授業で、子どもの「やる気が出ない」のは子どもの責任ではなく、教師の責任である
授業後の子どもの感想で、非常に私が注意をひかれたのは、授業や学習というのは自分がやるものだという考えが子どもにあることです。
授業の主人公は自分たちなんだという考えがあるように思えます。
「カンガルーの足は何本あるか、かわうその足は何本あるか」と問題を出す。これは教師の仕事です。
そして子どもといっしょに考えるのですが、自分たち子どもが考えるために、考える材料として問題なり事実なりを先生が出してくれる。
そして、わからないところや、自分が十分でないところを気づかせたり、新しい視点を教師が用意する。
そして、子どもたちが主体的に、授業の主人になってしまえば、時間ははやく経過する。40分の授業が10分くらいに思える。
子どもに自分で考えさせ、気づかせる。そのきっかけをつくってやることが、授業の中核になるわけです。
授業というものは、根本的には、子どもの内に何事かを起こさせる仕事なのです。
子どもの内にひとつの事件がおきる。そして子どもの内に変化が生まれる。授業は、そういう仕事ではないかと思います。
ですから、子どもの内に何事かが起きて、それがどういうふうに進行していくかということが授業の中では、非常に大きな問題であるのではないかと思うのです。
授業で教師が、子どもの発言を○×式にとらえてしまっていることが多い。
子どもの言葉の根にあるもの、そういうものこそが学習の中で、実は、非常に大きな意味をもっている。
私は、それが「ほとんど問われていないのではないか」という気がします。
だから教師本来の仕事は、授業を組織することで、一定のことを教えるということよりも、はるかに高度の教師の力量を必要とする仕事なのです。
教師に主題について、ある程度組織だった知識があり、そして、その事について自分なりの問題意識がないと、授業を組織するという仕事はできない。
教師が授業を組織することによって、子どもははじめて授業の主人公になれるのです。
ですから、子どもの「やる気がない」のは子どもの責任だ、ということは言えないんです。
子どもが授業の主体になれないのは、やっぱり教師の責任なんです。
教師が授業を組織する力が弱いから、子どもは授業の主人公になれないんです。
子どもたちは、めいめいが、バラバラにチグハグな気持ちで授業に参加している。
それでは、ほんとうの授業への集中は出てこないわけです。
子どもへの教師のはたらきかけがなければ、子どもの中に動いているものは見えない。
子どもたちの学習というものが敏感に、かつ明確にとらえられていないと、子どもの学習活動を組織して、質の高い授業をつくり出すことはできないのです。
教師からの質問に、子どもから、とっさに出てきたものは、けっして知識などといえるものではないんです。
それを吟味にかけて、根拠が明らかになったときに、はじめて知識になる。
子どもはそういうものを持っていない。ただ参考書からうつしてきたものを知識扱いにするのは、とんでもないことです。
子どもの知識の体系のなかに正しく位置づけられるまでは、ほんとうの知識などといえるものではないことを明らかにすることが、実は教師の仕事の核心なのです。
(林 竹二:1906年-1985年、教育哲学者。元宮城教育大学学長。斎藤喜博の影響を受け、全国各地の小学校を回って、対話的な授業実践を試みるなど、教育の現実にかかわる姿勢が関係者の共感を呼んだ。小学生を対象に行った授業で野生児アマラとカマラの絵を教材として提示し、人間とは何かを問うた)