カテゴリー「教師の人間としての生きかた・考えかた」の記事

親と教師が子どもの鏡となる舞台を学校につくろう   滝澤雅彦

 大人は子どもの鏡であると考えています。
 子どもがモデルとすべき大人、これから生きていって「こうなるべきモデル」となる大人は、親と教師だと言ってよいと思います。
 他の大人だっているだろうと思うでしょう。
 でも、今の社会の関わり方を見ると、子どもにとって生きた人間として目の前に立っているのは、親と教師です。
 しかし、子どもと親がどれだけ向き合っているかというと、必ずしもきちんと向き合っていないという実態があります。
 そのことからも、学校は親の役割まで果たさなければいけない。
「親と教師が子どもの鏡となる舞台を学校に」というのが私の考えです。
 学校を地域の大人が集うところにして、英語検定などの勉強会で教師も親も学び続ける人として子どもにみせるのです。
 私の学校の多くの親は20種類の勉強会のサポータに登録しています。
 そのうちの一つが「英検サポーター」で、英語が得意な親が英語検定のことを手伝ってくれている。
 親も学校で自分の子と同世代の子を見ることになる。
 そうやって地域の大人のコミュニティの学びの中心として公立中学校が存在するようにする。
 それを見て、子どもたちが「親や教師たちって、楽しそうだな」と思ってくれる。
 私は子どもたちに
「将来、肩書の人生とプライベートな人生の二つを持とうよ」
「肩書の人生を持つためには勉強という頑張りも必要だけど、プライベートな人生を生きるための趣味や仲間を大事にしようよ」
「そうやって生きていきなさい」
「私は君たちより年上でバンドをやってきたけれども、中学生のころより今の人生のほうがずっと楽しいよ」
 と、言い切れる大人として、私は子どもの前に立っているつもりです。
 子どもは大人を見て育つと言いますが、教師や親、地域の人が子どもにとってモデルにならなければいけないと思います。
「生きていることは楽しいよ」とか「大人になることは素晴らしいことなんだよ」とか、そういうことを子どもに自信を持って言いきれる生き方を、子どもに示すことが大切であると私は思っています。
(
滝澤雅彦:ミュージシャンの道から31歳で教師になり、東京都公立中学校校長、文部科学省中央教育審議会専門委員、日本教育会事務局長を経て日本大学教授。「地域の子どもは地域で育てる」ことの大切さを掲げ、保護者・地域との協働を積極的に推進し、地域運営学校(コミュニティ・スクール)として学校経営した。おとなのバンド大賞グランブリ)

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教師は子どもたちと信頼感のある人間関係を築き自己変革を求め続ける生き方を   近藤昭一

 子どもの変容を図るには、まずもって教師は自ら子どもとの関係を、深い相互理解に支えられた互いに認め合う信頼感に満ちたものにしていく必要があります。
 教師と子どもとの間に信頼関係ができると、子どもに自信を与え、友人関係など他の人間関係に対しても有益な作用力をもたらします。
 こうした信頼感のある人間関係を教師と子どもの間に少しずつつくりあげ、積み重ねることによって、子どもは自己の尊さを再認識して、自分づくりを始める力を得ていくのです。
 まさに、この自分づくりこそ、生徒指導の目的なのです。
 しかし、教師と子どもの間の深い相互理解に支えられた信頼関係は、そう簡単に築けるものではないことはよくおわかりのことと思います。
 教師はそのためには、どうあるべきなのか。
 そのためには教師は人格の完成を求めて、常に自己変革をし続ける必要があります。
 問題行動を起こす子どもたちを内心で嫌い避け、良くない子どもと評価することは教育ではありません。
 子どもたちの問題行動が発生して学級が混乱に陥るような場面こそ、大きな教育チャンスのはずです。
 これまで教師が子どもたちと築いてきた人間関係を試され、その人間性が問われることにほかなりません。
 教師という職業は、自己の不適応を自覚できず、他人の状況が理解できず、他人の気持ちや考えを受け入れられない傾向が見られます。
 そして、自分の得意な範囲に子どもを合わせさせて、自己の有能感を感じようとする傾向が見られます。
 こうした傾向は、自分で殻をつくり、その殻を固くして閉じこもり、狭い範囲を完全と思い込んでしまう、いびつな姿といえます。
 このような姿は、教師が人格の完成を求め、常に自己変革をし続ける存在からかけ離れてしまっています。
 教師は、子どもたちの葛藤や悩みをむしろ歓迎する姿勢が必要です。それを貴重な教育機会として生かすことが重要です。
 今の時代は、関係性の希薄さ、コミュニケーションの乏しさ、客観的な自己認識が形成されにくい状況が広く見られます。
 教師は子どもたちとの関係性が子どもの人格の形成を支えていることを自覚して、日々、子どもとの関係性や社会とのかかわりにおいて、自己の人間性を鍛え、自己変革を求め続ける生き方を貫いてほしいと私は考えています。
(近藤昭一:1951年生まれ、22年間横浜市立中学校教師、同校長、教育委員会部長、横浜市教育センター所長、玉川大学客員教授を経て神奈川大学特任教授)





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首の骨を折る転倒事故を体験した教師が、命と感謝の学びで、生きているだけでも幸せであることを心から感じるようになった   腰塚勇人

 腰塚勇人は中学校の体育教師になり、学級担任、バスケット部顧問として「熱血指導」の日々を送っていた。
 しかし、スキーで転倒し、首の骨を折り、奇跡的に命は取り止めたものの、首から下がまったく動かなくなった。
 当時、医師からは「一生、寝たきりか、よくて車イス」の宣告を受けた。
 あまりの絶望に「自殺未遂」をした。
 その後、妻、両親、主治医、看護師、生徒たち、職場の同僚などの応援と励ましを受け、「自分の命があらゆるものに助けられ、生かされていること」に気づき、
「笑顔」と「感謝」と「周りの人々の幸せを願う」ことにより、奇跡的な回復力を発揮する。
 そして、「下半身と右半身の麻痺」など、身体に障がいを残しながらも、4ヵ月で現場に復帰し、中学3年生の担任を務めた。
 主治医からは、
「首の骨を折って、ここまで回復した人は、治療した中では、腰塚さんだけだ」
 と言われるほどの「奇跡の復活」を遂げた。
 その体験を「命の授業」として6分ほどの動画にして公開したところ、30万人を超える人々の目にふれることとなる。
「命の授業」の活動に専念するため、22年間務めた教員を辞職し、講演家として、自らの経験を元に、命の尊さ、生きていることの素晴らしさを、全国の小・中・高校、そして一般の方々に伝える活動をしている。
 首の骨を折る転倒事故で体験した命と感謝の学びについて腰塚勇人はつぎのように述べています。
 私はかつてスキーでひどい転倒事故を起こして首の骨を折ってしまい、医師から「一生、寝たきりか、よくて車いす」の宣告を受けました。
 首から下がまったく動かない状態に陥りました。
 手術を受けたあとも指一本動かせなくなっていると気づいたとき、本当に「これで私の人生は終わった」と思いました。
 手足が動かなくなると、それまであたりまえだと思っていたことをするたびに、頭を下げ、人の手を借り、お世話にならなければならないのです。
 私はそれまで人に頼るのは弱い人間と考えて生きてきました。
 でも、自分では何もできないのに、人に頼る気持ちにもなれないジレンマで心がぐちゃぐちゃになり、自殺こそ思いとどまったものの、やりきれない気持ちで眠れない夜を過ごしていました。
 そのとき、担当の看護師さんは、私の顔を見て私の考えていることを察し、つぎのようなことを言ってくれました。
「私には腰塚さんの気持ちは、本当はわかってあげられないけど、本当によくなってもらいたいと思っているの」
「だから、お願いだから私に何かさせてください。少しでも力になりたいんです」
 そう話しながら、眼からは涙がこぼれていました。
 俺の気持ちをそのまま受け止めて、わかろうとしてくれた。
 この苦しい気持ちに寄り添おうとしてくれていると思えて、泣いても、泣いても涙があふれ、私は一晩中泣きました。
 やがてリハビリが始まりました。リハビリの先生が
「腰塚さん、今なにを考えていますか?」
 と言ったので、不思議に思って
「どうしてそんなことを聞くんですか?」と尋ねたら、
「だって、腰塚さんのことが本当にわからなかったら、リハビリのメニューが腰塚さんにとって一番いいのかどうか、わからないですからね」
「腰塚さんにホンネを言ってもらえるかどうかは、僕が腰塚さんに信頼してもらえているかどうかにかかっていますよね」
「だから僕は腰塚さんの話を最後まで聴くことを約束します」
 と話してくれました。
 さらに、一歩進んで、退院後の夢を考えるように勧めてくれました。
 自分の想いを素直に言える優れた先生がいる大切さと安心感で、私はこの先生をすぐに信頼することができました。
 リハビリによって、足の指がほんの少し動いたのを皮切りに、少しずつですが動かせる範囲が広がりました。
 三週間すぎると首で頭の重さを支えられるようになり、車いすに乗ることをゆるされました。
 やがて、医師など多くの支援を受け奇跡的に回復し、下半身と右半身の麻痺など障がいを残しながらも、現場に復帰し担任を務めることができるようになりました。
 スキーで首の骨を折って、一度は身体がまったく動かない状態になったことで、手が使えることのありがたさ、歩けることのありがたさを痛感しました。
 そして、生きていること自体それだけで、ものすごく幸せであることを心から感じたのです。
 また、私の命を助け、人生を励まし支えてくれた人たちの温かさや優しさ、真剣に治療しようとしてくれた人たちの情熱と本気の姿に対して、心から感謝の念が湧いてきたのです。
 そう気づいたとき、私自身の心の持ち方がかわりました。
 心から「ありがとう」と言え、笑顔が出るようになると、周りの人たちの私に対する接し方も変化したように思います。
 知らないうちに、応援者も増えていきました。
 笑顔で「ありがとう」と言うことは、誰もが幸せになれる魔法の言葉だと私は思っています。
(腰塚勇人:1965年生まれ、元中学校体育教師。スキーで転倒し首の骨を折り、首から下が動かなくなる。その後、障がいを残しながらも、現場に復帰し担任を務める。その体験の動画(命の授業)を公開すると30万人が視聴した。「命の授業」の講演活動に専念するため、22年間務めた教職を辞職した)

 

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先生という仕事は力を付ければ付けるほど楽しくなる   俵原正仁

 私の新任教員1年目は、センスで生きていました。
 自分では、授業も学級経営もなんとなくうまくいっていると思っていたんですね。
 けれども先輩から見たら、かなり危なっかしかったのでしょう。
 あるとき先輩の先生から、向山洋一先生の「授業の腕を上げる法則」を貸してもらいました。「これ、読んでみるといいよ」といって。
 読んでみると「ああっ!」という衝撃が走りました。
 それまでは、読むものと言えば「週刊プロレス」くらいだった私ですが、以後は、向山先生、有田和正先生の本を読むようになりました。
 読み出すと、それらの本が非常に面白いのです。
 兵庫県は、3年後に異動希望が出せます。出したら幸運にも芦屋市に帰ってくることができました。
 新任時代の佐用郡の小学校とは親の雰囲気が違うということはあったものの、大きな違いはあまり感じません。
 それよりも、学んだことがどんどん使えるうれしさがありました。
 ただ、それまで学んでいた佐用郡のサークルには参加できなくなってしまいました。
 そこで、同じ学校の先生たちと新たにサークルを作りました。さらに、サークル以外からも学ぶようになりました。
 そうした充実した教師生活を送っているとき、阪神淡路大震災が起こりました。1995年のことです。
 学校現場は大変なことになりました。もちろんサークル活動どころではありません。
 勉強会が再開できたのは、震災後2~3年後くらいのことだったと思います。
 幸いにして、教師を辞めたいと思ったことはありません。
 しかし壁を感じたことはあります。
 それは40歳前後の頃。私は、全国各地から参観者が来られる朝日ヶ丘小に勤務していました。公開授業には、1000人以上の先生が集まるような学校です。
 このときの私は、子供たちをぐいぐい引っ張っていくタイプの授業に憧れて、実際かなりできるようになってきていました。
 担任した6年生が中学校に入学してから遊びに来て「先生、中学校つまらん。先生の授業がいい」などと言って来ます。
 それを聞いて、私は、正直誇らしい気持ちになっていました。
 けれどもあるとき、隣のごく一般的な先生が受け持った子供たちの方が、中学に入ってから伸びていることに気づきました。
 これを見て私は、「小学校6年が人生のピーク」みたいな子を育てていたのではないか、という疑問が湧いてきたのです。
 決して無理強いをしていたつもりはありません。
 しかし、私が受け持ったことの反動を起こさせているのは間違いないようでした。
 これではいかんのやな、と思いはしたものの、どうすればいいかというのは、簡単には思いつきません。
 そこで、それまで以上に授業の楽しさを考えるようになりました。
 同時に、子供たち同士をつなげるようなクラス作りを志向するようにもなりました。
「勉強」をしていると、同じ学校の先生が頼りなく見えることがあるはず。
 しかしそれは間違いです。あなたが気づいていないだけで、すごい実践をしている人は学校に必ずいます。
 何しろ同じ学校の先生なら、見ている子供は同じだし地域も同じです。
 だから同僚の意見は、非常に参考になるはず。
 自分の実践を見てもらえるメリットもあります。
 つまり、自分の学校ほど優れた勉強の環境はないのです。
 そしてお勧めの勉強法は、まず自分の授業のイメージを作ること。
 たとえば「指名無し討論の授業がしたい」と思ったら、その授業を実際に見てイメージするのです。
 縄跳びの指導でも、上手に跳んでいる様子を実際に、あるいは映像を見せたらできるようになるでしょう。
 それと同じです。私と同じ学年を組んだ若い先生も、私のクラスを実際に見て、指名無し討論の授業をやっていました。
 公開授業の見学も同じです。
 同じ学校の若い先生と、立命館小学校岩下修先生の授業を見学しにいったとき、横ですべて解説してあげたことがあります。
 これは非常に効果的でした。
 その先生の音読指導が大きく変わり、自分の学校で公開授業をしたとき、音読は参加者から絶賛されていました。
 同じ学校の先生とすぐれた授業を実際に見ることと、それを解説してもらうことが大事。
 同じ土俵で語れるのですから。
 繰り返しますが、最良の勉強法は、同じ学校の先生と学ぶことです。
 先生という仕事は力を付ければ付けるほど楽しくなる仕事です。私自身、年々楽しくなっていますから。
 若いときは力量が無いから子供が動かないし、反発を食らったりします。
 しかし力が上がれば、子供はみんな喜ぶし、保護者は信頼を寄せてくれるようになります。
 さらに、学校で最もしんどいクラスを受け持てば、学校内でも無敵の状態になることでしょう。
 自由裁量の幅が広がり、自分のやりたことができる状況になるはずです。
 勉強を頑張りましょう。
 いま悩んでいたとしても、勉強を頑張ったらきっと楽しくなります。
 あと少し頑張れるかどうかは、あなたにしか分かりません。
 ただ、確実に言えることは、頑張れば必ず報われるということです。
(俵原正仁:兵庫県公立小学校教師、教材・授業開発研究所「笑育部」代表、兵庫県公立小学校校長)

 

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充実した素晴らしい教師人生を送るにはどうすればよいか   古川光弘

 充実した素晴らしい教師人生を送るにはどうすればよいか、古川光弘はつぎのように述べています。
 せっかく教職というすばらしい職業を選んだのですから、素晴らしい教師人生を送ろうではありませんか。
 充実した教師人生を送るために、私からつぎの5つのメッセージを送ります。
(1)追い求める目標を持つ
 目標とする教師を持つことが大切です。
 この人と思ったら、とことん追い続けてみることです。
 それが自分自身の確立に役立ちます。
 自己流では壁にぶつかると伸びません。
(2)同じ志を持つ仲間をつくる
 ホンネでものが言い合える仲間を持つということは、何事にも変えがたい価値があります。
 私は22年前に教育サークルを結成し、月に2回ほど集まって、わいわいと教育のことを話しています。
 一人ではできない研究も、仲間となら続けることができます。
 ぜひ、そのような素晴らしい仲間を見つけて、サークルをつくってください。
(3)身銭を切る
 学ぶことにお金を惜しんではいけません。
 本、研究会参加費などに身銭を切りましょう。
 お金はプロとしての自己を確立するための投資です。
(4)本を読む
 教師は教育のプロなのですから、常に教育雑誌の2,3冊に目を通して、最新の情報を取り入れることはしてほしいと願っています。
 それから、教育書も月に2,3冊は購入して指導技術を学んでほしいと思っています。
(5)頼まれたら断らない
 頼まれるということは、あてにされているということです。
 研究授業など、どんなことでも、自分のためにならない仕事はありません。
 すべて血となり肉となっていきます。
 積極的にチャレンジしてほしいと願っています。
 忙しい人に仕事を頼めと言われます。
 忙しい人の方がいい仕事をするからです。
(古川光弘:1962年生まれ、兵庫県公立小学校教頭、「教材・授業開発研究所」事務局長。「子どもの心をどうつかむか」を生涯のテーマとし、日々の実践にあたる)

 

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教師は人間好きであることが肝要、自分に不都合なものをも包みこみ愛せよ

 教師は子どもが好きでなければという論が多いようだが、わたくしはそれよりも人間というものが好きであることこそ肝要であると思う。
 好きという表現が情緒的だというなら、人間について発見することに張り合いをもっているといってもよい。
 人間理解はそのことによって自然に深まる。
 教師は毎日のように子どもを見ているのであるから、人間に対する関心、理解力があれば、奥深いとらえかたができるのが当然である。
 子ども一人ひとりについて深い理解が生じれば、その親に対する姿勢もおのずから違ってくるにちがいない。
 性急で自己中心的な親に対しても、じっくりやわらかく包んでいくことができるであろう。
 いわばそれは教師の懐が深くなるということである。
 懐が深いというのは、ただ度量があるということではない。
 淡々として多様性に対することができるということである。
 教育が生きた仕事であるかぎり、教師の都合によって好きに動かせるものではない。
 教師は絶対に自分の教師としての都合を優先させてはいけない。
 その心がまえがしっかりできていないから、人間としての子どもをちゃんと育てることができないである。
 自分に不都合なものを愛せよと、強くすすめるゆえんである。
(上田 薫:1920-2019年大阪府生まれ、教育学者。東京教育大学教授、立教大学教授、都留文科大学学長を務めた。長く信濃教育会教育研究所所長を兼任。教育哲学、教育方法学を研究、一貫して教育現場の研究実践にかかわり続けた)

 

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大正自由主義教育運動で中心的な役割を果たした澤柳政太郎とはどのような人物であったか

 澤柳政太郎は、教育官僚、教育者で、大正自由主義教育運動の中で中心的な役割を果たした。
 澤柳は、東京帝国大学を卒業し文部省に入り、小学校令を改正して、4年から現在の6年の課程にし、旧制高等学校を増設し、旧来の藩閥の弊から脱却、全国から人材を登用する扉を開いた。
 明治39年に文部次官、東北帝国大学総長、大正2年に京都帝国大学総長を歴任した。
 その後、陸軍士官学校の予備校として名高かった成城学校の校長に就任。
 成城学校内に新教育の実験校として、大正6年に成城小学校を創立した。
 小原國芳を訓導として招聘し、以来、成城学校は大正自由主義教育運動の震源地となる。
 澤柳の教育や教師について次のように述べている。
 教育者の精神の創造は「教育者各自の心に求めるべき」としている。
 教育を支える最大の要素は教育者の人間性である。
 教師は高遠なる見識を持し、自重自信の精神をもって仕事にあたる。
 沢柳が重視したのは、第一に学識、第二に徳義であった。
 教育学を学ぶものは単に教育の方法を知れるを以て足れりとしてはいけない。
 必ず教育の目的について明確な思想を得ること。
 教師は徳義(人間としてふみ行うべき道徳上の義務)の教育者であり、同時に自身へ道徳的完成の責任を負う。
 教師の最も肝要な資格は、教育に対する「誠実さ、熱心さ」である。
 教師の仕事は愉快である。その理由は、
(1)授業で教師は行動の制限を受けることはなく、自由に思うままに行動することができる。
(2)社会・国家のために有益なこと。
(3)安易ではなく、無数の困難と解決の努力が必要である。
(4)実践にあたっては工夫の余地が無限にあること。
(5)実践の努力の成果が直に眼前にあらわれること。
 教育は授業ばかりではない、訓練、管理を含む。しかし、大部分は授業である。
 師弟の関係というと訓練上のことである。
 師弟の徳義上の関係も澤柳の考えるところでは、授業以上に影響を受けることが多い。
 教師の生徒に対する同情、教師の人物、徳行から生徒が教師を尊敬し教師に心服し、師恩を感ずるようになることもあるが、それらよりも授業上より教師に対する考が定まることが多いと澤柳は思った。
 澤柳も「ペスタロッチー伝」を訳したり、「実際的教育学」を書くなど、新教育の指導者としての役割を担った。
 澤柳のモットーは「随時随所無不楽」(随時随所楽しまざる無し)。いつどんなときでも楽しみを見いだすことはできる。
(澤柳政太郎:1865-1927年長野県生まれ、教育官僚、教育者。大正自由主義教育運動の中で中心的な役割を果たす。文部官僚、文部次官、高等商業学校校長、東北帝国大学総長、京都帝国大学総長を経て成城学校校長、成城小学校を創立して大正自由主義教育運動を行う)

 

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小中学校の教育現場での数学教育を率先して指導した遠山啓先生とは

 遠山 啓先生が、どういう動機で数学者になったのかとよくきかれますが、ひとことで答えることはむずかしい。
 まず第一に、その厳密さに魅力を感じたということがいえるだろう。
 いちど証明してしまえば、何万人の人が反対であろうと、真理であることに変わりはない、というこの学問だけがもっているさわやかさが、そのころの遠山先生をひきつけたように思える。
 遠山先生は明治42年に熊本で生まれました。
 当時の日本は政府の富国強兵政策のもとで、国を豊かにするためにはいい人材を育てなければならないことを知っていたので、教育に大きな投資をし、世界でも有数の国家になりつつありました。
 遠山先生は幼少のころから好奇心に満ちた子どもだったらしく、父親がわりの祖父を相手に野山や川で遊びまわっていたという。
 後年、子どもの教育にかかわりはじめたとき、このころの体験が生きいきと再現された。
 たとえば、ほるぷ夏の合宿教室に参加されたときなどは、子ども達といっしょにお風呂のなかで手と手をあわせて水をとばす、水でっぽうのやり方を教えた。
 また、ヘボ将棋ですが、といいながらも子ども達に手ほどきをする、つねに子ども達に遊びの文化をどう残すか、という姿勢がありました。
 算数・数学教育に関心をもちだしたのも、遠山先生のお子さんの算数嫌いがどうしてなのか、というところからでした。
 算数の教科書を見ておどろきました。こんな教科書ではわからないのはとうぜんだ、と考え、1952(昭和26)年、数学教育協議会を結成し、数学教育の改良運動に身を投じたのでした。
 タイルをつかって計算の仕組みをわからせる「水道方式の算数」は、この運動の大きな成果のひとつです。
 それまでの数え主義とは反対に「量から数へ」という原則で、量から数を引きだす媒介物としてタイルを使いました。
 さらに計算練習は最少の練習量で最大の効果をあげるための体系を考えました。
 これが水道方式なのでした。
 これは筆算を中心として、日本の伝統的な暗算中心の方式とはまっこうから対立するものでした。
 みなさんも『わかるさんすう』という教科書のようなテキストを見たことがあるでしょう。
 また、ほるぷが刊行した『さんすうだいすき』『算数の探険』『数学の広場』という遠山先生のライフ・ワークの本を持っている人もいるでしょう。
 もうひとつ、教育者としても子ども達のために大きな種を蒔かれました。
「テスト、点数、序列づけ」といういまの教育体制を批判し、「点眼鏡」で子どもを見ないように訴えました。
 そのため、遠山先生自身が執筆・編集した雑誌『ひと』を創刊し、教育の改革に一生を捧げたのでした。
(遠山 啓:1909-1979年熊本県生まれ、数学者。海軍教授を経て東京工業大学教授。数学教育に関心を持ち数学教育協議会(数教協)を結成し委員長として、小・中・高校の教育現場での数学教育を指導し、数学教育の改革を率先。「タイル」を使用し長さ、面積などの「量の概念」の導入し「水道方式」という数学の学び方を開発。教育の全体をどう変えていくかをテーマに雑誌『ひと』を創刊した)

 

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教師になった経緯と、子どもの科学概念がうまく形成されるツボとは、理想と考える教育のありようとは

 国際基督教大学高校で教鞭を執りながら、ガリレオ工房理事長として日本全国を飛び回り子どもに科学の楽しさを伝え、さらに理科カリキュラムを考える会の理事長としても活躍しておられる滝川洋二先生にいろいろお話を伺った。
「まずは、滝川先生が物理の世界へ進まれた経緯を知りたいのですが、少年期から青年期にかけての思い出をお聞かせ願えないでしょうか」
 小学生の頃から理科はもちろん好きではありましたけれども、そんなに実験をよくやっていたというわけではありません。
 小中学校の時は、理科が嫌いではなかったけれど特別に大きな存在ではなかった。
 僕が理系に進むと決めたのは高校の時です。
 ちょうど高校生の時、朝永振一郎さんがノーベル賞をとられて、そのとき湯川秀樹さんが新聞記事で「空間とか時間はとびとびだ」と、しかも「そういう現代の物理の考え方は、孔子や孟子の考え方と共通している」と書かれていたんです。
 高校で勉強している物理は本当の物理じゃない、本当の物理という学問は哲学的で奥が深いんだなぁと。
 それから、湯川さんが科学の平和運動をすすめていて、あー科学は平和に役立てられるんだというのが大きくて。
 僕の場合は、実験が面白いからとかじゃないんです。高校生になって、科学が人間にとってすごく意味のあるものなんだとわかって、将来理系に進む決心につながったんです。
 大学での専門は物理学でした。本当は科学史をやりたいと思っていたのですが、物理しか出来なかったので。
 でも大学へ入って勉強してみたら、大学の物理でも哲学なんて全然やってないんですよね。
「理科教師をめざそうと思われたきっかけは?」
 大学院で科学教育研究協議会(科教協)に参加するようになって、そこの先生たちはものすごく面白い実験をいっぱい持っておられたんですよ。
 本当に、その時の衝撃は大きかったです。ただ、その時は教師になろうなんて思っていなくて、ちょっと覗いてみるという感じでした。
 教育なんか全然興味がなくて、プラズマの理論のドクターに行こうと思っていて、そのための勉強もしていたんですが。教師にだけはなるまいと強く思っていました。
 ある時、物理教育の研究会の案内をみて行ってみたんですよ。そこに学習指導要領を作っている方がいたんですね。
 その方が、学習指導要領は4ヶ月くらいで作れるんですよって言うんですよ。前の指導要領から組み直して、ほらこうやれば4ヶ月くらいでできるって。びっくりしましてね。
 つまり基礎研究もなしで、ただ項目の並べ替えだけで行われているということが余りにもあきらかでした。
 そのとき、僕は質問しました。指導要領から一回なくなっていた高校の物理の大きさのある物体の回転運動についてです。
 この回転運動は高校の物理ではかなり難しくて、僕も高校ではわからなくて、大学でもなかなか難しくて苦労したのに、一度指導要領から外れたものが何でまた入ったんですか、とね。
 そしたら「いやぁ私も知らないうちに入っちゃったんですよ」と言われましてね。指導要領を作る責任者の方がですよ。
 学習指導要領というのは、国の基準として一旦決まると、大きな影響力を持ちます。ちょっとでもこれから外れたら大変な言われようをします。
 なのに、こんないいかげんな作られ方になっている。これじゃ日本の教育は良くならないと思いました。
 だいたいその頃の物理の学習指導要領を作っている人は、余生として教育をという大学の先生が中心でした。これでは駄目だ、教育を最初から本格的に研究する人が携わらなければ、と考えたんです。
 誰かが本気で教育を変える研究をしないといけない、それを僕がやるんだと、ある時思い立ってしまったのです。
「そこでまず、はじめられた事は?」
 大学院博士課程の時は、日本の中にある最高の授業を見て歩こうというのが目標でした。
 カリキュラムの基礎は、一方では自然科学があって、それをどうやって伝えるかで実験とか教材がありますね。
 それからどんなに一生懸命教えても生徒がのってこないと駄目で、のっても教師だけが教えたつもりになって生徒が全然理解していないこともあるので、子どもの認識とか理解の研究が必要ですね。
 僕のドクターコースの一番の大きなテーマは、「子どもの認識はどういうときに変えられるのか」でした。科学的な概念の形成です。
 この研究で、僕が一番影響を受けたのは、板倉聖宣さんの仮説実験授業、高橋金三郎・細谷純さんなどの「極地方式」、玉田泰太郎さんのグループです。
 玉田さんは小学校の先生なんですけれども、すごくいい授業をつくられていました。
 先生が結論を言わないのに、子どもたちがどんどん議論をしている。
 見ていると「どうしてこんな授業になるんだろう」というくらい子どもたちが発言をしている。
 本当にみんなで「こういうふうに理解するといいんじゃないか」みたいな意見が次々とでてきて深まっていく。
 大学院のときは、そういう現場の中にある最高のものを見てまわりました。
 僕の仕事はそれらを理論化することでした。どうしてそういう授業が出来るのか。その人だけしかできないのか。誰でもできるようになるのか。それを研究するのが、僕のテーマでした。
「そんな滝川先生がガリレオ工房という実験のプロ集団をつくられたわけは?」
 実際に自分でいい授業をやろうとすると、発問が良くて子どもたちがのってきても、やはり楽しい実験がないと授業としては厳しいですよね。
 僕は1979年に教師になって、ちょうど世間では高校が荒れて授業が成立しないような時期があった。
 みんなでいい授業をつくろう、いい実験が柱として必要だと話し合って、ガリレオ工房の前身である物理教育実践検討サークルをやっていました。
 そこで第一回の例会から一緒だったのが、米村傳次朗さんです。最初の米村さんは、実験開発の名人という雰囲気ではなかった。
「カリキュラムをつくりたかったのに、ガリレオ工房というのは随分遠回りに思えるのですが?」
 89年の学習指導要領で、明確に理科は縮小するということが示されました。このまま放置したら本当に理科がなくなるかもしれないという危機的状況でした。
 理系の主だった学会が「理科をこれ以上削ってはいけない」という声明をだしたのです。それで「理科離れ」ということが社会的な問題として浮上してきたのです。
 90年代に僕が考えていたのは、学校教育の中でいくら科学が大切だと叫んでもなかなか回復できない。だから、社会の中で学校教育の中での科学の大切さを訴えていこうと。
 そのためには、カリキュラムをつくるのをひとまず我慢して、科学の楽しさを社会に伝えることがまず第一だと。
 とにかく科学イベントをいっぱい引き受けた。ガリレオ工房の知名度が全国的になり、我々の科学を広める運動が全国的になれば、それはきっと学習指導要領の改訂にも結びつくんだと。
 1999年から一年間のイギリス留学を経て、現在、理科カリキュラムを考える会の活動へとつながっています。
「滝川先生が理想と考える教育のありようとは?」
 本当は国の権威とか一切なしで、いろんな先生が「あの人の授業はいいよ」という人を発掘して、その人から色々教わっていくというシステムができるといいですよね。
 今は学習指導要領通りにやらないと駄目。実験だと、他の教科書に書いてある実験をやっても駄目。
 とにかく先生の自由度が全然ないんですよ。それ、まずいじゃないですか。いろんな教科書があり、いろんな実験が載っている。それらを全部知るだけでも教師には勉強になると思うんですよ。
 自分の使う教科書に載っていない実験はやっちゃいけないなんてね、何を考えているんだろうという現状です。
 教師が見聞を広げて、新しいことにチャレンジしながら、授業の質を高めていくということが何か禁じ手みたいな雰囲気になっています。
「子どもの科学概念がうまく形成されるツボのようなものがあれば、教えて頂けませんか?」
 まずは子どもがよく理解できていないところを教師がしっかり分かっていて、子どもが自分の意見を言い、ほかの人の意見を聞く中で、「あっ間違っていた」と気がつく。
 そこへどうやってもっていくのかなんですよ。
 子どもが自分で気がつけば、これはまずいから何か修正しようとします。
 修正しようという気がないのに、これは正しいから覚えておけといくらやっても、全く子どもは受け付けない。
「どうしてそうなんだろう」とか「自分の理解は間違っていたなぁ」っていう、そこへ連れて行かないと駄目なんですね。
 日本の中には優れた研究や実践があるので、それを学ぶことがいい授業への早道ですね。
「滝川先生が理想とする授業とはどんなものでしょうか?」
 夏休み前の暑い日の金曜日の5時間目とかの授業で、生徒がもう絶対のらない日なんですよ。生徒が「先生、今日は外へ行きましょうよ」なんて言ってくる。
「駄目だ、ちょっとこの問題を考えよう」と言って、問題を出して考え始めてみると、 生徒が夢中になってああだこうだと議論をはじめる。
 実際に実験をやってみることになって、「やったぁー」なんて生徒たちが叫んでいるときに、密かに「勝った!」と思うんですよ。
 今の義務教育の理科の授業時間は640時間です。私の時代は1048時間でした。今の640時間というのはものすごく少ない。
 日本では60年代が理科の授業時間が一番多かった時期です。その時代に教員経験をされた先生方のノウハウを受け継いで次代に伝えていきたいですね。心からそう思っています。
(滝川洋二1949年岡山県生まれ、理科教育のカリキュラムの研究者。国際基督教大学高等学校物理教師、イギリスに留学、東京大学客員教授を経て東海大学教育開発研究所教授、ガリレオ工房理事長)
(KENIS株式会社「先生に聞く」)

 

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教師になろうとする若い人たちへのメッセージと、新聞を教材にして授業を展開する運動(NIE)の取り組みとは

 鳴門教育大学教授の阪根健二先生は、教師になって最初は中学校で技術・家庭科と社会を教えていました。
 ちょっと変わった取り合わせですが、本来の専門は電気で、大学院時代は電気(集積回路)で修士論文を書きました。
 ところが、大学院時代に、すでに教員免許を持っていたことで、近隣の中学校に非常勤講師としてアルバイトに行ったことが今の私を作ったのかも知れません。
 電気で研究者になりたいという希望があったのですが、当時は、コンビニのバイトも時給200円程度でも、学校の講師は時給1,000円以上と破格だったので、それが一番の理由で講師をOKしたように思います。
 ところが、アルバイト気分に行った中学校が猛烈に荒れていて、何名もの先生が生徒に殴られているくらいすごい学校だったのです。
 大学院での研究との掛け持ちも大変で、おまけに厳しい教育現場だったのですが、生徒と関わってみると、意外な一面を垣間見たりして、次第にバイトという気持ちから、教師という仕事の崇高さや面白さへと、徐々に意識が変わっていく自分が不思議でしたね。
 結局、香川県の教員試験を受け、おまけに通信教育で、小学校や中学校の社会科の免許を取得したわけです。
 厳しいのに、教師になりたいという気持は不思議ですね。
 教育学部の学校教育教員養成課程は、教師を目指して入学する学生がほとんどですが、入学期には何気なく教師になりたいという夢を持っています。
 それはそれでいいのですが、様々な専門的な勉強や、教育実習等の厳しい体験が、次第に強く教師への希望へと変わっていくのです。
 これは、モチベーション(内的動機付け)も大切ですが、インセンティブ(外的な意欲刺激)が、教師への道への大きな意欲付けになっているのでないかと思っているのです。
 つまり、教育現場の実際を体験する(あるいは知る)ことで、教育の意義や使命感を感じることなのでしょうね。
 何のために仕事に就くのかと学生に聞くと、経済的な意味よりも、自己実現や社会貢献を一番にあげる学生が多いのです。
 それだけ、自分がどう生きるのかという命題を考えることが教育の根本なのでしょうね。
 自分を思い返すとそういった経緯をたどっていますから、是非、今の学生に是非追体験をしてもらいたいと思っています。
 阪根先生は、香川県内の中学教師や教育委員会指導主事を務め、新聞を教材にして授業を展開する運動(NIE)に取り組んできました。
 NIEにかかわったきっかけは、子どもたちは、社会の情勢に無関心。
 教師も含め、さまざまな問題を敏感に感じる力を持たなければならないと考えたからです。
 約30年前の中学教師当時、学校は荒れていた。そんな中でも子どもたちは必ず成長していく。
 そこで教師は何をすればいいか。単にその場だけを収めるのでなく、将来のことを語っていく事が大事。
 阪根先生は新聞の「人の欄」など、努力した人やがんばっている人の記事を使ったり、事件が起きると、なぜ起きたのか子どもと一緒に考えたりもした。
 それによって子どもたちは変わります。広い視野を持つんです。
 大切なことは、社会情勢を知るだけでなく、そこには、必ず人の生き方が見えます。
 つまり「記事の向こうに人がいる」ということ。
 ある種、他を感じることができるようになるんです。
「新聞を丸ごと使う」ことが大切です。
 新聞を開くと、昨日起きたこと、これまで起きたこと、これからのことなどすべてが詰まっている。
 俯瞰(ふかん)的に広く見る力がつきます。これは現代を生きる人にとって大切な力です。
 教師になろうという若い人たちへのメッセージは?
 子どもたちを育てることは、本当に崇高で使命に燃える仕事だと思います。
 何年も教師をしていると、子どもが嫌いになることもあります。
 それでも教師をやって良かったなと思うのは、子どもの成長があるから。
 子どもというのは本当に真剣にかかわったら必ず変ります。
 成長していく姿を見ながら、ともに歩んでいけるのです。そんな仕事は他にはないですから。教師という仕事は素敵ですよ。
 教師の不祥事が多いですが?
 もともと阪根先生の専門は学校危機管理。教師の不祥事が多いのは、広く見る力、社会と自分とのかかわりを見つめる力が弱くなっているから。
 自分は今教師として何のために仕事をしているかをしっかりと考えないといけません。
 そのためにも視野を広げることが一番。
 読み返してじっくり考えることができる新聞は非常に有効です。
 阪根先生はいつも笑顔を絶やされませんね?
 子どもが好きだけでは教師は務まらない。多くの困難が待ち受けていますから。
 しかし、教師が笑顔を忘れた時、子どもと離れてしまう。
 笑顔は、子どもたちのことを何でも受け止めようという思いと決意。それがプロの教師なのです。
(阪根健二:1954年神戸市に生まれ、香川県公立中学校教師、香川県教育委員会指導主事、香川県公立中学校教頭、香川大学助教授等を経て鳴門教育大学教授。研究分野は学校危機管理、防災教育、NIE(新聞活用教育)、メディア対応、生徒指導中心とした教職実践、家庭教育・家庭学習等)

 

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