カテゴリー「教師の人間としての生きかた・考えかた」の記事

教師は人間好きであることが肝要、自分に不都合なものをも包みこみ愛せよ

 教師は子どもが好きでなければという論が多いようだが、わたくしはそれよりも人間というものが好きであることこそ肝要であると思う。
 好きという表現が情緒的だというなら、人間について発見することに張り合いをもっているといってもよい。
 人間理解はそのことによって自然に深まる。
 教師は毎日のように子どもを見ているのであるから、人間に対する関心、理解力があれば、奥深いとらえかたができるのが当然である。
 子ども一人ひとりについて深い理解が生じれば、その親に対する姿勢もおのずから違ってくるにちがいない。
 性急で自己中心的な親に対しても、じっくりやわらかく包んでいくことができるであろう。
 いわばそれは教師の懐が深くなるということである。
 懐が深いというのは、ただ度量があるということではない。
 淡々として多様性に対することができるということである。
 教育が生きた仕事であるかぎり、教師の都合によって好きに動かせるものではない。
 教師は絶対に自分の教師としての都合を優先させてはいけない。
 その心がまえがしっかりできていないから、人間としての子どもをちゃんと育てることができないである。
 自分に不都合なものを愛せよと、強くすすめるゆえんである。
(上田 薫:1920-2019年大阪府生まれ、教育学者。東京教育大学教授、立教大学教授、都留文科大学学長を務めた。長く信濃教育会教育研究所所長を兼任。教育哲学、教育方法学を研究、一貫して教育現場の研究実践にかかわり続けた)

 

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大正自由主義教育運動で中心的な役割を果たした澤柳政太郎とはどのような人物であったか

 澤柳政太郎は、教育官僚、教育者で、大正自由主義教育運動の中で中心的な役割を果たした。
 澤柳は、東京帝国大学を卒業し文部省に入り、小学校令を改正して、4年から現在の6年の課程にし、旧制高等学校を増設し、旧来の藩閥の弊から脱却、全国から人材を登用する扉を開いた。
 明治39年に文部次官、東北帝国大学総長、大正2年に京都帝国大学総長を歴任した。
 その後、陸軍士官学校の予備校として名高かった成城学校の校長に就任。
 成城学校内に新教育の実験校として、大正6年に成城小学校を創立した。
 小原國芳を訓導として招聘し、以来、成城学校は大正自由主義教育運動の震源地となる。
 澤柳の教育や教師について次のように述べている。
 教育者の精神の創造は「教育者各自の心に求めるべき」としている。
 教育を支える最大の要素は教育者の人間性である。
 教師は高遠なる見識を持し、自重自信の精神をもって仕事にあたる。
 沢柳が重視したのは、第一に学識、第二に徳義であった。
 教育学を学ぶものは単に教育の方法を知れるを以て足れりとしてはいけない。
 必ず教育の目的について明確な思想を得ること。
 教師は徳義(人間としてふみ行うべき道徳上の義務)の教育者であり、同時に自身へ道徳的完成の責任を負う。
 教師の最も肝要な資格は、教育に対する「誠実さ、熱心さ」である。
 教師の仕事は愉快である。その理由は、
(1)授業で教師は行動の制限を受けることはなく、自由に思うままに行動することができる。
(2)社会・国家のために有益なこと。
(3)安易ではなく、無数の困難と解決の努力が必要である。
(4)実践にあたっては工夫の余地が無限にあること。
(5)実践の努力の成果が直に眼前にあらわれること。
 教育は授業ばかりではない、訓練、管理を含む。しかし、大部分は授業である。
 師弟の関係というと訓練上のことである。
 師弟の徳義上の関係も澤柳の考えるところでは、授業以上に影響を受けることが多い。
 教師の生徒に対する同情、教師の人物、徳行から生徒が教師を尊敬し教師に心服し、師恩を感ずるようになることもあるが、それらよりも授業上より教師に対する考が定まることが多いと澤柳は思った。
 澤柳も「ペスタロッチー伝」を訳したり、「実際的教育学」を書くなど、新教育の指導者としての役割を担った。
 澤柳のモットーは「随時随所無不楽」(随時随所楽しまざる無し)。いつどんなときでも楽しみを見いだすことはできる。
(澤柳政太郎:1865-1927年長野県生まれ、教育官僚、教育者。大正自由主義教育運動の中で中心的な役割を果たす。文部官僚、文部次官、高等商業学校校長、東北帝国大学総長、京都帝国大学総長を経て成城学校校長、成城小学校を創立して大正自由主義教育運動を行う)

 

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小中学校の教育現場での数学教育を率先して指導した遠山啓先生とは

 遠山 啓先生が、どういう動機で数学者になったのかとよくきかれますが、ひとことで答えることはむずかしい。
 まず第一に、その厳密さに魅力を感じたということがいえるだろう。
 いちど証明してしまえば、何万人の人が反対であろうと、真理であることに変わりはない、というこの学問だけがもっているさわやかさが、そのころの遠山先生をひきつけたように思える。
 遠山先生は明治42年に熊本で生まれました。
 当時の日本は政府の富国強兵政策のもとで、国を豊かにするためにはいい人材を育てなければならないことを知っていたので、教育に大きな投資をし、世界でも有数の国家になりつつありました。
 遠山先生は幼少のころから好奇心に満ちた子どもだったらしく、父親がわりの祖父を相手に野山や川で遊びまわっていたという。
 後年、子どもの教育にかかわりはじめたとき、このころの体験が生きいきと再現された。
 たとえば、ほるぷ夏の合宿教室に参加されたときなどは、子ども達といっしょにお風呂のなかで手と手をあわせて水をとばす、水でっぽうのやり方を教えた。
 また、ヘボ将棋ですが、といいながらも子ども達に手ほどきをする、つねに子ども達に遊びの文化をどう残すか、という姿勢がありました。
 算数・数学教育に関心をもちだしたのも、遠山先生のお子さんの算数嫌いがどうしてなのか、というところからでした。
 算数の教科書を見ておどろきました。こんな教科書ではわからないのはとうぜんだ、と考え、1952(昭和26)年、数学教育協議会を結成し、数学教育の改良運動に身を投じたのでした。
 タイルをつかって計算の仕組みをわからせる「水道方式の算数」は、この運動の大きな成果のひとつです。
 それまでの数え主義とは反対に「量から数へ」という原則で、量から数を引きだす媒介物としてタイルを使いました。
 さらに計算練習は最少の練習量で最大の効果をあげるための体系を考えました。
 これが水道方式なのでした。
 これは筆算を中心として、日本の伝統的な暗算中心の方式とはまっこうから対立するものでした。
 みなさんも『わかるさんすう』という教科書のようなテキストを見たことがあるでしょう。
 また、ほるぷが刊行した『さんすうだいすき』『算数の探険』『数学の広場』という遠山先生のライフ・ワークの本を持っている人もいるでしょう。
 もうひとつ、教育者としても子ども達のために大きな種を蒔かれました。
「テスト、点数、序列づけ」といういまの教育体制を批判し、「点眼鏡」で子どもを見ないように訴えました。
 そのため、遠山先生自身が執筆・編集した雑誌『ひと』を創刊し、教育の改革に一生を捧げたのでした。
(遠山 啓:1909-1979年熊本県生まれ、数学者。海軍教授を経て東京工業大学教授。数学教育に関心を持ち数学教育協議会(数教協)を結成し委員長として、小・中・高校の教育現場での数学教育を指導し、数学教育の改革を率先。「タイル」を使用し長さ、面積などの「量の概念」の導入し「水道方式」という数学の学び方を開発。教育の全体をどう変えていくかをテーマに雑誌『ひと』を創刊した)

 

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教師になった経緯と、子どもの科学概念がうまく形成されるツボとは、理想と考える教育のありようとは

 国際基督教大学高校で教鞭を執りながら、ガリレオ工房理事長として日本全国を飛び回り子どもに科学の楽しさを伝え、さらに理科カリキュラムを考える会の理事長としても活躍しておられる滝川洋二先生にいろいろお話を伺った。
「まずは、滝川先生が物理の世界へ進まれた経緯を知りたいのですが、少年期から青年期にかけての思い出をお聞かせ願えないでしょうか」
 小学生の頃から理科はもちろん好きではありましたけれども、そんなに実験をよくやっていたというわけではありません。
 小中学校の時は、理科が嫌いではなかったけれど特別に大きな存在ではなかった。
 僕が理系に進むと決めたのは高校の時です。
 ちょうど高校生の時、朝永振一郎さんがノーベル賞をとられて、そのとき湯川秀樹さんが新聞記事で「空間とか時間はとびとびだ」と、しかも「そういう現代の物理の考え方は、孔子や孟子の考え方と共通している」と書かれていたんです。
 高校で勉強している物理は本当の物理じゃない、本当の物理という学問は哲学的で奥が深いんだなぁと。
 それから、湯川さんが科学の平和運動をすすめていて、あー科学は平和に役立てられるんだというのが大きくて。
 僕の場合は、実験が面白いからとかじゃないんです。高校生になって、科学が人間にとってすごく意味のあるものなんだとわかって、将来理系に進む決心につながったんです。
 大学での専門は物理学でした。本当は科学史をやりたいと思っていたのですが、物理しか出来なかったので。
 でも大学へ入って勉強してみたら、大学の物理でも哲学なんて全然やってないんですよね。
「理科教師をめざそうと思われたきっかけは?」
 大学院で科学教育研究協議会(科教協)に参加するようになって、そこの先生たちはものすごく面白い実験をいっぱい持っておられたんですよ。
 本当に、その時の衝撃は大きかったです。ただ、その時は教師になろうなんて思っていなくて、ちょっと覗いてみるという感じでした。
 教育なんか全然興味がなくて、プラズマの理論のドクターに行こうと思っていて、そのための勉強もしていたんですが。教師にだけはなるまいと強く思っていました。
 ある時、物理教育の研究会の案内をみて行ってみたんですよ。そこに学習指導要領を作っている方がいたんですね。
 その方が、学習指導要領は4ヶ月くらいで作れるんですよって言うんですよ。前の指導要領から組み直して、ほらこうやれば4ヶ月くらいでできるって。びっくりしましてね。
 つまり基礎研究もなしで、ただ項目の並べ替えだけで行われているということが余りにもあきらかでした。
 そのとき、僕は質問しました。指導要領から一回なくなっていた高校の物理の大きさのある物体の回転運動についてです。
 この回転運動は高校の物理ではかなり難しくて、僕も高校ではわからなくて、大学でもなかなか難しくて苦労したのに、一度指導要領から外れたものが何でまた入ったんですか、とね。
 そしたら「いやぁ私も知らないうちに入っちゃったんですよ」と言われましてね。指導要領を作る責任者の方がですよ。
 学習指導要領というのは、国の基準として一旦決まると、大きな影響力を持ちます。ちょっとでもこれから外れたら大変な言われようをします。
 なのに、こんないいかげんな作られ方になっている。これじゃ日本の教育は良くならないと思いました。
 だいたいその頃の物理の学習指導要領を作っている人は、余生として教育をという大学の先生が中心でした。これでは駄目だ、教育を最初から本格的に研究する人が携わらなければ、と考えたんです。
 誰かが本気で教育を変える研究をしないといけない、それを僕がやるんだと、ある時思い立ってしまったのです。
「そこでまず、はじめられた事は?」
 大学院博士課程の時は、日本の中にある最高の授業を見て歩こうというのが目標でした。
 カリキュラムの基礎は、一方では自然科学があって、それをどうやって伝えるかで実験とか教材がありますね。
 それからどんなに一生懸命教えても生徒がのってこないと駄目で、のっても教師だけが教えたつもりになって生徒が全然理解していないこともあるので、子どもの認識とか理解の研究が必要ですね。
 僕のドクターコースの一番の大きなテーマは、「子どもの認識はどういうときに変えられるのか」でした。科学的な概念の形成です。
 この研究で、僕が一番影響を受けたのは、板倉聖宣さんの仮説実験授業、高橋金三郎・細谷純さんなどの「極地方式」、玉田泰太郎さんのグループです。
 玉田さんは小学校の先生なんですけれども、すごくいい授業をつくられていました。
 先生が結論を言わないのに、子どもたちがどんどん議論をしている。
 見ていると「どうしてこんな授業になるんだろう」というくらい子どもたちが発言をしている。
 本当にみんなで「こういうふうに理解するといいんじゃないか」みたいな意見が次々とでてきて深まっていく。
 大学院のときは、そういう現場の中にある最高のものを見てまわりました。
 僕の仕事はそれらを理論化することでした。どうしてそういう授業が出来るのか。その人だけしかできないのか。誰でもできるようになるのか。それを研究するのが、僕のテーマでした。
「そんな滝川先生がガリレオ工房という実験のプロ集団をつくられたわけは?」
 実際に自分でいい授業をやろうとすると、発問が良くて子どもたちがのってきても、やはり楽しい実験がないと授業としては厳しいですよね。
 僕は1979年に教師になって、ちょうど世間では高校が荒れて授業が成立しないような時期があった。
 みんなでいい授業をつくろう、いい実験が柱として必要だと話し合って、ガリレオ工房の前身である物理教育実践検討サークルをやっていました。
 そこで第一回の例会から一緒だったのが、米村傳次朗さんです。最初の米村さんは、実験開発の名人という雰囲気ではなかった。
「カリキュラムをつくりたかったのに、ガリレオ工房というのは随分遠回りに思えるのですが?」
 89年の学習指導要領で、明確に理科は縮小するということが示されました。このまま放置したら本当に理科がなくなるかもしれないという危機的状況でした。
 理系の主だった学会が「理科をこれ以上削ってはいけない」という声明をだしたのです。それで「理科離れ」ということが社会的な問題として浮上してきたのです。
 90年代に僕が考えていたのは、学校教育の中でいくら科学が大切だと叫んでもなかなか回復できない。だから、社会の中で学校教育の中での科学の大切さを訴えていこうと。
 そのためには、カリキュラムをつくるのをひとまず我慢して、科学の楽しさを社会に伝えることがまず第一だと。
 とにかく科学イベントをいっぱい引き受けた。ガリレオ工房の知名度が全国的になり、我々の科学を広める運動が全国的になれば、それはきっと学習指導要領の改訂にも結びつくんだと。
 1999年から一年間のイギリス留学を経て、現在、理科カリキュラムを考える会の活動へとつながっています。
「滝川先生が理想と考える教育のありようとは?」
 本当は国の権威とか一切なしで、いろんな先生が「あの人の授業はいいよ」という人を発掘して、その人から色々教わっていくというシステムができるといいですよね。
 今は学習指導要領通りにやらないと駄目。実験だと、他の教科書に書いてある実験をやっても駄目。
 とにかく先生の自由度が全然ないんですよ。それ、まずいじゃないですか。いろんな教科書があり、いろんな実験が載っている。それらを全部知るだけでも教師には勉強になると思うんですよ。
 自分の使う教科書に載っていない実験はやっちゃいけないなんてね、何を考えているんだろうという現状です。
 教師が見聞を広げて、新しいことにチャレンジしながら、授業の質を高めていくということが何か禁じ手みたいな雰囲気になっています。
「子どもの科学概念がうまく形成されるツボのようなものがあれば、教えて頂けませんか?」
 まずは子どもがよく理解できていないところを教師がしっかり分かっていて、子どもが自分の意見を言い、ほかの人の意見を聞く中で、「あっ間違っていた」と気がつく。
 そこへどうやってもっていくのかなんですよ。
 子どもが自分で気がつけば、これはまずいから何か修正しようとします。
 修正しようという気がないのに、これは正しいから覚えておけといくらやっても、全く子どもは受け付けない。
「どうしてそうなんだろう」とか「自分の理解は間違っていたなぁ」っていう、そこへ連れて行かないと駄目なんですね。
 日本の中には優れた研究や実践があるので、それを学ぶことがいい授業への早道ですね。
「滝川先生が理想とする授業とはどんなものでしょうか?」
 夏休み前の暑い日の金曜日の5時間目とかの授業で、生徒がもう絶対のらない日なんですよ。生徒が「先生、今日は外へ行きましょうよ」なんて言ってくる。
「駄目だ、ちょっとこの問題を考えよう」と言って、問題を出して考え始めてみると、 生徒が夢中になってああだこうだと議論をはじめる。
 実際に実験をやってみることになって、「やったぁー」なんて生徒たちが叫んでいるときに、密かに「勝った!」と思うんですよ。
 今の義務教育の理科の授業時間は640時間です。私の時代は1048時間でした。今の640時間というのはものすごく少ない。
 日本では60年代が理科の授業時間が一番多かった時期です。その時代に教員経験をされた先生方のノウハウを受け継いで次代に伝えていきたいですね。心からそう思っています。
(滝川洋二1949年岡山県生まれ、理科教育のカリキュラムの研究者。国際基督教大学高等学校物理教師、イギリスに留学、東京大学客員教授を経て東海大学教育開発研究所教授、ガリレオ工房理事長)
(KENIS株式会社「先生に聞く」)

 

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教師になろうとする若い人たちへのメッセージと、新聞を教材にして授業を展開する運動(NIE)の取り組みとは

 鳴門教育大学教授の阪根健二先生は、教師になって最初は中学校で技術・家庭科と社会を教えていました。
 ちょっと変わった取り合わせですが、本来の専門は電気で、大学院時代は電気(集積回路)で修士論文を書きました。
 ところが、大学院時代に、すでに教員免許を持っていたことで、近隣の中学校に非常勤講師としてアルバイトに行ったことが今の私を作ったのかも知れません。
 電気で研究者になりたいという希望があったのですが、当時は、コンビニのバイトも時給200円程度でも、学校の講師は時給1,000円以上と破格だったので、それが一番の理由で講師をOKしたように思います。
 ところが、アルバイト気分に行った中学校が猛烈に荒れていて、何名もの先生が生徒に殴られているくらいすごい学校だったのです。
 大学院での研究との掛け持ちも大変で、おまけに厳しい教育現場だったのですが、生徒と関わってみると、意外な一面を垣間見たりして、次第にバイトという気持ちから、教師という仕事の崇高さや面白さへと、徐々に意識が変わっていく自分が不思議でしたね。
 結局、香川県の教員試験を受け、おまけに通信教育で、小学校や中学校の社会科の免許を取得したわけです。
 厳しいのに、教師になりたいという気持は不思議ですね。
 教育学部の学校教育教員養成課程は、教師を目指して入学する学生がほとんどですが、入学期には何気なく教師になりたいという夢を持っています。
 それはそれでいいのですが、様々な専門的な勉強や、教育実習等の厳しい体験が、次第に強く教師への希望へと変わっていくのです。
 これは、モチベーション(内的動機付け)も大切ですが、インセンティブ(外的な意欲刺激)が、教師への道への大きな意欲付けになっているのでないかと思っているのです。
 つまり、教育現場の実際を体験する(あるいは知る)ことで、教育の意義や使命感を感じることなのでしょうね。
 何のために仕事に就くのかと学生に聞くと、経済的な意味よりも、自己実現や社会貢献を一番にあげる学生が多いのです。
 それだけ、自分がどう生きるのかという命題を考えることが教育の根本なのでしょうね。
 自分を思い返すとそういった経緯をたどっていますから、是非、今の学生に是非追体験をしてもらいたいと思っています。
 阪根先生は、香川県内の中学教師や教育委員会指導主事を務め、新聞を教材にして授業を展開する運動(NIE)に取り組んできました。
 NIEにかかわったきっかけは、子どもたちは、社会の情勢に無関心。
 教師も含め、さまざまな問題を敏感に感じる力を持たなければならないと考えたからです。
 約30年前の中学教師当時、学校は荒れていた。そんな中でも子どもたちは必ず成長していく。
 そこで教師は何をすればいいか。単にその場だけを収めるのでなく、将来のことを語っていく事が大事。
 阪根先生は新聞の「人の欄」など、努力した人やがんばっている人の記事を使ったり、事件が起きると、なぜ起きたのか子どもと一緒に考えたりもした。
 それによって子どもたちは変わります。広い視野を持つんです。
 大切なことは、社会情勢を知るだけでなく、そこには、必ず人の生き方が見えます。
 つまり「記事の向こうに人がいる」ということ。
 ある種、他を感じることができるようになるんです。
「新聞を丸ごと使う」ことが大切です。
 新聞を開くと、昨日起きたこと、これまで起きたこと、これからのことなどすべてが詰まっている。
 俯瞰(ふかん)的に広く見る力がつきます。これは現代を生きる人にとって大切な力です。
 教師になろうという若い人たちへのメッセージは?
 子どもたちを育てることは、本当に崇高で使命に燃える仕事だと思います。
 何年も教師をしていると、子どもが嫌いになることもあります。
 それでも教師をやって良かったなと思うのは、子どもの成長があるから。
 子どもというのは本当に真剣にかかわったら必ず変ります。
 成長していく姿を見ながら、ともに歩んでいけるのです。そんな仕事は他にはないですから。教師という仕事は素敵ですよ。
 教師の不祥事が多いですが?
 もともと阪根先生の専門は学校危機管理。教師の不祥事が多いのは、広く見る力、社会と自分とのかかわりを見つめる力が弱くなっているから。
 自分は今教師として何のために仕事をしているかをしっかりと考えないといけません。
 そのためにも視野を広げることが一番。
 読み返してじっくり考えることができる新聞は非常に有効です。
 阪根先生はいつも笑顔を絶やされませんね?
 子どもが好きだけでは教師は務まらない。多くの困難が待ち受けていますから。
 しかし、教師が笑顔を忘れた時、子どもと離れてしまう。
 笑顔は、子どもたちのことを何でも受け止めようという思いと決意。それがプロの教師なのです。
(阪根健二:1954年神戸市に生まれ、香川県公立中学校教師、香川県教育委員会指導主事、香川県公立中学校教頭、香川大学助教授等を経て鳴門教育大学教授。研究分野は学校危機管理、防災教育、NIE(新聞活用教育)、メディア対応、生徒指導中心とした教職実践、家庭教育・家庭学習等)

 

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小学校教師時代に,東の斎藤喜博,西の堰八正隆と称された堰八正隆とは

 堰八正隆の小学校教師時代は,東の島小(斎藤喜博),西の用瀬(もちがせ)小(堰八正隆)とならび称された実践家です。
 堰八先生は授業の大切さを認識していた点では斎藤喜博や向山洋一と変わらない。
 異なる点は、堰八先生の視点が徹頭徹尾子どもとの関係づくりに向けられていることと、子どもを育てる視点が明確に意識された指導がなされていたことである。
 堰八先生の講演で心に残ったキーワードを次に示します。
 地位と名誉を考えたら教育者はだめ。
 子どもは親しい人がいい。いろんなものを教わる。
 教材は子ども同士が心を開くためのもの。
 教育力の不足は誠心誠意の問題。
 スキだっていうとき、子どもの脳は一番が働く。
 一人をほめることで全員を認める。
 子どもから学び取る。
 教材研究を目一杯する。やればやるほど、面白くなくなる。
 子どもに任せると柔らかくなる。
 自分でやってできないことは聞く。
 創造性が大事。自分のアイディアが大事。
 子どもを変化させていく。解体する。破壊じゃない。刺激を与える。ルートを造っていく。ヒントを与える。
 集団が変わるとすぐ個人は変わる。みんな同じ。
 子どもを引っぱりつけるオーラをもつ。
 教材研究は食べ物と同じ。食欲が大事。
 教材もこれぐらいだったら食べられるぐらいの量でないといけない。
 根気強くいけば必ず通じる。
 勝負は3つ:頭、胸、肚。3つがあることを気合いという。それがオーラ。
 子どもに学校に来てよかったと思わせたい。
 堰八正隆先生の授業を拝見して、講演を聞かせていただいたのですが、とにかくすごかった。
 堰八先生、退職されて何年もたつのに、すごいハリとツヤ気迫は半端ない。
 子どもが育たない言葉遣いのkeywordは「ネチネチ・ガミガミ・クヨクヨ・グズグズ」だそうです。
 この言葉を使うと、子どもは「イライラ・オドオド・クヨクヨ・グズグズ」になるそうです。
 大切なのは、3つの氣「陽気・元気・根気」だそうです。
 子どもに指導してもらう。
 学級崩壊の前に学習崩壊。
 学習崩壊のクラスこそおもしろい!
 人間は皆おもしろい!!おもしろくてたまりません。
 子どもは、「迫力のある教師」が好き。
 子どもに無駄な話をしてやることが大事。無駄こそ大切。
 まず新鮮さ「前の先生とは違うぞ!?」
 教師に必要なのは「新鮮さ・活力・明るさ」
 子どもといろいろなことをしてふざける。
「やさしさ」の基盤の上に子どもをのせ、「厳しさ」で挟み込む「サンドイッチ法」
 感受性で子どもをみたら、全ての子どもを救うことができる。
 左脳(厳しさ)⇔右脳(やさしさ)
 教師は、子どもに学力をつけることはできない。学力をつけられる環境をつくるのが教師の仕事。
 学級に個性が出てよい。〈個性が出ないほうがおかしい。気持ちが悪い)
 子どもが本性を丸出しにする授業をしよう。
 環境によって人は変わってしまう。
 小学生は心を掃除力で磨くのは難しい。
 生活指導は全て、授業で行う。授業で良心を育てる。
 教師も「できない!」「わからない!」「恥をかいた!」経験をするべき。子どもの気持ちがわかる。
 脳は刺激を与えないと止まる。
 一番大切なのは「この先生と一緒におったら私は絶対に良くなる。」と子どもに感じさせる。
「思い込む」と人間はそうなる。「そうなるんだ!!」と思い続ければ、ひとりでになる。
 言葉を目に入れる。近づいていき、相手の目の中に言葉を注入していく感じ。口先言葉を使うな!
「目」を使えば使うほど、子どもは、その教師の言動行動が真実だと感じる。
 どうすれば、子どもの瞳は輝くのか!答えは「お喋り!」
 まずは、子どもの心を掃除。おなかにたまっているものを全部出し切らせる。
 子どものエネルギーを発散させる。一息ついて落ち着いたところに「これはね・・・」と指導開始する。
 まず身辺の掃除、それこそ手始め。
 先生は「勉強をしなさい」といわない。
 嫌いな人に近づくと好きになる。自分を実験材料にしつつ、自分を改革していく。
「技法」にとらわれない。「信念」は自分でもとう。
 気配り(レーダー)と心配り〈心配)を育てよう。
 文章を読む力があれば、別の教科でも何でもできる。
 教師がぼけて、子どもに突っ込ませる。
 板書は一年かけて「字はここまで丁寧に書くんだ!」というをハートを伝える。
 教材は天から与えられた配ぜん。
 授業が全て。子どもとどこで繋がるか、子どもの生活指導をどこでするか、それは  授業で。
 授業で必要なのは、「人間力・知識・技能・徳・情操・コメント力」
 第一印象はとても大事。
 教師はとにかく動き、身体を動かすことです。20代は、とにかく走り回っていました。仕事を探し、動き回り、とまらない自分をつくりましょう。動くことで脳が活性化するのです。
 子ども同士の話し合いのコツは、子どもが本当に「話し合いたい」という問題意識をもっていないと、話し合いはできない。子ども一人一人がみんなの前で自分の気持ちを言う練習は大切です。
 先生方、成功してはいけない。失敗を重ねましょう。満足は自己弁護にしかなりません。悪いものは悪い!といえる心を持ち続けましょう。
 困ったり迷ったりしたら、前へでよう。決意の心をもつのです。子どもを改造してはいけません。自分を改造するのです。
 講演会に参加して堰八先生の魅力と迫力に、ただただ圧倒されました。
 お話中、ずっと笑顔で楽しませていただきました。お話を聴きながら、気付いたら堰八先生のことを大好きになってしまいました。
 いつまでもお話をきいていたいような気分になりました。
 講座が終了したとき、堰八先生が私のほうへ近づいてきて、すっと私の肩をたたいてこう声をかけてくださったのです。「君は、いいよ。うん!いい」もう涙がでそうなくらい。嬉しくなりました。
 こうやって子どもたちともつながっていくのだろうな。とも思いました。
(堰八正隆:鳥取県公立小学校教師。定年退職後は関西地方や、岡山県北部で授業づくりや、生徒指導に尽力されました。阪神間,岡山などを中心に教育アドバイザーとして活躍。子ども,保護者,教師の教育相談は,年間1000件を越え,模擬授業・講師など精力的に活動。2016年88歳で亡くなられた)

 

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英語嫌いだったのに、なぜ予備校の人気英語講師になったのか、勉強好きな子どもにするにはどうすればよいか

 人気コミック「ドラゴン桜」の英語教師のモデルでもあり、東大合格者から「先生のおかげで英語が克服できた」と厚い信頼を寄せられるカリスマ英語講師、竹岡広信さん。
 意外にも、学生時代は英語が嫌いだったという。その彼がなぜ嫌いなものを使う仕事を選んだのか。
 多くの受験生たちから支持される独特の教え方とは。親や教師は子とどう向き合うべきなのか。
 そして、私たちが決断に迷った時、何を決め手にすべきなのか。竹岡さんに教育や生き方について大いに語っていただいた。
 竹岡さんの父親が塾長を務めていた塾で、京都大学工学部の学生だった竹岡さんは高校英語を教え始める。
 竹岡さんは、英語が嫌いだったし、生徒に教えるなんてムリと思ったんですが、英語は大学入試に必須の科目。高校生には避けて通れない上、自分は国立大学に合格したから教えられるかもしれないと引き受けました。
 生徒たちもほとんどが英語嫌いだった。しかし、竹岡さんは自分が「やみくもに勉強」した経験から、とにかく必死で教える。
 生徒たちも全力でついてきた。そして、運命の合格発表。結果は男子全員が、不合格。
 竹岡さんは「あぁ、しまった。彼らをつぶしてしまった」と悔やんでも悔やみきれない気持ちです。
 生徒たちは竹岡さんの授業に感謝してくれました。しかし、竹岡さんは「自分に教える力がなかった。あまりにも罪が大きい」と。
 そこから、竹岡さんの葛藤が始まる。塾には次の学年の生徒たちが既にいた。今度こそ合格させるためにも英語教育に本腰を入れようと、文学部への編入学を考える。
 迷いに迷って、ふたりの恩師に相談する。
  工学部の教授には「どっちに進んでも、確実に後悔する」と言われました。だから「後悔の少ない方に行きなさい」と。
 高校時代の先生に相談すると「自分にとって不利な方を選べ。自分を抑えて、世の中の役に立つ方へ進みなさい」と言われた。
 実はほのかに、竹岡さんは英語教育に疑問も感じ始めていた。英語嫌いがこんなに多いなんておかしい。英語をこれだけ学んでも話せないのはおかしい。今までの英語教育は変えるべきなのではないだろうか、と。
 竹岡さんが出した結論は、文学部米文学科への編入学だった。
 文学部では、工学部を卒業しての編入学だっただけに、自らハードルを高く設定。成績は「優」でなければならない、と心に誓う。
 全部優を取れるほどきちんと理解できていないと思って。このままではダメだ、思いきり勉強に打ち込める環境をつくろうと、休学しました。
 勉強に専念するための休学。なのに待っていたのは「パチプロ」のような生活だ。パチンコ店へ通いながら「弱いな俺」と自分を嘆いた。
 そんなある時、競馬に異常に詳しい人と知り合ったんです。
 過去のレース結果から、それぞれの馬の体重、親馬の情報までこと細かに知っている。でも、その人はそれを覚えようとして覚えたわけじゃないんです。
 「好きだから」自然と自分の中に入っていく。
 コレだ!好きじゃないと始まらない。「好きじゃないと伸びない」と思い至ったのです。
 やっぱり今までの自分は英語を好きではなかった。
 「イヤイヤやっていたんだ」と竹岡さんは「好き」というチカラの大きさに気づく。
 つかんだ真理は「好きだからこそ伸びる」だった。
 そして、好きになるために「ゆっくり学ぶ」スタイルへ変えていく。ゆっくり勉強することで英語が楽しいものになった。
 復学すると一年間で94単位を取得したのだった。
 では、好きになるために「ゆっくり学ぶ」方法とはどんなものなのだろう。
 英単語のイメージをつかむと、英語がぐっとおもしろくなる。
 生徒が竹岡さんに「先生、『triumph』がどうしても暗記できない。どうしたら覚えられるんだろう」と聞かれ、単語について調べ始める。
 triumphの成り立ちを見ると、語尾のphはphoneに由来し、音という意味。umphで勝利の歌(音)を歌う、になります。
 ところで、私たちは祝いの席では何をしますか? そう、万歳“三”唱。つまり“三”を指すtriが語頭にあるわけです。
 外国でも勝ちどきは三回なんですね。triumphは勝利の歌を大合唱するということで、大勝利という意味になるのです。
 ちなみに大勝利の時に奏でられるのが、トランペット『trumpet』(trumpはtriumphの変形)。なんだかおもしろいと思いませんか。
 成り立ちのほか、単語の持つイメージがわかるとぐっと覚えやすくなるという。
 たとえば、spring。春、バネ、泉・温泉を指しますが、それぞれの意味に関連性を感じませんよね。
 春というと、日本人の感覚では穏やかで優しいイメージだけど、イギリス人にとっては厳しい寒さの冬が終わり生命がわきだすイメージ。
 「爆発するようなエネルギー」を感じるそうです。その感覚で見直すと、生命が一斉に息吹く春も、弾けるバネも、わきだす温泉も、確かにspringですよね。
 たったひとつの単語にも奥深い世界が広がっている。
 興味を持てばおもしろいし、納得したら簡単には忘れない。
 自分のペースで、自分が納得するまで向き合ってみる。
 それが、竹岡さんの「ゆっくりと学ぶ」ということ。
 自らゆっくり学ぶことで英語が楽しくなったように、生徒たちへもそのスタイルを貫いている。
 しかし、受験に「ゆっくり」は許されない気もするが、どうだろう。竹岡さんは、
 「確かに、私も以前は“丸暗記”を生徒に求めていました。単語を間違えたら100回書いて覚えろ、という具合に。しかし、これは教師の“自己満足”に過ぎません」
 「生徒が自分からやらない限り、何も身につかない」
 「教師の役割は、きっかけづくり。英語を「おもしろい」「好き」と思えるようにすることです」
 「そのためには、一つひとつ丁寧に教えた方がいい。一見遠回りに感じますが、しっかりと記憶に残り、結果的に近道になるのです。遠回りこそ近道です」
 「おもしろい、好きと思えば、子どもたちは走り出す」
 「いったん走り始めたら、放っておいてもひとりで走り続ける」
 と竹岡さんは言う。
 だが、走り出すのを「待つ」のは親としても教師としてもつらいことだ。竹岡さんは、
 「待つのはつらい。だけど、こどもたちをほめて、ほめて、ほめて待つんです」
 「子どもの力を限定してしまうのは“家庭、地域、学校”です。勝手に限界を決めつけて、子どもの能力や心の成長にブレーキをかけてしまう」
 「どんな子でも、アホと言われ続けたらアホになります。だから、ほめるのです」
 「しかも、本気で。子どもは敏感に気持ちを察知するので、本気でないと意味がない」
 「本気で信じ続けて待つこと。そうしたら、彼らは変わります」
 という竹岡さんも「辛抱し過ぎてハゲそうだ」といつも言っている。
 子どもを信じ続けたら、変わる。
 大切なのは、相手のあるいは自分の力を信じて一生懸命になること。
 ひとつのことにひたすら打ち込むことで、きっと道は拓ける。
(竹岡広信:1961年京都府生まれ、英語教師。竹岡塾主宰。駿台予備学校講師(主に関西エリアに出講)ドラマ、漫画『ドラゴン桜』に登場する英語教師のモデル。先生を対象にした講演会。テレビ「プロフェッショナル 仕事の流儀」に出演)

 

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挨拶は心の定期預金、必ず子どもの心に積み重なり、応えるようになっていく

 中村 諭先生は、教員生活31年のうちの23年間を、崩壊寸前の学校ばかりに教諭、教頭、学校長として派遣されました。
 中村先生は、
「組織や集団の秩序を回復したいと思ったら、一番最初にすることは挨拶じゃないか」
 といって、学校で生徒の顔を見るたびに、
「おはようございます」「こんにちは」「さようなら」「元気?」
 などと言い続けた。
 最初は、生徒の方が変な顔をして、そっぽを向いて足早に去っていきます。
 そのときに「こら、待て。おまえは何で挨拶をしないんだ?」と言ってはいけないというんですね。
 そうではなく、それでも、ニコニコして「おはようございます」と言い続ける。
「挨拶は心の定期預金だ」と言うんですね。
「必ず相手の心に積み重なっていく」
「相手は気持ちの負担を感じて、小さい声で『おはようございます』と応えるようになる」
 というんです。
 中村先生は「教育というのは、火を点けることです」と言う。
 みなさんは、教師が子どもに火を点けることと思っているでしょう。
 そうではなく、子どもが教師に実践の火を点けることなのです。
 子どもたちからのメッセージを本当に教師が受けとめ、教師が、
「これまでの自分たちの実践を見直す」という実践の火を点けるというのが中村先生の持論です。
 中村先生の尊敬する山口良治先生(伏見工業高校ラグビー部総監督)は「子どもたちの問題行動は愛を求めるシグナルだ」と。
 中村先生の赴任された学校は、兵庫県宝塚市内の中学校で、20年間の犯罪件数が、毎年市内でナンバーワンという学校だったんです。
 それが、挨拶を続けていくことですっかり穏やかな学校になって、よその人が校門を入って来ても「こんにちは」と生徒の方が挨拶をするような学校になったといいます。
 中村先生に転任の時期が来て、いよいよ学校を去ることになりました。
 最後の卒業式で、生徒の代表が謝恩の辞を述べるのですが、途中で自分が感極まってしまって、全くのアドリブになってしまうんですね。少し読んでみますと、
「数え切れないほど言い争いをして、先生には迷惑を掛けてしまいました」
「でも、それも俺の中ではめっちゃ良い思い出になりました」
「先生の方も『良い思い出ができた』ということにしておいてください」
「これからも、俺みたいな問題児が現れるかもしれないけど、挫けずに頑張ってください」
 と言うんですね。
 その後、今度は生徒会長が立ち上がって、
「僕たちの気持ちです。先生、どうぞ受け取ってください」
 と言うんです。
「何だろう?」と思って立っていると、ピアノの前に生徒が座って『仰げば尊し』を黙って弾き、生徒の大合唱が始まった。
 もちろん、先生も生徒もボロボロ泣いてしまったそうです。
 昔から、禅のお坊さんは「一波は動かす、四海の波(一つの波が動けば、海全体の波が動き出す)」ということを言いました。
 この「波」というものを、「祈り」といってもよいし「思いやり」といってもよい。
「あの学校に行くとみんなが挨拶をするよ」など、何か特色をもった学校づくりができていくというのは、素晴らしいことだと思うんですよね。
 ひとつの波が動けば、海の波は動くんですよね。
 何もしないで、
「言葉つきが乱暴だ」「すぐキレる」「危ない」
 というだけで、子どもたちに対して距離感を持ってしまう。
 それが一番の大きな問題なんです。
 なぜ大人が踏み込んでいかないのでしょうか。
「この子はこんな良いところがある」という目で、子どもたちを見るということです。そうすると子どもたちの輝きが増していくのです。
 そうやって、分かってくれる子、つまり、お互いに心を交換できる子を増やしていくことによって、つっぱっていた子が、
「つっぱっていても、つまんねえよな。」
 と、必ず応えてきます。
 根っからの悪い子なんていないんですよ。 そこをもう一度考えてみたいという気がします。
(中村 諭:1948-2003年兵庫県生まれ、兵庫県公立小中学校教師、同教育委員会指導主事、同公立中学校校長、読売教育賞児童生徒指導部門優秀賞受賞)
(草柳大蔵(評論家):文参照)

 

 

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「学びの共同体」の学校改革と、「いのちの授業」を命が尽きるまで子どもたちに伝えた

 大瀬敏昭校長は、新しく創設する浜之郷小学校を「学びの共同体」の理念に掲げて、東京大学の佐藤学教授と共に学校づくりに取り組んだ。
 浜之郷小学校の改革は徹底していた。ひとつは教員の意識改革だ。
 子どもを教え、導くのはあくまで教師である。教師こそが学校の根幹であり、教育の要である。
 「1年に一度も研究授業を行っていない教師は、公立学校の教師と認めない!」と徹底的に教師のスキルアップを断行した。
 それにより、報告書によると年間174回以上も研究授業が行われた。
 研究授業もユニークで、指導マニュアルを持たず、各先生が自由に考えて行った。
 授業を途中でやめても良いし、延々続けても良い。失敗したらもう一度挑戦する。
 授業公開も自由で、参観者も授業に参加しても良いという、かなりフリーな設定だ。
 研究協議という時間を設け、教師全員の発言を原則として、長い時間の討議を何度も繰り返した。
 また授業研究に時間を割くことを優先にし、職員会議以外の会議を禁止した。
 開校2年目に大瀬校長のガンが発覚し「いのちの授業」が始まった。
 大瀬校長は、ガンが再発し、余命わずかと宣告されながら、子どもたちに命の尊さを伝えようと、最後まで教壇に立ち続けた。
 命の終えんをどうやって子どもたちに見せるか。
「やせ衰えていく自分の姿を見せることで命の重みを伝えたい」と、自分の体を教材に「いのちの授業」をはじめた。
「ガン」と、大瀬校長は、黒板に書いて、静かに語りだした。
「校長先生が、がんを手術したことはみんなも知ってるね」
 子どもたちに緊張感が走り、教室は静まりかえった。
「実は校長先生は、がんが再発しました。明日死ぬかもしれない。とても恐ろしくて、怖い。けれども、お医者さんの指示に従ってがんと闘っています」
 大瀬校長は淡々と話を続け、もう一度黒板に向かって話のキーワードとなる言葉を記した。「生命」「からだ」「生」と。
 大瀬校長にとって、死への不安・恐怖を和らげてくれたのが絵本であった。
「いのちの授業」は、絵本の読み聞かせから始まった。
「いのちの授業」を始めたころの授業は、つぎのようなものであった。
 がんという病気について話す。自分ががん患者であることを知らせる。
 死の不安・恐怖から救ってくれたのが絵本であったことを知らせる。
 絵本は「わすれられない おくりもの」(スーザン・バーレイ)、「100万回生きたねこ」(佐野洋子)、「ポケットのなかのプレゼント」(柳沢恵美)を読み聞かせた。
 最初は、授業というにはあまりにも単純で、子どもたちは、ただ私の話と本の読み聞かせを聞くだけである。
 その後は、素材を教材化したり、話し合いの場面を組織したりして、いわゆる授業らしくなっていった。
 子どもたちに「いのちの授業」をするうえで、大瀬校長は命をつぎの三つの側面で理解したいと考えていた。
(1) 限りがある命
(2) 連続する命
  人間として、種として、家族としてのリレーされる命である。
(3) 心や魂としての命
  無限な命であり永遠の命。
 人間が生きていく中では、どちらかというと、辛いことや苦しいことが多い。
 そういうとき、自分を支えてくれる「もの」をもつということである。
 それは、何かを信じる心であり、あるいは家族である、ということを最後に子どもたちに伝えたいと願った。
 いのちの授業は答えを求める授業ではなく、自分だったらどうするかを自分なりに考えさせる授業である。
 大瀬校長の行った「いのちの授業」は、大瀬校長自身ががん患者であり、死が近いかもしれないということを、子どもたちも知っている中で行っている。
 そうした緊迫した中での授業であるから、子どもたちの心のもち方も変わってくるのだと思う。
 そういう状況でない場合「いのちの授業」はどのようにすればよいのだろう。
 それにはまず「いのちの授業」を行う教師自身が、どれくらい自らの命について真剣に向き合っているかということが求められる。
 もっと言うと、よりよく生きようとしているかを、自分の内面にもてるかということが、何よりも求められてくると思う。
「いのちの授業」は自らの生き方に目を向けることができる教師なら、誰にでもできると、大瀬校長は思っていた。
 大瀬校長はフランクルの言葉を思い出す。
「われわれが人生の意味を問うのではなくて、われわれ自身が問われた者」であり、自分の人生に対して「毎日毎時、正しい行為によって必答してなければならない」のである。
 そして限りある日々に対して、自分自身を辱めることなく精いっぱい誠実に生きることである。
 このように生きてこなかった自分を恥じ入るだけである。
 死が不可避となったいま、何かと、そういう自分になりたいと思うようになっていった。
 私という個性を完成させて、死にたいと願うようになってきた。
 このように、死と対座することは、生を考えることである。
 その意味において、死というのは、人間として成熟するための最後のチャンスなのである。
「いのちの授業」をとおして、大瀬校長自身が「家族・いのち・愛」について多くのことを学ぶことができた。
 授業をしながら、子どもや保護者の感想文を読んだ。
 子どもたちの授業の感想文には、こうつづられていた。
「えいえんの命っていうのは、みんなが、こうちょうせんせいのことがすきだから、えいえんのいのちだとぼくはおもいます」
「ぼくは、えいえんって、とこに気がついたことが、いのちだとおもいます」
「死んだんだから、もうこの世にいないと、言いはる人がいますが、わたしはそうはおもいません。死んでしまっても、人の心の中で生きていると思います」
 感想文を読みながら、大瀬校長自身が変わっていった。まさに「学ぶことは、変わること」だ。
 それにしても、大瀬校長に遺された時間がどれくらいあるかわからないが、限りある時間を、
「いのちは神に委ね、身体は医師に委ね、しかし、生きることは自分が主体」
 という姿勢で、生きていたいと願っていた。
(大瀬敏昭:1946-2004年、茅ケ崎市公立小学校教師・教育委員会指導課長・浜之郷小学校初代校長。「学びの共同体としての学校」を創学の理念に掲げ、東京大学の佐藤学教授と共に学校づくりに取り組んだ。開校2年目に大瀬校長のガンが発覚し「いのちの授業」が始まる。ガンが再発し余命わずかと宣告されながら、子どもたちに命の尊さを伝えようと、最後まで教壇に立ち続けた)

 

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不登校・高校中退をした経験から「自信こそが生きる原動力」と考え、シンガーソングライターなどさまさざまな表現活動をして教育にあたっている

 大野実先生は小学校、中学校と不登校の経験を持ち、京都の進学高に進んだものの、競争主義、学歴主義の教育のあり方に疑問を持ち、高校1年のときに不登校となり高校を中退した。
 中学時代の恩師の説得により、高校を再受験し、大学を卒業。
 表現することの楽しさを知り、大学時代よりミュージシャンをめざし、路上ライブをしたりして本格的に活動するが挫折した。
「人前で何かをする仕事」をキーワードに仕事探しをしているとき、教師の仕事にめぐり合い、その後、教員資格を取得し、教師として24年間教師生活を送った。
 京都市にある私立高校長就任中も、ラジオパーソナリティ、シンガーソングライターとしてさまざまな表現活動を行い、不登校、高校中退、と挫折をくりかえしてきた自身の経験を生かし、悩みを抱える若者の相談にのり、子どもたちに勇気を与えている。
 今の学校教育は、子どもの自信を失わせる作用の方がかなり大きい。
 子どもの能力を点数化して頑張らせる。
 頑張れる子は良い。結果を出せたなら、成功体験、達成体験になる。
 でも、どうしても数字を上げて行けない子だっている。
 自分が数字として、シビアに突きつけられていると感じもする。
 点数化できる能力だって、それはきっと限られたものだと思う。
 そんな一部分の能力で、それだけでその子を評価してしまうのはとてもこわい。
 学校は、子どもに成功体験・達成体験を積む場所であってほしい。
 大野先生は「あなた」は「あなた」のままで良い。そんなメッセージを送り続けている。
 教師の仕事は、子どもたちの心に「夢の種」を蒔くことである。
 夢は、諦めなければ必ず叶うもの、とオリジナルの応援ソングを弾き語りし、夢を持ち続けることの尊さについて語り、子どもに自信を、保護者に安心を与えるトーク&ライヴショーを催している。
 時代は、集団から個へと確実に変化してきた。
 実力や能力主義という個人の力が試される中で、どう生きていくのか。
 教育の果たす役割は、感性を育むことである。
 不登校や引きこもりの中にそのヒントはある。
 自己表現とコミュニケーションが夢を支え、活き活きと生きる力を生み出してくれる。
 大野先生は子どもの頃、不登校であった。だから不登校やいじめに真剣に向き合っています。
 大野先生は「歌う校長 夢の種をまく」の本の中でこう書いておられます。
 人は、だれか味方がいたら、死んだりできないものです。
 ほんまに、一人ぼっちやと思うから、死を選んでしまう。
 いじめている子、いじめられる子の間にいて、傍観している子どもたちに、勇気とやさしさを示してもらえたら、追いつめられて、死のうとしている子が、思いとどまるんやないかなと思います。
 そしてきっと、いまは傍観している子の中に、その子のことを、気にかけている子がいるはずやと思っています。
 その子たちに、勇気を出してほしい。
 いじめられている子に、自分はあなたの味方だ、というメッセージを伝えてあげてほしい。
 そんな思いで「明日はきっと晴れる」という歌をつくりました。
「明日はきっと晴れる」作詞作曲 大野実 編曲 大村篤史
 「ひとりぼっちじゃないよ わたしがついているよ」
 やさしい言葉が心に届く
 ただそれだけで生きていける
 かけがえのない生命 かぎりある生命
 なくさないで なくさせないで
 勇気だして やさしさ伝えて
 あなたのやり方で あなたの言葉で
 笑顔見せて 生命つないで
 あなたの生き方で あなたの声で
「あなたが心配だ、あなたが大切だ」
 熱い思いが心にしみる
 その人のために生きていける
 かけがえのないあなた この世に一人のあなた
 忘れないで 忘れさせないで
 勇気だして やさしさ伝えて
 あなたのやり方で あなたの言葉で
 笑顔見せて 生命つないで
 あなたの生き方で あなたの声で
 みんないっしょに明日創ろう
 明日はきっと きっと晴れる
 大野先生は、自身の経験や、これまでの長年にわたる教員生活での体験をとおして、子どもたちや保護者の思いを、歌にしている。生の演奏を聴いて感動します。
 電話相談にかかってくる子どもの声を聴いて、感じるのは自己肯定感の低さです。
 誰もほめてくれないのなら、自分で自分をほめればいいんです。
 自分で自分を、認めてあげればいいんです。
 そんな子どもたちに対して、大野先生の「自画自賛」という歌もあります。
 「自画自賛」作詞作曲 大野実 編曲 大村篤史
 自分なりに一生懸命やってきたことが
 他の誰にも認められなくても
 額に汗して築いたものが
 一瞬のうちにくずれ去ったとしても
 それはそれでいいじゃない
 やるだけのことをやったのなら
 自画自賛 自画自賛
 自分を精一杯ほめてあげよう
 自画自賛 自画自賛
 自分をもっと好きになろう
 失敗を恐れて何もしないより
 自分の可能性を試してみよう
 たとえうまくいかなかったとしても
 そのすべてを見てきた自分がいるから
 夢はいつか叶うはず あきらめさえしなければ
 自画自賛 自画自賛
 自分をほめれば輝き出す
 自画自賛 自画自賛
 自分に惚れれば夢動き出す
 成功したヤツらを 羨むよりも
 これからの自分をおだて育てよう
 生きているからくやしいこともある
 生きているからはじけることもある
 つまずいても立ち上がれる 勇気と力の合言葉
 自画自賛 自画自賛
 この世に一人の自分のために
 自画自賛 自画自賛
 最強の味方さ 自分のために
 大野先生の好きな言葉は「心の元気」、座右の銘は「生きていることと死んでいないことは違う」である。
(大野 実:1953年生まれ、京都市私立高校教師、京都市私立高校校長を経て社会福祉障害者支援センター所長、八幡市社会福祉協議会チャイルドライン京都理事。シンガーソングライター、フリーのラジオパーソナリティ)

 

 

 

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