カテゴリー「授業の技術」の記事

授業で、発問・説明・指示の仕方をプロ級にするにはどうすればよいか

 教室で大勢の子どもたちに話をするのですから、声も間も大切です。いつもよりも、大きく、はっきり、ゆっくり話します。
 すると、落ち着いた話しぶりになり、発問や指示が通りやすくなります。
 見ればわかるように、身振りや手振りを入れたほうが、わかりやすいと言えます。
 表情も重要なポイントです。笑顔で話をすると聞き手は安心します。
 特に真剣な話をするときには、目を見開き、しっかりと子どもたちを見渡しながら話をすると効果的です。
 話し始めに、わざと長めに間をとったり、あえて小声で話したりすると、聞き手を引きつけることができます。
 発問には、いくつもの答えが予想される発問があります。例えば社会科で「写真を見て、気付いたこと、疑問に思ったことは何ですか?」とか、曖昧な部分を聞く発問です。
 いくつもの考えを出させることで、思考を広げ、比較検討し、妥当な解に絞ることを通して子どもの思考を深めるのです。
 発問の後に、全員が考えさせるように指示をするとよい。「自分の考えをノートに書きなさい」と指示をします。
「賛成なら〇、反対なら×と書きなさい」「根拠をずばりひと言で書きなさい」という指示なら1分以内で終わります。
「考えを10文字以内で書きなさい。時間は2分です」
「3分以内に根拠を3つ、ノートに書きなさい」
 このように指示されれば、全員が目安をもって取り組めます。 
 説明内容が見えると、さらにわかるようになる。実物や写真、動画があると話がわかりやすくなります。
 黒板に絵を描いたり、図解したりして描写するようにします。わかりやすい説明をしている教師の授業を参観すると、黒板を効果的に使っています。
 子どもの身近なことに置き換えることができれば、説明内容がよりわかりやすくなります。
 説明するときは、具体例があるとわかりやすい。しかし、具体例だけでは、すっきりとわからないことがあります。
 例えば「私が好きな食べ物は、ラーメン、うどん、パスタです」という話は、すっきりわかったという気にはなりません。
「私の好きなのは麺類です」と、束ねる(抽象化する)ことでわかりやすこなります。
 つまり、具体的な説明を入れるには「例えば」、束ねて抽象化するには「つまり」を使うようにします。
 説明は短いほうがよいですね。時には説明が長くなるときがあります。そんな時には、合間に笑いを起こすようにしてみましょう。リラックスでき、再び集中して話を聞くことができるのです。
 説明を聞いているだけでは、子どもたちは飽きてしまいます。大切なポイントを復唱させることで、聞き手を参加させることができます。
 問いかけることも有効です。「今、〇〇について説明しましたが、どんな点に気をつければよいでしょか?」と、聞けば復習になります。
 ペア対話やグループ学習など、ある程度まとまった時間が必要な場合があります。
 その作業を終えるのに、どうしても時間差が出てきます。
 その場合は、指示を終えた後の行動もセットで説明しておきましょう。例えば
「今日の学びを振り返り、感想を書いておきましょう」
「話し合いの内容を発表してもらいます。発表の練習をしておきなさい」
などです。こうしておけば、ムダな空白時間が生まれません。
(
瀧澤 真:1967年埼玉県生まれ、千葉県公立小学校教頭
)

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学級の子どもたちには能力に差がある、みんなを生かすには、教師はどのように発問し、子どもの答えにどう反応すればよいか

 学級の子どもたちには、能力の差が、歴然とあるのが現実です。発達がゆっくりで、理解がなかなか深まらない子もいます。
 発達は、待っていれば伸びていきますが、能力の差は、時間の経過だけで克服できるわけではありません。
 その意味では「すべての学級が能力的には複式学級である」というのが、私の持論です。
 私はたいてい、学級全体に投げかける発問は、平均的な学力の子に向かって問うことを想定しています。
 一人ひとりの能力や発達の差に、応じた問いをつくることは、不可能です。
 しかし、そもそも、落差があるからこそ、授業はおもしろくなるのです。
 さまざまな子どもがいるために、ある問いを出したときに、高い解から低い解まで多様な解が返ってきて、活発な討論が起きるのです。
 能力が高い子も低い子も、相互に刺激し合いつつ伸びていくことが大事であり、そのプロセスでお互いが鍛え合い、高め合っていくのです。
 差は、なくそうとしても、なくなるものではありません。教育は、子どもには能力の差があるという、当然の前提から出発すべきです。
 子どもの能力を同じようにそろえようとして、上の子を放っておいて、下の子ばかりにかまけるようでは、上の子はたまったものではありません。
 同じく、上の子だけ伸ばして、下の子を切り捨てて進むのでは、教育の名に値しません。
 落差は、最後まで残るのが現実です。
 それを認めたうえで、上の子も下の子も一緒に伸ばしていくのが、理想の発問であり、優れた授業なのです。
 子どもの中に落差があるのは事実ですが「この子はできる子」「あの子はできない子」と、先入観で固定的に見るのは避けなくてはなりません。
 子どもの成長はめざましく、いつどんなドラマを起こすかわかりません。
「この発問は、この子には答えられないだろう」と決めつけてしまうと、伸びる子も伸びなくなってしまいます。
 子どもたちには、いつでも大きな可能性を秘めた存在として、接していくことがたいせつです。特に、ものごとを受けとめるセンスは、必ずしも成績の優劣を反映しません。
 発問に対する子どもの反応をどう「受け」るかが、授業の良否を決めます。
 子どもの多様な反応や答のうち、どれを潰し、どれに注目させ、どんな討論を導くか、教師はその場で即決しなければなりません。
 発問は、教師の優れた受けをともなってこそ、意味をもちます。子どもの答えを受けとめる技量がなければ、教育効果は上がりません。受けによって発問も意味をもちます。
 そのためには、教師は知識のすそ野を広げ、知識の引き出しを多くもっていることが望ましいのです。
 私が五年生を担任していたときのことです。社会科の授業で、日本地図を見せてから「気がついたことを述べなさい」と問いました。
 発問としては、ごく低レベルです。子どもたちは何を答えていいかわからず、きょとんとしていると、ある子が手を挙げて「上下に長いです」と答えました。
 教室は爆笑に包まれました。当たりまえすぎると思ったのでしょう。しかし、私は
「すばらしい発見だね。上下に長いということは、つまり南北に長いという意味だ」
「日本という一つの国の中に、北海道のように寒い地域から、沖縄のように暑い地域まである」
「雪も見られるし、パイナップもとれるのは、そのためだね」
と、その子を大いにほめました。そして、
「他に気づいたことがありますか」と問うと、その子が再び手を挙げて「周りが海です」と言いました。子どもたちはまた笑い出しましたが、私は激賞しました。
「それも、すばらしい発見だ。日本は島国で、外国と陸続きではない」
「そのため、外国の脅威が及ばず、独自の文化が発展したのだ」
「鎖国が可能だったのも、島国だったからこそだ」
 発言した子が戸惑うほど、ほめたのです。子どもたちも感心し、うなずきました。
 その子は成績がよいほうではなかったのですが、この問答をきっかけに社会科の学習に興味をもち、学力もかなり伸びていきました。
(
野口芳宏:1936年生まれ、元千葉県公立小学校校長、植草学園大学名誉教授。千葉県教育委員会委員長職務代理者、日本教育技術学会理事・名誉会長、授業道場野口塾等主宰
)

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授業は発問で決まる、発問とはどのようなもので、そのポイントとは

 授業における「発問」はきわめて重要です。授業は発問によってつくられるといっても過言ではありません。
 教師から問いを出されて、考え、話し合う。それが、授業の基本的なかたちです。
 より広い視野をもつ教師から、あえて問われることによって、子どもたちは自分一人では想像もつかなかった視点から考えるようになります。
 そして、子どもたちはそのプロセスの中で、思考すること、問題を解決することのおもしろさを実感し、成長します。そして、ようやく、子どもたちは自ら疑問をもち、自ら考えられるようになるのです。
 発問とは、正解を把握している教師が、子どもたちの潜在的な「不備・不足・不十分」を顕在化し、正しい理解に導くために、問いのかたちをとって指導する教育技術の一つです。
 教師は、その単元のねらいや授業のねらいを具体的に把握し、子どもたちの理解力の現実と理想との間に、どんなに不備・不足・不十分があるかを予測しなくてはなりません。
 そして発問は、子どもたちが自らの不備・不足・不十分に気づけるものであるべきです。
 優れた問いは、不備・不足・不十分を顕在化させます。そして、それを修正することによって、子どもたちの学力は伸びていくのです。
 学級には、授業内容をきちんと理解している子もいれば、あまりわかっていない子もいます。そのために、教師は子どもたちの多様な答えをランクづける能力がなくてはなりません。例えば、
「Aは理解している。Bはもう少し深く読みとらせる必要がある。Cの答えは正解からほど遠い」というふうに把握したら、まず大間違いの解から片付けていき、さらに高い次元の答えを導きだすよう、授業を進めることができます。
 発問は、容易から難へ、概要から細部へという大まかな流れが原則だと言われるのは、子どもがどこで「つまずいたか」を、明確にするためなのです。
 授業の雰囲気づくりのために、やさしい問いをあえて投げかけることもあります。
 自信をもって答えた子どもを「その通り。よく答えられたね」とほめて、気持ちを明るくさせてから、より深い内容に導いていくというのも、授業の技法のひとつです。
 子どもたちが「わかっていない自分」を自覚することは、とても大切です。何がわからないのかに気づけば「わかりたい」という、学習への前向きの姿勢が生まれます。
 問いを出されてこそ、子どもたちは啓発されるのです。「見れども見えず」という言葉がありますが、問われてはじめて気づいたり、目が開いたりすることは、たくさんあります。
 問いは、それほど基本的な技術要素であるにもかわらず、発問の意義や技術は十分に認識されていない状況です。
 教師が発問し、子どもたちの反応を受けとめるプロセスでは、教師の力量が問われます。
(
野口芳宏:1936年生まれ、元千葉県公立小学校校長、植草学園大学名誉教授。千葉県教育委員会委員長職務代理者、日本教育技術学会理事・名誉会長、授業道場野口塾等主宰
)

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授業がうまくなる板書の技術のポイントとは

 板書は、豊かな内容を美しく、大きく、目立つように書くべきである。板書計画を立てておかねばうまくいかない。
 私は授業を行うとき、いつも「芸術的な板書をしたい!」と考えている。
「芸術的な板書」というのは、美しいだけではなく、内容のポイントがきちんと書かれ、正確で、見やすい板書である。子どもたちが、黒板に吸いつけられるような板書である。
 また「子どもを引きつけて離さない板書」である。板書の「内容のおもしろさ」が第一のポイントである。
 いくら、きれいに、ていねいに、カラフルに書いても「内容のポイント」が書かれていない板書には、子どもたちは関心を示さない。子どもたちは、内容のよしあしをかぎ分ける臭覚を本能的にもっている。
 板書するとき「何を書いて」「何を書かないのか」ということを、常に考えることだ。そこに教師の教育観があらわれる。
「この時間に、これだけは何としてもわからせたい」というものを、きっちり書くべき。他のものは極力書かないようにする。
 内容のポイントを書いて、よぶんなことをなるべく書かないことだ。そうすれば、教師の書くことに重みが出てくる。
 そして、毎日の授業で、それを実験的に行ってみることだ。これが、板書の技術上達のポイントである。
 つまらない内容を黒板いっぱいに書く教師は、内容のポイントをつかんでない。
 つまらないことをたくさん書くから、子どもたちは「見てもしかたがない」「ノートしても意味がない」と、子どもが考えるようになってしまう。
 チョークは白が基本である。それは黒板が黒だからである。対照的で見やすいからである。「見やすい」ことが極めて大切である。
 文字を書くときは、原則として、白、赤、黄色を使うのがよい。赤や黄色がまじると、白が鮮やかに見える。
 色チョークは、色で強調したり、区別したりするときに使う。大きな文字で書くようにすると、いっそう見やすい。
 私はチョークの色を「問題・はてな?」は黄色、「大切な言葉・用語」は赤色、「覚える用語・その他」は白色という約束を子どもとしていた。
 青色は、川や海など水に関係のあることを着色するとき、緑色は、平野や平地の着色するときに使うようにした。
 チョークはやわらかいものがよい。
 文字の大きさは、一番後ろの子どもにちょうどよい大きさで書くことだ。
 小さい文字を書く教師が多い。一番前の子に合わせているから、小さすぎて見にくいのである。
 教師は、子どもの力に合わせて、文字の大きさと書くスピードを調整するとよい。
 教師が発問したとき、子どものいろんな反応をしっかり「板書」して、これを一つにしぼるのだぞ、ということに子どもたちに気づかせなければならない。
 きちんと板書して、話したり、説明すれば、子どもたちの認識率は80%になる。板書せず口頭で話すだけだと認識率は20%におちる。
 私は、毎時間「日付」を書くことさえ考えて行った。大きく書いたり、小さく・漢字・英語・昔の月の呼び名も使った。子どもたちは「今度はどんなことを書くか」と楽しみにしていた。
 板書に興味をもたせることは、ひいては子どものノートに関心をもたせることになる。「いいノートは、いい板書から」と言える。そして「いい板書は、子どものやる気さえ引き出す」ものである。
 教師が板書していると、子どもたちに考える間ができる。
 教師は子どもたちに文字が見えるように、しゃがんだり、体をずらすようにして板書するとよい。子どもたちは筆順も確認できる。
 子どもの意見を的確なことばで書く。そうすることで、構造的な板書ができ、今、何を学習しているのか、この1時間どんな学習をしたのかが、はっきりとした板書になる。
 板書は固定観念にとらわれないこと。これは大事だと思ったら、びっくりするような大きさで書いたり、逆に小さな字で書いたりする。強調した板書にしたいものだ。
 ワクにはまらない思考をさせるには、ワクにはまらない板書や発問が必要である。
(有田和正:19352014年、福岡教育大学附属小倉小学校、筑波大学付属小学校,愛知教育大学教授、東北福祉大学教授、同特任教授を歴任した。教材づくりを中心とした授業づくりを研究し、数百の教材を開発、授業の名人といわれた)


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授業中、どうしても子どもたちをうまく「ひきつけ」られないとき、どうすればよいのでしょうか

 興味のもてない授業は、徐々に子どもたちは授業にあきてきて、気持ちが集中できなくなります。
 子どもたちが授業に集中できなくなるのは、同じことを長時間繰り返す、教師の一方的な説話が続く、抽象的な思考だけの時間、教師対子どもの一対一の問答式の授業などを展開していくからです。
 授業の中に、好奇心をそそること、子どもたちが自分で活動する学習、授業の過程に変化のあるステップなどが組み込まれていると、どの子どもも夢中で授業に取り組むようになります。
 授業中、子どもたちを「ひきつけ」るには、どうすればよいのでしょうか
 子どもが授業中、集中するには
(1)
授業の導入時に子どもたちの心情をゆさぶる
 まず、導入で「これはおもしろい!」「おかしいぞ?」「へんだ!」など、子どもに素朴な疑問や意外性、驚きを与えると、好奇心から問題解決の意欲が触発されて授業に熱中します。
 感動場面を盛り込むことも効果が大きい。
(2)
授業の展開時
 説明・思考・討論など授業のいろいろな形態を組み合わせて意欲的に活動させるようにします。
 学習形態は、一斉授業、ペア学習、グループ学習など学習内容の特質によって工夫できます。
(3)
授業の終結時
 単元の半ばであれば、技能的なものをさらに磨くドリルや、終結段階であれば、まとめの表現活動などで、子どもの満足感が味わえるよう計画します。
(4)
時間配分を工夫する
 学年に応じて、10分から15分程度ごとに山場をつくることも一つの方法である。
 同じように、教師の指導場面と、子どもが活動する場面の割り振りをしておくと、場面の変化によって新鮮な気分で活動できる。
(5)
子どもの活動場面の設定
 子どもは自ら活動する学習には意欲が高まる。見る、調べる、つくるなどの体験的な学習によって、実感できることや自主的判断の機会を得られる場合は、学習活動に熱中します。
 ただし「させっぱなし」では効果も薄れてくる。結果の評価とともに、子どもの努力をタイミングをとらえて、ほめることを忘れてはならない。
(6)
個別指導を念頭に入れながら一斉授業をする
 基礎・基本にかかわることは一斉指導し、そのうえで、子どもを生かす場面を工夫して、個別に学ばせる、ペア学習・グループ学習・教え合い学習・個別学習などのような授業形態を工夫してみる。
(7)
一人ひとりの子どもに、自分の考えに自信を持たせ、発表できる環境づくりをする
 教師の発問に一人の子どもが回答するという一対一の展開では、他の子は授業に参加しない状態におかれる。
 子どもが気軽に発表できる環境をつくるようにする。能力に応じてイエスかノーかを表明しただけでも、発表と認めてもかまわない。
 まちがった答えを笑ったり、常に正しいことが優先されると、子どもたちの発言や発表は活発にならない。
 簡単な思いつきのようなものも率直に言える学級にしておくと生き生きしてくる。
 発表しない子どもの原因に応じて、教師が発問の工夫をして、その子なりの発表できる場面を設定してあげる。
 子どもの心をつかむ方法
(1)
教科書の教材とともに、社会・理科・生活科など教科によって自分たちで集めた資料を使わせると関心も高く理解も深まる。
(2)
嫌いな教科は「分からない」「できない」ことが原因である。
 嫌いにさせる指導をしていないか、まず教師が反省する。そのうえで、嫌いと言う子の原因を探り出し、個人指導を徹底する。
(3)
ユーモアがある授業は関心が高まる。
(4)
経験の浅い若い教師でも、子どもとの触れ合いを密にしていると、子どもが教師の一挙一動に関心をもってくれる。
 子どもの関心を増す
(1)
新しいこと、実物に触れると関心が増大する
(2)
小さな進歩も認め、タイミングよくほめる
(3)
体験を通した活動は意欲が高まり、理解も早い
(4)
得意なことをさせてもらうと、やる気が増す
 子どもの関心が減る
(1)
話がくどく、説明の要点がはっきりしない
(2)
授業がまじめすぎて、冗談を言ったりしない
(3)
声が小さく、話が聞きとりにくい
(4)
黒板の文字がきたない
(5)
子どもたちの意見や質問をよく聞いてくれない
(6)
えこひきをする
(
関口 寛:1931年生まれ、宮城県教育研修センター指導主事を経て元仙台市立小学校長)

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授業の腕を高めていくポイントとは、また発問で子どもの思考を活性化するにはどうすればよいか

 国語科「ごんぎつね」の授業で考えてみる。
「ごんぎつね」の授業における「眼目」は、要するに「ごんの、哀れさ」をとらえさせる一点にある。その一点に子どもを迫らせるための「骨格」はつぎの通りである。
(1)
「ごん」の善意の読みとりとそれへの共感
(2)
善をなすことにさえ、人目を常に、はばからねばならぬ、立場の理解とそれへの共感
(3)
「ひきあわぬ」と思いつつも、毎日続けていく「ごん」のつぐないのいじらしさの理解とそれへの共感
 このように、すっきりと授業の大筋をとらえていれば、指導案などは見なくてもよい。この骨格をはずしさえしなければ、授業が失敗することにはならない。
 要するに、この授業でなすべきこと、めざすべきことは、ぎりぎりのとこで何なのか。そのことを、自らに問いつめていくことが、授業の腕を高めていく要諦である。
 発問で子どもの思考を活性化するにはどうすればよいのでしょうか。
 発問は簡単なものから徐々に発展性のある問いへと導いていけば、子どもの思考も活性化され、考えやすくなります。たとえば、
問1「ごんは、何を盗みましたか」の答えは「いわしです」と答えれば終わりです。
問2「ごんは、どうやって盗んだのですか」の問ではさまざまな答が考えられます。
 例えば「すばやく盗んだと思います」「びくびくしながら盗んだと思います」・・・。
問3「ごんは、なぜ盗んだのですか」になると、子どもの読み取りの深さの差が明瞭になってきます。
 そうやって教師が導くことで、子どもの思考力は鍛えられていくのです。
 授業にドラマ性を生みだすには、まず子どもたち自身で検討評価させることが大切です。
 教師が一言の下に正誤を判定してしまっては、盛り上がりは生まれません。
 子どもたち相互の対立や差異、これを顕在化させるのが教師の総合的な力量です。
 例えば、ノートに評価・判定を書かせる。グループ学習で気軽に話し合える場をつくる。教師が机間巡視して対立や差異を発見し、討論に導く。
 これらの方法を使って、監督やシナリオライターのように導いていくのが教師の役割です。
 私たちは、いろいろなものを見、聞き、考えているようでありながら、実はあまりそれらを確かには認識していないものである。だから、私はしばしば「問われることによって見えてくる」のだと思っている。
 問われてみて、あらためて「はっ」とするのである。問われるということは、改めて見直すということであり、新しい自覚を生むということであり、新しいものを発見させられることなのである。
 さればこそ「何を、問うか」ということが大切にされなければならないのである。つまらぬ問いは、つまらぬものしか見せはしない。
 すぐれた問いは価値あるものを発見させる。授業における問いの大切さは実にこの一点にあると言ってよい。私は、授業の案を立てるとき「何をこそ問うべきか」ということに、いつでも腐心する。
 このようにしても、会心の問いはなかなか生まれるものではない。
「はだかの王様」における「最も愚かな者は誰か」という問いの見事さは、倉沢栄吉先生の名著「読解指導」(朝倉書店刊)で初めて知ったのだが、さしずめこれが「問い」への私のこだわりを生むきっかけとなった原点と言えるであろう。
 問われることによって、それまで見ることのできなかった作品の深奥の光が見えてくるような、そういう問いこそが子どもを変えていくのである。
(
野口芳宏:1936年生まれ、元千葉県公立小学校校長、植草学園大学名誉教授。千葉県教育委員会委員長職務代理者、日本教育技術学会理事・名誉会長、授業道場野口塾等主宰)   

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内容のない授業の技術は無力である、いい授業をする教師は、いい教材・内容と技術をミックスして持っている

 ある温泉に行った。帰りのバスの中で、ガイドが言った。
「この温泉は、若返りの効果があります」
「まず、1回入った方は手を挙げてください。その方は10歳若返っています。周りの方は、手を挙げている人をよく見てください」
 バスの中は大にぎわいになった。うれしそうにしている人、うらやましそうにしている人、みんなしゃべっている。
「では、2回入った方は手を挙げてください。ハイ、20人くらいですね。この方は20歳若返っています。さっきの方より輝いています」と言った。
 ワッと大笑いし、もう子どものように大さわぎである。
 そこで、私が言った「ハイ! 私は3回入りました」と。
 すると、ガイドは言った「ハイ、3回入ると、もとにもどります」
 バスの中は大にぎわいになり、みんな大笑いで、温泉より笑いの効果の方が大きいと思った。これぞプロの技術である。
 このガイドこそ「対応の技術」の保持者である。こういう人を「プロのバスガイド」というのである。
 客の心理をたくみにつかみ、大いに喜ばせておいて、それをみごとにひっくり返す。この技術があるからこそ「内容」が生きるのである。
 授業の技術も全く同じである。
 子どもに教えるべき基礎的な内容をきっちり把握している。そして、子どもに学力をつけてやりたいという「愛情」をたっぷりと持っている。
 いくら内容を持ち、子どもに対する愛情があっても、それを、子どもにおもしろく伝える「技術」、有効に伝える「技術」を持っていなければ、伝わらない。
 となれば、内容や愛情がないのと同じである。
 板書にしても、美しく、おもしろく、子どもが理解しやすい板書をすれば、子どもは板書を見ただけで理解する。「見るな」と言っても見て理解してしまう。
 これが「板書の技術」である。ただ、黒板に書けばよいというものではないのである。子どもを引き付けなければ意味がない。
「発問や指示」にしても、的確に子どもに伝えられるものを「発問や指示の技術」という。
 資料の活用にしても、資料をどう収集し、子どもが飛びつくような資料に加工し、子どもが「あっ!」と驚くような提示をすれば、資料のねらいが確実に子どもに伝わる。
 これが「資料の作成技術」であり「資料の活用技術」である。
 話術・表情・ゼスチャーなども、すべて確かな内容とマッチしたときに生きる技術である。
 技術だけが独り歩きすることはあり得ない。いい授業をする教師は、いい教材・内容と技術をミックスして持っているのである。
(
有田和正:19352014年、福岡教育大学附属小倉小学校、筑波大学付属小学校,愛知教育大学教授、東北福祉大学教授、同特任教授を歴任した。教材づくりを中心とした授業づくりを研究し、数百の教材を開発、授業の名人といわれた
)

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初任者の共通する授業の特徴と、どのようすれば授業の改善ができるのでしょうか?

 初任者がまず悩むのは、教科書をどのように教えたらいいのだろうか。どのように授業を始めたらいいのだろうか。発問はどうするのか。子どもたちのノート指導はどうするか。戸惑うばかりで、時間ばかりが過ぎてしまう。
 初任者が次のような状態で授業ができるようになれば、まずは合格点をあげることができる。
(1)
子どもたちの顔を見ながら授業をしている。
(2)
きちんと、はっきりした声で、子どもたちに話をしている。
(3)
机間指導ができている。
 この状態をまず授業で作りあげることが最初の関門である。このことは簡単ではない。
 授業づくりに慣れてきたら、次に考えることは「導入でのひきつけ」である。どうするか。次のことぐらいはできるようにする。
(1)
復習問題を出す。
(2)
いきなり写真を出して「何の写真でしょうか?」と問う。
(3)
「物」を出して、それを子どもたちに見せる。
 特に「物」は大切である。授業への興味・関心が膨らむ。授業づくりには欠かせない。
(4)
音読から入る。
 日常の授業で教材研究はどうすればよいのでしょうか。
 例えば、国語の「大造じいさんとガン」の教材研究は
1 教科書を読む
 最低2回は読むようにしたい。場面分け(教科書では4場面に分けてある)が必要である。
2 指導書で確認する
(1)
単元目標を確認する
 場面の移り変わりに気をつけて、中心人物の行動や心情の変化を読む。
(2)
指導したい具体的な目標
 単元目標を確認できたら、自分なりに「指導したいこと」に落とし込んでいくが必要である。自分なりの指導イメージが「具体的な目標」である。
 例えば、大造じいさんの残雪に対する気持ちの変化を読み取る。
(3)
1時間ごとの指導
 最初は指導書を参考にしていけばいい。
 実際の授業の流れは「始め-中-まとめ」、どんな「発問」「活動」をさせようかと、とメモ書きし、イメージができればよい。
 ほとんどの初任者の授業を見ていると、共通する特徴は教師が授業の8~9割をおしゃべりする授業である。
 それをなくすためには、教師が子どもたちに発する言葉を「説明・発問・指示」に区別するところから始まる。
 たとえば、「説明」で、勉強することを分かりやすく伝え「発問」で子どもたちの思考に働きかけ「指示」で子どもたちの行動に働きかけるのである。
 教師のおしゃへりを、せめて5割に収めていく必要がある。そのためには
(1)
ノートに書かせる。
(2)
発言させる。
(3)
話し合いをさせる。
(4)
作業や身体を使う活動をさせる。
 初任者の授業はほとんどが「挙手発言」型の授業になっている。いつもよく挙手する3,4人の子どもたちに指名をして、先に進んでいく授業である。
 だから、最大の問題はほとんどの子どもが傍観者になることである。「挙手発言」型の授業は、かなりかたよった進め方と言わざるをえない。では、どうすればよいのでしょうか。
 授業は子どもたち「全員参加」をどのように組み込んでいけるかにかかっている。その基本型は
(1)
学習課題を確認する。
(2)
学習する課題について説明する。
(3)
発問して、子どもたちが考える。
(4)
子どもたち一人ひとりが答えのよう予想をノートに書く。
(5)
ペアで話し合う。
(6)
発表する。
(7)
教師がまとめる。 
 初任者は授業技量というのはすぐには身につかないものである。子どもたちの学力が身についているのか気になる。学力をつけるためには「基礎・基本」を毎日くり返し練習させるとよい。
 例えば、
(1)
国語の授業:漢字タイム(5~10)、音読タイム(5分)、本時(30)
(2)
算数の授業:前時の復習(5分)、本時(35)、本時の復習タイム(5分)
 このような分割法の授業を積み重ねを毎回することによって、きちんとした基礎的な学力を保障していくことになる。
(
野中信行:1947年生まれ、元横浜市立公立小学校教師、学級組織論を研究、実践を私家版で発行した。全国各地で教師向けの講座やセミナーを行っている)

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板書のうまい教師はいい教師、子どもの注意や意欲を刺激する板書のポイントとは

 板書は、大切なポイントを黒板に書いていく作業ですが、この板書には何を書いて、何を書かないか。書くべきことも、どれだけわかりやすく短くまとめるか。そうした選択と省略と凝縮の技術が必要になってきます。
 教師にとって、この選択と凝縮の技術がいちばん求められるのが板書です。
 板書の上手な教師は、かならず的を射た内容の選択や凝縮が行われていて、そのときに教えたいことの必要最小限の要点がわかりやすいかたちで記されているものです。
 余分なことは省かれていながら、核となる部分や勘どころはきちんと書かれているので、それを読み返せば、教えたことの内容や流れがしっかり理解できる。そういう板書です。
 よい板書は、要領よく、美しく、構造的に書かれています。
 一方、板書がへたな教師は、書きすぎる傾向があります。省略や凝縮の技術が甘いのです。
 要点を絞って、単語に近いような簡潔な文で記すのが板書技術の大原則なのです。
 板書は授業内容の簡潔な記録です。
 それは、教わる子どもたちの学習意欲を引き出したり、考えを深めたり整理したりするための記録である。
 また、板書は教師と子どもたちの「交流」の場でなくてはなりません。
 交流がない、すなわち教わる子どもたちの意見の反映のない板書は、生きた板書とはいえません。教わる子どもたちの反応を、教師がどう受け止めたか。その双方向的な記録が欠けているからです。
 したがって、板書は、学習内容の要点のほかにも、授業中の発言内容のポイントも記されている必要があります。
 また、その発言を全体と関連づけ、全体のなかで位置づけてあげることも大切です。
 このように、板書は、子どもたちの意見や考えも拾い上げて、全体に反映する場所でなくてはなりません。
 学習内容とそれに対する、教わる子どもたちの反応。それが交錯する場が黒板なのです。
 板書のうまい教師は、いい教師といっても過言ではありません。
 板書は、何をいつどこに書くか、授業の流れ沿って書く順番やタイミング、場所などを事前にイメージして、その完成図を頭に描いているものなのです。
 下書きを紙に書く場合もあれば、実際に黒板を使って予行演習する場合もあるのです。
 私も教師になって何年間かは、ノートを利用してページの半分に授業内容を書き出し、残り半分のスペースに平行して板書をするという勉強をつづけたものでした。
 とはいえ、事前の計画どおりに板書がなされた授業というのも、けっしていい授業とはいえません。
 事前の予想どおりに進んだということは、すなわち、予想どおりにしか進まなかったということであり、それは教わる子どもたちの発言が少なく、交流にも乏しい、ダイナミズムに欠けた授業であることの証しだからです。
 したがって、板書は、その授業が子どもたちの理解が進んだいい授業であったかは、板書を見れば、ほぼ一目でわかるものなのです。
 黒板は教わる子どもたちと教師の交流の場ですから、ていねいな板書をすれば、教わる子どもたちのノートも自然にきれいになります。
 板書の大切さはもっと見直されてしかるべきだと思います。
 板書の技術をつぎにあげると
(1)
黒板を広く使う
 黒板の全面をいっぱいに使うのが板書の原則です。
 ただし、黒板の両端の左右の下端は、子どもたちの視界に入りにくいので、大切なことを書かないようにする。
 大事なことは、一番目立つ、真ん中の上部あたりに書くようにするのが原則です。
(2)
文字は大きく書く
 板書の文字が小さすぎる教師が多い。教師が自分で書きやすい大きさで書くと、子どもたちの目には必ず小さすぎるものなのです。
 あくまで、子どもたちの主体に考えて「少し大きすぎるかな?」と思えるくらいの大きさでちょうどいい。
 板書がへたな教師は、たいてい字が小さいものですし、大きな字を書いているうちに板書もうまくなってくるものなのです。
(3)
板書の消し方を工夫する
 授業の途中や最後で、終わった部分の板書を「もう用ずみ」とばかり、消してしまう教師がいます。そういう場面を見るたびに「何と、もったいないことを」と私は思います。
 消し方を工夫することで、学習内容の確認や復習をさせられるのです。
 たとえば、白で書かれた部分を消し、赤の重要な部分や、黄色の「はてな?」部分だけを残して、それを復唱させる。
 逆に、重要ポイントだけを消して「いま消したところに、どんなことが書いてありましたか?」などとたずねる。
 教え終わったあとも虫食い状態の板書を残しておいて、つぎの時間の始めに埋めさせてから消すという方法もあります。
 こうした方法によって、子どもたちの理解力はより深まります。また、板書というものを子どもたちはとても大切に考えるようになり、ノートの取り方にも反映していくのです。 
 よい消し方ができるということは、よい板書のしかたをしているということであり、よい教え方をしているということの証なのです。
(4)
子どもの注意や意欲を刺激する
 私は授業の最初に、黒板に日づけを記入するとき、いろいろ変化をつけていました。
 たとえば、バカでかい文字で書いたり、極端に小さく書いたり、やたらと細長く書いたり。六月なら水無月と書き、十月ならオクトーバーと書いてみる。そんな工夫をしました。
 そうすると、よそ見していた子どもも黒板を注視するようになります。それが集中力や学習意欲につながっていくのです。
 わざと日づけを間違えて書き、子どもの注意を喚起することもありました。
 授業中に、子どもたちの気持ちがダレているかなとか、集中力を欠いているなと思えたときに、たとえば数字の6を8と間違えて書き「先生、数字が違っているよ」などと指摘させることで、彼らの注意力を再喚起させるような方法もあります。
 そういう場合、私は子どもといっしょに、お笑いのコントを演じる芸人のようなつもりでした。
 そうすることで、教室にオープンでくだけた空気を醸し出し、授業を少しでも楽しく、おもしろく感じさせる工夫をしていたのです。
 このようなユーモア、明るさや楽しさというのは、教える行為のかなり重要な部分なのだと思います。笑いは教わる子どもたちを学習好きにするための潤滑油であり、添加物でもあるのです。
「授業が楽しい」「勉強するのがおもしろい」と感じられれば、子どもの学力は自然に伸びていくからです。
 逆に、一時間の授業のうちに、一度も笑いがない、ユーモアの要素がない教室は、子どもにとって牢獄に等しいものでしょう。
 日本の教育現場にもっとも不足していて、もっとも必要とされているのが、その笑いでありユーモアなのです。
「笑いを持ち込むと教室の空気が緩んでしまう」「笑わせたら、子どもになめられる」と、笑いを敬遠する教師も少なくありません。
 しかし、笑いの効果はそれとはまったく逆のものです。
 教師がすました顔で、ユーモラスな話をすれば、教わる子どもたちは身をのりだして聞くはずです。そのときにも集中力や注意力、学ぼうというエネルギーが生まれているのです。
 むろん、いつまでも笑わせていてはダメで、次の瞬間には、そのエネルギーを学ぶほうへと仕向けていく必要があります。
 教えるという行為は「空気」がするものです。子どものやる気を刺激する空気、楽しく学べる空気、はつらつとできる空気。そういう空気をいかにつくり出してやるかが教える教師の大事な役割なのです。
 そんな空気を醸成するのは、しかつめらしい、もったいぶった態度ではありません。楽しく明るい、フランクな姿勢です。
 ユーモアや笑いは学びの敵どころか、大いなる援軍なのです。そのための秘訣は
(1)
教師が「自分を笑う」こと
 教師が自分の失敗やとんちんかんな言動を笑いのネタにするのです。自分を笑っているかぎりは誰かを傷つけることもありません。カラッとした自虐ネタはユーモアの原点だといえます。
(2)
教師が「自分が笑う」こと
 子どもを笑わせようとしたら、まず教師が自分から笑うことが大事です。それだけで教室の空気はなごむのです。
 子どもたちが何かおもしろいことを言ったときには、いの一番に教師である自分が大いに笑うように私は努めていました。
「子どもといっしょに笑える教師は子どもといっしょに歩める教師であり、子どもとともに進める教師だ」という信念が私にはあったのです。
(
有田和正:19352014年、福岡教育大学附属小倉小学校、筑波大学付属小学校,愛知教育大学教授、東北福祉大学教授、同特任教授を歴任した。教材づくりを中心とした授業づくりを研究し、数百の教材を開発、授業の名人といわれた)

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学校で体験したことからいえる授業力を高める方法とは

 教師は誰でも「少しでもよい授業をしたい」と願っています。
 授業力を向上させるということは、教師力を高めることです。
 授業力を高めるには、教育とは何かという理念を明らかにすることが必要です。
 授業は、どうあるべきかを考えることも大切です。授業の原則を明確にすることです。
 教師は即効性を求めようと、ハウツウものに引かれます。技術や方法から学ぼうとするものです。経験から導き出されたものですから、生かさない手はありません。
 ところが、それらの技術や方法は子どもの状況によって、一様にいかないことが多々あります。
 それに、授業がドラマチックになりにくく、問題場面の対応や子どもたちの把握が十分にできなくなる恐れがあのます。
 私の好きな言葉に「原則を明確に、実践を多様に」というのがあります。
 授業の理論と技術を結びつけることによって、確かな授業観が確立していきます。
 一人の教師の生きざまを知ることにより、授業論が明らかになるのではないかと考えます。
 私は小学生のときに体験をとおして学んだことは、いまも記憶していることが多いように思います。記憶中心の授業には、よい印象がありません。小学校の教育を考えるヒントになると思います。 
 私の教師人生は、社会科をとおして授業と一体でした。いまにして思えば厳しい教師修行、授業研修だったと思います。
 1970年代のわが国は公害が問題になっていました。5年生で三重県の四日市ぜんそくを教材に公害の学習に取り組んだとき、ぜんそくに苦しむ中学生の写真を活用して研究授業をしました。
 そのとき、感受性の強い一人の子どもが写真に共感し泣き続けていました。そのとき、人間の生きる姿を直視させることにより、社会が見えてくるようになるのだなと痛感しました。
 子どもたちにとって、教材は共感的に理解したり、批判的に検討したりしながら、時には楽しみ、悲しみ、憤ります。子どもたちは学びを実感します。
 子どもたちの発言などがはっきりと私の頭に蘇るのは、授業に深い思い入れがあったからだと思います。
 私は授業に当たって教材研究と子どもの理解を深めます。それにもとづいて指導計画を作成し、授業に臨みます。実践の場は、子どもとの真剣勝負です。
 授業は一過性であり、消え去っていきます。私は授業での教師の発言や子どもの発言などを記録するために、録音しました。
 録音したものを何度も聞き返しながら、授業を文字にする作業は容易なことではありません。45分の授業でも7から8時間はかかります。
 録音した授業を聞いていると、いろいろなことに気がつきます。例えば、
(1)
同じことをくどくど何度もしゃべっている。
(2)
子どもたちが理解できないことを言っている。
(3)
子どもたちの思考や関心とは無関係に問いかけたり、資料を提示している。
(4)
取り上げるべき、子どもの発言に気づかずに通り過ぎている。
(5)10
分の作業時間を与えているのに、5分間でストップをかけている。
(6)
せっかちな指導をしている。
これらは、すべて自分の指導の実態です。録音は、すべてをさらけ出してくれます。「自己反省」の連続です。
 授業の記録を分析していると、例えば
(1)
子どもの思考はどのようなときに、ゆさぶられるのか。
(2)
資料の提示の仕方をどのように工夫すると、より効果的になるか。
(3)
子どもの発言をどのように取り上げていくと授業の質が高まっていくか。
など、記録から多くのことを学びます。
 これらのことは、すべて自分の授業力の向上に影響を与えたのではないかと思います。
 授業の記録を取ることによって、授業が見えてきます。分析する目が自らの授業力を高めることにつながるのではないかと思います。
 私が特に目をつけるところは、教師の一つの発問に対して、子どもたちから多様な考えを引き出された部分です。
 教師がたくさんの答えを用意すると、どの子も生かされます。教室に居場所ができます。
 そこに教師のふところの広さと、その学級の子どもたちの発想の豊かさを感じるからです。
 一つの発問に一つの答えしか出されないような授業はあまり感心されません。まして、一つの答えに「同じでーす」と、子どもたちが反応する学級に拒否反応さえもちました。
 授業の中で友だちの意見を聞き、それを評価しながら、自分の意見を述べている子どもにもに注目しました。
 友だちの意見に学びながら、自分の意見を変えること、修正していくことはとても大事なことだと思います。
 学び合うとは、自分と違った考えをまず認め、友だちの優れた考えから学び、つまずいている友だちの支え合いが、展開されることです。
 こうした関わり合いを大切にした人間関係の中から、学び合う心や能力や態度が育っていきます。これは子どもたちの言動や表情に現れます。
 学校参観者が多い学校に勤務したとき、私に突然、授業を参観させてやってくれないかと言われることがたびたびありました。いつ参観者があってもいいようにと、毎日が緊張の日々だったように思います。
 第三者が教室に入ると教室の雰囲気が変わります。授業に緊張感が生まれます。
 教師は無理な質問や無駄な言葉が少なくなります。子どもたちの発言や行動を大事にしようと努力します。
 いたずらに叱ったり怒ったりするなど、子どもの意欲を削ぐような言葉かけはいっさい慎みます。たとえ、子どものつたない発言でも、精一杯生かそうと努力します。
 子どもを生かした授業を展開するようになり、子どもたちが育っていきます。
 教師の授業力を高めるためにも、第三者に授業を公開することです。これが私が実感した体験的な授業力向上論です。
 授業をするとき、私はつねに緊張します。しかし、授業は苦痛なものかと問われれば「そんなことはない」と即答します。
 その学級の子どもたちを知りつくしている教師しか味わうことができない、授業の醍醐味を味わうことができるからです。
 私の発した発問に対して、子どもたちがどれだけ多様な反応を示すかということが一番の楽しみです。子どもたちが私の予想を超えた反応をすることも楽しみでした。
 授業を子どもたちと一緒につくっていることを実感したとき、授業の面白みを感じます。子どもたちが少しずつ授業に参加するようになることも授業の楽しみでした。
(北 俊夫:福井県に生まれ、東京都公立小学校教師、東京都指導主事、文部省初等中等教育局教科調査官等を経て、国士舘大学教授)

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