カテゴリー「国語科の授業」の記事

教科書をどの子にもよくわかるように、まちがいなく教えていくことが授業だろうか

 私は教師になって最初の頃、教科書に書いてあることを、どの子にもよくわかるように、ていねいに、そしてまちがいなく教えていくことを授業と考えていたようである。そのことに何の疑問もなく過ごしていた。
 私は、授業とは「子どもに問題を投げかけ、考えさせ、発表させ、助言し、補足し、励まして」やっていけばいいのだと信じきっていたようである。
 そういう私が、授業について「国語の短い文章を、なぜ、何時間も時間をかけて教えねばならないのか」と、はじめて問題意識をもつようになったのは、一年目が終わろうとする頃であった。
 「『これは、こういう意味だ、忘れないように覚えておくんだぞ』と、あっさり教えることは、なぜいけないのか」「なぜ、発問とか助言だとか『遠まわりなやりとり』をしなければならないのか」という問題である。
 私は学年主任に質問した。主任は「きみ、国語の読み取りかたは、読みとり『方』なんだよ」と「方」に力を入れておっしゃった。私の頭に、いなずまのような光が走り「ああ、そうだったのか『方』だったのか」と、すべてが一気にわかったような気がした。
 というのは、ちょうどその頃私は、国語教育の大家の先生のまねをして「さるも木からおちる」という諺を教材に子どもたちがどのように読みとるか授業で調べたことがあったのである。
 
「さるが木からおちたということである」という子どもが半数以上あった。「も」という助詞を無視して読んでいるのである。 
 ところが「も」に注目した子どもの中にも、
「さるは人まねがうまい。それで、人が木からおちたので、さるもまねをして木からおちた」
「その木は、さるすべりの木だった。それで、木からおちた」
「その木は雨あがりでよくすべった。それで、木からおちた」
「木のぼりのうまいさるでも、ゆだんをしていると木からおちるということだ」
「さるにかぎらず何でも、あまりいい気になってゆだんしていると、失敗するということだ」
というように「十人十色」の読み方をしていたことを思い出したからである。
 まず、子ども一人ひとりの「読みとり方」を確かめる。
 
「さるが・・・・」と読んだ子どもには「さるも・・・・」と読んだ子どもをぶつからせていく。
 それによって「さるが・・・・」の子どもが「も」に目ざめていく。「さるもまねをして木からおちた」と読んだ子どもが得意になる。
 それに対して「きみたちは得意になっているが『おちた』じゃなくて『おちる』になっているよ」と批判する子どもがあらわれてくる。みんなが「おちる」になっていることに目ざめていく。
 このようにして、表現を手がかりにして、どの子も、客観性のある読みとり「方」ができるように練りあげていく仕事が、読解力を育てる授業というものであったのだ。
 したがって、その意味を与えてしまってはいけなかったのだ。私はすべてが、うなずけた気がしたのである。
 それといっしょに思い出したのは私が教育実習生のとき、国語の授業で「わが国民性の長所短所」という授業をした。そのときの批評で
「東井くん、国語の授業は修身(道徳)の授業とはちがうんだよ」と言われたことを思い出した。きっと、国語の教科書に書いてある中身を、どんな子どもにもよくわかるようにと考えて、一生懸命に教え込もうとしていたのであろう。
 それに対して「わが国民性の長所短所を、どの子にもよくわかるように教えることよりも、子ども自身が、それをわかりたいと考え、一字一字をも大切にしながら、わかりとっていこうとする、そのわかりとり『方』をこそ、練り鍛えなかったら、国語授業とはいえないんだぞ」と教えられたのにちがいない。
 ということも、いっぺんにわかった気がしたのである。
 子どもの「方」からスタートし「方」を練りあげる仕事は、国語の授業だけのものであろうか。算数にも、理科にも、社会科にも「方」がある。十人十色のそれがある。その「方」を見きわめ「方」から出発して「方」を練りあげていく。それが「授業」というものだ、といえるのではないだろうか。
 授業の創造ということは、テクニックの追求ではない。教師が古い自分を切り捨て、新しい自分を生み出していく、創造的な仕事である。授業に既製品はない。
 子どものころ受けた授業の形だとか、どこかで見た模範授業だとかが頭を縛って、それが授業を個性も生気もないものにしている。教科書に出てくるから教えるという安易さが、授業を空回りさせ、人間を駄目にする授業をはびこらせている。
 教科書にあることを、にぎやかに話し合わせても、願いもなく、人間そのものを根本からゆさぶるものでなければ、授業にはならない。
 教科書にあるのは素材である。それが生きたものになるかどうかは、教師に願いがあるかどうかにかかっている。願いがぼやけていては授業にならない。願いに、まずわが身を燃え上がらせる。
 話術をまねしても駄目、板書を写し取ってまねしてもだめ。技術というものは、それを使う人のやむにやまれぬ願いが具体化されたものだから、その願いを学ばないで形骸だけをまねても駄目になるのは当然。
 願いや心だけでも駄目。技術だけでも駄目。この二つが一つにとけて力になる。
 授業とは直接関係ないように見える教師と子どもの信頼関係、これなくしては授業も成り立たない。
(
東井義雄:19121991年、 兵庫県生まれ、小・中学校長。ペスタロッチ賞を受賞。生活の中から問題を解決していく学力を育てた「村を育てる学力」が大きな反響を呼ぶ。生活綴り方教育の代表的な実践家)

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国語科:話し合いをさせるための準備と方法

 国語の授業で話し合いをやらせない先生なんていません。でも、話し合いそのものを教えるということがないと思います。話し合いの前にまず教材を準備します。私は、その教材をもとにして子どもたちに準備時間というのを持ちます。言いたくてしょうがないということが子どもたちの胸の中にあるようにします。
 たとえばテーマとして「少年駅伝夫」(鈴木三重吉)という少年が主人公の物語を覚えていますね。一枚の紙におさまるほど短いのです。話し合いに慣れていない子どもには、私は一目で全体が見える分量の物語を使うのです。
 子どもたちは、その少年がどういう人であるかを20字以内のことばで表現して、副題をつけることにします。
 そのために、私がもう一枚の紙を配布します。その紙に一クラス人数分の副題の案が書いてあります。それを子どもたち一人ひとりが研究するんです。どの表現がこの少年をよく表しているか考えて、自分が推薦する副題の案を決め、推薦する理由をしっかり持つようにします。そこまでが子どもたち個人の準備期間です。そうやって全員が言いたいことを持つわけです。
 話すことがなくて何も言えない子どもがいてはかわいそうです。教師が、ほかに、ほかに、なんて言いながら、話し合いをさせて、ただ聞いている教師なんておかしいと思いますね。そこまで準備してから、私は話し合いにはいるんです。
話し合いは次の順に進めます
(1)
副題案の中に、それは事実と違ってくる、というようなのがないか。あったらそれは省く。
(2)
ことば、言い方があんまり平凡、副題として、人を引きつけるところがないというのを省く。
(3)
いいことば、引きつけることばはないか、という観点で、目立つもの、つまり表現のすぐれているものを選ぶ。
(4)
あとは、それをつめていって特にいいものを、三から五くらいにする。一つにまで「つめ」なくてもいいんです。
 
「つめる」とは推薦しあうことです。いいところをとりあげて、どんなふうにいいか話し合うことです。どの表現がいいかなんていうことを、多数決できめてしまうのはまずいと思う。テーマの何が良いかというと、子どもたちは発言がしやすい。線が太くてね。
 教師が子どもの数ほど意見を持てるということも大事ね。必ず教師自身が、みんなの中に入って賛成したり反対したり、その話し合いに入れるようにする。
 私は教室でしっかり聞いていますね。そして誰かが発言につかえたときなどに、その子を困らせないで、続くことばをちょっと私が言う。それで後が続くものです。そうしたら、私はすっと消える。またつかえたら、また入ります。こう言えばいいと思うことをすっと影のように入って知らぬ顔して実演する。
 話し合いは事前に私が一人でやってみて、たとえば夏子さんがここでなんと言うかわからないぞ、というところが出てきたら、前もって考えておかないといけない。話し合いを指導するということは容易ならぬことですよ。
(
大村 はま:19062005年、長野県で高等女学校、戦後は東京都公立中学校で73歳まで教え、新聞・雑誌の記事を元にした授業や生徒の実力と課題に応じた「単元学習法」を確立した。ペスタロッチー賞、日本教育連合会賞を受賞。退職後も「大村はま国語教室の会」を結成し、日本の国語科教育の向上に勤めた)

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国語科:文学作品のなかの言葉の裏に隠されている意味を子どもたちに読みとらせる

 教科書に出ている文学作品のなかの言葉の裏に込められた感情や思いを読みとることが重要である。
 感情や思いを読みとる読み方が特に必要とされるのは、たいていクライマックスにおける主人公のことばである。
 たとえば、「ごんぎつね」では、火縄銃で「ごん」をうった後、土間にくりがかためておいてあるのを見て兵十がはなったことば「ごん、おまいだったのか。いつもくりをくれたのは」である。
 この言葉は、疑問文の形をとっているが、言うまでもなく、死にかけている「ごん」に尋ねることが真意ではない。「まい日、まい日」栗をもってきてくれたのは、「ごん」だったことを知った驚き。その「ごん」をうってしまったことの深い後悔と嘆きがこめられたことばである。
 兵十のそういった思いは「ごん、おまい」という呼び方にもにじみでている。ここでの兵十のどんな思いがこれらの言葉にこめられているのかを子どもたちに問えば、低学年の子どもたちからもさまざまな答が返ってくる可能性は十分にあるだろう。
 つぎに「一つの花」では、お父さんが戦争に行く日、汽車が駅に入ってくるという時になって、ゆみ子の「一つだけちょうだい」がまた始まる。そこでお父さんがプラットホームのはしっこからコスモスの花を一輪とってきて「ゆみ。さあ、一つだけあげよう。一つだけのお花、大事にするんだよう-」という言葉をかけるところがある。花もらったゆみ子が喜ぶのを見て、お父さんはにっこり笑うと、何も言わずに汽車に乗って行ってしまう。
 このお父さんの言葉の裏に込められた感情や願望をどうとらえたらいいのだろう。
 この言葉は、ゆみ子に向けて呼びかけているようにみえるが、はたしてゆみ子にその意味がわかるようなことばだろうか。「一つだけの花、大事にするんだよう」ということばには、むしろお母さんに向けて自分の願いをこめて語っていることばとしてとらえた方が、子どもたちにも「一人っ子のゆみ子を大事に育ててくれ、母子でしっかり生きていくんだよ」といったお父さんの願いを読みとらせることができるのではないだろうか。
 国語教育では、教科書の表面的理解にとどまらず、裏に隠されている意味を子どもたちがふだんから読みとることに慣れさせることが、今日のように真偽いりまじったさまざまな情報が氾濫する社会では特に必要であろう。
(
柴田義松:1930年愛知県生まれ、東京大学名誉教授。専門は教授学。教育内容・教科内容と教材の区別を提起し教授学研究に革新をもたらした)

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国語科:いきなり核心にせまる音読

 国語はできれば毎時間、授業の最初に音読を取り入れたいと思う。発声の練習になるし、授業も活性化する。しかし時間がない。このジレンマを解消するためのひとつが「いきなり核心にせまる音読」である。
 例えば、「大造じいさんとガン」で、
「ここまで、大造じいさんの気持ちや考え方を中心にして、物語を読んできました。いよいよ三の場面ですが、さて、大造じいさんの気持ちは変わっていますか?」(発問)
 こう問いかけると、子どもたちのほとんど全員が「変わっている」と答える。それを受けて、
「みなさん、変わっていると考えるのですね。では、ここから変わっている、というところを見つけて、そこから先を音読してもらいます。確認する時間は1分。音読の時間は5分です」(指示)
 1分後、子どもたちの読み声が、教室中に響きわたる。三の場面はクライマックスにあたる場面である。授業の導入で音読を始めたいが、少なくとも10分以上かかってしまう。そこで、本時の解決すべき課題である、大造じいさんの気持ちが変わったポイントにいきなりせまって、そこから音読させるのである。
 「いきなり核心にせまる音読」を行うと、子どもたちの集中力が変わってくる。自分の読解(理解)を、そこに反映して読まねばならないので、真剣度がアップするようになる。
 そして、この方法の一番のメリットは、音読という表現活動が、自然な形でその前後の読解とリンクするという点にある。
 「考えた結果を音読に表してみる」、「自分の考えと友だちの考えを比較するために音読して比べてみる」等、授業のねらいによって、その取りいれ方や方法は少しずつ変わってくるが、できるだけ本時の課題(核心)に近い場面で設定するのが、授業の効果を上げるポイントである。
 短い時間で効果が上がる「いきなり核心にせまる音読」を一度試してみてはいかがでしょう。
(
花生典幸:1963年生まれ、青森県八戸市公立小学校教師を経て、八戸市教育委員会指導主事。全国国語授業研究会理事、国語授業ICT研究会理事)

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国語科:読解指導    

 国語科の読解や鑑賞指導では、教師の作品解釈の深さによって授業そのものが変わってくる。素材研究というのは、教師が一人の読者として力いっぱい作品と向き合って読むことをいう。私はこの作品をこう読む、こう考える、こう批評すると自分自身の読みとりの確立を図ることが最も大切で授業の成否を決めていくことになる。
 そして、その教材が何年生に向くか、子どもはどのくらいまで読みとれるか、どのような抵抗があるかという教材研究する。さらに「何をこの作品で教えるべきか」という指導事項の明確化がこの段階で中心的な仕事になってくる。
 さて、指導法というのは、教室での授業を想定して、発問・板書・助言・指名・学習態度・学習分量などの授業技法である。具体的な子どもたちの実態に即した形で研究されなければならない。
 しかし、一般的には、素材研究も教材研究もしないで、いきなり指導法の研究に飛び込んでしまいがちだ。教師は初めから教える人として作品を読んでしまうことになれているのではないか。とかく教師は「自分はわかっている」と思いがちである。そしてよくないは子どもであり、そのよくない子どもをどう教えるかということばかりを考えてしまうのである。自分自身のよくなさに気づいていない教師がけっこう多い。
 スイミングスクールに通う子どもたちの泳ぎ方の上達は早い。力のある指導者は、習いに来る子どもの欠点が具体的によく分かるのである。よく見えるのである。だから欠点のところを直してやれば、子どもはぐんぐん伸びていくことになるわけだ。よい授業をするには、ある教材が決まったら、目標をまず的確につかみ、指導の方法よりも、その子に何を指導すべきなのかという指導事項を精選し重視する必要があるのではないかと思うのである。
 教師は、まずもって自分自身の力量形成を常にめざすべきである。自らの力を高めることによって、初めて子どもの力量形成の方法が見えてくるのである。
(野口芳宏:1936年生まれ、元小学校校長、大学名誉教授、千葉県教育委員、授業道場野口塾等主宰)

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国語科:豊かでよい授業となるにはどうすればよいか

 教師は、教材の大切な部分のみつけ方、解釈するすじみち、構造化する力、分析する力、展開のやり方を身につけなければならない。
 教材を深く読みとるためには、人間の経験、人生の生き方、読みとり方が豊かで鋭く深いものになっていなければならない。
 よい授業は、教師が生身の人間としての教材解釈、方法を持ち、生身の人間である子どもと授業のなかで激突させ、そのなかで自分の解釈も方法も変更していくような授業である。
 教師の人間の豊かさと、教師と子どもとの心のふれ合いが豊かな授業展開を進めていく。
 授業者の身体から出た物ものになっており、授業者の強い主張になっていなければならない。
(
斎藤喜博:1911年-1981年、元小学校校長、元宮城教育大学教授、アララギ派の歌人。島小学校などに優れた実践を残した昭和の代表的な実践者。斎藤喜博全集は毎日出版文化賞を受賞。授業は創造的な仕事であると
 実践的授業本で示し多くの教師に影響を与えた)

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国語科:学習グループによる話し合い

 授業のなかで学習グループを使った授業を計画してみてはどうでしょうか。子どもたちは確実に変わりはじめます。
 授業は「討論の二重方式」のグループ学習を導入します。まず、学習グループ(4人)で話し合い、グループで出された意見を全体で話し合います。内容を深めるため、また学習グループで話し合って意見を出し、全体の場でさらに討論を深めるようにします。
 「ありの行列」(説明文)の授業展開を例にとって考えてみます。
(1)
文章の読み、語句調べ
 まず「段落番号打ち」から始めます。形式段落(改行して一字下げになっているところ)の頭に①②③・・・と番号を打ちます。それから音読します。読めなかった語句は□で囲んでおきます。
 次に、黙読しながら意味がわからない語句に線を引きます。個人で作業したあと、学習グループで話し合います。
 グループで解決できなかったことは、質問として出させます。大事な語句は取り立てて指導し、赤い□で囲ませます。
(2)
文章の構造を読み取る
 説明文の構造を読み取るため「はじめ・なか・おわり」に分けます。まず、個人でそれぞれ何段落までか教科書にしるしをつけます。そのあと、学習グループで話し合います。グループでの話し合いのもとに、全体で二重討論を行います。
学習グループ授業のポイントはグループリーダーの指導です。授業中や前後にもつぎのようにおこないます。
(1)
教師の指示や発問にだれよりも早くリーダーが行動するよう指導します。
(2)
教師に要求を出すことを教えます。
 「わかりません。もう一度言ってください。もう少しわかりやすく言ってください。学習グループで話し合う時間をください」
 こうしていって、授業のトーンが前向きに取り組む雰囲気をつくっていきます。
(3)
教科の内容に切り込む方法や学習の手順を教える
(
永橋和行:京都・立命館小学校教師)

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語りかけ心の内に何ごとかを起こすことが教育    竹内俊晴

 学ぼうとするものに向かって語りかけ、相手とふれ、対話し、相手のこころの内になにごとかを起こすこと、これが本来教えるということだろうと思うのです。
 わたしは演劇の世界に入って30年以上になりますが、私を最も考え込ませ悩ませたのは、日本人の対話の成り立たなさでした。
 会話はほとんどが言いっぱなし、すれちがいで、相手に働きかけてこれを変え、あるいはその過程で自らが変わっていくという志向を持たないのです。
 これではドラマなど生まれようがない。心のモヤモヤや孤立することはあっても、人と人がきびしくふれ合い、別の次元へ高まっていくドラマはない。
 ということは、演劇だけでなく、教育の分野においてこそ最も致命的なことではありますまいか。
 ある教員から苦渋に満ちた手紙をもらった一節に「授業中に必死に話をしていても、だれひとり聞いていなくて、だれにも声がつたわってないという経験がたくさんあります」とありました。
 国語の授業でも最近は詩の朗読が重視され始めているようです。だが私の知るかぎり、それは教員の文学的解釈に基づく、センチメンタルな声の抑揚の形成に過ぎぬ場合がほとんどです。
 そうではなく、まず、
 向かい合った聴き手に話しかける。
 聴き手の内にことばが入り、リズムとイメージが動き始める。
 すると、それに支えられて読み手の呼吸は変わる。
 聴き手に受け入れられたと感じたところから、次のことばが生き始める。
 詩の回復は、ことばの生きる力のよみがえりであるようです。
(竹内俊晴:1925年-2009年、元演出家(竹内演劇研究所主宰)・元宮城教育大学教授。独自のからだとことばのレッスンを展開しレッスンを行った)

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国語科:人を育てるものとは何か

 この前、昭和27年ごろ教えていた東京下町の紅葉川中学校の卒業生が久しぶりに集まって学年会をしました。みんな五十三歳ぐらいになっています。
 「大村先生と一緒に勉強したとき、何が役立っていると思う」という話をしていました。
 一番役に立っているのは、学習記録で、記録をまとめることを大切にしたことで、今でも調べたりまとめたりすることが、実にスムーズにさっさと気軽にできることが、人にびっくりされる、ありがたい、と話しあってあっていました。
 当時は、単元学習が海のものとも山のものとも分からないときで、まだ能力表もありませんでしたから、非常に危険といいましょうか、どんな力がつくのか、はっきり分からないまま進めていました。私も若かったこともあって、実に大胆な単元を思い切ってやっていました。
 教材は自分が作るのが本当で、それこそが適切な教材であるはずです。危険だけれども、教師が、謙虚に子どもをじっと見つめながら、心配で一杯になりながら、一番よいと思うことをやっているという、そんな状態でした。
 その当時の卒業生たち自身が今、自分たちには一種違った何かがあるというのです。卒業生は今、五十幾つになっていますが、教師が冒険しながら謙虚に一所懸命になって、できるだけのことを尽くして育てられるのと、そうでないのと、どっちが人を育てるのだろうかという話になることがあるのです。
 私はあるひとつのものを育てたな、という気がします。ぜんぜん誤りのない安穏な世界よりも、多少の失敗を含む方が、人を育てるのではないか。ことに、ことばを育てるのではないかと思います。本気で語りたいことがたくさん語られて、そういうときにことばの成長というものがあるのでしょう。
 真実のことばの語られない教室、どこからか借りたようなことばを使ったり、思ってもいないことを口にのせたり、そういうことばがある教室というのは、国語の授業ではないのです。
 切実になったとき、言いたいことが胸一杯にあって、しかし、つまってなかなか言えないとき、そういうときにことばというものは伸びるのではないでしょうか。何か言おうと思って、全力をあげてことばを探す。そういうときにことばの神経がよく磨かれると思うのです。
 ただ、問いに対して答える、合っている、合っていないという単純な世界にいますと、切実なことばが必要とされません。安全なことばが出てきますし、ことに教師の方は全く安全な自分の持ち合わせの力で、ちゃんと間に合います。ですから、苦労して苦悩してことばを探すということがなくなるわけです。そういうことが国語の授業を眠らせる気がします。
大村はま:1906-2005年、長野県で高等女学校、戦後は東京都公立中学校で73歳まで教え、新聞・雑誌の記事を元にした授業や生徒の実力と課題に応じた「単元学習法」を確立した。ペスタロッチー賞、日本教育連合会賞を受賞。退職後も「大村はま国語教室の会」を結成し、日本の国語科教育の向上に勤めた)

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国語科:読んで要点をつかむ力をつけるには生活的な目標が必要である

 話を聞き、文章を読んで、要点をつかむ力がなかったら、言語生活は崩れているという気がします。その力をつけようとして、文章を読んで要点を書く練習をする。しかし、うまくいかないので心配していますと大村はまはつぎのように述べています。
 どうしても目標というものがいるのです。ひとつの目標があって、そのことについてこの文章から要点を、と言えば子どもはかなり一生懸命になります。
 生活的な目標がないと、ただ勉強のためということでは、生活のなかに生きて働く力は養えないと思います。
 読んで要点を取らすとき、求めるもの、目標がないと生活に役立つ力がつく子どもになってこない気がします。
 うれしいにつけ、悲しいにつけ、寂しくて自分を慰めたいにつけ、気が勇むにつけ、ことばの生活の中に本を読むことを結びつけていくというのが読書生活です。
 自分が何かあるときに、本の方に心が向くのが読書生活の始まりです。そこに求めていく、そういう態度が読書人の基だと思います。
(
大村はま:19062005年、長野県で高等女学校、戦後は東京都公立中学校で73歳まで教え、新聞・雑誌の記事を元にした授業や生徒の実力と課題に応じた「単元学習法」を確立した。ペスタロッチー賞、日本教育連合会賞を受賞。退職後も「大村はま国語教室の会」を結成し、日本の国語科教育の向上に勤めた)


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