カテゴリー「学び合う学び」の記事

子どもたちの目が輝き、子どもたちがつながり合って学ぶ「学び合う学び」を創造するにはどうすればよいか

 授業で子どもたちの目が輝いているということは、全身で学んでいるということである。このような教室をつくることは容易ではない。
 子どもたちの目が輝いているということは、そのテキストなり課題に子どもたちが真摯に立ち向かっているということである。
 子どもたちがどのようにテキストと出会い、どのように対話しているかを探れば、輝く目の秘密を解き明かすことができるだろう。
 私は、毎日のように全国各地の学校を訪問し、数多く授業を見ている。そうした経験を重ねるうちに、授業が始まって10分もしないうちに、その授業がどのようになるか想像がつくようになった。
 それは、その日のテキストとの出会いが授業を始める数分間でなされるからである。その出会い方がどのようなものかを見ることで、その後の子どもたちの学びの姿が予想できるのである。
 私は「子どもの考えから出発する学び」にすることが必要だと考えている。
 まずは、子どもがどう考えるか、そこから学びをつくっていかなければならない。
 そのためには、一人ひとりの子どもがその子なりにテキストと対話しなければならない。
 例えば、「春のうた」の詩が印刷されたプリントが配られると、子どもたちは音読を始めた。何度も繰り返し音読した。これが子どもとテキストの出会いである。
「ケルルン クック」が分からないという反応がすぐ出てくる。音読しながら、何だろうと考え、詩と対話をしている。それはまさに、子どもたち一人ひとりと、詩との出会いである。
 学ぶ基本は個人に存在するけれど、それはまた他者とのかかわり、つながりを抜きにしてはありえない。
 学校は大勢の子どもが集う場なのだから、触れ合う多くの仲間から、多くのことを学び、それぞれが豊かになっていけるようにしなければならない。
 そう考えると、子どもたちを「つなぐ」ことが非常に重要なことである。そのためには、子どもたちが「聴き合う」姿勢が大切である。
 学ぶことにおいて、最も大切な行為は「聴く」ことである。豊かに学ぼうとすれば、他者から学び取るしかない。それには、他者の言葉に耳を傾ける態度が不可欠である。
「学び合う学び」ができている教室では、子どもたちは、仲間の言葉を全身で聴き、それを自分の考えと「つなぎ」、そしてテキストともつないだうえで、発言している。
 子どもと子どもの間に聴き合うかかわりが生まれた学級は、表情がやわらかい。受け入れられているという安心感がそのようにするのだ。
 子どもたちを「つなぐ」のは、聴き合うかかわりによって生まれてくる。
 聴ける子どもを育てるためには、何よりも先に、教師自身が「聴ける教師」になる必要がある。
 教師が本当に「聴ける教師」になるためは、子どもの気づきや疑問から豊かな学びがつくれることを確信し、子どもとともに学びに挑戦する気持ちを固めたときなのではないか。
 教師に「聴く心」が生まれたとき、子どもが言っていることの重みが初めて見えるようになる。
 そうなったとき、初めて、子どものことばのつながりが少しずつ見えるようになる。そのつながりの合間に挟む教師の言葉が生きるようになる。
 学び合う学びで大切なことは、「聴く」、「つなぐ」ことと、もう一つ「テキストへの戻し(つなぎ)」がある。
 子どもたちの考えをつないで学びを進めていくときに、教師の判断でテキストに戻さなければいけない場面が出てくる。
 ところが、そのことがわかっていても、話し合いの授業になると、子どもたちの一つひとつの言葉で頭がいっぱいになるからか、そのことを忘れてしまう傾向がある。
 そして、発見と進展のない堂々巡りのことばのつらなりに陥り、結局は子どもたちを疲れさせてしまう授業のなんと多いことか。
 ある教師の「春のうた」の授業において、音読を多用している。
 最初のめいめい読みをたっぷりさせていることも、最後に、自分の思う何かになって音読したり、ペアになって読む活動を取り入れているのも、音読を重視しているからにほかならない。
 しかし、この教師が音読の大事さを本当に理解していると感じるのは、次の場面である。
「なるほどな。・・・・・ちっょと待って。一回、自分で声を出して読んでみて」
「先生、わからへんようになってきた。もう一回、読んで。先生も読むから」
 これは、二つとも、テキストから感じたこと、イメージしたこと、疑問に感じたことを出し合う話し合いの場面において発せられたものである。
 最初のものは、この詩の世界とは少し離れかけたときに出されたものであり、後のものは「雲」と「蜘蛛」という二つの考えが出て混乱しかねない状態になったときに出されたものである。
 この教師は、それまでに出された子どもの考えがどうなのか、という教師の考えは一切言わない。
 都合のよいものを取り上げる気配もない。どちらか一つに決着をつけるそぶりもない。ただ、音読させているだけなのである。
 ところが、初めの場面では、子どもたちはすっとテキストの世界に戻ってきているし、後の場面でも「くも」に対する子どもたちのイメージが豊かになっている。
 この事例を見るだけでも、テキストに戻すことが「読み」の授業における基本であると理解することができる。
 子どもたちはみな、学びの中でいろいろなことを考えているのだ。それをペアやグループによる学びの時間を取れれば、考えを語ることのできる確率が高くなる。
 ということは、そこでの学び合いは、全員による話し合いよりも、子どもの気づきや発見が直接的に交流され、レベルが高まったりするのではないだろうか。
 そう考えると、ペアやグループによる学びは「学び合う学び」を行ううえで、必要不可欠なものになる。
 グループの学びの原則は、人数はあまり多くしないで、男女混合にすること、課題をはっきり示すこと、全員の考えを聴くこと、考えを一つにまとめないことなどである。
 なかでも、よい考え一つにしぼるような話し合いにしないことが重要である。それをすると、必ず誰かが自分の考えを押し付けるようになる。
 そうではなく、どんな考えも、より添い合って聴くこと、そして、互いの考えを比べながら、それぞれが自分の考えを見つめることである。
 他者の考えを聴き知ることで、自分の考えを磨き、発見していく。そういうグループの学びが望ましい。
 子どもと子どもがつながり合って学ぶ「学び合う学び」は、教師自身が、他者から学び、他者とともに学び合う「こころ」をつちかっていくことが「学び合う学び」を創造することにつながるのではないか。
(石井順治:1943年生まれ、「国語教育を学ぶ会」の事務局長・会長を歴任、三重県の小中学校の校長を努め、退職後は、各地の学校を訪問し佐藤学氏と授業の共同研究を行うとともに、「東海国語教育を学ぶ会」の顧問を務めている)

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一人も見捨てられない「学び合いの授業」をするには、どうすればよいか

「学び合い」とは、一人も見捨てられない教育の考え方です。そのために、次の考え方を共有します。
(1)
子どもたちは有能である。
(2)
教師の仕事は目標の設定、評価、環境の整備をおこなう。
(3)
学習は子どもたちに任せる。
(4)
学校は多様な子どもたちと折り合いをつけて学び、目標の達成を経験する場である。
「学び合い」授業は、目標を示して、子どもたちに任せて、評価して、振り返りをします。
 例として、小学校2年生の「学び合い」の授業の展開はつぎのようになります。
(1)
授業の最初に、子どもたちに対して目標(課題、めあて)を示す。
教師「今日の課題は、全員の子どもたちができる〇〇です」
(2)
教師「はい、ぞうぞ」と、子どもたちに活動を任せる。
(3)
教師は子どもたちに任せたら、じゃまはない。すると、子どもたちは一緒に考え出す。
(4)
子どもたちは、あちこちで自由に説明し合う。 
(5)
教師は、残り時間がどのくらいあるのかを子どもたちに知らせる。
教師「あと、3分です。まだ分からないという、お友だちいないかなあ」
 みんなができているかどうかが大切です。
(6)
振り返りをする
 みんなが目標を達成したかどうかを、みんなで確認して、振り返りをする。
「学び合い」は、30年後の未来に生きる子どもたちを一人も見捨てられない共生社会を実現できる人として育てる教育です。
 それは言い換えると教師自身「〇〇しなさい」の文化から「考えなさい」の文化の構築への転換を求めている考え方の教育であるとも言えます。
 それは「子どもたちの有能な力を信じ」て、判断と決定、そして実行を「子どもたちに任せる」という「学び合い」の考え方と、教師自身の「ぶれない考え」と「一貫した本気」に支えられることになります。
 教師が何とかしようと思っている限り、状況はあまり変化しません。
 教師には限界があるので、子どもたちの力を信じて任せてみようと、発想を変えたとたんに、状況は劇的に改善します。それが「学び合い」です。
 学級づくりが基礎となって教科指導が行われるだけに、学級づくりがしっかりしていないことには、なかなか一人も見捨てない教育が花開きません。
 学級の持つ文化がそうでない場合には時間がかかります。
 そのときには「みんなが目標を達成するには、どうしたらよいのだろうか、みんなで話し合ってみよう」という働きかけを繰り返します。
 子どもたち自身による、子どもたちのためのサポートと、みんなができる学びを醸成していくことが必要です。
 学級づくりによって、一人も見捨てられない文化が構築されているクラスですと、爆発的でミラクルな子どもたちが展開されます。
 短期間で効果を期待する場合、異学年の「学び合い」がお薦めです。
(
三崎 隆:1958年新潟県生まれ、信州大学教授。専門は臨床教育学。一人も見捨てない教育の実現をめざしている
)

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教育困難な学校の共通した特徴とは、どうすれば困難を克服することができるのでしょうか

 今年も困難な小学校、中学校、高校へ、毎月5校以上訪問してきた。
 これら困難な学校の共通した特徴が貧困である。そして、家庭と地域の崩壊である。その底には子ども、保護者、学校の間の信頼の崩壊がある。より根本的には一人ひとりの孤立がある。
 荒れる子どもたちの底には、無力とあきらめを身体の芯まで染み込まされた、日陰でしか生きられない子どもたちが存在する。
 困難を克服した学校も多く訪問することができた。A小学校は貧困率が7割以上で低学力の状態にあったが、学びの共同体の継続的な実践によって、全国水準を上回る学力水準になった。
 学びの共同体の学校は、ほぼすべての学校で著しい学力向上を達成している。
 訪問をとおして、教育における数々の困難を克服するカギが見え始めてきた。
 A小学校の教室を訪問して感嘆するのは、どの瞬間も一人の子ども一人になっていないことである。1,2年生はペア学習の仲間同士がつながって学び合っている。3年生以上の子どもたちは、どの瞬間もグループの仲間同士でつながり合い、支え合って学び合っている。
 この小学校とほぼ同じ姿が、荒れや不登校や低学力などの困難を克服した中学校、高校にも見られる。そこに共通しているのは、一人の子どもも一人にしない教室の姿である。
 荒れる子ども、低学力の子ども、つまずく子どもは、すべて一人になった子どもたちである。
 教師から見捨てられ、仲間からも見放され、地域の人々からも見捨てられた子どもたちである。
 その子どもたちが教師から疎まれ、仲間から排除されていると感じたとき、授業の妨害や暴力行為へと向かう。教師との衝突を繰り返す。それ以外に、自らの存在を証明する手立てを失っているからである。
 したがって、教育困難校において何よりも大切なことは、一人ひとりが抱かえている困難や危機を学校全体で引き受けることである。
 一人も一人にしない教室、一人も一人にしない学校づくりこそが「教育困難校」の取り組むべき中心課題と言ってよいだろう。
 一人も一人にしない教室と学校を実現すれば、子どもと教師と学校が抱かえるほとんどすべての困難と危機が克服され、絶望の学校を希望の学校へと再生することができる。
 学びの共同体の学校は、このポリシーによって多くの教育困難校を希望の学校へと改革してきた。
 大阪府にある東大阪市の金岡中学校を訪問した。教室で奇声をあげる子、机を離れる子、机に突っ伏してしまう子もいるが、学校全体が温かい空気に包まれ、教師と子どもの関係は深い信頼で結ばれ、子ども同士の関係も優しい支え合いが基調となっている。
 同校は、学びの共同体の実践を9年間持続してきた。その結果、大阪府の中でも困難校として知られていた同校は、今では問題行動と不登校は激減し、学力水準も数学B問題では全国平均を上回って、府内外から高く評価されている。
 金岡中学校の素晴らしさは、どの教師も子どもの危機や困難をまるごと引き受けているところにある。教師の細やかな配慮と忍耐強い精神力と温かな包容力と知性的な教育実践を支えているのが、同校の教師たちの同僚性である。
 若い教師が多いのに、この学校では一人の生徒も一人になっていないし、一人の教師も一人になっていない。
(
佐藤 学:1951年生まれ 東京大学教授を経て学習院大学教授。学校を訪問(国内外2800)し、学校現場と共に学び合う学びの改革を進めている)

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子どもが夢中になって学び、問題行動が減る「学びの共同体」の実践で大切なポイントとはなんでしょうか

 学びは「他者の声を聴く」ことを出発点としている。学びは対話的なコミュニケーションを基礎としている。その対話的なコミュニケーションを成立させるものは「聴き合う関係」である。
 学校ほど対話の重要性が叫ばれている場所はない。いくら協同学習(グループ学習)を導入したとしても、そのコミュニケーションが「話し合う関係」に終始しているならば、そこに学びは成立していない。
 子どもたちが学び合う関係は「活発な話し合い」ではなく、ぼそぼそとつぶやきのある「聴き合う関係」を基礎としている。
 話し合いが活発になるのは、すでに知っていることを発表しているからであって、自分のわからないことを探究しているからではない。
 自分のわからないことを探究するときは、子どもたちはぼそぼそとつぶやいたりする。学びで「聴き合う関係」とは「自分のわからないことを明確にしていく関係」でもある。
 一般の学校の授業は、学びの課題のレベルが低すぎる。教科書以上の学び(ジャンプのある学び)が必要である。
 学校の授業における「学びの共同体」の実践は、教科書以上の学び(ジャンプのある学び)を重視してきた。
 授業で、教科書レベルの「共有の学び」と、教科書以上の「ジャンプのある学び」の二つを協同学習で学ぶのである。
「学びの共同体」の実践の重要ポイントは
1 学びの場づくり
(1)
教室の机の配置
 聴き合う関係や学び合う関係をつくるために、コの字型の机の配列(小学校1,2年生では密着したコの字型)にする。
(2)
教師のテンションをさげた声と選ばれた言葉
(3)
教師の息づかいと子どもの息づかいが一つになっていること。
2 授業の課題づくり
 学びを中心とする授業づくりにおいては、子どもたちが夢中になって取り組む学びを組織するために、
(1)
どの子も一定の理解を形成する、教科書レベルの「共有の学び」の課題
(2)
その知識を活用して発展的な探求に挑戦する「ジャンプの学び」の課題
の二つが授業のデザインとして具体化されていなければならならい。
 一般のほとんどの授業は課題が一つであり、内容レベルが低すぎる。基礎的な理解と創意的で発展的な学びの両者を可能にする授業の課題づくりが、授業改革の要件となる。
3 ペア学習と協同学習(グループ学習)の導入
 小学校の1,2年生ではペア学習、小学校3年生以上(中学校・高校)は男女4人グループによる協同的な学びを「共有の学び」「ジャンプの学び」に導入する。
4 校内研修の改革
 すべての教師が最低年に1回は授業を公開し検討し合う同僚性を築くことなしには、授業の改革も学校の改革も実現しない。
 また、授業協議会で、子どもたち一人ひとりの学びの事実を中心に話し合い、授業者への助言ではなく教室の事実から学び合う話し合いを実現させなければ、校内に専門家として育ち合う同僚性を形成することはできない。
 教師としての成長は、教師相互の援助と学び合いにもある。経験の相互交流と見識の伝承により育ち合う関係を築き上げて、教師は成長していくのである。
5「学びの共同体」の協同的な学び(グループ学習)
 協同的な学びは学び合う関係によって成立する。教え合う関係ではない。協同的な学びは、「子どもたち一人ひとりの学び」と「一人ひとりの学びをより高いレベル」に導くためである。
 授業で一人残らず学ぶためにはどうすればよいだろうか。最も低いレベルの子どもの問いを授業の中に取り組む。そして、学ぶ内容を高いレベルに設定し、上層の子どもが学ぶようにする。
 学びを中心とする授業は、通常の授業よりも高く設定された内容と、最もわからない子どもの問いとの間の大きなギャップを、教師と子どもたちとで協同で埋めていく授業である。この困難な課題を達成するのが小グループによる協同的な学びなのである。
 ポイントは、子どもたちの間に聴き合う関係が生まれていることである。聴き合う関係がないと成果が期待できない。
 教室に聴き合い学びあう関わりが成立するためには、子どもたち一人ひとりの個性的な学びと多様な読みを尊重することであり、教科書の言葉を大切にして学びの発展性を尊重することである。
 それと、グループ活動の中で、わからない子どもが「ねぇ、ここどうするの?」と仲間に問いかける指導の徹底である。
 仲間に問いかけることが十分に定着していれば、教師も子どもも安心して高いレベルの学びに挑戦することができる。グループは男女混合の4人のほうが学びが生まれやすい。
 協同的な学びは、学びの主体は個人である。リーダーは不要である。一人ひとりの多様な学びのすり合わせであり、どの子も対等な立場で参加する必要がある。
 グループ内の一人ひとりの考えや意見の多様性を追求する。決してグループ内の考えや意見の一致や、まとまりを求めてはいけない。班学習のように班を代表して意見を言わせてはならない。
 協同的な学びを導入すると、子どもがおしゃべりをしてしまうことを嫌う教師がいる。それらの教師の授業を観察すると、教師がおしゃべりであることがほとんどである。
 そうでなければ、教師の言葉が子どもに届いておらず、子どもとは無関係に一方的に授業を進めているケースも多い。
 協同的な学びを導入してもおしゃべりしてしまう教室は、もともと授業が学びのない授業になっている場合がほとんどである。そうでない場合は課題がやさしすぎるからである。
 協同的な学びの意義は、一人では到達できないレベルに仲間との協同によってできることにある。まずは1時間の授業の中に数分でも協同的な学びを導入することが重要である。
6「学びの共同体」の実践の成果
 学びの共同体の学校は、子どもたちが学び育ち合う学校であり、教師たちも教育の専門家として学び育ち合う学校である。
 どの子どもも最初から最後まで夢中になって学び、しかも奇跡的と思われる学力の向上を達成してきた。教科書以上の学び(ジャンプのある学び)が、もっとも「質の高い学び」を創造してきたのである。
 「学びの共同体」づくりを推進した学校は奇跡と呼べる成果を達成している。
 
「浜之郷スタイル」(小学校)「岳陽スタイル」(中学校)を導入し、「学びの共同体」づくりを推進した学校では、どんなに荒れた学校でも、約1年後には教師と生徒の間トラブルや生徒間の暴力は皆無に近い状態になり、生徒たちが一人残らず積極的に学びに参加する状態へと変わっている。
 そして改革を始めて2年後には、不登校の生徒の数は改革前の3割から1割程度に激減する。成績の低い生徒の学力が大幅に向上し、3年後には成績上位者の学力も向上して市内でトップクラスの学校へと再生する。
(
佐藤 学:1951年生まれ 東京大学教授を経て学習院大学教授。学校を訪問(国内外2800)し、学校現場と共に学び合う学びの改革を進めている)

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授業を楽しく安心できる場にするには、どうすればよいでしょうか

 推測し想像しながら、みんなで発見していくような授業は、子どもたちも大好きです。いっけん、学習意欲に欠けているかのように感じられる子どもたちが、目を輝かせて学習する事実に、私たちは着目していかねばなりません。人間はそもそも深く考えることを好む動物なんだ、とあらためて思います。
 子どもたちは、学習を拒否しているのではないのです。知的好奇心が高まり、未知の世界との出会いがあるような学習には、むしろ飢えているのです。
 学ぶ意味や価値がわからないような、機械的な練習や、苦役だけが要求されるような学習を拒否しているのにすぎません。
 学級の友だちと対話・討論し共同で学ぶことで、一時間前には想像もできなかった世界と出会うことができる。自分も賢く人間として豊かになってきている。この実感の積み重ねこそが「何のために学校に通って学ぶのか」という問いにこたえる、道ではないかと思っています。
 共同の学びを豊かにしていくには、教室になんでも言える自由な雰囲気が不可欠です。そのためには「失敗」や「間違い」に対する教師や子どもたちの態度が問われることになります。教師だけでなく、子どもたちが豊かな「間違い観」を育てていくことは、学習にとって不可欠です。
 
「間違い」が、物事の本質をとらえていく上で、どんなに重要かを体験する必要があります。なぜなら、多くの子どもたちは「間違い」は恥ずかしいことであり、無意味なものだと考えているからです。
 
「間違い」が事実の断片であるならば、それをつなぎ合わせ関連づけていけば、物事の全体像が浮かび上がってくる。例えば、縄文土器のかけらをつなぎ合わせていくと、ほぼどんな土器だったかは推定できるようになるのと似ています。
 そういう意味では「間違い」は、物事の本質にたどりつくための「入口」であり、認識を深めていくうえでなくてはならないものです。共同の学習の中での「間違い」は、物事の本質をとらえていくうえで重要な役割を担うものです。こう考えてくると、子どものどんな発言も貴重なものになります。無駄なものはひとつもないのです。
 教師が一人ひとりの子どもの発言に心底耳を傾け「間違い」を大事にすることで、学習はプロセスのあるものに転換していきます。
 何でも自由に発言できるようになれば、自分の思いや考えを率直に語ることができるようになります。すると、当然のことながら、対立・討論も起こります。学習はいっそう深まっていきます。
 
「正答主義」の学習では、正しいかどうかを判断するのは教師です。共同の学びでは、そうはいきません。子どもたちが集団で思考し、共感や批判、納得を通して本質や真実に迫っていきます。
 教室に自由な雰囲気をつくるためには「間違い観」とともに、子どもたちがリラックスすることが重要です。過度の緊張を強いることなく、子どもたちが安心して学習できるようにするということです。授業中、教師が思っている以上に、子どもたちは不安をもって学習しているのです。
 
「急に当てられたらどうしよう」ということも授業中の心配の一つです。私自身も高校の頃、化学や数学の教師がよく急に当てるので嫌でした。当てられそうなときは、当てられないように、先生と目をあわせないようにしていたものでした。
 そんな体験もあり、私は子どもが自分で手をあげない限り、当てないようにしています。子どもたちは、突如当てられるというような不安もなくなり、安心して学習に励むことができます。
 教師が子どもの思いを無視してどんどん当てていた場合と比べて、個性的な発言が確実に増えてきます。子どもたちはじっくり考え、自分が発言したくなったときに発言できるからです。
 発言を強要しない、発言するかしないかは本人が決めることにしただけでも、学習における子どもたちの安心は広がっていきます。
 そういう自由が保障されたときに、子どもたちは自分の力を発揮して学習するようになるものです。「待つ」ということが、子どもたちに真の自由を保障することになるのだと思います。
 授業において「安心」と「人間的な自由」をどう拡大していくかが、重要な課題だと思っています。
(
今泉 博:1949年生まれ、元東京都公立小学校教師、前北海道教育大学副学長、「学びをつくる会」などの活動を通して創造的な授業の研究・実践を広く行った)

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教え合い学び合う子どもたちにするには、どうすればよいか

 学校生活では、日常的にさまざまなグループ活動が展開されている。掃除当番や係活動、座席ごとにまとまった生活班など、子どもたちはさまざまなグループ活動を経験している。
 4~6人の小グループのいいところは、学級という大きな集団ではなかなか自己主張しにくい子どもが、小グループの中では安心して自分の考えを言えるということにある。少人数だからこそ、友だちの表情やふとした発言に共感したり、何かに気づく機会も増えてくるのである。
 このようなグループ活動のメリットを授業などにもぜひ生かしていきたい。授業の中で一人ひとりの子どもが自分の考えを出し合って学ぶ場こそ、一人ひとりの子どもにスポットがあたる機会が増える。
 例えば、国語の読解などでも自分の考えをノートに記入した後で「班の友だちとノートに書いたことを発表しあってみましょう」と周りの友だちと自分の意見を交換する時間を設ける。
 ノートに書いた時点では、子どもたちはそれが合っているか否かに自信がもてず、一斉授業の場でなかなかそれを表現しにくいからである。
 答えがわからず困っている子も、友だちの意見を参考に、あらためて自分の意見がもてることもあるし、間違った答えなども小グループ内で話し合ううちに修正できる。
 子どもたちは友だちの意見を事前に聞く機会を得たことで自分の意見に自信をもち、学級全体の話し合いにも積極的にかかわってくるようになる。
 グループ分けの際に、ぼぼ均等な学力になるようなメンバー構成を考えておくと、話し合いの内容がより深められ、子ども同士での教え合いがより効果的になされていく。
 小グループでの話し合い活動が活発になされるために、友だちの意見は、まず最後まで黙って聞くこと、そして決して否定しないことを徹底させておく。小さな子どもの場合は、グループ学習の手順をできるだけ細かく指示しておく。
 例えば、初めに話す順番を決める。次に意見を発表しあう。友だちの意見を聞く場合には、自分の意見と同じところや違うところ、わかりにくいところなどを考えて聞くこと。そして、その後で質問や相談すること等を指示しておく。
 こうしたことを経験していくなかで、子ども同士が互いに教え合い、学び合う力が育っていく。
(
伊藤克子:東京都公立小学校教師)

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学ぶことで最も大切な行為は「聴く」こと、聴ける子どもを育てるにはどうすればよいか

 私は子どもたちの状況に不安を感じるようになった。その一つは、人といると疲れると感じる子どもが増え、「人と人とのつながりが希薄化している」ことである。二つ目の不安は「学ぶ意欲の低下」である。
 このような子どもの不安に対して、学校ができることは、コミュニケーション力を育成すること。もう一つは「学び合う」授業を実現することである。
 「学び」は多様な考えの交流と未知のものの探究によって、ある種の感動を伴ってすがたを現す。そのような学びを実現するのが、互いの考えを出し合い、聴き合い、考え合う「学び合う授業」である。
 「学び合う学び」は、すべての子どもの疑問も、分からなさも、気づきも同じように尊重し、それを受けとめ合う中から、互いのつながりの中で学びを生み出していく学びである。
 子どもの考えと考えがつながり合い、新たな気づきや発見が生まれる学びは、教師から一方的に教えられる学習では得られない学ぶおもしろさを生み出す。
 こうした学びの繰り返しの中で、子どもたちは他者とつながる喜びと意味を体感していく。それは、どの子も安心して学ぶことのできる教室づくりにつながっていく。
 学ぶことでもっとも大切な行為は「聴く」ことである。人間は一人では考えられることはしれている。豊かに学ぼうとすれば、他者から学び取るしかない。それには、他者の言葉に耳を傾ける態度が不可欠である。
 子どもと子どもの間に「聴き合うかかわり」が生まれた学級は、子どもの声が暖かい。表情がやわらかい。派手に主張する子どもが影をひそめ、おだやかで声のテンションが低い。受け入れられているという安心感が、子どものすがたをそのようにするのだ。
 そして、そのような雰囲気が、子どもたちをつなぐ心を引き出す。「学び合う学び」でもっとも中心的なはたらきである「つなぎ」は、このような「聴き合うかかわり」によって生まれてくる。
 聴き合うかかわりは、聴き方、聴き合い方を教えてできるものではない。「聴く」ということは、内面的な心のはたらきと、そこに存在する他者関係によって微妙に変化するものだからである。
 子どもの心のはたらきに頓着せず、子どもの他者関係を築くための人間的なはたらきかけもしないで、聴ける子どもを育てることなどできはしない。
 教師は一斉指導が染みつき、「発信型」であり、「受信」がへたであると私は思っている。教えたい、話したいということに必死になっていれば、子どもの言葉は心に入ってこない。
 問題は、教師自身に子どもの声が聴けているかということである。聴ける子どもを育てるには、何よりも先に、教師自身が「聴ける教師」になる必要がある。
 授業で子どもたちの内に生まれた、気づきや疑問を、胸をわくわくさせながら「聴こう」とすることが何をおいても大切なのだ。
 ある公開研究会で、子どもと子どもがつながり合う素晴らしい授業があった。授業が始まり、子どもと子どものつながりがまたたく間に生まれ、授業者がそんな子どものやりとりに、ゆったりと聴き入っている様子を目にしたとき、私は本当に感動した。
 授業の後、その教師は「こう分からせたい、こう言わせたいという思いを捨て、とにかく子どもの発言することをたのしもうと思って授業しました」と語ってくれたのだが、そのことばを聴いて、教師が「聴く」ということはどういうことなのかを教えてもらった気持ちになった。
 教師が本当に耳を傾けることができるときとは、子どもを信頼し、子どもの内に生まれるものを尊重し、その子どもの気づきや疑問から豊かな学びがつくれることを確信し、子どもとともに学びに挑戦する気持ちを固めたときではないか。
 それが、子どもの発言を「たのしむ」という彼のことばになったのではないか。そう思ったのだった。教師に「聴く」心が生まれたとき、子どもが言っていることの重みが初めて見えるようになる。
 聴こうとしなかったときにはまったく感じとれていなかった、一つひとつの発言の重みが分かるようになる。そうなったとき、初めて、子どものことばのつながりが少しずつ見えるようになり、そのつながりの合間に挟む教師のことばが生きるようになる。
 一心不乱に子どものことばを聴ける教師になることで、子どもと子どものつながりは見える。この授業で、もっとも私が学んだことである。
(石井順治:1943年生まれ、「国語教育を学ぶ会」の事務局長・会長を歴任、三重県の小中学校の校長を努め、退職後は、各地の学校を訪問し佐藤学氏と授業の共同研究を行うとともに、「東海国語教育を学ぶ会」の顧問を務めている)

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一斉授業の時代は終わり、協同的な学びへと世界は変化している

 今や、黒板と教卓を中心に子どもたちが机を一方向に並べ、教師が教科書を中心に説明し伝達する一斉授業の様式は、欧米諸国においては博物館に入っている。
世界の授業はつぎのように変化している。
(1)
「教授」中心の授業から「学び」中心の授業へ
(2)
「プログラム」(目標-達成-評価)型のカリキュラムから「プロジェクト」(主題-探求-表現)型のカリキュラムへ
(3)
「個人学習」から「協同学習」へ
(4)
机と椅子は4~5人ずつのテーブルになり、協同的な学びが中心となり、一斉に話し合うときは車座になる。
という変化が東洋にも影響を与え、世界規模で静かに進行しています。
 私が欧米諸国の学校で撮影した1000枚以上の写真を見ると、どの教室も小グループは男女4人で組織されていた。
 教科書はわき役となって多様な資料が持ち込まれ、教師の役割は学びのデザイナーと進行役に変化している。
 
「学び」とは教材との出会いと対話であり、クラスの子どもたちや教師との対話である。多様な考えと出会い、教材との新たな出会いと対話から自らの思考を生み出し吟味することができる。
 学びは本来、協同的である。学びは概知の世界から出発して未知の世界を探検する旅であり、新たな経験と能力を形成する挑戦である。
 一斉授業は、授業の中で学びを成立させている子どもは少数である。学びは中層の数人にしか成立していない。上層の子どもの発言はすでに概知の内容か簡単に理解できた内容でしかない。下層の子どもは授業の前半に発言の機会が与えられ、後半は黙って聴いているが、学びは成立していない。
 協同的な学びは学び合う関係によって成立する。教え合う関係ではない。協同的な学びは、「子どもたち一人ひとりの学び」と「一人ひとりの学びをより高いレベル」に導くためである。
 授業で一人残らず学ぶためにはどうすればよいだろうか。最も低いレベルの子どもの問いを授業の中に取り組む。そして、学ぶ内容を高いレベルに設定し、上層の子どもが学ぶようにする。
 学びを中心とする授業は、通常の授業よりも高く設定された内容と最もわからない子どもの問いとの間の大きなギャップを、教師と子どもたちとで協同で埋めていく授業である。この困難な課題を達成するのが小グループによる協同的な学びなのである。
 ポイントは、子どもたちの間に聴き合う関係が生まれていることである。聴き合う関係がないと成果が期待できない。教室に聴き合い学びあう関わりが成立するためには、子どもたち一人ひとりの個性的な学びと多様な読みを尊重することであり、教科書の言葉を大切にして内在する学びの発展性を尊重することである。
 それと、グループ活動の中で、わからない子どもが「ねぇ、ここどうするの?」と仲間に問いかける指導の徹底である。仲間に問いかけることが十分に定着していれば、教師も子どもも安心して高いレベルの学びに挑戦することができる。グループは男女混合の4人のほうが学びが生まれやすい。
 協同的な学びは、学びの主体は個人である。リーダーは不要である。一人ひとりの多様な学びのすり合わせであり、どの子も対等な立場で参加する必要がある。グループ内の一人ひとりの考えや意見の多様性を追求する。決してグループ内の考えや意見の一致や、まとまりを求めてはいけない。班学習のように班を代表して意見を言わせてはならない。
 協同的な学び(グループ学習)を導入すると、子どもがおしゃべりをしてしまうことを嫌う教師がいる。それらの教師の授業を観察すると、教師がおしゃべりであることがほとんどである。そうでなければ、教師の言葉が子どもに届いておらず、子どもとは無関係に一方的に授業を進めているケースも多い。
 協同的な学びを導入してもおしゃべりしてしまう教室は、もともと授業が学びのない授業になっている場合がほとんどである。そうでない場合は課題がやさしすぎるからである。協同的な学びの意義は、一人では到達できないレベルに仲間との協同によってできることにある。まずは1時間の授業の中に数分でも協同的な学びを導入することが重要である。
 協同的な学びを導入すると進度が遅れる不安が教師にある。しかし、協同的な学びに成功している教師たちは進度を遅らせてはいない。単元の進行にメリハリをつけ、素早く押さえるところと、じっくり発展的に学ぶところを効果的にしている。もう一つは、協同的な学びを基礎的な事項と高いレベルの発展的な事項と総合して学び合うことである。
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佐藤 学:1951年生まれ、東京大学教授を経て学習院大学教授 学校を訪問(国内外2800)し、学校現場と共に「学びの共同体」の改革を進めている)

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わからないことを、迷い考える過程で発見の喜びやわかる面白さを感じる、これが学びである、効率よくわからせることではない

 学校は、子どもたちをわかるように、できるようにすることが求められています。子どもたちは、わかること、できることがよいこと、わからない、できないことは恥ずかしいことという価値観を持っています。この学校教育の体質はなかなか変わりません。
 教師は「『できるようにする』ことと、『学びがある』ことは同じでない」ことを理解する必要があります。たとえば、算数で三角形の面積を求める授業を考えてみます。たんに面積を求める公式にあてはめて計算するのではなくて、どうしてそういう式で求められるのか、図形を描いたり切ったりしながら、みんなで考えてみると、発見があります。学びが生まれるということは、発見があるということです。それまでの知識や技能がより深まるということです。学んだという実感が豊かになるのです。つまり学びがあるというは、たんに何かがわかったということではないのです。
 学びは、学級で一斉に同じことを学習していたとしても、全員が同じ学びになるとは言えないということです。学びは、三角形の面積を求める公式は一つであっても、どこでどのように心を動かし、どのように気づきをしたのかは、一人ひとりみんな微妙に異なるからです。教師は、このことをしっかり認識する必要があります。
 「学びがある」とは、わかった、できたという結果でないということがはっきりしてきます。学びの多くは、わかるように、できるようになる「過程で学びが生まれる」ものです。わたしたち教師は、早くわかるようにすることよりも、ああでもない、こうでもないと迷い考える過程を大切にする必要があります。その過程で、発見の喜び、わかる面白さを感じるとともに、そういう手さぐりの過程を経験することで、これから出会うであろうさまざまな「わからない」ことに挑む意欲を引き出すことができるからです。
 そのとき大切にしなければならないのは、すでにわかっていると思っていた子どもが、本当はわかっていなかったのだと気づくことです。「わかる」ということは、奥深さがあるのです。「わかる」ことに終わりはないのです。だからこそ人はわかりたいのだし、わかることがおもしろいのです。
 「わからない」ことは、劣っていて、恥ずかしいことではないのです。「わからない」ことがあるから探究できるだということを忘れてはならないのです。つまり「わからない」ことは学びの大切な出発点なのです。「わかること」の奥深さを感じながら、急がず、多くの子どもたちとともに、どこまでも探究する世界を歩み続けられたら、どんなによいだろうかと思います。
 だとすると、最もよいのは「わからない」ことを、子どもから発せられることですが、ところが学校の授業は、「わからないこと」を問うのは教師、答えるのは子どもになっています。つまり、子どもたちは自分の「わからない」ことを学んでいるわけではないのです。
 この現状を変えるには「わからない」ことを子どものものにすることから始めなければなりません。まず、教師が課題を出すときは、子どもがなんとしても解きたいと思える魅力的な提示を心がけたいものです。その子どもの自らの「わからないこと」になるように、子どもの気持ちに寄り添った工夫が必要です。
 さらによいのが、子どもの方から、発せられることですが、何を学習するかは教師がすべきことで、子どもに任せるわけにはいきません。
 では、その子どもの自らの「わからないこと」は、どうすれば発せられるようになるのでしょうか。それは課題に挑む過程で生まれます。魅力的な学びは、適度な難しさのある課題が必要です。よい課題が魅力的に提示されると、子どもたちはその難しさに立ち向かい始めます。そうすると、必ずそこに「わからない」ことが生まれます。そうすれば、子どもたちは、自らの「わからない」ことから学びを出発させることができます。
 そこで、必要になるのが、その「わからない」ことを子ども同士で受けとめ合えるようにすることです。「学び合い」です。少人数グループによる学習の場を多くし「友だちに尋ねる」「友だちとともに考える」ことが当たり前になるようにするのです。
 ここまで考えてくると、最も大切なのは教師の「わからないことこそ、学びの出発点」という認識だと思われます。効率よくわからせることに価値観を抱いていた教師にとって転換することは容易なことではないようです。それを変える第一歩は、学ぶ子どもの気持ちを考えるようにすることです。どう教えるかという教師の側の論理から離れ、あの子だったらどんな考え方をするだろう、この子だったらどこで難しくなるだろうと考えるようにすることです。子どもに寄り添える教師のみが、子どもの「わからない」ことが見え、「わからないことこそ、学びの出発点」だと心底考えることができるのです。「学び合う学び」の扉は、このような教師の努力によって開かれていくでしょう。
(石井順治:1943年生まれ、「国語教育を学ぶ会」の事務局長・会長を歴任、三重県の小中学校の校長を努め、退職後は、各地の学校を訪問し佐藤学氏と授業の共同研究を行うとともに、「東海国語教育を学ぶ会」の顧問を務めている)

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「学び合う学び」が生まれるためには、子どもの気づきや疑問から学びを始めようとする必要がある

 私は毎日のように各地の学校の授業を見ている。そうした経験を重ねるうち、授業が始まって10分もしないうちに、その授業がどのような授業になるか想像がつくようになった。
 意欲的な学びが展開される授業になるか、重苦しい授業になるか、騒々しい散漫な授業になるか、どういう方向で学びが進められそうか、そういったことが見えるようになったのだ。
 それは、その日のテキストとの出会いが授業を始める数分間でなされるからである。それを見ることで、子どもたちの学びのすがたが予想できるのである。
 私は、「学び合う学び」が生まれるためには、「子どもの気づきや疑問から学びを始める」「子どもの考えから出発する学び」にすることが必要だと思っています。
 そのためには、一人ひとりがテキストと出会わなければならない。その子どもなりにテキストと対話をしなければならない。その場と時間が不可欠なのである。つぎに二つの例をあげる。
 A教師の「春のうた」では、詩が印刷されたプリントが配られると、教師から何も言われなくても子どもたちは音読を始めた。一回だけではない。何度も何度もくり返し音読した。
 これが子どもとテキストとの出会いである。音読した後、教師が「どうやった?」と問うと、子どもたちは「ケルルン、クック」や「いぬのふぐり」が分からないという反応がすぐ出ている。子どもたちは音読をしながら、詩と対話をしているのである。
 B教師の「ゆずり葉」においては、授業の冒頭、書き込む時間をとっている。鉛筆の音だけが響く静寂な時間であった。それはまさに一人ひとりが詩と出会う時間だった。
 その間、教師は余分なことは一切言わない。ただ、子どもたちの机のあいだを回りながら、見ているだけである。そして「はい、そしたら、だれからでもいいから・・・」と言って授業が進行していった。
 これらは、教師が教えることを決めて、それを一つひとつ尋ねて答えさせていく授業とは根本的に違う。テキストとの出会いと対話から生まれた子どもの気づきや疑問を、学びの素材として位置づけようというのだ。
 先生は何を言わせようとしているのだろうか、と受け身で考えなければならない授業と、自分たちの思ったことが自由に言え、そこから学びがつくられていく授業と、子どもたちはどちらがたのしいと思うだろうか。どちらに魅力を感じるだろうか。
 それでは、なぜ授業でAやB教師の子どもたちは、あのような集中力を発揮したか、ということである。音読も書き込みもポピュラーな方法である。そこにはどういう違いがあるのだろうか。
 それは、教師の対応の違いなのである。
 つまり、本気で子ども一人ひとりに生まれるものを大切にしようとしているか、本当に子どもの気づきや疑問から学びを始めようとしているか、その教師の対応の違いが子どものすがたに確実に影響しているのだ。
 四月から毎日毎日、くり返し授業を行っている。そのくり返しの中で、子どもは感じ取っていく。自分たちの先生はどんな先生なのか、どんな魅力があるのか、本気で自分たちのことを見てくれているのか、そういったことを理屈でなく肌で感じ取っていく。子どもは敏感なのである。
(石井順治:1943年生まれ、「国語教育を学ぶ会」の事務局長・会長を歴任、三重県の小中学校の校長を努め、退職後は、各地の学校を訪問し佐藤学氏と授業の共同研究を行うとともに、「東海国語教育を学ぶ会」の顧問を務めている)


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