カテゴリー「教育の技術」の記事

日本の学校の授業でもっとも不足し必要とされているのが、笑いでありユーモアである

 「楽しく学ぶこと」と「おもしろく教えること」は一対の行為です。子どもが学ぶ楽しさを実感できるのは、教師がおもしろく伝えたことの結果なのです。いま学級崩壊が問題になっていますが、その一番の原因は「おもしろく伝える技術」が欠けていることではないでしょうか。
 おもしろく伝える技術は、例えばスイカを食べるときは端から食べる人がいないように、教える順序は無視して、冒頭にいちばんおもしろい部分をもってくるようにします。そういう方法で子どもの関心や興味を引きつけるのです。
 「おもしろく終わる」のも、すぐれた教え方には欠かせない要素です。授業の最後に結論を示して終わるだけではありません。「今日はもう時間がないので、続きはこの次に」と「なてな?」を残して終わると、子どもたちの学ぶ意欲を刺激します。子どもたちは休み時間や家に帰って家族を巻き込んで疑問を調べようとします。だからといって、「?」で終始終わってしまってはダメです。私の経験でいうと「わかった」が7割、「はてな?」が3割で、わかる量がいつも上回っていないと、学ぶことがおもしろく感じられません。
 つまるところ教える技術の要諦は、この「わかった!」と「はてな?」を交互に連続させることにあります。そうした未知と既知のいつまでも終わらない追いかけっこが教えることであり、学ぶということなのです。
 わざと間違えることを私は授業中にときどきやりました。子どもの気持ちがダレているとき、集中力を欠いているなと思えたときに、数字の6を8と間違えて書き「先生、数字が違っているよ」などと指摘させることで、子どもの注意力を喚起させます。そうすることで、教室にオープンでくだけた空気をかもしだし、授業を少しでも楽しく、おもしろく感じさせる工夫をしていたのです。笑いは子どもを学習好きにするための潤滑油です。「授業が楽しい、おもしろい」と感じられれば、子どもの学力は自然に伸びていくからです。逆に一度も笑いがない教室は子どもにとって牢獄に等しいものでしょう。日本の学校にもっとも不足していて、必要とされているのが、笑いでありユーモアです。
 「笑いを持ち込むと教室の空気がゆるんでしまう」「笑わせたら子どもになめられる」と、笑いを敬遠する教師も少なくありません。ユーモラスな話をすれば、子どもは身を乗り出して聞くはずです。子どもたちに集中力や注意力、学ぼうというエネルギーがうまれるのです。
 むろん、いつまでも笑わせていてはダメで、次の瞬間には、そのエネルギーを学ぶほうへと仕向けていく必要がありますが、笑いを敵と位置づけるのは、あまりにも余裕のない考え方といえましょう。
 教える教師のしかつめらしい、もったいぶった態度は、子どものやる気を刺激する空気、楽しく学べる空気、はらつとできる空気は醸成できません。そんな空気を醸成するのは、教える教師の楽しく明るい、フランクな姿勢です。ユーモアや笑いは敵どころか、大いなる援軍なのです。
(
有田和正:19352014年、筑波大学付属小学校,愛知教育大学教授、東北福祉大学教授、同特任教授を歴任した。教材づくりを中心とした授業づくりを研究し、数百の教材を開発、授業の名人といわれた)

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よい教え方のマニュアルはない、教師に身体化されたセンスにある

 教師とは、実に奥の深い仕事です。
 授業の例で考えてみましょう。同じ教え方が常に通用するとはかぎりません。子どもによって、教える内容によっても「よい教え方」は異なります。
 いや「よい教え方」というようなマニュアルなど、そもそも存在しないのです。むしろ、授業のよし悪しを決めるカギは、教師の一人ひとりに身体化されたセンスにあるといっても過言ではないでしょう。
 子どものある表情や発言、行為の瞬間に、教師がどのようなふるまいをするかは、その教師のセンスが否応なく反映されます。
 教師という仕事の難しさと醍醐味は、人が人を教えるというダイナミズムが、このような一生に一度きりの「教育的瞬間」におけるユニークな出会いに支えられているという点にあるのです。
 教師のセンスというのは、やみくもにトレーニングをして身につくものではありません。
 学校が「教育的瞬間」に満ちた場所であるからこそ、教師には常に自らを振り返りつつ、目の前にいる一人ひとりの子どもの姿から豊かに学びとろうとする姿勢が求められているのではないでしょうか。
 なぜなら、子どもたちの学びに対する教師の想像力こそが、よりよい教育実践を創るための礎になるからです。
 教師が「常に学びつづける職業」とされる理由はここにあるのです。
(鹿毛雅治:1964年横浜市生まれ、東京大学客員教授を経て、慶應義塾大学教職課程センター教授。専門は、教育心理学、特に学習意欲論、小・中学校の教師と授業研究に取り組む)

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授業で「話し合い」の学習指導はどのようにすればよいか

 話し合いは最も多く使われている学習方法であるのに、最もまずいようである。話し合いで「新しい価値が生み出される」ことなど容易なことではないのである。
子どもたちの話し合いで気をつけなければならない点は、
(1)
話題が鮮明であるか。
(2)
その話題について子どもたちにズレがあり、それを埋めようとするような話し合いがなされているか。
(3)
話し合うことによって、新しい価値が生み出されているかどうか
(4)
「話し合い」と言いながら、形式的な形をふんでいるだけで、あとは教師の考えを押しつけていないか。
話し合いのときの発言のしかたも問題である。
(1)
既有の知識や経験をもとにして話題について考え、自分の考えをはっきりと述べているか。
(2)
四段落の形で発言できているかどうか。
 
例えば、社会科の授業であれば
「何という資料の」
「何ページに」
「これこれの内容が書かれている」
「だからわたしはこう思う」
という四段落の形で発言できているかどうかである。これこそ社会科的というか、根拠を明らかにして考えを述べている例である。
(3)
「わたしの考えはこうである」「わけはこれこれだからである」と述べているかどうかである。
 発言のしかたが鍛えられているかどうか、ちょっと聞いただけでわかる。(1)(2)(3)のような下じきをもってみることだ。
 子どもの意見が、教師によって、集約・焦点化されているかどうかである。こうしなければ、話し合いの意味はない。
(
有田和正:19352014年、筑波大学付属小学校,愛知教育大学教授、東北福祉大学教授、同特任教授を歴任した。教材づくりを中心とした授業づくりを研究し、数百の教材を開発、授業の名人といわれた)

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教育で最も大切なことは子どもが伸びていくのを助けること、そのために愛情と技術が必要である

 私は教育技術を過大に評価したことは一度としてない。教育という仕事の中で、技術によって解決できることは、ごく小さいものにしかすぎない。教育技術・方法によって解決できる割合は80%ぐらいとお思いだろうか。私は「七~八%」ぐらいだと思う。10%はいかない。
 では、残りの部分、教育にとって最も大切なことは何であろうか。それは「一人ひとりの子どもは自ら伸びていく力がある。教師は子どもが伸びていくのを助ける」ということなのである。
 伸びていく力を助けてやるには、一方では愛情が必要で、一方では技術が必要なのである。技術もなしに助けることなどできないのである。技術のない教師は愛情によって伸ばそうとするらしいのだが、伸びるのを助けるどころか、子どもの持っている伸びていく力を殺してしまっている場合が多い。本を読まない教師のおそろしさは、我流の方法によって、子どもの伸びていく力を摘み取ってしまうところにある。
 すぐれた教師はすぐれた教育技術を使いこなすが、しかし、それはその人の技量のすべてではない。すぐれた教師はすぐれた教育観の持ち主でもある。
 教師は尊大になってはだめだ。自分が育ててやるなどと思い上がってはだめだ。伸びていく子どもの力を助けてやるのだという謙虚さがなければならない。一人ひとりの子どもを大切にするというのは、教師が子どもを自分の好みになるようにと、あれこれ手を加え、つぼみを摘んだり、伸びようとする勢いをそいではいけない。
 授業で子どもに意見を求めると、とんでもない意見が出ることがあるが発展性のあるすばらしいものが多い。そんなとき「しょうがないなあ」と思いがちだが、私は「しめた!」と思う。常識はずれの意見が出るからこそ、授業は発展するし、深いものになっていくのである。教師に技量が足りないために発展させられないだけなのだ。
 教師は子どものことを理解しなければならない。理解するには表面のことだけ見ていてはだめなのである。子どもの裏側(内面)を見なければならない。つまり「子どもが自分自身をどう思っているかということを理解してやる」ことなのである。だから教師は鈍感ではいけない。研ぎすまされた感性を必要とする。包み込むような温かさを必要とする。
 私は子どもたちの中に入って遊んだとき、いろいろなことを教えられた。力の強い子、仲間はずれにされる子を知ることができた。クラスがまとまるのだということも知ることができた。子どもの中に入るのが大切なのは、子どもと仲間になるためだけでない。今までの見え方とちがって見えるから大切なのである。
 教師は話すのが商売だから「教師は話がうまい」と世間の人は誤解されているようだが、うまい人は少ない。教師の話は、ダラダラと長いだけでつまらないのが多い。話には、説教と語りがあって、説教できる人が多いが、語りができる人はほとんどない。有田和正氏、野口芳宏氏のように、すぐれた教師は語りがうまい。
 教師の技量は経験を積めば向上するというものではない。40歳を越えた教師は経験を積めば技量は向上すると思いたいだろうがそんなことはない。教師修業の基本は「授業の腕をあげる」ことであり、その中心は教材内容の研究と共に「子どもが動く発問・指示」を見つけることである。しかし、自分の力だけではなかなか見つけられるものではない。だから、教育の本や雑誌を読むのである。よい本なら求めるものが載っている。こういう本を読んで授業をしてみると確かに子どもは動き、今までの授業と変わる。
 新卒のときは「子どもに学ぼう」という謙虚な姿勢があるが、教師がいい気になって思い上がったとたん、技術は成長がとまってしまう。
(
向山洋一:1943年生まれ、元東京都公立小学校教師、教育技術法則化運動代表を務めてきた。教師を退職後、TOSSインターネットランドの運営に力を注いでいる)

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教育活動はその教師の資質と切り離して機能させることは難しい、あなた独自に創り出すしかない

 若い頃は、教職に何かマニュアルがあって、そのマニュアルに沿って動いていれば、なんとか生徒たちを動かせる、そんな気になるものです。しかし、こうしたマニュアル主義は具体的な教育活動の一つ一つを、とても狭いものにしてしまいます。
 教師であるあなたが、他の教師に尋ねたとします。その教師の応えは対応策の全体像を語っているわけではない、ということです。その教師が自分の資質に合った方法を語っているのです。
 先輩教師の助言というものは、これを充分に理解したうえで受け入れなくてはなりません。教育活動はその人間と切り離して機能させることは難しいからです。
 あなたは、あなた独自に創り出すしかないのです。数年から十年程度かかるのが常ですが、それを創り出したとき、教師としての安定感が生まれます。教師は自分なりのシステムを構築したとき、一人前になるのです。
(
堀 裕嗣:1966年北海道生まれ、札幌市立中学の国語科教師。92年、国語教育研究サークル「研究集団ことのは」を設立、道内の民間教育団体でつくる「教師力ブラッシュアップセミナー」の代表も務める)

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教師の指導技術はどのように磨けばよいか

 教師の指導力のあるなしによって、まったく異なったクラスになる。やはり問題は教師の指導力があるかということにつきる。
 教師の指導技術にはありとあらゆるものがある。しかし、すべてを語ることができないので、いくつかにしぼって述べることにする。
 子どもを生かし、本気になって追求させるには、子どもに「おもしろい!」という「はてな?」をもたせなくてはならない。それには、第一に「発問・指示」をきちんとすることである。授業の上手な教師、子どもを引きつけて離さない教師は、本当にうまい「発問・指示」をする。例えば「東京23区に牧場があるだろうか?」という発問は子どもの意表をつき、子どもたちは必至に調べ出す。
 授業の中心は「発問・指示」といってよいだろう。
 発問・指示を行うと、子どもは反応する。この子どもの反応を「集約・焦点化」しなければ、考える学習にならないし、深まっていかない。
 この「集約・焦点化」するのに役立つ技術が「板書」であり「資料活用」である。子どもたちの発言や調べたことなどを集約し、焦点化しながら板書していくのである。
 書かないと子どもにはわからない。視覚と聴覚をフルに使うことである。板書は「五感に訴えるもの」だといえるのである。
 「資料活用」は、情報収集、資料作成、資料提示の三つをまとめていっている用語である。資料作成の技術は、教材研究の技術といってもよいくらい深くかかわっている。
 なぜなら、教材研究をし、情報を収集したエキスを、「子どもが見たくなるような資料」の形に作成するからである。よい資料は子どもを熱中させる。子どもを「追求の鬼」にする。
 授業の上手な教師は、資料作成もうまい。資料作成のしかたがよいから、よい授業ができるのである。
 授業を進めるには、教師の「話術」「表情」「パフォーマンス」などの技術もなければならない。
 教師が子どもに話すときは「短く、おもしろく」必ず笑い話を入れるように努力するようにする。
 これらの技術を生かしてよい授業を行うには「学級づくり」がきちんとできていなければならない。これは基盤である。一人ひとりの子どもをきっちり生かすには学級が大切である。
 学級というのは「助け合い、みがき合い、けん制し合い」の三つのことが機能していなければならない。
 今一番弱いのは「けん制し合い」である。友だちが悪いことをしていても、注意しない。友だちが困っているのに助けようとしない。これでは学級とはいえない。
 教師は、きちんとした授業をつくりながら、きちんとした学級をつくって子どもを育てなければならないのである。
(
有田和正:19352014年、筑波大学付属小学校,愛知教育大学教授、東北福祉大学教授、同特任教授を歴任した。教材づくりを中心とした授業づくりを研究し、数百の教材を開発、授業の名人といわれた)

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授業の技量を上達させるためにはどうすればよいか

 授業がうまいと思う人は、本をよく読んでいるし、研究授業も進んでする人だ。緊張感のある場で授業をすると必ずうまくなる。ただし、時間と努力が必要だが。
 上達の極意はよい指導者に指導されることである。その場所がサークルである。各地で行われるセミナーに参加すれば、全国のトップの授業を受けることができる。このことを自分で体感することである。
 授業の見方もその教師の力量が反映する。授業を見ていて、あそこの指導がうまいなと思えることがあったら、必ず複数の指導技術が混在している。見る力のない教師にはわからない。授業の分析や解説の力をつけるには、力のある教師にマンツーマンで学ぶのが一番よい。
 初心者のうちは、真似を山ほどすることである。同じように再現できたとき、そのことについて分析が可能となる。「ああ、そういうことだったのか」とわかるようになる。
 授業は教材研究に裏打ちされていなければならない。まったく関係のないことでも調べ、授業では一切つかわない情報も知っている。これができて教材研究はほぼ完成する。
 授業の始めは、張りのある凛とした声でぐっと子どもたちを引きつけることだ。テンションは高いほうがいい。よそ見をしている子どもたちをいっきに引きつけること。当然、声が後ろまで届かなければならない。途中で声が消えてしまう教師はたくさんいる。授業始めの言葉は、授業の柱となるような意味のある言葉でなければならない。教師の服装、歩き方、姿勢も大切である。
 子どもへの目線は大事である。ノートや指導案を見ながら授業をするなど、子どもを見ないで授業する教師は多くいる。教科書の問題を読むときも、子どもたちに目を配っていなければならない。ちょっと教科書に目を落とし、子どものほうを見ながら声を出す。これができない教師は多い。
 目を子どもたちに配っているが、目が泳いでいる教師も多い。一か所に長々と止まる必要はないが、一人ひとりと目を合わせることは大切である。子どもは教師がちゃんと見ていないとすぐ騒ぎだす。教室で子どもたちにノートを持ってこさせて点検するときは、全体を見ながら「○○さん、やっていますか」と一人ひとりの子どもを見ることが求められる。
 あたたかな表情は、教師として身につけなければならない能力である。表情の練習することである。いつもいい表情で授業をしているのと、ぶすっとして授業をしているのとどちらがいいか考えたらすぐわかる。
 発問や指示はシンプルで無駄がないこと。明確な発問や指示は子どもたちが思考する際、頭の混乱が生じない。明確な発問や指示となるよう、考え抜くこと。言い直すたびに少しずつ異なるのはよい発問ではない。発問や指示が子どもたちに入り込んでいないときは、もう一度行えばよい。
 教師に無駄な言葉や行動が多いと授業のリズムとテンポは崩れてしまう。
(
甲本卓司:1960年生まれ、岡山県公立小学校教師。「ジュニア・ボランティア教育」誌編集長)

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教育実践記録はまさに教育実践を創造するための方法である

 教育実践は、それぞれの時代と社会状況に真正面から立ち向かい、それゆえに時代を画し、今日の私たちに示唆多きすぐれた成果を残すに至ったものである。
 また、それぞれの「教育実践」は互いに影響するとともに、先達の「教育実践」の蓄積の上に自らの「教育実践」を構築していることも理解できよう。
教師の教育実践記録のもつ意義は、
「教師の生活記録であり、教育実践を中核にして、そこにぶつかる問題や矛盾やそれへの克服の営みを形象化したもので、これら教育実践記録の中から典型的事例を仲間とともに、研究者も交えて確認していくことが重要である」
と勝田守一は述べている。
 教育実践記録は過去の記録であるばかりでなく、まさに教育実践を創造するための方法論でもあることを示している。
 教育実践記録から典型的事例を学ぶとともに、それに依拠し、それを支えとして自らの実践記録をつづることで、教師自らが教育と研究の主体となることが期待されている。
田中耕治:1952年生まれ、京都大学教授、専門分野は教育方法学・教育評価論

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自分たちで考え、学んでいく子どもづくり

 先生になり3年生の担任に。一生懸命に子どもにかかわるのだけど、教室はいつも落ち着きません。保護者会で「先生大丈夫ですか」と訴えられる始末でした。
 なんとかしようと僕は、本屋で授業の手がかりを必死に探し、仮説実験授業の「たのしい授業」を立ち読みすると楽しそうな授業実践がたくさん載っています。すぐに、そのサークルに入りました。スライム作りを紹介され、すぐにやってみると、子どもたちは大喜びでした。
 仮説実験授業では「授業の価値は子どもが決める」ことを前提としているので、授業が終わると子どもたちに5段階の授業評価と感想文を書いてもらうことが定番でした。この仮説実験授業のおかげで、僕は自分の実践を記録し、子どもの声に学びながら授業を改善することを学びました。
 その後、長期研修の試験に合格し、1年間母校の大学で学ぶことになりました。ワークショップに興味を持ち、ワークショップを研究している新潟県高志小学校を訪れました。研究の仕組みはシンプルで
「先生が自主的に一人ひとりがやりたいことをする」
「お互いにやっていることをレポートにして持ち寄ってワークショップで紹介し合う」
「成果がでたものは、お互い取り入れ合い広がっていく」
というもので、コーヒーを飲みながら自由に語り合います。僕も参加しましたが、心地よく、やる気が満ちている職員室ってとてもすてきでした。教室だけじゃなく、職員室って大事だなあ。学校って変わると興奮しました。
 職員室のチームワークづくりのために、小学校へファシリテーター(参加者の学習がスムーズに進行するように支援する人)に来てもらって研修をしたのです。そのファシリテーターの見事な進め方、振り返りの的確さ、人間的魅力に魅せられ、僕は子どもたちがどんどん動いて学び始め、伸びていく。そんなファシリテーターになろうとした。
 吉田新一郎さんから、ライティング・ワークショップ(作家の時間)という、「子どもたちが本物の作家になったつもりで、たくさん書く」活動があることを教えてもらいました。僕は、これが教室の学びを変えると直感しました。
 いいと思ったことは、すぐ試してみるのが僕の売りです。手ごたえは十分でした。子どもたちは書くことに没頭し始めました。書くことがクラスの中心になっていきました。卒業文集に載せる作文も、納得がいくまで5回も書き直す子が続出しました。僕はこの活動によって、子どもたちが主体的に情熱を持って学ぶ取り組みを体験しました。
 その後、「自分たちで考えて、自分たちで学んでいく」子どもづくりをめざして、つぎのような活動を展開していきました。
(1)
振り返りジャーナル
 振り返りこそ学びです。授業、行事、帰りの会で、そのとき起きていたことを振り返って意味づけをする。学びそのものです。子どもたちも僕も毎日書きます。「続けていると自分の成長につながる」と実感している。
(2)
ホワイトボード・ミーティング
 質問する方法をカード使って練習し対話を深めることが身につくと、ホワイトボードに意見を書き、効果的に合意を形成する方法です。
 掃除や給食の改善など、子どもたちが話し合いを進めていきます。聴くことが上手になり、無用な対立は減り教室が穏やかになります。授業などの話し合いが上手になり、学習に深まりが生まれます。
(3)
読書へのアニマシオン
 子どもの読む力を引き出すメソッドです。国語の授業の最初の10分間は読書です。読み聞かせでクラスにしっとりとした一体感ができる。
 本の魅力を子どもたちに伝えることが僕の仕事だと確信、教室には本がいっぱいあります。
(4)
教室リフォームプロジェクト
 子どもたちがアイディアをだし、自分たちで教室を居心地良くする。それは自分も周りの人も笑顔にします。
(
岩瀬直樹:1970年生まれ、埼玉県公立小学校教師。「学びの寺小屋 楽学」主宰。平成20年度埼玉県優秀教員表彰)

 

 

 

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子どもの事実にふれるごとに新しい指導の方法が生まれる

 子どもの事実にふれるごとに、問題が生まれ、新しい解釈とかイメージとか、それに即した新しい指導の方法とか技術とかが生まれる。
 音楽会とか卒業式とかの前になると、全校の各クラスを音楽室に順々に入れて指導する。子どもたちの合唱を一回きき、問題点をとらえてから、それを修正するために指揮に入る。
 合唱の指揮によって子どもに曲の解釈や表現の方法を教えていくわけである。したがって教師は、指揮をしながら、つぎつぎと説明したり注文を出したり、よくなったところをほめたり、悪いところを指摘したりしていく。単に手でリズムをとっているだけでなく、身体全体と言葉を使って表現し指導していくわけである。
 子どもたちは立ったまま歌いつづけている。したがって音楽室には机腰掛けはおかない。子どもたちも身体が自由に動けるし、指揮者もまた前後左右に動けるような空間をとっている。
 気持ちを内部に向けて歌うように指示したり、声を遠くへとどかせる指導や、子どものそばへ寄っていって、口のあき方、声の出し方を指導する。手でも形をつくってやっている。こんなときには声も出して子どもといっしょに歌っている。
 一人の子どものところへ行って、手拍子でリズムをつくってやる。手拍子を早くしたり遅くしたりするときもある。子どもたちのリズムができてくると、手拍子をやめて、普通の指揮になる。
 このように、子どもたちの合唱の事実に即して、指揮したり、説明したり、手拍子を打ってやったり、身体の使い方を指導したり、さまざまの方法をとる。きまったものをきまった順序に教えるのではなく、子どもたちの表現している事実をもとにして、ふくらませたり、つぶしたりしていくわけである。
 教育という仕事は、合唱の指導ばかりでなく、子どもたちの具体に応じて、こまかい手入れをしていかなければならないものである。子どもたちに、言葉でなり、声でなり、身体でなり表現させたら、その事実のなかにあるよいものとか、悪いものとかをとらえ、その場ですぐに具体的に指摘していかなければならない。その事実のなかにあるよいものは拡大し、悪いものは否定して他のものをつくり出させることによって、子どもたちの持っている可能性は、はじめて引き出され形となっていくものである。
 合唱の指導もまたそのようにしていったとき、どの子どももが自分を出し、歌曲をうたうことによって、自分を豊かにふくらませ、自分を新しくし、自分を成長させていくことができるようになる。そういう指導をするためには教師は、子どもの事実をみぬく力を持ち、表現の方法を指導する教師としての技術を持っていなければならない。またそれらのもとになる、教材への解釈とかイメージとかを持っていなければならない。
 指導を終わって子どもたちが帰ったあと、どのように解釈し、どのような方法で指導したらよいかを若い教師たちと考える。教育という仕事においては、子どもの事実にふれるごとに、問題が生まれ、新しい解釈とかイメージとか、それに即した新しい指導の方法とか技術とかが生まれる。だから教育という仕事は面白いのである。
 事実を動かすような仕事をしていったとき、子どもたちは無限に教えてくれるのである。
(
斎藤 喜博:1911年-1981年、島小学校校長として11年間子どもの可能性を引き出す学校づくりを教師集団とともに実践した 昭和を代表する教育実践者)


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