隠れている必死さである。
 若い教師は、もっと貧欲に学び、もっと汗を流して行動した方がいい。
 今、しなくてはならないことに全力投球している教師が、子どもからも保護者からも慕われる実力派の教師になっていくのである。
 いかなるプロと言われる教師も、ある日、突然プロ教師になったわけではない。自分の理想を必死で追い続けようとする教師だけが、プロ教師になるのである。
 私は、そういう意味で、プロといわれる教師が歩んできたプロセスこそ、注目すべきだと考えていた。
 そして、めざすべきプロ教師が、自分と同じ年齢のときに、どのようなことをしていたのかを知るように努めてきた。
 そして、同じ年齢のときの実践や教育への情熱に負けないよう、意識して行動するように努めた。
(
大前暁政:1977年生まれ、岡山市立小学校教師を経て、京都文教大学の准教授(理科教育)。理科の授業研究が認められ「ソニー子ども科学教育プログラム」に入賞)

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教師が新たな自分に出会う喜びを得るには、どのようにすればよいか

 教育がむずかしくなったと言われます。「子どもが変わった」「親が変わった」「学級崩壊」と思い当たることは、いくつもあります。
 確かに状況の深刻さは予想以上であると、私も危機感を強めています。しかし、私はこんなときだからこそ教育はやりがいのある仕事だと思いたいのです。
 私は悪戦苦闘という言葉が好きです。子どもは教師にとって、思うようにならない存在です。生きて動いています。泣いたり笑ったり、喜んだり悩んだりしています。日々その連続です。
 そんな中で子どもを人間として自立させていく営みは、まさに悪戦苦闘の日々です。「どんなことが子どもにとってよいのか」と問い続ける教師の姿です。
 それは教師自身が自らの在り方を問い直し「自分を変えようとする営み」を抜きにして語れません。
 そうした実践の中で私たちは、あるときフッと、またあるときは徐々に「教師としての新たな自分にめざめていく」のではないでしょうか。
 それが「教師としてのやりがい」につながっていったときは、教師冥利に尽きます。
 私も校長として三校の小学校に勤務してきました。まさに悪戦苦闘であり、試行錯誤の連続でありました。具体的に取り組んできたことは
(1)
教職員と、学校経営や授業実践、学級経営などを雑談的に語り合っている。
(2)
教室訪問を気軽に行き合ったりして、教師同士が互いにひらかれた実践活動を心がけることのできる職場づくりをする。
(3)
職員室だより「あじさい」を発行し、職員の真摯な実践活動に私自身が学んだことを掲載し、互いに「学び合う教師」として精進する。 
ということです。
 
「明るく元気に実践し、学び合う教師」は、私の憧れです。私はこれまで、そんな教師たちとたくさん出会ってきました。
 厳しさの中で挑戦し、困難から逃げることなく、楽しむかのごとく実践する多くの教師との出会いでした。
 子どもを主人公にした学校づくりに汗を流し、実践してきた何人もの教師の姿を思い浮かべることができます。
 また、自らを変えようと、ひたむきに実践して、教師としての新たな自分に出会い、めざめていった教師もいます。
 学校は零細企業だと私は思います。事務職員を含めた教師一人ひとりが、その学校の子どもたちを育てる当事者なのだという意識こそ大切です。いまこそ、学び合う教師たちでなくてはならいと私は思います。
 教師は、まず同じ学校現場にいる仲間の教師に学びたいものです。仲間と学び合ってこそ、その学校を活性化させ、教師の資質を磨き、めざめさせていくのだと確信するからです。
 しかし、それはキリキリと胃が痛む思いで、実践することではありません。むしろ、明るく元気に「まっ、いいか」と肩の力を抜き、取り組む中で「新たな自分に出会った喜び」「熱中して燃える、やりがい」を得ることができるのだと思うのです。
 私が校長として教師を見ていると苦しく、つらい思いを持った教師が多かった。そんな中で「学び合う教師集団」としての本領が発揮されていたと思う。
 
「信頼される教師になるために」「教師として情熱を燃やすことのできる自分になるために」と、先生方の努力はひたむきであったなと思います。
 そして、徐々に、またはある日突然「新たな自分」に出会い、みずみずしい感性、しなやかな姿勢、ひらかれた大きな度量を感じ取っていく教師たちであったな、と思うのです。
 学校は一枚岩の実践を大切にします。しかし、それ以上に大切なことは、一人ひとりの教師の願い、持ち味が、学校の連帯の中で生かされているかどうかだと、私は思います。 
 学校は校長のリーダーシップによって変わると言われます。
 そのリーダーシップも校長がぐいぐい引っ張っていくような経営ではなく、教職員の知恵や願い、夢やロマンを引き出し、それを学校づくり(子どもを育てる営み)に生かし実現していくものでありたいと私は念じています。
(
前田勝洋:1942年生まれ、元愛知県公立小学校校長。学び合う教師を常に意識して小中学校を学校行脚)

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手のかかる子どもと出会うことで、あなたを真の意味で教師にしてくれる

 ある年、ADHD(注意欠陥/多動性障害)の障がいをもつ子を担任した。医師は「薬の服用なしでは、教育は極めて困難」と診断した。にも関わらず薬の服用はしていなかった。こだわりがあり、嫌なことや苦手なことは絶対やろうとしない子だった。
 体育の授業を無理やりやらせるとパニックになると聞いていた私は見学することを認めた。しかし、周りの子が納得しないから、用具を倉庫から出すなど、できる範囲で手伝いを頼んだ。手伝いができたときはしっかりとほめた。
 私は高跳びの授業の基礎としてゴム跳びをやっていた。ゴム跳びなら自分にもできそうだと、やりたいと言い始めた。できたことをほめると、少し自信が出てきたようであった。
 二学期の運動会の練習のため、私は体育の時間に一学期から倒立を少しずつ行った。次々と学級の子どもたちは倒立ができるようになっていく。それを見ていて自分も頑張りたいという気持ちがでてきたのだ。
 やがて倒立ができるようになった。その小さいとも思える成功体験があったからこそ、これまで欠席していた運動会に参加する意欲が生まれた。これまで嫌なことから逃げていた子が、運動会の練習を休むことなく頑張り、運動会に参加し組体操を成功させたのである。
 強引な指導が一切通用しないという、この子を担任したとき、私の教育観はかなり変化した。
 
「教育とは、成功体験をもとにして、子どもの内なるやる気を引き出し、そして弱い自分に打ち克つように激励してやることが大切だ」ということを腹の底から学んだのである。
 問題を抱かえていた子を担任したときに、初めて教師は今までの指導法をふり返り、反省し、そして成長していくのだということを学んだのもこのときである。
 小学校高学年で低学年の計算ができない。そんな子を担任したこともある。今日できるようになったと思ったら、次の日には計算の仕方を忘れている。漢字も同じ。様々なやり方を試行錯誤しても進歩が見られない。
 そんなとき、カタカナ一つ、文字の発音一つ習得させるのに、数か月も一年かけてやる実践があるのを知った。糸賀一雄さんの障がい児の教育記録である。
 教えても教えても、また忘れてしまう子どもを前にして
 
「いかなる深渕も、一個また一個と、絶ゆる間もなく小石を投じていれば、やがては淵も平地と化すであろう」
 という言葉が印象に残った。
 ここまでの覚悟をもって教育する気概があるのかと、自分に問わざるを得なかった。
 問題を抱かえた子を目の前にして、指導を続けていく中で、今までの教育観がゆさぶられ、教師としてのあり方を根本から問い直さざるを得ないことがある。
 わずか一ミリの成長に全力を費やせるかどうか。
 手のかかる子があなたを、真の意味で教師にしてくれるのである。
(
大前暁政:1977年生まれ、岡山市立小学校教師を経て、京都文教大学の准教授(理科教育)。理科の授業研究が認められ「ソニー子ども科学教育プログラム」に入賞)

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生徒指導のうまい教師から、指導方法を学ぶにはどのようにすればよいのでしょうか

 私が今まで関わってきた教師の中で、子どもたちとの関わりが素晴らしく、常に慕われている人がいました。
 その教師の話す言葉に、子どもたちは納得し、すっと心に入っていく様子を何度も見てきました。
 私は、なぜその教師は指導がうまいのかをよく見て、真似をするようになりました。
「いつも笑顔だな」「メリハリがあるな」
など、気づいたことを自分でも実践してみました。
 もちろん、私がその教師になることはできません。しかし、指導がうまい教師のよさをたくさん見つけようとすることで、少しずつですが、自分なりに生徒指導の仕方が身についてくると思います。
 若い教師は、ぜひ、指導がうまいと感じる教師の姿を見て、よさをたくさん見つけて、実践するとよいでしょう。それが上達への一歩になると思います。
 まずは恥ずかしがらずに、真似してやってみることです。声のかけ方や取り組みなど、やってみると子どもの反応が劇的に変わることがあります。
 やってみると、うまくいったり、いかなかったりして、やってみたからこその発見があります。
 おそらく、真似るだけでは、子どもに迫ることは難しいと思います。やがて、真似だけではいけないと分かった時が、もう一段、階段をのぼる瞬間だと思います。
 あんなにヤンチャな子が素直に話を聴いている。落ち着きのない子が、教師の「あかんよ」というひと言でピタリとおとなしくなった、という場面を見たことがあると思います。
 その教師の経験や人柄、ふだんの口ぶりなどから、独自の指導の方法があります。その教師のキャラを生かした、個々の教師にしかできない指導があるのです。
 その教師の指導を見せてもらいましょう。場合によっては協力してもらって指導をします。
「先生、指導にご一緒させてもらっていいですか」
「まだまだ自分の指導に自信がないので、参考にさせてください」
と、お願いするとよいでしょう。
 その時は、ただしっと横にいるだけになるかもしれませんが、経験を積めば、いずれ若い教師に教える時がくるはずです。
(
長瀬拓也:1981年岐阜県生まれ、横浜市立・岐阜県公立小学校教師を経て岐阜県公立中学校教師。2004年に「第40回わたしの教育記録」で新採・新人賞を受賞。NPO法人「授業づくりネットワーク」理事、教育サークル「未来の扉」代表代行、『教師になるには』編集代表、クラス・マネジメント研究会代表)
(
杉本直樹:1980年大阪市生まれ、大阪市公立小学校教師。生活指導部長)


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若手教師のときに、なすべき大事なこととは、なんでしょうか

 二十歳代から三十歳代前半の段階では、授業や学級経営をそつなくこなせるようになることが目標です。
 まず、授業が柱になります。板書の仕方など授業の型を覚えること。まとまりのある学級経営ができるようになること。
 そして、生徒指導や保護者対応の基本を学ぶことです。
 学級経営で最も大切なのは、すべての子どもが安心感を得られることです。
 そのためには「人を傷つけることは、しない、言わない」「人の話を最後まで聞く」という二つのルールを徹底して守らせることから始めるのがおすすめです。
 若手教師時代のいちばんの課題は「モデルになる教師との出会い」です。
 若手教師時代のうちに「私はこんな教師になりたい」というモデルをぜひ見つけてほしい。
 私は國分康孝先生(東京都の教職員相談を長年携わった)のつぎの言葉をよく覚えています。
「教師が問題や悩みに直面したときに、立ち直ることができるか、できずに辞職していくか。大きな分かれ目になるのは、自分のモデルになる教師と出会えているかどうかだ」
 けれども、モデルにしたくなる教師との出会いはそう頻繁にあるものではありません。
 モデルにしたい教師と同じ学年でチームを組んで仕事ができれば最高です。モデルとなる人の言動を毎日目にすることができます。これが何より大きな財産になります。
 近くにモデルにしたい教師がいない場合は、ぜひいろいろな研修会に参加していただきたいと思います。
 たとえば、教科の学習に焦点を当てた授業研究会や、日本教育カウンセラー協会などが主催するカウンセリングの研修会などに出てほしいのです。
 アンテナを張り巡らせて、何か面白そうな研修会があると思ったら、どんどん足を運びましょう。
 人間は「これを学びたい」と自分で選び取って学んだものしか、ほんとうには身についていきません。
 教師が自ら、自己決定や自己選択の力を鍛えていないと、子どもたちに自己決定や自己選択の力など育つはずがありません。
 二十歳代の教師は評価を非常に気にします。周りの期待を敏感に察知し、期待に応えることができなかった場合「私はダメな人間だ」というレッテルを自分で張ってしまいがちです。
 周りの人、特に管理職にわかってもらえなければ落ち込みますし、自分のことも責めます。
 同時に「悪いのは、私のことを理解してくれない先輩の先生だ」と他罰的になるところもあります。
 そして、さらに深く落ち込み、うつになっていくという若手教師が増えています。
 
「管理職や同僚、特に先輩教師から評価されなければ」という意識が強すぎるので、こうなっていくわけです。そこには、非合理的な思い込みがあります。これを克服してほしいと思います。
 これは「自分はなぜ教師になったのか」を理解することにつながります。
「私は周囲に評価されるために教師になったわけではない。評価されなくてもかまわない。私なりの教師になればよいのだ」
というように、合理的な受けとめ方に変えていきましょう。
 自分の「なりたい教師像」を自分で選び取って、なりたい教師になっていくのです。
 私がこれまでに出会った多くの先生方のなかには「これは、ほんものの教師だ」と思える方がいました。
 そんなほんものの教師には、共通する要素があります。それは、教科の教え方や生徒指導のスキルにとどまらず、人間としての成長に真剣に取り組んでおられる、という点です。
 教師の資質として求められるのは、教育技術以上に「教師の人間としての成長」であると私は思います。
 教える側の教師に人間力がなければ子どもの人間力を育てることなどできるはずがないからです。
 教師自身が人間として成長し、真の幸福を感じていなければ、子どもが人間的に成長し、幸福な人生を歩むように支えることなどできません。
 教師が自己成長を遂げていくことで、教師自身の人生が変わります。そして、教師が変われば、子どもが変わり、学級が変わります。
(
諸富祥彦:1963年福岡県生まれ、 明治大学文学部教授。「現場教師の作戦参謀」として、抽象的ではない実際に役立つアドバイスを先生方に与えている。悩める教師を支える会代表)

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新任教師のときは、積極的に自分から動いて身近な先輩から学び、すぐに取り組むとよい、成長につながります

 私は新任教師のとき、意識して次のようなことに取り組みました。
(1)
積極的に自分から動いて、身近な先輩教師のやっていることをまねる
 身近な先輩教師から学ぶときは、自分から動くことです。
 授業が終わるたびに隣の教室へ行き、板書をチェックするなど、自分からたくさん動きました。
 例えば、放課後、テストやノートの丸つけは先輩の教室でやっていました。丸つけをしながら、自分の悩んでいることを相談したり、教室に掲示してある作品の作り方を聞いたりしていました。
(2)
先輩教師の言ったことはすぐに取り組む
 先輩教師に教えてもらったことは、すぐにやってみることが大切です。
 私はすぐに、熱心に取り組もうとしました。やる前にいろいろ考えていては、結局やらずに終わってしまいます。
 うまくいかないこともあります。それは、それでいいと思います。
 例えば、あるとき先輩と食事しているとき、先輩が
「過去に見た録画で、教師が指名しないのに、子どもたちが自分たちだけで、話し合いながら授業をしているのを見たことがあるよ」
と言いました。
 次の日、私は子どもたちに
「先生が当てなくても、どんどん話し合うクラスがあるよ。ルールは、言いたい人は立って話す。それだけらしいよ。よしやってみよう」
と言って、やってみました。あたりまえですが、大失敗。
 でも、実際やってみて、考え、本を読んで学ぶことで、この話し合いが成立するためには、何が必要なのかが少し見えてきました。そうして、そういうことを繰り返しているうちに、できるようになりました。
 失敗することの方が多いのですが、その失敗は次の成長につながります。うまくいくことばかり考えないで、まずはやってみることです。
 教師になった人の多くは、これまでの人生の中で大きな挫折が少ないと思います。それは素晴らしいことです。しかし、そのことがチャレンジへのブレーキになっていることも少なくないのかもしれません。
(3)
自分にしかできないことをする
 先輩教師のために、自分にできる事は何でもやっていくことが大切です。そうすることで、先輩教師も気持ちよくいろいろなことを教えてくれると思います。
 私は、朝、早めに出勤して職員室の掃除や先輩の机拭きを毎日していました。
 新任のときは、先輩教師にたくさん迷惑をかけています。だから、自分ができることで少しでも先輩教師の役に立とうと考えていました。
 いろいろ探してみれば、コピー機の用紙が減っていたら補充するなど、できることはたくさんありました。
(
金 大竜:1980年生まれ、大阪市立小学校教師。教育サークル「教育会」代表。日本一ハッピーな学校をつくることを夢見て、学級づくりの取り組みがメディアに取りあげられている)

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いい授業を見て、具体的な目標を創り、工夫しながら勉強する教師は必ず伸びる

 私が新採の頃は、まばゆいばかりの教師が身の回りに何人もいた。この教師たちはどんな勉強のしかたをしているか観察した。
 その結果の一つは「アンテナを高く広く張りめぐらしていた」ということである。
 その教師の机の上には、いつも見たことのない本が置かれていた。時には哲学書であり、教養書であった。小説もよく見かけた。その教師は子どもに
 
「勉強しない人は伸びない。先生も本を読んだりして一生懸命勉強しているんだよ。きみたちも先生に負けないように勉強して、立派な人になって下さいね。勉強ほど楽しいものはないからね」
と話していた。
 これに比べ私の机の上は、辞書と子どものノートだけであった。どんな本を読めばよいかわからなかったのである。私が多少、本を読むようになったのは若い頃、身の回りにいた教師の影響である。教育雑誌をいくつか購入し、広告で本をさがした。
 とにかく「情報入手のアンテナを張りめぐらせる」という感じであった。これが長年続いていた。
 では何のために本をさがし求め、情報を入手するのか。それは教材研究をするためであり、指導方法の研究をするためであり、カリキュラムを作成するためであった。
 教育大学附属小学校に入ったとき「これがプロだ」という集団に出会った。
 ある算数の専門の教師は、新刊が書店に出れば購入するという徹底ぶりであった。徹底的に読んで自分のものにし、新しい教材解釈に取り入れていた。
 研究授業のときは、いつもユニークな教材解釈を披露して見せてくれた。指導法も、新しい方法を取り入れ、自分の工夫を加味していた。しかも、その人らしさをなくすことなく。
 私は、その教師によくゆさぶられた。その教師のいわんとすることは「常識を疑ってみよ」ということであった。「あまりに常識的な解釈、ものの見方・考え方では、子どもが面白いと思わない」といいたかったようだ。
 理科の専門の教師は「毎日の授業そのものが研究だよ」と言っていた。
 あるとき、その教師のノートを見たら、左ページに授業の計画が書かれていた。右ページは白紙のままであった。「無駄なノートの使い方するな」と、その時思った。
 これは、浅はかなことであることが間もなくわかった。右ページは授業の経過や結果がぎっしりと書かれているのを見たとき、びっくりしてしまった。
 なるほど、これが「毎日の授業が研究だよ」といった意味だったのだと悟った。これは、早速まねしてやり出した。忘れないうちに休み時間に右ページを書いた。これは忙しくて大変だった。
 その理科の教師は放課後や時間のある昼休みなどに書いていた。「時間がたったら忘れてしまうのでは?」とたずねたら「忘れてしまうような授業なら、大したことはない証拠だよ。いい授業はいつまでも覚えているものだよ」と言った。私は脳天をぶんなぐられたようなショックを受けたことを、つい昨日のように思いだす。
 たくさんの授業を見て感動することも多いが「こんな授業をしてみたい」ということも結構ある。
 教師になって五年、マンネリになっていることに気づき、県外の研究会に参加した。奈良女子大学附属小学校で長岡文雄先生の授業を見た。そこには人があふれていた。教室には手づくりのポストがあった。
 授業が始まって五分もたたないうちに「これは面白い。まねをしてみたい」と思った。うわさのとおり「これぞ授業だ」という、すごい授業であった。
 その授業の指導案を見ると、学習活動は次の通りであった。
(1)
グループで作ったポストの模型について発表し、くらべ合う。
(2)
ポストで、うまく作ってあると思うところをみつけて、そのわけを話し合う。
(3)
ポストをあける郵便屋さんのまねをする。
 簡単すぎて、何をどうするのかわからなかった。ユニークな授業が展開されることなど、全く読みとれなかった。やはり、授業も、指導案も、見る人の実力ほどにしか見えないものだと後で思った。
 授業は、欠陥のあるポスト(例えば、屋根がない、投かん口の上のひさしがない、取集時刻がない、など)を使って「欠陥があると、どのように困るのか」考え合うのである。
 一般的なことを言う子どもは一人もいない。みんな体験にもとづいたものばかりで、実にユニークな発言である。
 長岡先生は「屋根なんかなくていいよ!」と、とても教師とは思えないことを言うのである。正しいことを教えるのが授業だと考えていたので、驚くばかりであった。
 教師がゆさぶるたびに、子どもがものすごい反論をする。教師の言うことに従うのが子どもだと考えていたので、これにも驚いた。
 それまで、教材は完全なものでなければと考えていた。ところが、欠陥ポストを使っての授業を見ているうちに、意味がわかってきた。
 欠陥のあるものは目につきやすい。それを発見させて、どうすれば完全なものになるか、考えさせることが、子どもの思考のすじ道からしても自然なことに気がついたのである。
 翌日、続きの授業を見た。多く子どもたちが郵便屋さんをつかまえて聞いたり、観察してきたりしていた。その観察のしかたの鋭さに舌をまいた。
 「これが本物の授業」だと思った。私に授業を求める心があったからこそ、この出会いがあったのだと思う。
 つまり、私が目ざしていたものが「具体的な形で見えた」ので「よし、こんな授業をしてみたい」ということになった。
 どんな子どもを育てればよいかも見えてきたのである。こうして、長岡文雄という一人の先人を追い続けることにしたのである。
 教師は子ども対象であるため、お山の大将になりやすい。お山の大将に共通していることは
第一に「視野が狭い」ということである。狭い世界で「自分が一番だ」と思いあがっている。
第二に「目あてのレベルが低い」ことである。大したことないのに、すごいことをやっていると勘違いしている。
第三に、周りの人々が嫌っているのに、全く気づいていないことである。
 教師は「いい授業を見る」「いい授業の話を聞く」などして情報を入手し「自分なりの、やってみたい授業のイメージを創る」とよい。目あてに近づけば、目あてのレベルを上げればよい。
 これができるかどうかが、お山の大将にならずに伸びるかどうかの分かれ目である。
 幸か不幸か、私には今も目ざしたい授業があり、それを追っている。
(
有田和正:19352014年、福岡教育大学附属小倉小学校、筑波大学付属小学校,愛知教育大学教授、東北福祉大学教授、同特任教授を歴任した。教材づくりを中心とした授業づくりを研究し、数百の教材を開発、授業の名人といわれた)


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