カテゴリー「教師の成長・研修」の記事

若手教師のときに、なすべき大事なこととは、なんでしょうか

 二十歳代から三十歳代前半の段階では、授業や学級経営をそつなくこなせるようになることが目標です。
 まず、授業が柱になります。板書の仕方など授業の型を覚えること。まとまりのある学級経営ができるようになること。
 そして、生徒指導や保護者対応の基本を学ぶことです。
 学級経営で最も大切なのは、すべての子どもが安心感を得られることです。
 そのためには「人を傷つけることは、しない、言わない」「人の話を最後まで聞く」という二つのルールを徹底して守らせることから始めるのがおすすめです。
 若手教師時代のいちばんの課題は「モデルになる教師との出会い」です。
 若手教師時代のうちに「私はこんな教師になりたい」というモデルをぜひ見つけてほしい。
 私は國分康孝先生(東京都の教職員相談を長年携わった)のつぎの言葉をよく覚えています。
「教師が問題や悩みに直面したときに、立ち直ることができるか、できずに辞職していくか。大きな分かれ目になるのは、自分のモデルになる教師と出会えているかどうかだ」
 けれども、モデルにしたくなる教師との出会いはそう頻繁にあるものではありません。
 モデルにしたい教師と同じ学年でチームを組んで仕事ができれば最高です。モデルとなる人の言動を毎日目にすることができます。これが何より大きな財産になります。
 近くにモデルにしたい教師がいない場合は、ぜひいろいろな研修会に参加していただきたいと思います。
 たとえば、教科の学習に焦点を当てた授業研究会や、日本教育カウンセラー協会などが主催するカウンセリングの研修会などに出てほしいのです。
 アンテナを張り巡らせて、何か面白そうな研修会があると思ったら、どんどん足を運びましょう。
 人間は「これを学びたい」と自分で選び取って学んだものしか、ほんとうには身についていきません。
 教師が自ら、自己決定や自己選択の力を鍛えていないと、子どもたちに自己決定や自己選択の力など育つはずがありません。
 二十歳代の教師は評価を非常に気にします。周りの期待を敏感に察知し、期待に応えることができなかった場合「私はダメな人間だ」というレッテルを自分で張ってしまいがちです。
 周りの人、特に管理職にわかってもらえなければ落ち込みますし、自分のことも責めます。
 同時に「悪いのは、私のことを理解してくれない先輩の先生だ」と他罰的になるところもあります。
 そして、さらに深く落ち込み、うつになっていくという若手教師が増えています。
 
「管理職や同僚、特に先輩教師から評価されなければ」という意識が強すぎるので、こうなっていくわけです。そこには、非合理的な思い込みがあります。これを克服してほしいと思います。
 これは「自分はなぜ教師になったのか」を理解することにつながります。
「私は周囲に評価されるために教師になったわけではない。評価されなくてもかまわない。私なりの教師になればよいのだ」
というように、合理的な受けとめ方に変えていきましょう。
 自分の「なりたい教師像」を自分で選び取って、なりたい教師になっていくのです。
 私がこれまでに出会った多くの先生方のなかには「これは、ほんものの教師だ」と思える方がいました。
 そんなほんものの教師には、共通する要素があります。それは、教科の教え方や生徒指導のスキルにとどまらず、人間としての成長に真剣に取り組んでおられる、という点です。
 教師の資質として求められるのは、教育技術以上に「教師の人間としての成長」であると私は思います。
 教える側の教師に人間力がなければ子どもの人間力を育てることなどできるはずがないからです。
 教師自身が人間として成長し、真の幸福を感じていなければ、子どもが人間的に成長し、幸福な人生を歩むように支えることなどできません。
 教師が自己成長を遂げていくことで、教師自身の人生が変わります。そして、教師が変われば、子どもが変わり、学級が変わります。
(
諸富祥彦:1963年福岡県生まれ、 明治大学文学部教授。「現場教師の作戦参謀」として、抽象的ではない実際に役立つアドバイスを先生方に与えている。悩める教師を支える会代表)

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新任教師のときは、積極的に自分から動いて身近な先輩から学び、すぐに取り組むとよい、成長につながります

 私は新任教師のとき、意識して次のようなことに取り組みました。
(1)
積極的に自分から動いて、身近な先輩教師のやっていることをまねる
 身近な先輩教師から学ぶときは、自分から動くことです。
 授業が終わるたびに隣の教室へ行き、板書をチェックするなど、自分からたくさん動きました。
 例えば、放課後、テストやノートの丸つけは先輩の教室でやっていました。丸つけをしながら、自分の悩んでいることを相談したり、教室に掲示してある作品の作り方を聞いたりしていました。
(2)
先輩教師の言ったことはすぐに取り組む
 先輩教師に教えてもらったことは、すぐにやってみることが大切です。
 私はすぐに、熱心に取り組もうとしました。やる前にいろいろ考えていては、結局やらずに終わってしまいます。
 うまくいかないこともあります。それは、それでいいと思います。
 例えば、あるとき先輩と食事しているとき、先輩が
「過去に見た録画で、教師が指名しないのに、子どもたちが自分たちだけで、話し合いながら授業をしているのを見たことがあるよ」
と言いました。
 次の日、私は子どもたちに
「先生が当てなくても、どんどん話し合うクラスがあるよ。ルールは、言いたい人は立って話す。それだけらしいよ。よしやってみよう」
と言って、やってみました。あたりまえですが、大失敗。
 でも、実際やってみて、考え、本を読んで学ぶことで、この話し合いが成立するためには、何が必要なのかが少し見えてきました。そうして、そういうことを繰り返しているうちに、できるようになりました。
 失敗することの方が多いのですが、その失敗は次の成長につながります。うまくいくことばかり考えないで、まずはやってみることです。
 教師になった人の多くは、これまでの人生の中で大きな挫折が少ないと思います。それは素晴らしいことです。しかし、そのことがチャレンジへのブレーキになっていることも少なくないのかもしれません。
(3)
自分にしかできないことをする
 先輩教師のために、自分にできる事は何でもやっていくことが大切です。そうすることで、先輩教師も気持ちよくいろいろなことを教えてくれると思います。
 私は、朝、早めに出勤して職員室の掃除や先輩の机拭きを毎日していました。
 新任のときは、先輩教師にたくさん迷惑をかけています。だから、自分ができることで少しでも先輩教師の役に立とうと考えていました。
 いろいろ探してみれば、コピー機の用紙が減っていたら補充するなど、できることはたくさんありました。
(
金 大竜:1980年生まれ、大阪市立小学校教師。教育サークル「教育会」代表。日本一ハッピーな学校をつくることを夢見て、学級づくりの取り組みがメディアに取りあげられている)

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いい授業を見て、具体的な目標を創り、工夫しながら勉強する教師は必ず伸びる

 私が新採の頃は、まばゆいばかりの教師が身の回りに何人もいた。この教師たちはどんな勉強のしかたをしているか観察した。
 その結果の一つは「アンテナを高く広く張りめぐらしていた」ということである。
 その教師の机の上には、いつも見たことのない本が置かれていた。時には哲学書であり、教養書であった。小説もよく見かけた。その教師は子どもに
 
「勉強しない人は伸びない。先生も本を読んだりして一生懸命勉強しているんだよ。きみたちも先生に負けないように勉強して、立派な人になって下さいね。勉強ほど楽しいものはないからね」
と話していた。
 これに比べ私の机の上は、辞書と子どものノートだけであった。どんな本を読めばよいかわからなかったのである。私が多少、本を読むようになったのは若い頃、身の回りにいた教師の影響である。教育雑誌をいくつか購入し、広告で本をさがした。
 とにかく「情報入手のアンテナを張りめぐらせる」という感じであった。これが長年続いていた。
 では何のために本をさがし求め、情報を入手するのか。それは教材研究をするためであり、指導方法の研究をするためであり、カリキュラムを作成するためであった。
 教育大学附属小学校に入ったとき「これがプロだ」という集団に出会った。
 ある算数の専門の教師は、新刊が書店に出れば購入するという徹底ぶりであった。徹底的に読んで自分のものにし、新しい教材解釈に取り入れていた。
 研究授業のときは、いつもユニークな教材解釈を披露して見せてくれた。指導法も、新しい方法を取り入れ、自分の工夫を加味していた。しかも、その人らしさをなくすことなく。
 私は、その教師によくゆさぶられた。その教師のいわんとすることは「常識を疑ってみよ」ということであった。「あまりに常識的な解釈、ものの見方・考え方では、子どもが面白いと思わない」といいたかったようだ。
 理科の専門の教師は「毎日の授業そのものが研究だよ」と言っていた。
 あるとき、その教師のノートを見たら、左ページに授業の計画が書かれていた。右ページは白紙のままであった。「無駄なノートの使い方するな」と、その時思った。
 これは、浅はかなことであることが間もなくわかった。右ページは授業の経過や結果がぎっしりと書かれているのを見たとき、びっくりしてしまった。
 なるほど、これが「毎日の授業が研究だよ」といった意味だったのだと悟った。これは、早速まねしてやり出した。忘れないうちに休み時間に右ページを書いた。これは忙しくて大変だった。
 その理科の教師は放課後や時間のある昼休みなどに書いていた。「時間がたったら忘れてしまうのでは?」とたずねたら「忘れてしまうような授業なら、大したことはない証拠だよ。いい授業はいつまでも覚えているものだよ」と言った。私は脳天をぶんなぐられたようなショックを受けたことを、つい昨日のように思いだす。
 たくさんの授業を見て感動することも多いが「こんな授業をしてみたい」ということも結構ある。
 教師になって五年、マンネリになっていることに気づき、県外の研究会に参加した。奈良女子大学附属小学校で長岡文雄先生の授業を見た。そこには人があふれていた。教室には手づくりのポストがあった。
 授業が始まって五分もたたないうちに「これは面白い。まねをしてみたい」と思った。うわさのとおり「これぞ授業だ」という、すごい授業であった。
 その授業の指導案を見ると、学習活動は次の通りであった。
(1)
グループで作ったポストの模型について発表し、くらべ合う。
(2)
ポストで、うまく作ってあると思うところをみつけて、そのわけを話し合う。
(3)
ポストをあける郵便屋さんのまねをする。
 簡単すぎて、何をどうするのかわからなかった。ユニークな授業が展開されることなど、全く読みとれなかった。やはり、授業も、指導案も、見る人の実力ほどにしか見えないものだと後で思った。
 授業は、欠陥のあるポスト(例えば、屋根がない、投かん口の上のひさしがない、取集時刻がない、など)を使って「欠陥があると、どのように困るのか」考え合うのである。
 一般的なことを言う子どもは一人もいない。みんな体験にもとづいたものばかりで、実にユニークな発言である。
 長岡先生は「屋根なんかなくていいよ!」と、とても教師とは思えないことを言うのである。正しいことを教えるのが授業だと考えていたので、驚くばかりであった。
 教師がゆさぶるたびに、子どもがものすごい反論をする。教師の言うことに従うのが子どもだと考えていたので、これにも驚いた。
 それまで、教材は完全なものでなければと考えていた。ところが、欠陥ポストを使っての授業を見ているうちに、意味がわかってきた。
 欠陥のあるものは目につきやすい。それを発見させて、どうすれば完全なものになるか、考えさせることが、子どもの思考のすじ道からしても自然なことに気がついたのである。
 翌日、続きの授業を見た。多く子どもたちが郵便屋さんをつかまえて聞いたり、観察してきたりしていた。その観察のしかたの鋭さに舌をまいた。
 「これが本物の授業」だと思った。私に授業を求める心があったからこそ、この出会いがあったのだと思う。
 つまり、私が目ざしていたものが「具体的な形で見えた」ので「よし、こんな授業をしてみたい」ということになった。
 どんな子どもを育てればよいかも見えてきたのである。こうして、長岡文雄という一人の先人を追い続けることにしたのである。
 教師は子ども対象であるため、お山の大将になりやすい。お山の大将に共通していることは
第一に「視野が狭い」ということである。狭い世界で「自分が一番だ」と思いあがっている。
第二に「目あてのレベルが低い」ことである。大したことないのに、すごいことをやっていると勘違いしている。
第三に、周りの人々が嫌っているのに、全く気づいていないことである。
 教師は「いい授業を見る」「いい授業の話を聞く」などして情報を入手し「自分なりの、やってみたい授業のイメージを創る」とよい。目あてに近づけば、目あてのレベルを上げればよい。
 これができるかどうかが、お山の大将にならずに伸びるかどうかの分かれ目である。
 幸か不幸か、私には今も目ざしたい授業があり、それを追っている。
(
有田和正:19352014年、福岡教育大学附属小倉小学校、筑波大学付属小学校,愛知教育大学教授、東北福祉大学教授、同特任教授を歴任した。教材づくりを中心とした授業づくりを研究し、数百の教材を開発、授業の名人といわれた)


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できる教師になるにはどうすればよいか

 尊敬する師匠をもち、互いに高め合う友人をもつことは、よりよい教師になるためにはどうしても必要なことと言ってもいいでしょう。
 尊敬する人には少しでも近づきたいと思うのが自然なことですから、師匠をもてば、自分を向上させようと常に意識できます。また、研究するにしても実践するにしても共に歩んでくれる友人がいれば、相談したり批評しあったりすることができます。
 しかし、まわりを見回してみても、互いに高め合うような友人をもっている教師はあまり多くはありません。まして尊敬する師匠をもっている教師はほとんどないと言ってもいいでしょう。人を教え導くことを生涯の仕事としている教師として、これはあまりにも寂しいことではないでしょうか。
 どうしてこのようなことになってしまうのでしょうか。それは多分、多くの教師が勉強を怠っているからではないかと思います。自ら求めて本を読み、自ら求めて講座に参加すれば、多くの優れた人物や優れた実践にめぐりあうはずです。
 しかし、勉強を怠っていればこの出会いのチャンスが極端に少なくなってしまいます。当然、師と仰ぐほどの人、友と呼べるほどの人との出会いのチャンスも少なくなっていくでしょう。そして、しだいに尊敬する師とも高め合う友人もいない生活が当然と思えるようになってしまうのです。
 自ら求めて学ぶことで、よき師よき友にめぐりあい、教師人生を充実させてはいかがでしょうか。
 国語授業の名人、野口芳宏先生は、よりよい状態をめざし、常に変わり続けることを「向上的変容」という言葉で表現しています。野口先生は、教師は授業の中で子どもたちに「向上的変容」を保障しなければならないとおっしゃいます。
 教師は「向上的変容」を心掛けなければなりません。なぜなら「進みつつある教師のみ、他人を教える権利あり」と言われるからです。なぜなら、向上的に変容する素晴らしさも苦労も分かっているからです。素晴らしさが分かっていれば子どもに意欲をもたせることができます。苦労が分かっていれば子どもを励まし助けることができます。
 ところが、多くの教師は日々の仕事を片付けていくだけで精一杯になってしまい、向上的に変容しようということなど考えられなくなってしまっています。ではどうすればいいのでしょうか。
 まず、何をすればいいのかを行動レベルにまで具体化します。さらに、それらを段階的に実行できるよう並べ直します。そして、いわば流れ作業のようにそれらを順番に実行していくのです。
 それができる教師は一目置かれることになりますし、他の教師よりも一歩抜きん出ることができるのです。
(山中伸之:1958年生まれ。栃木県公立小・中学校に勤務。実感道徳研究会会長 日本群読教育の会常任委員)

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子どもへの影響は、教師が子どもを見るよりも「見られている」ことで生まれる、どうすれば信頼が得られるか

 教師という存在が昔に比べて重視されなくなってきているようです。また、先生や親の言うことを素直に聞かない子どもが増えてきているように思えます。平等、自由という視点に立てば、望ましいことなのかもしれません。しかし、子どもたちは昔に比べて幸せになっているでしょうか。
 私には、どうもそうは思えません。人の権利が人権という言葉で美化され、我がままや自分勝手が個性や自由という言葉で美化されてはいないでしょうか。個性、自由というもっともらしい言葉が一人歩きし、その陰で子どもたちが不平や不満を感じながら生きているという不幸な現実がないでしょうか。
 学級は、集団生活や社会生活の基本を学ばせる所です。権利よりも義務、平等よりも秩序、主張よりも反省、自由よりも思いやり、要求よりも施し、というような教育をすることによって、本当に幸せな社会生活が実現するはずです。
 学級担任は、一人ひとりの子どもによく目を注ぎ、その子、その子の抱かえている長所、短所をよく見極め、行き届いた指導を加えなければならないと言われます。私も、努めて一人ひとりの子どもの言動に細かい気配り、目配りをしてきたつもりです。それはすべての教師が身につけなければならない要諦であるとも申せましょう。
 しかし、教師というものは、実は「見る存在」であることよりも、「見られている存在だ」と、私には思われます。教師は子どもたちや親に「見られている」のです。実は、より多く、より強く、より熱い眼差しで、子どもや親から「見つめられている」のだと思います。
 「見られている」という教師の自覚は重要です。子どもへの影響というものは、教師が子どもたちを「見ている」ことによって生み出されることよりも、案外「みられている」ことによって生まれることの方が大きいのかもしれません。
 その意味で「学級づくり」は、つまり教師自身の「自分づくり」に他ならない、とも言えるのではないでしょうか。授業は、確かに学級づくりに支えられます。そして、その学級づくりは、帰するところ、その教師の人格、識見、人生観に支えられると思います。
 教師は自らを人間的により深め、より高めることなしに、学級づくりは深まりも、高まりもしないでしょう。「学級づくり」は、すなわち自己修業の所産でもあると思います。
 学級担任は大変忙しい。朝から晩まで、まったく休むひまなどありはしない。やらなくてはいけないことをやるだけで精いっぱい、やりたいことなどとてもやっている時間がない、というのが実情である。あまりの忙しさは、心を亡ぼしてしまう。学級担任はよほど工夫をしてゆとりと充実を期さなければならない。
 実践だけでへとへとになり、実践のあり様を吟味したり、もっと高い質の実践はできないものかというような工夫を加えたりすることを忘れると、年数を重ねても教育の質が高まっていかない。何よりも不幸なことだが、教育者としての本質的な、すばらしい楽しみ、喜びを味わうことができない。
 実践だけに埋没してしまわずに、自らの実践そのものを、絶えず吟味し、批判し、すぐれた実践者の足跡を求め、本も読み、思索もし、半歩でも、一歩でも前進し続ける教師を目指す日々は、楽しく、おもしろく、明るく、充実感に満ちている。
 そういう教師を目指すなら、何とかして時間を生み出さなければならない。仕事に追われてばかりいたのでは、自分を見つめるゆとりすら生まれはしない。
 時間を生み出すためには、改めて自分の実践をひとつひとつ見直してみることだ。その使い方が問題なのだ。とにもかくにも、「時間を生み出す」「無駄を省く」という心構えを持つことが大切である。
 こういう心構えで自らの日常を点検していけば、思いがけない無駄を発見できるに違いない。時間を大切にするから能率が上がるし、労力を大切にするから機械化が進むのである。
 何とかして、もっとうまく、もっと効果的に、もっと確かに、もっと省力化してできないものか、と考えよう。どんな小さなことでも軽んずることなく検討してみよう。そこからが向上、進歩のスタートなのだ。
(野口芳宏:1936年生まれ、元千葉県公立小学校校長、植草学園大学名誉教授。千葉県教育委員会委員長職務代理者、日本教育技術学会理事・名誉会長、授業道場野口塾等主宰)

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教師力を高めるために教師はどのような修業をすればよいか

 教師が伸びたいと思うならば、伸びる環境をつくることだ。人から与えられるのをまっていたのでは、いつできるかわからない。研究サークルをつくって、勉強する環境を自らつくるとよい。初めは二人でもよい。二人で相談し考え合い、勉強し合うことである。一人でするよりはるかに張り合いがある。
 ある教材を教材化してみようと考えたとき、こんな見方もあるのかと目を開かれる。人数が増えるともっと面白い見方をする人がいるだろう。ただし、あまり人数が多いとうまくいかない。適当な人数というものがあるだろう。サークルをつくって伸びている教師が多いことは証明されている。細々とでもよいから継続することが大切である。
 教師は感性のにぶい人が多いといわれる。私も随分に「にぶいですね」といわれてきた。日本人らしさの一つに「察する」ということがあった。この「察する」とい文化がすたれてきた。感性がにぶくなった証拠である。人間は感動するから動く。人を動かすには感動させなければならない。教師の感性が鋭くなれば、子どもの感性はまたたく間に鋭くできる。
 子どもの感性を駄目にしているのは教師ではないか。私は自分をふりかえっても自責の念にかられる。私は自分の感性をみがくために、子どもに学んできた。子どもに学ぶことで、にぶくなっている教師の感性をみがくことができる。
 「子どもの心をとらえられる教師」が求められている。子どもたちをめぐる環境が複雑になり、子どもそのものも変化してきている。「子どもの心のとらえ方」といった特別の勉強法をしなければ、とてもとらえられなくなっている。子どもの変化を的確にとらえ、これに対応できる技術と人間性をみがかなくてはならなくなっている。
 教師というのは「教えることについては熱心だが、自ら学ぶことに熱心ではない」といわれる。「進みつつある教師のみ、人を教える権利あり」ということばがあるように、常に修業を積み、伸びようとする必要がある。そうしない人は教師としての資格はないことになる。私は常に「何か学ぶべきものはないか」という目で見ている。こういう目で見るとよく見えるように思う。他人に学び、本に学んでいる。
 教師は、大きく分けて、二つの修業をしなくてはならない。一つは専門性を高めるための修業である。二つは人間性を高める修業である。これまでの教師修業は専ら専門性を高めることに重点がおかれてきた。教師の心が豊かでなくては、子どもたちの心を豊かにすることはできない。いわゆる人間性の修業が大切になってくる。
 人間性をみがくには、哲学書を読むこともよいし、小説をよむことで、人間の生き方を深めることになるし、人間性を豊かにすることになる。いろいろな職業の人と接することも人間性をみがくことになるだろう。
 一人の人間として子どもの人格を認めてつき合うことが、教師の人間性をみがくのに一番効果がある。教師修業は、「子どもと、どうつき合うか」ということが出発点である。子どもを「先生」と思ってつき合っていれば学ぶことが多い。私自身の教師生活をふりかえってみても、子どもから「ゆさぶられ、教えられ、けなされ、ほめられ」ながらやってきた。これが修業だったのである。
 教師は自分の弱いところに挑戦してみるとよい。挑戦するということは、新しい自分を創り出すということである。挑戦のない修業なんてありえない。
 子どもから「授業が面白くない」といわれ、面白くするため必死で教材開発をし、指導法を勉強した。子どもから「先生は冷たい」といわれ、あたたかい人間になるための努力をした。「先生は、黒板の字が下手で、読みにくい」といわれ、板書の練習し、書道の練習をした。公開授業も研究授業も、数えきれないくらいやった。しかし、いまだに「これで満足」という授業ができないでいる。
 考える授業、追求する授業になじまない子どもを前にして「どんな教材をもってくれば追究するのか?」と、くる日もくる日も考えた。まともな教材では、追求しそうではないので、少し変わった側面から切り込むことにした。
 まず、学校の便所の数・便器の数から切り込み、東京駅の便器の数を提示した。子どもたちは意表をつかれたらしく、追求し始めた。面白いといい始めた。これは「水道の学習」をするための導入なのである。私は数量的な追求の面白さに気づき、子どもに追究させる糸口のようなものを見つけた。
 「バスの運転手は、どこを見て運転しているか」という、発問を考えての授業をした。子どもたちが熱中し、くいついてきた。この授業のVTRも販売された。このうえなく楽しい授業であった。
(
有田和正:19352014年、筑波大学付属小学校,愛知教育大学教授、東北福祉大学教授、同特任教授を歴任した。教材づくりを中心とした授業づくりを研究し、数百の教材を開発、授業の名人といわれた)

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子どもは教師の鏡である、教師が変われば子どもも変わる

 教師が、明るく楽しい性格であれば、クラスの子どもは、いつのまにかそうなっていく。
 教師が調べることが好きで、いつも調べていると、子どももいつのまにか調べることが好きになり、よく調べるようになる。
 ユーモアのある教師のクラスでは、ユーモアを理解し、ぎすぎすしなくなっていく。
 何でも教えこみ、わからせ記憶させるような授業をしていると、子どもは考えなくなり、すぐに記憶しようとするようになる。
 じっくり資料を見せ、じっくり考えさせる授業をしていると、子どもたちはいつのまにかそうなっていく。
 善きにつけ悪しきにつけ、あまりにも自分に似てきた子どもを発見すると気味悪くなり、恐ろしくなる。やはり教師は大きな影響を与えている。
 教師が変われば、子どもも変わる。子どもが変わったなあ、と気づいたときは、教師も変わってきているのである。
 教師は、自分の変容をめざして努力しなければならない。教育技術もさることながら、人間全体で影響を与えていることを忘れてはならない。
(
有田和正:19352014年、筑波大学付属小学校,愛知教育大学教授、東北福祉大学教授、同特任教授を歴任した。教材づくりを中心とした授業づくりを研究し、数百の教材を開発、授業の名人といわれた)

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管理職や主任から学んだことが私の自己形成の契機になった

 私のモデルとなった教師像はI先生で中学・高校で理科を教わり、高校の担任をしていただきました。いつでも明るく笑い、何でもおもしろそうに話してくださいました。口ぐせは「どうせやるなら、楽しくやらなくっちゃね。損でしょ」でした。授業中の説明は、わかりやすく例えを駆使してイメージをふくらませ、生徒との体験と結びつけさせ、記憶する必要があるものには覚え易いリズムをつけて示す、というように、生き生きとしたものでした。気がつくと私もそっくりそのまま同じ話をしていることがあり、自分でおかしくなることがあります。
 私が教職についた学校のM教頭にかわいがっていただき、教師としての基本を教えてもらいました。通知文や宛名の書き方、時候の挨拶まで、毎日の仕事の中で必要なことは気がつくと、ほとんどM教頭から教えられました。教育法規の手ほどきも受けました。「これだけはぜひ持っていなさい」と言われたものに東京都教育例規集があります。日常の仕事はすべて、法規に基づいていることを改めて認識させられたものです。
 直接、教科や生徒指導にかかわる事柄でないので、M教頭との出会いがなければ身につけることができなかったかもしれないと思うと幸運であったと感謝しています。
 三度目に一年生を担任したとき、生徒に週ごとの生活計画表を作成することを始めました。実際に作成させると、家庭内のさまざまな事情がわかって、生徒一人ひとりの後ろに実に多様な人生模様を見てしまったようで、感動にも似た複雑な思いを覚えました。生徒が置かれている背景を的確につかまなければ、どのような指導もできないことを学びとりました。
 学年主任に「どんなよい実践でも、周囲の理解を得られなくては効果が期待できない」と「根回し」が必要なことを教えもらいました。いきなり会議の場で提案するのではなく、事前に自分の考えていることをそれとなく伝えてわかってもらうことの大切さを説かれました。また出席簿のつけ方から保護者会の進め方まで至れり尽くせりという具合でした。
 生活指導主任の先生には、担任の生徒の問題行動について多く相談にのっていただきました。生徒だけを見ていてはだめで、家庭、交友、学習、運動能力、興味関心等々把握して、そのうえで総合的な分析をする、という手法を教えていただきました。
 現在、私が困難に感じていることや悩みは人間関係であると言えます。教育が成り立つためには、生徒や親と教師との間が信頼関係で結ばれていることが不可欠です。最初は生徒も教師も互いに相手がどういう人間なのかさぐりあうことからはじまります。
 中には不信感の塊でどんなに心血を注意でも心を開くことのない生徒もいます。こういう生徒の親は必ずといっていいと思うほど不信感が強くて難しいのです。このような生徒には、授業中はもちろん、あらゆる機会に目をのぞき込むようにして声をかけ続けました。親には何でもいいから用件を作って電話とメモで働きかけました。
 その生徒の親と心が通じたのは父親でした。聞いてみると、きっかけは、私が「私にできるだけのことはするから遠慮なく、どんな相談でもしてください」と日頃から電話で伝えていたことからです。とにかく、対応に苦慮したときは、何でもいいから始めてみるしかないことを身をもって実感しました。
 私が教職につくことが決まったとき、父の友人の校長先生から「自分を基準にしてはいけない」と言う言葉をいただきました。私にわかることがなぜわからないのか、こんなこともできないのか、と自分を基準にしてしまうと理解できないことがあったり、判断を誤ることがあります。生徒だけでなく、保護者や教職員についても、相手は私と違う存在なのだという認識ができていないと、私のペースで進めようとしても理解はえられないし、気がついたら誰もついてきてくれなかったということになります。
 それだけに、私の意識を高め、感性を豊かにし、常に相手を意識して自らの行動を律するよう心に問いかけるようにしています。
(
榊原博子:東京都公立中学校長、世田谷区教育委員を経て清泉女子大学教授。専門は理科教育)

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笑顔は教師を変え、子どもを変える。教師が変わろうとするかしないかで教師の成長は大きく差が開いていく

 私が大切にしたいと考えていることは「教師自身が変わろうとする力」です。このことを「教師の笑顔」を例にとって考えてみます。
 教師を続けていると「いつも笑顔でいること」のむずかしさを痛感することがあります。正直に言えば、教師が毎日、笑顔でいるのはきつく、簡単なことではありません。決して笑顔で笑えないような状況に陥ることがあります。私が新任教師のころ、本当に仕事がつらく、辞めようかと思ったことが少なくありませんでした。
 「いつも笑顔でいること」を心がけるには、つらいことや苦しいことに対して意識して自分を変えていく必要があります。笑顔でいることができる状況にするということは、日常を変えるということにつながります。そのため「いつも笑顔でいること」ができるように、自分の生活を見直してみることはとても大切なことであり、それが教師として成長につながっていくと考えます。
 私は辞めようかと思ったときに、何がつらいか考えてみました。生活を一つひとつ見直していくうち、通勤時間が長いことに気がつきました。バス通勤でしたので、椅子に座ることができるバスに変えました。そこで読書をするようになりました。読書で私は様々な人に出会うことを通じて、私の表情は笑顔になり、今の私につながりました。
 私の話はちょっとしたことかもしれません。しかし、笑顔になるために毎日の生活を見直し、それを続けていくだけで実は大きな変化があります。
 少し笑ってみてください。子どもたちも笑顔の先生が好きです。子どもたちが自然と集まってくるはずです。笑顔がある日常にすることは、実は教師を変え、子どもを変える第一歩になるのです。
 変わろうとするかしないかで、教師としての成長は大きく差が開いていくのではないかと考えています。
(
長瀬拓也:1981年岐阜県生まれ、横浜市立・岐阜県公立小学校教師を経て岐阜県公立中学校教師。2004年に「第40回わたしの教育記録」で新採・新人賞を受賞。NPO法人「授業づくりネットワーク」理事、教育サークル「未来の扉」代表代行、『教師になるには』編集代表、クラス・マネジメント研究会代表)

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教師の成長は、どのようにしてなされるのでしょうか

(1) 実践による教師の成長
 教師としての成長の過程は、教職生活の中枢をなすものといえるだろう。赴任から退職にいたるまでの教師の仕事は、納得のゆく教育を求めて、日々「新たな実践に挑戦して、反省する」ことをくり返す。どのような教師であるべきかをさがしもとめ、教師であることの意味を問い直して、自分の殻から脱皮しつづける過程である。
 「もっともよく学ぶ者のみがもっともよく教えることができる」という格言は、教育の本質をいい当てているだけでなく、教師そのものの核心をもついている。
 しかしながら、教師かどのような道筋で、どのような教師へと自己形成をとげるかは、時代により学校により人により千差万別である。教師の個性と個人的経験を反映して、その成長の姿は多様であり、個性的である。
(2)
子どもの発見をきっかけに教師が成長する       
 子どもの発見をきっかけとする教師の成長がある。
 大正自由主義教育における「子どもたちを学習の主体としたときの新たな子どもの姿の発見や文化の創り手としての子どもの発見」、昭和前期の綴り方教師たちによる「子どもたちの生活実態を題材とした作文から、子どもたちの現実の発見」に代表されるように、
 「一人ひとり個性をそなえた主体」として子どもをとらえ直すことは、子どもを客体として扱ってきた近代の学校の実践に対する反省を促し、教師の信念や役割意識や使命感に転機をもたらすものとなった。
 なかでも、指導困難な子どもや不登校の子どもとの出会いは、教師にさまざまな葛藤と模索を要求するだけに、成長や挫折の大きな契機として機能している。
(3)
実践の挫折や模索をきっかけとした教師の成長  
 実践の挫折や模索をきっかけとする成長がある。
 教師は長い教職生活の中で、何度も実践の停滞を経験し、破綻と挫折の辛苦を味わう体験をする。
 実践の破綻や挫折は、教職生活においてもっとも苦しい体験である。それまでの信念や理論や方式が崩壊し、秩序だっていた世界から混沌の中に投げ込まれて依り所を失い、喪失感と孤独の中で煩悶の日々を過ごすこととなる。
 そこで経験される成長は、もはや部分的で改良的なものではありえない。自分の信念や理論や方式の根本的な変化がもとめられ、教職生活の全体にわたる構造的な変化が要求されるものとなる。
 教師たちは、このような破綻や挫折を何度も経験し、ある教師は保守的意識にとらわれて硬直し、ある教師は無力感を抱かえ込んで逃避し、また、ある教師はこれまでの通俗的な規範だけを依り所とするようになる。そして、ある教師は、その破綻や挫折をくぐって、制度化された教育に対抗しうる実践の主体となって成長していくのである。
(4)
教師相互の学びあい         
 教師としての成長は、教師相互の援助と学び合いにもある。実際、教師たちは、学校の職場や地域のサークルにおいて、学び合いのコミュニティやネットワークを網の目のように形成し、育ち合う関係を築き上げて成長している。経験の相互交流と見識の伝承のないところでは、教師は成長しえないのである。そうだとすれば、教師の成長過程は、専門家としての共同体に参加し、その周辺から中心へと年月をかけて移行する過程であるといってもよいだろう。
 無数におよぶインフォーマルなコミュニティやネットワークの存在は、わが国の教師文化のひとつの特徴である。明治以来、わが国の教師たちは、学び育ち合う同僚関係や先輩後輩関係を豊富に築き上げ、そのインフォーマルな機能によって、自律的な専門文化を形成することに努力してきた。その伝統は、危機的な状況を迎えてはいるが、現在もなお生きつづけており、制度化された研修では達成しえない機能を、学校や地域において発揮しつづけている。 
 なかでも、授業を観察し検討する校内研究会は、もっとも強力で有効な成長の機会になっている。 明治以来、同僚で授業を参観し批評し合う校内研修に多大な努力を傾注してきた。
 今ではその伝統は衰退したとはいうももの、行政主導の研修よりも、はるかに大きな機能をはたしており、教師の成長の中心的基盤となっている。 
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佐藤 学:1951年生まれ 東京大学教授を経て学習院大学教授 学校を訪問(国内外2800)し、学校現場と共に学び合う学びの改革を進めている)

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