カテゴリー「学び合う学び」の記事

授業を楽しく安心できる場にするには、どうすればよいでしょうか

 推測し想像しながら、みんなで発見していくような授業は、子どもたちも大好きです。いっけん、学習意欲に欠けているかのように感じられる子どもたちが、目を輝かせて学習する事実に、私たちは着目していかねばなりません。人間はそもそも深く考えることを好む動物なんだ、とあらためて思います。
 子どもたちは、学習を拒否しているのではないのです。知的好奇心が高まり、未知の世界との出会いがあるような学習には、むしろ飢えているのです。
 学ぶ意味や価値がわからないような、機械的な練習や、苦役だけが要求されるような学習を拒否しているのにすぎません。
 学級の友だちと対話・討論し共同で学ぶことで、一時間前には想像もできなかった世界と出会うことができる。自分も賢く人間として豊かになってきている。この実感の積み重ねこそが「何のために学校に通って学ぶのか」という問いにこたえる、道ではないかと思っています。
 共同の学びを豊かにしていくには、教室になんでも言える自由な雰囲気が不可欠です。そのためには「失敗」や「間違い」に対する教師や子どもたちの態度が問われることになります。教師だけでなく、子どもたちが豊かな「間違い観」を育てていくことは、学習にとって不可欠です。
 
「間違い」が、物事の本質をとらえていく上で、どんなに重要かを体験する必要があります。なぜなら、多くの子どもたちは「間違い」は恥ずかしいことであり、無意味なものだと考えているからです。
 
「間違い」が事実の断片であるならば、それをつなぎ合わせ関連づけていけば、物事の全体像が浮かび上がってくる。例えば、縄文土器のかけらをつなぎ合わせていくと、ほぼどんな土器だったかは推定できるようになるのと似ています。
 そういう意味では「間違い」は、物事の本質にたどりつくための「入口」であり、認識を深めていくうえでなくてはならないものです。共同の学習の中での「間違い」は、物事の本質をとらえていくうえで重要な役割を担うものです。こう考えてくると、子どものどんな発言も貴重なものになります。無駄なものはひとつもないのです。
 教師が一人ひとりの子どもの発言に心底耳を傾け「間違い」を大事にすることで、学習はプロセスのあるものに転換していきます。
 何でも自由に発言できるようになれば、自分の思いや考えを率直に語ることができるようになります。すると、当然のことながら、対立・討論も起こります。学習はいっそう深まっていきます。
 
「正答主義」の学習では、正しいかどうかを判断するのは教師です。共同の学びでは、そうはいきません。子どもたちが集団で思考し、共感や批判、納得を通して本質や真実に迫っていきます。
 教室に自由な雰囲気をつくるためには「間違い観」とともに、子どもたちがリラックスすることが重要です。過度の緊張を強いることなく、子どもたちが安心して学習できるようにするということです。授業中、教師が思っている以上に、子どもたちは不安をもって学習しているのです。
 
「急に当てられたらどうしよう」ということも授業中の心配の一つです。私自身も高校の頃、化学や数学の教師がよく急に当てるので嫌でした。当てられそうなときは、当てられないように、先生と目をあわせないようにしていたものでした。
 そんな体験もあり、私は子どもが自分で手をあげない限り、当てないようにしています。子どもたちは、突如当てられるというような不安もなくなり、安心して学習に励むことができます。
 教師が子どもの思いを無視してどんどん当てていた場合と比べて、個性的な発言が確実に増えてきます。子どもたちはじっくり考え、自分が発言したくなったときに発言できるからです。
 発言を強要しない、発言するかしないかは本人が決めることにしただけでも、学習における子どもたちの安心は広がっていきます。
 そういう自由が保障されたときに、子どもたちは自分の力を発揮して学習するようになるものです。「待つ」ということが、子どもたちに真の自由を保障することになるのだと思います。
 授業において「安心」と「人間的な自由」をどう拡大していくかが、重要な課題だと思っています。
(
今泉 博:1949年生まれ、元東京都公立小学校教師、前北海道教育大学副学長、「学びをつくる会」などの活動を通して創造的な授業の研究・実践を広く行った)

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教え合い学び合う子どもたちにするには、どうすればよいか

 学校生活では、日常的にさまざまなグループ活動が展開されている。掃除当番や係活動、座席ごとにまとまった生活班など、子どもたちはさまざまなグループ活動を経験している。
 4~6人の小グループのいいところは、学級という大きな集団ではなかなか自己主張しにくい子どもが、小グループの中では安心して自分の考えを言えるということにある。少人数だからこそ、友だちの表情やふとした発言に共感したり、何かに気づく機会も増えてくるのである。
 このようなグループ活動のメリットを授業などにもぜひ生かしていきたい。授業の中で一人ひとりの子どもが自分の考えを出し合って学ぶ場こそ、一人ひとりの子どもにスポットがあたる機会が増える。
 例えば、国語の読解などでも自分の考えをノートに記入した後で「班の友だちとノートに書いたことを発表しあってみましょう」と周りの友だちと自分の意見を交換する時間を設ける。
 ノートに書いた時点では、子どもたちはそれが合っているか否かに自信がもてず、一斉授業の場でなかなかそれを表現しにくいからである。
 答えがわからず困っている子も、友だちの意見を参考に、あらためて自分の意見がもてることもあるし、間違った答えなども小グループ内で話し合ううちに修正できる。
 子どもたちは友だちの意見を事前に聞く機会を得たことで自分の意見に自信をもち、学級全体の話し合いにも積極的にかかわってくるようになる。
 グループ分けの際に、ぼぼ均等な学力になるようなメンバー構成を考えておくと、話し合いの内容がより深められ、子ども同士での教え合いがより効果的になされていく。
 小グループでの話し合い活動が活発になされるために、友だちの意見は、まず最後まで黙って聞くこと、そして決して否定しないことを徹底させておく。小さな子どもの場合は、グループ学習の手順をできるだけ細かく指示しておく。
 例えば、初めに話す順番を決める。次に意見を発表しあう。友だちの意見を聞く場合には、自分の意見と同じところや違うところ、わかりにくいところなどを考えて聞くこと。そして、その後で質問や相談すること等を指示しておく。
 こうしたことを経験していくなかで、子ども同士が互いに教え合い、学び合う力が育っていく。
(
伊藤克子:東京都公立小学校教師)

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学ぶことで最も大切な行為は「聴く」こと、聴ける子どもを育てるにはどうすればよいか

 私は子どもたちの状況に不安を感じるようになった。その一つは、人といると疲れると感じる子どもが増え、「人と人とのつながりが希薄化している」ことである。二つ目の不安は「学ぶ意欲の低下」である。
 このような子どもの不安に対して、学校ができることは、コミュニケーション力を育成すること。もう一つは「学び合う」授業を実現することである。
 「学び」は多様な考えの交流と未知のものの探究によって、ある種の感動を伴ってすがたを現す。そのような学びを実現するのが、互いの考えを出し合い、聴き合い、考え合う「学び合う授業」である。
 「学び合う学び」は、すべての子どもの疑問も、分からなさも、気づきも同じように尊重し、それを受けとめ合う中から、互いのつながりの中で学びを生み出していく学びである。
 子どもの考えと考えがつながり合い、新たな気づきや発見が生まれる学びは、教師から一方的に教えられる学習では得られない学ぶおもしろさを生み出す。
 こうした学びの繰り返しの中で、子どもたちは他者とつながる喜びと意味を体感していく。それは、どの子も安心して学ぶことのできる教室づくりにつながっていく。
 学ぶことでもっとも大切な行為は「聴く」ことである。人間は一人では考えられることはしれている。豊かに学ぼうとすれば、他者から学び取るしかない。それには、他者の言葉に耳を傾ける態度が不可欠である。
 子どもと子どもの間に「聴き合うかかわり」が生まれた学級は、子どもの声が暖かい。表情がやわらかい。派手に主張する子どもが影をひそめ、おだやかで声のテンションが低い。受け入れられているという安心感が、子どものすがたをそのようにするのだ。
 そして、そのような雰囲気が、子どもたちをつなぐ心を引き出す。「学び合う学び」でもっとも中心的なはたらきである「つなぎ」は、このような「聴き合うかかわり」によって生まれてくる。
 聴き合うかかわりは、聴き方、聴き合い方を教えてできるものではない。「聴く」ということは、内面的な心のはたらきと、そこに存在する他者関係によって微妙に変化するものだからである。
 子どもの心のはたらきに頓着せず、子どもの他者関係を築くための人間的なはたらきかけもしないで、聴ける子どもを育てることなどできはしない。
 教師は一斉指導が染みつき、「発信型」であり、「受信」がへたであると私は思っている。教えたい、話したいということに必死になっていれば、子どもの言葉は心に入ってこない。
 問題は、教師自身に子どもの声が聴けているかということである。聴ける子どもを育てるには、何よりも先に、教師自身が「聴ける教師」になる必要がある。
 授業で子どもたちの内に生まれた、気づきや疑問を、胸をわくわくさせながら「聴こう」とすることが何をおいても大切なのだ。
 ある公開研究会で、子どもと子どもがつながり合う素晴らしい授業があった。授業が始まり、子どもと子どものつながりがまたたく間に生まれ、授業者がそんな子どものやりとりに、ゆったりと聴き入っている様子を目にしたとき、私は本当に感動した。
 授業の後、その教師は「こう分からせたい、こう言わせたいという思いを捨て、とにかく子どもの発言することをたのしもうと思って授業しました」と語ってくれたのだが、そのことばを聴いて、教師が「聴く」ということはどういうことなのかを教えてもらった気持ちになった。
 教師が本当に耳を傾けることができるときとは、子どもを信頼し、子どもの内に生まれるものを尊重し、その子どもの気づきや疑問から豊かな学びがつくれることを確信し、子どもとともに学びに挑戦する気持ちを固めたときではないか。
 それが、子どもの発言を「たのしむ」という彼のことばになったのではないか。そう思ったのだった。教師に「聴く」心が生まれたとき、子どもが言っていることの重みが初めて見えるようになる。
 聴こうとしなかったときにはまったく感じとれていなかった、一つひとつの発言の重みが分かるようになる。そうなったとき、初めて、子どものことばのつながりが少しずつ見えるようになり、そのつながりの合間に挟む教師のことばが生きるようになる。
 一心不乱に子どものことばを聴ける教師になることで、子どもと子どものつながりは見える。この授業で、もっとも私が学んだことである。
(石井順治:1943年生まれ、「国語教育を学ぶ会」の事務局長・会長を歴任、三重県の小中学校の校長を努め、退職後は、各地の学校を訪問し佐藤学氏と授業の共同研究を行うとともに、「東海国語教育を学ぶ会」の顧問を務めている)

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一斉授業の時代は終わり、協同的な学びへと世界は変化している

 今や、黒板と教卓を中心に子どもたちが机を一方向に並べ、教師が教科書を中心に説明し伝達する一斉授業の様式は、欧米諸国においては博物館に入っている。
世界の授業はつぎのように変化している。
(1)
「教授」中心の授業から「学び」中心の授業へ
(2)
「プログラム」(目標-達成-評価)型のカリキュラムから「プロジェクト」(主題-探求-表現)型のカリキュラムへ
(3)
「個人学習」から「協同学習」へ
(4)
机と椅子は4~5人ずつのテーブルになり、協同的な学びが中心となり、一斉に話し合うときは車座になる。
という変化が東洋にも影響を与え、世界規模で静かに進行しています。
 私が欧米諸国の学校で撮影した1000枚以上の写真を見ると、どの教室も小グループは男女4人で組織されていた。
 教科書はわき役となって多様な資料が持ち込まれ、教師の役割は学びのデザイナーと進行役に変化している。
 
「学び」とは教材との出会いと対話であり、クラスの子どもたちや教師との対話である。多様な考えと出会い、教材との新たな出会いと対話から自らの思考を生み出し吟味することができる。
 学びは本来、協同的である。学びは概知の世界から出発して未知の世界を探検する旅であり、新たな経験と能力を形成する挑戦である。
 一斉授業は、授業の中で学びを成立させている子どもは少数である。学びは中層の数人にしか成立していない。上層の子どもの発言はすでに概知の内容か簡単に理解できた内容でしかない。下層の子どもは授業の前半に発言の機会が与えられ、後半は黙って聴いているが、学びは成立していない。
 協同的な学びは学び合う関係によって成立する。教え合う関係ではない。協同的な学びは、「子どもたち一人ひとりの学び」と「一人ひとりの学びをより高いレベル」に導くためである。
 授業で一人残らず学ぶためにはどうすればよいだろうか。最も低いレベルの子どもの問いを授業の中に取り組む。そして、学ぶ内容を高いレベルに設定し、上層の子どもが学ぶようにする。
 学びを中心とする授業は、通常の授業よりも高く設定された内容と最もわからない子どもの問いとの間の大きなギャップを、教師と子どもたちとで協同で埋めていく授業である。この困難な課題を達成するのが小グループによる協同的な学びなのである。
 ポイントは、子どもたちの間に聴き合う関係が生まれていることである。聴き合う関係がないと成果が期待できない。教室に聴き合い学びあう関わりが成立するためには、子どもたち一人ひとりの個性的な学びと多様な読みを尊重することであり、教科書の言葉を大切にして内在する学びの発展性を尊重することである。
 それと、グループ活動の中で、わからない子どもが「ねぇ、ここどうするの?」と仲間に問いかける指導の徹底である。仲間に問いかけることが十分に定着していれば、教師も子どもも安心して高いレベルの学びに挑戦することができる。グループは男女混合の4人のほうが学びが生まれやすい。
 協同的な学びは、学びの主体は個人である。リーダーは不要である。一人ひとりの多様な学びのすり合わせであり、どの子も対等な立場で参加する必要がある。グループ内の一人ひとりの考えや意見の多様性を追求する。決してグループ内の考えや意見の一致や、まとまりを求めてはいけない。班学習のように班を代表して意見を言わせてはならない。
 協同的な学び(グループ学習)を導入すると、子どもがおしゃべりをしてしまうことを嫌う教師がいる。それらの教師の授業を観察すると、教師がおしゃべりであることがほとんどである。そうでなければ、教師の言葉が子どもに届いておらず、子どもとは無関係に一方的に授業を進めているケースも多い。
 協同的な学びを導入してもおしゃべりしてしまう教室は、もともと授業が学びのない授業になっている場合がほとんどである。そうでない場合は課題がやさしすぎるからである。協同的な学びの意義は、一人では到達できないレベルに仲間との協同によってできることにある。まずは1時間の授業の中に数分でも協同的な学びを導入することが重要である。
 協同的な学びを導入すると進度が遅れる不安が教師にある。しかし、協同的な学びに成功している教師たちは進度を遅らせてはいない。単元の進行にメリハリをつけ、素早く押さえるところと、じっくり発展的に学ぶところを効果的にしている。もう一つは、協同的な学びを基礎的な事項と高いレベルの発展的な事項と総合して学び合うことである。
(
佐藤 学:1951年生まれ、東京大学教授を経て学習院大学教授 学校を訪問(国内外2800)し、学校現場と共に「学びの共同体」の改革を進めている)

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わからないことを、迷い考える過程で発見の喜びやわかる面白さを感じる、これが学びである、効率よくわからせることではない

 学校は、子どもたちをわかるように、できるようにすることが求められています。子どもたちは、わかること、できることがよいこと、わからない、できないことは恥ずかしいことという価値観を持っています。この学校教育の体質はなかなか変わりません。
 教師は「『できるようにする』ことと、『学びがある』ことは同じでない」ことを理解する必要があります。たとえば、算数で三角形の面積を求める授業を考えてみます。たんに面積を求める公式にあてはめて計算するのではなくて、どうしてそういう式で求められるのか、図形を描いたり切ったりしながら、みんなで考えてみると、発見があります。学びが生まれるということは、発見があるということです。それまでの知識や技能がより深まるということです。学んだという実感が豊かになるのです。つまり学びがあるというは、たんに何かがわかったということではないのです。
 学びは、学級で一斉に同じことを学習していたとしても、全員が同じ学びになるとは言えないということです。学びは、三角形の面積を求める公式は一つであっても、どこでどのように心を動かし、どのように気づきをしたのかは、一人ひとりみんな微妙に異なるからです。教師は、このことをしっかり認識する必要があります。
 「学びがある」とは、わかった、できたという結果でないということがはっきりしてきます。学びの多くは、わかるように、できるようになる「過程で学びが生まれる」ものです。わたしたち教師は、早くわかるようにすることよりも、ああでもない、こうでもないと迷い考える過程を大切にする必要があります。その過程で、発見の喜び、わかる面白さを感じるとともに、そういう手さぐりの過程を経験することで、これから出会うであろうさまざまな「わからない」ことに挑む意欲を引き出すことができるからです。
 そのとき大切にしなければならないのは、すでにわかっていると思っていた子どもが、本当はわかっていなかったのだと気づくことです。「わかる」ということは、奥深さがあるのです。「わかる」ことに終わりはないのです。だからこそ人はわかりたいのだし、わかることがおもしろいのです。
 「わからない」ことは、劣っていて、恥ずかしいことではないのです。「わからない」ことがあるから探究できるだということを忘れてはならないのです。つまり「わからない」ことは学びの大切な出発点なのです。「わかること」の奥深さを感じながら、急がず、多くの子どもたちとともに、どこまでも探究する世界を歩み続けられたら、どんなによいだろうかと思います。
 だとすると、最もよいのは「わからない」ことを、子どもから発せられることですが、ところが学校の授業は、「わからないこと」を問うのは教師、答えるのは子どもになっています。つまり、子どもたちは自分の「わからない」ことを学んでいるわけではないのです。
 この現状を変えるには「わからない」ことを子どものものにすることから始めなければなりません。まず、教師が課題を出すときは、子どもがなんとしても解きたいと思える魅力的な提示を心がけたいものです。その子どもの自らの「わからないこと」になるように、子どもの気持ちに寄り添った工夫が必要です。
 さらによいのが、子どもの方から、発せられることですが、何を学習するかは教師がすべきことで、子どもに任せるわけにはいきません。
 では、その子どもの自らの「わからないこと」は、どうすれば発せられるようになるのでしょうか。それは課題に挑む過程で生まれます。魅力的な学びは、適度な難しさのある課題が必要です。よい課題が魅力的に提示されると、子どもたちはその難しさに立ち向かい始めます。そうすると、必ずそこに「わからない」ことが生まれます。そうすれば、子どもたちは、自らの「わからない」ことから学びを出発させることができます。
 そこで、必要になるのが、その「わからない」ことを子ども同士で受けとめ合えるようにすることです。「学び合い」です。少人数グループによる学習の場を多くし「友だちに尋ねる」「友だちとともに考える」ことが当たり前になるようにするのです。
 ここまで考えてくると、最も大切なのは教師の「わからないことこそ、学びの出発点」という認識だと思われます。効率よくわからせることに価値観を抱いていた教師にとって転換することは容易なことではないようです。それを変える第一歩は、学ぶ子どもの気持ちを考えるようにすることです。どう教えるかという教師の側の論理から離れ、あの子だったらどんな考え方をするだろう、この子だったらどこで難しくなるだろうと考えるようにすることです。子どもに寄り添える教師のみが、子どもの「わからない」ことが見え、「わからないことこそ、学びの出発点」だと心底考えることができるのです。「学び合う学び」の扉は、このような教師の努力によって開かれていくでしょう。
(石井順治:1943年生まれ、「国語教育を学ぶ会」の事務局長・会長を歴任、三重県の小中学校の校長を努め、退職後は、各地の学校を訪問し佐藤学氏と授業の共同研究を行うとともに、「東海国語教育を学ぶ会」の顧問を務めている)

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「学び合う学び」が生まれるためには、子どもの気づきや疑問から学びを始めようとする必要がある

 私は毎日のように各地の学校の授業を見ている。そうした経験を重ねるうち、授業が始まって10分もしないうちに、その授業がどのような授業になるか想像がつくようになった。
 意欲的な学びが展開される授業になるか、重苦しい授業になるか、騒々しい散漫な授業になるか、どういう方向で学びが進められそうか、そういったことが見えるようになったのだ。
 それは、その日のテキストとの出会いが授業を始める数分間でなされるからである。それを見ることで、子どもたちの学びのすがたが予想できるのである。
 私は、「学び合う学び」が生まれるためには、「子どもの気づきや疑問から学びを始める」「子どもの考えから出発する学び」にすることが必要だと思っています。
 そのためには、一人ひとりがテキストと出会わなければならない。その子どもなりにテキストと対話をしなければならない。その場と時間が不可欠なのである。つぎに二つの例をあげる。
 A教師の「春のうた」では、詩が印刷されたプリントが配られると、教師から何も言われなくても子どもたちは音読を始めた。一回だけではない。何度も何度もくり返し音読した。
 これが子どもとテキストとの出会いである。音読した後、教師が「どうやった?」と問うと、子どもたちは「ケルルン、クック」や「いぬのふぐり」が分からないという反応がすぐ出ている。子どもたちは音読をしながら、詩と対話をしているのである。
 B教師の「ゆずり葉」においては、授業の冒頭、書き込む時間をとっている。鉛筆の音だけが響く静寂な時間であった。それはまさに一人ひとりが詩と出会う時間だった。
 その間、教師は余分なことは一切言わない。ただ、子どもたちの机のあいだを回りながら、見ているだけである。そして「はい、そしたら、だれからでもいいから・・・」と言って授業が進行していった。
 これらは、教師が教えることを決めて、それを一つひとつ尋ねて答えさせていく授業とは根本的に違う。テキストとの出会いと対話から生まれた子どもの気づきや疑問を、学びの素材として位置づけようというのだ。
 先生は何を言わせようとしているのだろうか、と受け身で考えなければならない授業と、自分たちの思ったことが自由に言え、そこから学びがつくられていく授業と、子どもたちはどちらがたのしいと思うだろうか。どちらに魅力を感じるだろうか。
 それでは、なぜ授業でAやB教師の子どもたちは、あのような集中力を発揮したか、ということである。音読も書き込みもポピュラーな方法である。そこにはどういう違いがあるのだろうか。
 それは、教師の対応の違いなのである。
 つまり、本気で子ども一人ひとりに生まれるものを大切にしようとしているか、本当に子どもの気づきや疑問から学びを始めようとしているか、その教師の対応の違いが子どものすがたに確実に影響しているのだ。
 四月から毎日毎日、くり返し授業を行っている。そのくり返しの中で、子どもは感じ取っていく。自分たちの先生はどんな先生なのか、どんな魅力があるのか、本気で自分たちのことを見てくれているのか、そういったことを理屈でなく肌で感じ取っていく。子どもは敏感なのである。
(石井順治:1943年生まれ、「国語教育を学ぶ会」の事務局長・会長を歴任、三重県の小中学校の校長を努め、退職後は、各地の学校を訪問し佐藤学氏と授業の共同研究を行うとともに、「東海国語教育を学ぶ会」の顧問を務めている)


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協同的な学びをつくるためにはどのようにすればよいか

 協同的な学びは、生徒たちを授業の中でつなぐことによって、生徒同志で補い合い高め合う学びを生み出そうとするものである。すべての生徒が励まし合って学び、高いレベルの挑戦を行うことを可能にする。
 協同的な学びの良さは、学びが主体的・能動的になる。理解したことを他者に説明する場面が多いために、学んだことが定着しやすいし、応用がきく。考える力、問題解決の力が育つ。仲間から必要とされるため授業中に居場所ができる。学び合う仲間ができる。
 欠点は、協同的な学びは一斉授業よりも教師の準備が大変ということだろう。「何を教え、どう考えさせるか」「そのためには、どのような問いをつくるか」「どのような資料を用意すれば学びが深まるか」まで考えなければならない。しかし、それがうまくいったときは生徒と教師が幸せな気分になる。
 次のステップを参考にして考えると「協同的な学び」の授業を組み立てやすい。
(1)
授業の目的、流れ、課題の説明(教師)
(2)
生徒が課題に取り組む(4人のグループ)
(3)
課題について全体で交流し、深め合う(互いの顔が見える、コの字型の座席で)
(4)
ジャンプ(高いレベルの)課題の提示(教師)
(5)
ジャンプ課題に取り組む(生徒)
(6)
ジャンプ課題について全体で交流し、深め合う
(7)
まとめ(教師による解説、生徒による振り返りなど)
 効果をあげている学校は、月に一回程度校内で授業公開している。全ての教師が年に一度は提案授業を行うと効果がうまれやすい。
 授業公開で授業を見る際は、生徒がどのように学んでいたか注目し、その様子を観察し、検討会(学年単位)で授業者に伝えるようにする。
 ビデオで授業を教室前方から記録すると、あとで振り返るときに役に立つ。
 協同的な学びの授業検討会は、授業を見た教師全員から、生徒がどのように学んでいたかということを中心に意見や感想を話してもらう。そのあと、授業者から話をしてもらい、さらによいものにしていくために協議をする。
 教師がどう教えたかではなく「生徒が学びに集中したとき、どのような工夫がなされていたか」など、生徒がどう学んだかに着目して話し合うようにする。
 全校で授業検討会ができるようになると生徒の変化は早く、よい方に変わってくる。とはいえ、協同的な学びは、教師も生徒も、探求する中で深まっていくものである。教師が授業内容の吟味や、やり方の工夫を怠ると、だんだん崩れてくる。だから、教師は常に学び続ける必要がある。
 協同的な学びの研究会が全国にできつつある。「学びの共同体研究会」では、ホームページをつくっている。研究会や公開授業検討会の情報が得られるし、助言者を派遣してもらいたいときは相談できる。
(
和井田節子:1958年生まれ、25年間千葉県公立高校教師、スクールカウンセラー、名古屋女子大学准教授を経て共栄大学教授。若い教師をサポートする会代表、専門は学校臨床学)


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学びの共同体づくり-静岡県富士市立岳陽中学校

 岳陽中学校の教師たちの活動は分掌と部活と教科の壁で仕切られ、日々、会議と雑務が多忙の中で教師は孤立し、教室の壁は固く閉ざされ、その結果、非行・問題行動は多発し、不登校の生徒は4%の38人に達し、授業中に廊下を徘徊する生徒もいて学力は市内でも最底辺に位置し、地域からの苦情も絶えなかった。
 その岳陽中学校が、3年後に、すべての生徒が教室で学び合う関わりを築き、すべての教師が年間80回の授業研修をとおして同僚性を築き、不登校の生徒を6名に激減させ、学力を市内のトップレベルに向上するとは、私と校長を除いて、生徒も親も教師も誰も信じていなかった。
 その学校改革の中心は日々の授業づくりに求められた。すべての授業で、生徒の「活動(作業)」を取り入れ、数分でもグループによる「協同」の話し合いと、多様な意見を交流する「表現の共有」を、次第に試みられるようになっていった。
 もう一つの学校改革の柱である「同僚性の構築」に向けて、校長は教師全員が1年間に最低1回は授業を公開し、相互に批評し合う研究会を行うことを提起した。「学びの共同体づくり」の授業の力量を高めることが求められたのである。
 校長が腐心したのは、授業検討会の時間の確保である。すべての教師が実施するには年間40回を必要とする。全校研修会で毎回二人ずつ行い、学年の授業研究会ではビデオを活用した。指導案も準備せず、事前の検討会や研修のまとめも行わないことにした。
 授業の検討は、教室の事実に即して「活動(作業)」と「協同(グループ学習)」「「表現の共有」の三つの要素がどのように機能していたかを検討し、どこで生徒の学びが成立し、どこでつまずいたのかを一人ひとりの生徒の姿に即して詳細に検討することが積み重ねられた。一人ひとりの教師の観察した印象や発見を率直に言い合い、すべての教師が対等に意見を出し合う研修が求められた。
 「授業の改革」と「同僚性の構築」に加えて、総合学習の実践を中心に、保護者や市民が教師とともに授業づくりに参加する「学習参加」の実践が学年ごとに少しずつ取り組まれていった。
 変化は緩やかに、しかし劇的に進展した。約半年後、授業の事例研究が30回に達する頃から学校と教室の風景は一変した。
 どの教室でも、教師のテンションが下がり、声のトーンも柔らかくなるにつれ、生徒一人ひとりが柔らかく真摯に学ぶ姿が見られるようになった。授業中に教室を出ていったり廊下を徘徊したりする生徒はいなくなり、机につっぷしている生徒も激減した。教室に知的で健康的な笑いがよみがえった。校内の暴力事件や非行も起こらなくなった。
 教室の学び合いを実現することによって、生徒一人ひとりの尊厳が打ち立てられ、学びによる対話が蘇ったのである。
(
佐藤 学:1951年生まれ、東京大学教授を経て学習院大学教授 学校を訪問(国内外2800)し、学校現場と共に「学びの共同体」の改革を進めている)

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「学び」は教室の子どもたちをばらばらにすることではない

 「学び」を中心とする授業がブームである。教師中心の授業からの脱皮を促すとしても、子ども個人がそれぞれに自主的に学ぶ授業に移行してしまっては、いったい何のための授業改革なのか、わけがわからなくなってしまう。寺子屋にもどしても何の意味もない。教室をバラバラな個人に解体することではない。
 実際、子どもの学びを中心とする授業では教師の活動が消極的になると考える教師は多い。実際は逆であって、学びを中心とする授業における教師は、一斉授業以上に積極的に子ども一人ひとりと複雑に関わるべきである。
 子ども一人ひとりを注意深く観察しながら、具体的な作業を示して学びの展開を触発し、多様な発見や意見の交流を組織し、学びの活動が豊かで深い経験になるよう、さまざまな働きかけを行うのである。
 「交わり」と「つながり」を生みだす、活動が教師の仕事の中軸を構成する。
 しかし、ほとんどの教室では、教師の観察が十分とはいえないし、子どもの学びのつまずきを援助したり、子どもの相互のコミュニケーションを促進したり、子どもの発見を発表させて考えを高める教師の働きかけは、ぞんざいにしか展開されていないのが現状である。
(
佐藤 学:1951年生まれ、東京大学教授を経て学習院大学教授 学校を訪問(国内外2800)し、学校現場と共に「学びの共同体」の改革を進めている)

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教室に子どもたちが交わり育ち合う関係を築くにはどうすればよいか

 学びを中心とする授業は、子ども一人ひとりが課題を持って探究し合い、交わり育ち合う関わりを教室に築くところから出発すべきだろう。
 教材と対話し仲間や教師と対話し、自分自身と対話する学びを中心にすえることである。
 具体的には、作業のある学び、グループ活動のある学び、そして、自分のわかり方を作品として表現し、仲間と共有し吟味し合う活動のある学びを指導し組織することである。
 しかし、このような学びを組織することは容易なことではない。モノや他人への無関心という、子どもたちが抱かえ込んでいる大きな問題に直面せざるをえないからである。
 だが、この世界には学ぶに値するものが無数にあるし、仲間と共に学び合うことは豊かないとなみであり、学びをとおして私たちは自分の人生や生きている世界を変えることができる。
 今の子どもは、教室の中にいても近くの数人の範囲でしかコミュニケーションをはかろうとしない。遠くの子どもたちとコミュニケーションをとるようになるには、気の遠くなるような挑戦が繰り返さなければならないだろう。
 身近な教室の出来事を、もう一度つぶさに観察してみよう。交わりながら育つ関わりを教室に築く契機は、日々の出来事のなかに無数に存在している。一つひとつのわかり方や感じ方の小さな違いに細心の注意を向けてゆくこと、そこから実り豊かなコミュニケーションの一歩を踏み出すことができる。
(
佐藤 学:1951年生まれ、東京大学教授を経て学習院大学教授 学校を訪問(国内外2800)し、学校現場と共に「学びの共同体」の改革を進めている)


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