学級の荒れたときに「これが大切ではないか」という声とは何か 坪井 祥
坪井 祥は、学級の荒れを経験した教師から「これが大切ではないか」とつぎのような声があがっていると述べています。
子どもたちの悪いところをさらりと受け流して、子どもたちのいいところをよく見る。
気になって仕方がなかったことを笑って見るぐらいのゆとりが持てたらなと思っている。
どうしようもないときは誰にでもある。
教師は何でも自分がしなければならないと思っているが、困ったら「何とかして」と言うべきだ。
しょい込まないこと。
そんなときは休んでみることだ。
そして、遊ぶ、どこかに出かけることだ。
休んでいることで子どももほっとするのではないか。
問題を抱かえているときは、ものすごく視野がせまくなる。
子どもの悪いところがすごく目について自分自身が落ち込んでくる。
そんな弱点をカバーし合えるのは学年集団だと思う。
学年担任で何ができるかということを考えた。
大変な学級の担任だけが落ち込むというのではだめだ。
状況を打開するのは、何といっても「楽天性」です。
自分が悪い、何をしてもうまくいかない、と暗く深刻な顔をして子どもたちの前に立ったら、それだけで子どもの心も暗くなります。
「そのうち何とかなる」「私一人じゃないんだ」と明るく考えることができれば、解決への糸口を見いだせるかもしれません。
教育の原動力は教師の人間性です。
あわただしさから人間性が枯渇したら問題です。
教師の生活に「ゆとり」がなくなったら、いい教育ができないのは当たり前のことです。
荒れを経験した教師に話を聞くと、驚いたことにどの教師も
「卒業後に荒れた子どもに会うと、いまは落ち着いていて、元気に声をかけてくれました」
と、いった返事がかえってきたのです。
すべての子どもがこのような状態でないにしても、多くの子どもたちにとっては「荒れ」は発達のための通過儀礼であったのかもしれないのです。
(坪井 祥:元大阪府公立小学校教師。授業研究所元専務理事)