カテゴリー「教師の人間としての生きかた・考えかた」の記事

私の教師としてのスタンスをつくるうえで、決定的に影響を与えことは何だったか 

「小学生の頃から教師になりたかった」と言う教師によく会います。
 私は、そういうタイプの人間ではありませんでした。さほど「人間好き」ということもないし「子ども好き」ということもないのです。
 大学4年生のとき「自分にとって、中学生と一緒にいることが私にとって幸せなことだし、ほんの少しは彼らを励ませるかもしれない」と考え、教師になる決心をしました。
 私が教師になった1980年代は、全国的に中学校が荒れ、私が生徒に「席について」と言っても、何人かはすぐに席にはつかなかった。
 私は「やさしい先生」から「恐い先生」に変身しようと必死になっても、そううまくはいかなかった。
 給食時には肉が飛び交うこともあり、私は教室の真ん中に仁王立ちし、プリンが誰かに取られていないか、食べ物を床に落さないかを監視する日々が続きました。
 やんちゃな二人を中心にしていじめが起きていました。問題も続発しました。
 私は「教師になんて、なるんじゃなかった」と思い悩み、いじめられる子どもを「体を張ってでも守ろう」と思いました。
 私は胃かいようになり、何日も学校を休みました。お見舞いに生徒や教職員が来てくれました。うれしくて、情なくて涙が出ました。
 生まれてから現在までの私をふり返ってみると、いろいろな体験や、そのとき考えたこと、乗り切ったことが、自分の教師スタイルを形づくっています。
 私が、教師としてのスタンスをつくる上で決定的に影響を与えたことをあげると
(1)
 教師っていうのは、学習しないと、前にきりひらくことができない
 特に学校が荒れているときに、思ったことは「教師っていうのは、学習しないと、前にきりひらくことができない」ということです。
「いうことを聞かない子」「攻撃的な子」「学ぶ意欲がない子」など、教師はいろんな子に出会います。
 そんなとき「どうしょうもない子」と思い、その子を責めたりします。本当ならば、
「その子どもが、なぜそのようなっているのか」
「そこからぬけ出て行くために、教師はどんな手をうったらよいのか」
という発想を常に持っていたいと思います。
 子どもたちを客観的にとらえ、指導方法を研究していく。そのとき、自分が研修し、学ぼうとしているか、いなかは、教師としての飛躍を勝ち取れるかどうかという点で決定的なことです。
 荒れた子どもたちがいても、教師をやめなかったのは、研究サークルの学習会に参加できたからでした。今でも、1年間に50日はさまざまな研究サークルの学習会で学んでいます。
 教育は創造的な仕事であるからこそ、これからも学びつつ教師をつづけていきたい。
「今度は、どんな実践をしようか」と、時に流されないで、実践を創っていく教師人生を過ごしていきたいと思います。
(2)
他人の喜びを自分の喜びに
 私が育ってきた中で影響を受け、教師としてのスタイルをつくったものを、一つあげるとすると、受験競争のもとで過ごした中学校時代でした。
 常に競争していて、他人の喜びが自分の喜びにならない自分だったのです。
 時には、他人の成功がやっかみになり、自分の劣等感を刺激することもある。そんなとき、理性では制御できない自分に、苦しさを感じることもあります。
 子どもたちを前にして、いつも考えていることは
「どうしたら、いろいろなタイプの子どもたちの交わりが、さかんになっていくのか」
「違ったタイプの人間を認め合える集団をつくるには、どうすればよいか」
ということです。そして、子どもたちには、
「自分のことだけではなく、まわりの友だちのことも考えられる『自分』になってほしい」
ということを、子どもたちに要求します。
 このことが、子どもたちを前にしたときの私の信条になっていると思います。
(
本山 明:元東京都公立中学校教師、教育科学研究会常任委員)

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若い教師に塾の運営や私学中・高校長の経験から伝えたいこと

 私は20年以上塾の国語の先生と塾の運営に携わってきた後、私学の中・高等学校の学校長を任された。その経験から若い教師に伝えたいことは
 悪いニュースこそ、すぐに報告しなければならない。自分だけで解決しようとして、問題がさらに複雑化することを避けねばならない。
 仕事の上で自分の得手は何かということに早く気づき、それを伸ばすことが、人生で成功する近道だ。自分が興味関心のあるテーマの知識を深めていくことを実践しよう。
 気づいたことや思いついたことを、メモしよう。そして寝る前に必ずメモに目を通して、1日のふり返りを行う。
 大事な箇所にはマーカーを入れて、時々読み返す。理解が深まり、人間としての成功につながる。
 仕事を通じて学び、仕事を通じて魅力ある人になろう。自己成長のネタはすべて、仕事の中に隠れている。
(
江口宗茂:1959年兵庫県生まれ、学習塾を20数年、組織運営を経て、教育コンサルティング業務会社設立、2011年~2016年私学の中・高等学校の学校長歴任の後、教育コンサルティング業務再開)

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挫折した不良少年が、なぜ教師となり、ヤンキー先生と呼ばれるようになったのか、その生き方とは

 僕は立派な先生ではありません。少年時代、僕は哀しい不良少年でした。自分の弱さから目をそらし、誰にも心を開かない少年でした。
 僕が生まれてすぐに両親が離婚。すぐに父親が再婚するも、物心ついた時から孤独を感じ「反抗」という形でしか自らを表現することができなくなっていきました。
 中学生になると髪を染め、酒にタバコ、更にバイクを乗り回し喧嘩を売る毎日。強く見せたかった。高校進学後も孤独を紛らわせるために、暴れに暴れ、気づけば一年生で番長に。手のつけられない悪ガキでした。
 そして16歳の時、事件を起こし当然のように、高校から追放され、生まれ育った家からも追われ、里子にだされました。
 全てを一瞬に失った僕は、何もできない、何も知らない「子ども」だったんだということを心の底から思い知らされました。
 僕の何が間違っていたのか、これからどうやって生きていけばいいのか、里親さんに与えてもらった部屋に1年間、膝を抱かえながら、引きこもり、孤独の中で考え続けました。
 今までの生活から抜け出したい一心で、やり直そう、もう一度学校に行こう。本当の友だちを作ろう、大嫌いだった先生と、改めて心を開いて向き合おうと決心しました。
 
「やり直しを賭けようとする者の過去は問わない」という記事が新聞に掲載されているのを見て、高校中退生や不登校を受け入れる、北海道の北星学園余市高校の門を叩きました。
 先生たちは一生懸命だった。下宿の人も、あたたかく、地域の人たちもみな優しかった。
 僕が問題を起こしたとき、担任の安達先生は、満面の笑みで、あなたは「宝物だから」と指導された。初めて心から温もりを感じたのです。僕は変わり、先生や友と向き合うようになった。
 高校を卒業し、大学に進学して弁護士になろうとひたすら法律を勉強しました。しかし、司法試験を直前に控えて、バイク事故を起こしてしまった。内臓を激しく損傷し、意識不明の重体なった。
 事故の一報を聞いた安達先生は病院に駆けつけ、意識が朦朧としている僕に、涙しながら「死んではダメ、あなたは私の夢だから」と、何度も何度も伝えてくれた。
 あの瞬間、苦しんできた全てが肯定された気がした。この事実だけあれば俺は生きていけるって。何としてでもこの温もりに執着したいって思いました。
 救われた命だから、世の中に傷つき涙している子どもたちがたくさんいる。これからはその子どもたちに寄り添いながら生きていこうと。安達先生の歩いてきた教育の道を歩いていこう、教師になろうと思った。
 大学を卒業して北海道の大手進学塾に就職。塾の講師として、教育の場に飛び込みました。そして教師として母校に帰りました。
 多くの編入生を受け入れていた余市高校は心に大きな傷を負った生徒が多く、赴任早々から問題は山済みでした。かつての自分がそうだったように一筋縄ではいかない相手に対し、とにかく全力で向き合ったのです。
 昔の僕のような生徒たちに、大切なことを教えてあげるために、そして、なによりも、あの日、心に宿した「ありがとう」を思いだけでなく、行動で伝えたかったからです。
 いわゆる普通ではない教師としての歩みがテレビ局の方の目にとまり、2003年「ヤンキー母校に帰る」というドキュメント番組が全国放送され、連続ドラマ化や映画化されました。
 ヤンキー先生と呼ばれるようになり日本中から注目されました。たくさんの著書も出版し、講演もしました。横浜市の教育委員や、国の教育再生会議の室長も務め、国会議員にもなりました。
 でも、私はあの頃と何も変わっていません。変わってしまったなら、その瞬間、昔のようにさみしい人間に戻ってしまうことを誰よりも知っているからです。
 挫折を知らない大人が唱える「きれいごと」ではなく、本当に暗く、悲しい少年時代を乗り越えてきたからこそ伝えられる、祈りにも似た、子どもたちへの思い、
「『あなたは、僕の夢です』共に歩いていこう」
 この時代のど真ん中で、泣いたり、笑ったり、ケンカしたり、後悔したりしながら、私はただ、あの日みた夢の続きを、子どもたちと一緒に、追いながら生きていこうと思っているだけです。
(
義家弘介: 1971年長野県生まれ、高校で退学処分となったが、北星学園余市高校を卒業し、塾講師、母校の教師となり活躍し2005年に退職する。横浜市の教育委員、教育再生会議担当室長を経て国会議員となる)

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さまざまな失敗や保護者とのトラブルから学んだことは何か、どうして教師を続けてこられたか

 私はさまざまな失敗や保護者とのトラブルを繰り返してきた。教師になって失敗と自信喪失の連続であったと、六年間をふり返って表現できるかもしれない。
 教師生活二年目に小学校三年を担任した。A子が教室の後ろの席でおしゃべりしていたので「おしゃべりしたいなら、家に帰ってすればいい。教室にはいらない」と注意したら、かばんを持って教室を飛び出した。
 あわてて呼びもどしたとき、私に対する不満が爆発し「先生なんかきらい!」と言われた。A子は泣きながらも胸の内を話してくれた。
 家では母親に姉と比べられ自分はダメだと思うようになっていた。学校でも家でも怒られてばかりだと。
 この件で保護者と話し合う必要性を感じ、職員室でA子の母親と話し合った。
 私は今回の出来事の詳細を説明し、今後の支援のあり方を相談するつもりであった。しかし、私への不満が矢継ぎ早に飛び出してきた。
 母親は「家では先生の悪口しか言いません」「先生のことは最初からあきらめていました」と言われた。
 胸につきささる言葉で、ぼう然自失で母親の目を見ることもできなかった。教師として言ってはいけない言葉を発したことを、わびることで精一杯であった。
 4月からA子や母親から発せられていた私への不満の信号を、その場その場できちんと受け止め、解決しようとしていたら、こんな事態にはならなかったかもしれない。思い返せば、心当たりはいくつもあった。
 自分の発する一つ一つの言葉の重み、それが子どもや親にどれほど大きな影響を与えるか、ということを痛感させられる貴重な機会であったと今は思う。
 教師になって四年目、自分に欠ける「一人ひとりの子どもをじっくりみる」ということを支援学校で勉強してみたいと考えるようになった。
 支援学校に赴任して、C男というADHD(注意欠陥多動性障害)の子の担任になった。登下校で乗るスクールバスの中で暴れ、けがを負わせるという事件が起きた。
 その後も学校や家で自傷、他害行為を繰り返し「もう、どうしたらいいのかわかりません」と母親が言ったが、まさに私も同じ気持ちであった。
 なぜC男が暴れるのか、ストレス源となっているのは何なのか、どうすれば落ち着いて過ごせるのか、母親と何度も話す機会をもった。
 母親からは、家で暴れる原因は学校でのストレスではないかとか、私のC男へのかかわり方のまずさを責められたこともあった。
 落ち込んでいる暇はない。とにかく考えられるありとあらゆる手だてを一緒に考えていった。「約束カードを作って、守れたらシールをはろう」「C男の好きな歌を一緒に歌ってみよう」など、そのたびに一喜一憂した。
 ここまで一人の子どものことを考えたのは初めての経験であった。格闘を繰り返す中で、C男のよだれを汚いと思わない自分がいた。
 親になったことのない自分が、親と同じ気持ちで子どもに「こうなってほしい」と願った。C男の行為がおさまってきたとき、母親と一緒にC男の成長を喜ぶことができた。
 C男との出会いによって、私は教師としてはじめて本気で一人の子どものことを考えることができたのだと思う。
 言い換えれば、一人ひとりの子どもに「こうなってほしい」という、強い願いをもっていなかったということである。
 こんなふうに、私はさまざまな失敗や保護者とのトラブルを繰り返してきた。そのときは、私は教師に向いていないと自信を失い、もうやめてしまいたいと思った。
 何度も泣いたし、辞表の書き方を考えたこともある。そんな私がなぜ、今も教師をやめずに続けてこられたのか。
 それは「教師をやっていてよかった」と、思える瞬間があるからだ。
 まず、子どもの笑顔を見たとき。落ち込んだ状態で教室に行ったときも、子どもの笑顔を見ると「がんばらなきゃ!」と気合いを入れ直すことができる。
 「できた!」というときの子どもの顔も私の心の支えである。
 私は学級通信に保護者の意見や感想を無記名でアンケートをつけています。手厳しい意見もありますが「うちの子が明るくなりました。先生が担任でよかった」といった、励まし、認めてもらえる声を見つけたときは元気がでます。
 このような言葉は、今でも落ち込んだとき、やめたくなったときに、思い出しては自分を励ましています。
 こうして振り返ると、私は失敗をしてこなければ、何も学べなかっただろうということである。まさに「失敗の中から学ぶ」教師生活であった。
 教師という職業はつらいことや嫌なことが百あれば、うれしいことは一つかもしれない。 
 でも「教師をやっていてよかった」と思えることが一つでもあるのは確かである。その一つを求め、私はこれからも教師を続けていくつもりです。
(
山崎準二編著。B女性教師、小学校、支援学校、教職歴6年)

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若い教師が「ほどほど」に教師をやっていたら、ベテランになったとき、自信を失って周りに迷惑をかけるようになるかもしれない

 私は20歳代の頃は、勢いがあって口が悪くて、世界が自分を中心にまわっていて、すぐに人を責めて、ばかにしていました。
 しかし、実践研究だけは、まったく手を抜かずに資料だけは百枚も二百枚もつくって、研究会で三枚くらいの資料で発表する人を見て「まじめにやっていない」と断罪して、まったくいけすかない人間でした。
 もしも、当時の私が、いまいたら「こいつは見込みのある教師だ」と可愛がるでしょう。
 若い教師で有望な人というのは、いけすかない人であることが多いように感じています。
 教師という職業は、若いうちから一国一城の主になれる稀な職業です。その分、一人で突っ走りやすい職業ですし、若いうちから「自分はいっぱしの者だ」と勘違いしやすい職業でもあるわけです。
 しかも、能力が高くて将来、大物になる可能性を秘めている教師ほど、そういう勘違いに陥りやすい。
 長年、若い教師を観察していて感じるのは、教師の成長には
「自分をいっぱしの者だ」と思う、
(1)
その勘違いを謙虚に戒めて成長する
 人間関係を重視しながら、ストレスに見舞われる日常を過ごす。
(2)
その勘違いに実質を伴わせて、勘違いではなくしてしまう
 血のにじむような努力して、だれも文句を言えないほどの実績をあげる
場合と、二つの道があるということです。
 私の教師人生は自分で言うのも何なのですが、(2)の道を20歳代、30歳代で、(1)の道を40歳前後から意識し始めたという感じです。
 いまは、50歳代を目前にして「バランス感覚をもってほどほどに」を信条に生きています。
 でも、よく思うのは、若い頃にがむしゃらにやった「溜め(たくわえ)があるから、いまがあるのだな」ということです。
 若い頃から「ほどほど感覚」で教師をやっていたら、いまごろは自信を失って毎日が地獄だったかもしれない。周りに迷惑ばかりかけていたかもしれない。そんなことを感じるのです。
 おそらくいま、若い教師が多いと思います。どうぞ、自分なりの「茨の道」を突き進んでほしいと思います。
(
堀 裕嗣:1966年北海道生まれ、札幌市立中学の国語科教師。92年、国語教育研究サークル「研究集団ことのは」代表、「教師力BRUSH-UPセミナー」代表。文学教育と言語技術教育との融合を旗印に長く国語科授業の研究を続けている)

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教師になって三年目までが勝負、すばらしい出会いが教師を変える

 私は、中学校社会科教師をめざしていたが、採用試験に不合格となり、学習塾に勤めてやっと岩手県の小学校の教師になった。希望の職業になれた嬉しさで「張り切って仕事をするぞ」という思いであった。
 三年生の担任になり、毎日校庭でサッカーや遊具で遊んだ。しかし、教材研究や指導技術もないに等しいのだから、子どもたちが集中せず、反応も悪いのは当然であった。
 そういう状況のなか、六月に新採用教師対象に研究授業をすることになった。校内の先生方の授業を見る機会がなかった。「どうやって勉強したらいいのだろう」と考えているうちに、また次の日が来てしまうありさまだった。
 研究授業まであと10日あまりになったとき、他校の研究授業を参観する機会があった。ベテラン教師の六年生社会科の授業だった。
 
「これが本物の授業なんだ」と目を開かされる思いだった。教師が使う資料が独自に調べたもので、中尊寺のポスターに、子どもたちが「美しい、すごい」という声があがり、子どもたちが一気に引き込まれていく様子がよくわかった。
 しかも、学級全員がよく集中している。ユーモアある発言には、よく笑う子どもたち。とにかく教室が明るかった。
 また、授業のまとめの場面では、子どもたちが自主的に立って発表していた。いつも指名ばかりだった自分は「こんな方法もあるのか」と衝撃を受けた。
 どんな人と出会ったか、どんな授業と出会ったかで、その教師の人生は大きく変わる。
 初めて参観した授業がすばらしいものだったことは、私にとって偶然に得た幸運であった。
 すばらしい研究授業との出会いで「理想とする授業」のイメージができた。取り組みにも意欲的になった。本や教育雑誌を一気に購入した。読んで見ると、いかに自分は学習方法を意識していなかったかがわかった。
一回目の研究授業の経験で、研究授業は
(1)
自分がその分野について新しい知識を本や同僚教師から身につけられる。
(2)
学級の子どもたちの「発言力や学習規律」を伸ばす場となる。
(3)
教師の授業力をアップする場になる。
以降、私は研究授業を求められれば積極的に手をあげるようにした。新採用の年には五回の研究授業を行った。
 本や雑誌から学ぶことも多かったが、いちばん勉強になったのは、やはりベテランの同僚教師から学ぶことだった。
 私が苦手とした図工は校内の研究授業を参観したことが一番参考になった。音楽も苦手だったが、音楽に堪能な教師と合同で練習した。生で音楽指導を見ることができた。
 五年生を担任していたときに、週に一時間の空き時間があった。その時間を利用して、他の先生にお願いして授業を見せてもらった。家に帰ってから、自分の学びを1ページくらいにまとめ、ファイルにした。
 2年目、新校長の授業参観があった。感想を聞きたいと校長室を訪ねると「この分野ならあの先生にと言われるようになりなさい」と言われた。社会科が小学生のときから好きだったので社会科の授業に力を注いできた。
 それ以外に他の先生より努力できそうなのは学級通信だった。
 発行は教職2年目の二学期からだった。発行してみると実に面白い。学級の情報を保護者に伝えられる喜び。子どもたちが「ぼくの作文が載っている!」と喜ぶ。そして私自身の実践が記録される充実感。
 学級通信を発行してから確実に変わったことは
(1)
保護者の反応
 「学校の様子がよくわかります」「社会科の授業、私も受けてみたいです」といった好意的な声をいただいた。
(2)
私の教育実践
 学級通信に授業の様子を掲載することは、同時に自分の実践記録の蓄積につながった。実践ネタが増えることになる。時には教育研究集会の資料になった。
(3)
子どもたち
 子どもたちの励みになるように、作文、よい行い、エピソードを具体的に名前入りで紹介した。帰りの会で「今日のお便りのヒーローは○○さんです」と話した。その子が家で誇らしげに見せたというのを聞いて、私は学級通信を発行する意義を改めて感じた。
 保護者対応は私にとって苦手であった。もともと人と積極的に交わるタイプではない。そんなときに、変わるきっかけとなったのは地区のPTAバレーボール大会であった。その練習の誘いを受けた。
 週2回、夜間2時間は負担と思ったが「まずは参加してみることが大事」と考えた。参加してみると、大きなメリットがあった。一緒に運動することで親近感が生まれ、保護者との距離が縮まった。気軽に雑談もできるようになった。
 それまでは保護者ということを意識して「何か言われるのではないか」と構えていたのかもしれない。「子どもを成長させたい」という思いは同じなのだから「パートナー」と考えればいいのだ。そのように思い直した。
 見方が変われば対応も変わってくる。保護者から「○○してくれませんか」と注文を受けたときも「自分が責められているのではない。子どもの成長のために言っている」と思うと素直に受け入れられた。
 また、保護者との距離が縮まると、積極的に連絡をするようになった。特に成長が見られたときは、連絡帳に書くようになった。喜ばない保護者はいない。
 苦手だった保護者対応も、少しずつ手応えを感じるようになった。
(
佐藤正寿:1962年秋田県生まれ。岩手県公立小学校副校長。「地域と日本のよさを伝える授業」をメインテーマに教材開発に力を入れている)

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教師がまじめなだけでは、子どもたちはついてこない、教えるのに笑いや明るさが不可欠である

 私が笑いや明るさにこだわるのは、その楽しさに満ちた教室の空気が子どもたちの学習意欲を醸成してくれるからです。そこには自分自身の苦い体験も手伝っています。
 教師になりたてのころ、四年生から六年生まで受け持ったクラスの子どもたちに、私は「ネクラ」という、らくいんを押された経験があるのです。その記憶はいまでも鮮明に残っています。
 卒業式のときに「先生がもっといい先生になるにはどうしたらいいか、気がついたことがあれば教えてくれないか」と、子どもたちに尋ねてみたのです。
 すると、ある子どもから「先生は、まじめで一所懸命だけど、ちょっと暗い。ゆとりがなく、おもしろみがない感じがする。もっと明るくしないと、子どもたちから嫌われるよ」という答えが返ってきました。
 私は自分では明るい性格のつもりでいましたから、その言葉が意外なうえに、頭をガツンとなぐられたような気もしました。
 私が笑いや明るさを心がけるようになったのはそれからのことです。子どもたちの前で、努めて明るくふるまうようにする一方、笑いやユーモアに関する本を買いあさり、それを笑い話のネタにして子どもたちに話す。明るくユーモラスな人を観察して自分でも真似てみる。そういう努力をしたのです。
 ユーモアは人間性からじわりとにじみ出る「しずく」のようなものです。数年たったころ、明るさが身についたのは事実で、努力すれば自分の「人間性」を変えることもできるのだと感じたものです。
 それとともに授業にもゆとりが生まれて、まじめなだけで人を教えることはできない。そこに明るい、楽しいという条件を加えなくてはいけないことも分かってきました。
 教える技術のなかに明るさ、楽しさという「人間性」を込めなくては、教わる子どもたちを動かし、育てることはできない。そういうことが実感を通して理解できるようになったのです。
 そして「子どもは教師の鏡」という言葉どおり、私が明るくなると子どもたちの態度も目に見えて明るくなっていきました。子どもたちのユーモア感覚の伸びとともに、学力や人間性も成長していくことが明かに感じとれるのです。
 それが大人であれば、ユーモアは精神的なゆとりや人間的な幅の広さの指標となるのでしょう。
 ともあれ、笑いや明るさは子どもたちを教えるのに不可欠な要素です。しかめ面の厳しい「北風」の接し方では、教わる子どもたちの能力や可能性は身を縮めるばかりです。
 教える人は、温かく明るい指導によって、子どもたちを包み、その力を最大限に伸ばしていく太陽のような存在であるべきなのです。
(有田和正:19352014年、福岡教育大学附属小倉小学校、筑波大学付属小学校,愛知教育大学教授、東北福祉大学教授、同特任教授を歴任した。教材づくりを中心とした授業づくりを研究し、数百の教材を開発、授業の名人といわれた)

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教師に向いていないと思いつつも、つらい日々を乗り越えられたものはなにか

 私が大学生のときは、子ども一人ひとりとじっくりかかわり合う大切さを知り、どんな子どもとも、一人の人間としてかかわっていこうと思っていました。
 教師になっても、そのことを忘れずやっていこうとしました。しかし、現場はやりづらく、自分自身、実践力がないことにイライラしていました。
 泣き虫な私は、放課後よく泣いていました。そのたびに「あなたは弱い。強くなりなさい」と言われました。
 私は喉が弱いので、大きな声が出しづらいのですが「声が小さすぎるから、子どもに伝わらない」と言われました。良い教師(ビシッと子どもをしつけ、大きい声を出しオーラがあふれる教師)にはなれない私でした。
 むりやり自分を変えようとすると、体調を崩したり、逆に子どもたちから気持ちが離れていくような感じになったりしました。
 
「強い先生」ってなんだろうと、気持ちがゆらぎ、涙が出てしまう。そんな日々を過ごしていました。
 そんなとき、私を励ましてくれたのは同期の同僚で、私が泣いているとき、話を聞いてくれ、心強く感じました。
 また、外部のサークルでも、私の話をじっくり聞いてもらい、元気がでました。そのサークルのベテラン教師から
「強い先生も必要なんだけど、あなたみたいな『やわらかい』先生が通用しない学校は、子どもたちにとってもかわいそう」
と言ってもらいました。何度、この言葉に励まされたことでしょう。
「このままの自分で、子どもたちと過ごしていいんだ」と心が軽くなりました。
 初めて担任をもったときの、うれしさは今でも覚えています。でも、その喜びや楽しさは一気に小さくなっていきました。
 その理由は、まず、事務仕事に時間がかかり、周りの教師から置いていかれるような感じがしました。
 そして、隣のクラスの担任についていくのに必死な日々が続きました。なんでもテキパキこなし、私にもそれを要求しているような雰囲気でした。私は追い込まれ、子どもとの関係もぎくしゃくしていきました。
 
「先生が子どもたちになめられている」と、管理職、隣のクラスの担任、保護者からいわれるようになりました。
 
私は「なんとかしたい」「わかっている!」と思っていると、子どもたちに怒るだけで、子どもに私の気持ちが伝わらないような気になり、あせり、追い込まれました。
 そんな中、私を支えたのは、子ども、同僚、外部サークルの三つでした。
 子どもとは、うまくいくか不安の連続でしたが、小さな、小さなうれしさを共有することが、私の希望となっていきました。
 同僚と夜遅くまで話し合ったときもありました。ある日「悩むこともあるけれど、決して千葉さんの指導力不足とかじゃないから、泣かないでね。とにかくみんな見方だから」と書いた同僚の手紙が机のうえに置いてありました。
 忙しい職員室のなかでは、みんなが敵に見えたり、自分だけが劣って見えたりしてしまいます。だけど、そんなことはない。だれかが見ていてくれると、希望がもてました。
 私がどんなに苦しくても「子どもと共にいるそのままの自分を大切に」していけたのは、仲間とかかわっていたからです。
 
「私は教師に向いていない」「もう子どもとかかわれない」と思っても、みんなの励ましや、私の気持ちを聞いてくれる場があったからこそ、明日も学校に行こうと思え、子どもがいとおしく思えました。 
 子どもとの何気ない会話に笑顔になったり、「先生わかったよ」と、授業中、目を輝かせる一面をみたり、どんなトラブルがあっても、子どもと過ごす日々は希望にあふれていると思います。
 教師仲間と、苦悩と希望を多く伝えていったりすることが、私にとっての教師である希望です。そういった場があることに、私は励まされています。
 まだ教職四年目で、自分のスタイルは模索中です。まだわからないことばかりですが、自分の感情と素直につきあいながら、自分を大切にこれからもやっていきたいです。
(
千葉春佳:1986年生まれ、公立小学校教師)

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子どもに主役意識を持たせることが大切、そのために教師の主役意識が育っているかが問題である

 よほど気をつけないと、授業ではよく挙手する子を中心に進め、どんどんやれる子に活躍の場を与えてしまいます。その方が効果があがると思うからです。
 教育の効果は、まだよく育っていない子が、よく育つことです。
 学習などの場面で出番を与えられなかった子は、教師の目の届かぬ場面で主役になって、学級や学校を崩壊させていきます。そんなことになったら大変です。
 どの子も、一人ひとりがかけがえのない役を負っているのだということを教え、それを実感できるように、子どもに主役意識を持たせることは大事です。
 子どもに「あなたも主役なのよ」と担任が励まし、少しでも勉強に成果が見えると「なかなかやるじゃない」と、ほめます。ほめることの教育的な効果はてきめんです。
 そのためには、子どもよりも先に、教師に主役意識が育っているかが問題です。ただ一度きりの人生の主たる舞台である職場に、生き甲斐に満ちていなかったら、人生はつまらないものになってしまいます。
 他校から転任して日の浅い人は、校長の言うことが前任校と違う、学年の人と親しみにくい、子どもの気風が肌に合わない。そのたびに「前の学校はよかった」と思う。よくあることです。
 でも、一日も早く「この学校は私の学校、この子どもたちは私の子ども、私こそ、この学校の主役」と、心からそう思う修業が大事です。
 どこを探しても、完ぺきな理想の職場など、まずありません。出来のよくない子ども。肌の合わない同僚、方針の明確でない管理職。不足だらけの施設・設備。こなしきれないほど多い仕事など。
 赴任しての第一印象をそう語る人もいます。主役意識の育っていない人はそれでもう、やる気を失ってしまいます。
 そして心の中で「ひどい所に来たもんだ。この学校はこれまでいったい何をやってきたんだろう」と、次の日から職場生活は味気ないものになってしまいます。
 ところが、主役意識の育っている教師は違います。「これまでの人たちはここまでやったんだ。今度はいよいよ私の出番だ」と、次の日から張り切って出勤してきます。
 教師の仕事のほとんどは、教師と子どもが触れ合う場で行われるのです。主役とは、教育という仕事の主役です。教育の仕事の対象は子どもです。
 子どもは教育という仕事の最も権威のある評価者です。ほかの誰からもほめられなくても、子どもからほめられるのが教師の仕事の醍醐味です。
 子どもから「うまい!」「よくやる」「先生、大好き!」と言われることをこそ目ざすべきです。教師の主役意識はそうして育ちます。
 主役意識の育った教師のもとでは、必ず子どもの主役意識が育ちます。
(
船越準蔵:19262015年 秋田県生まれ、秋田大学附属中学校教師、秋田県教育庁指導主事、教育次長、中学校長、秋田県中学校会長を務めた)

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教師になって約30年、私はどのようにして、楽しく教えることができるようになったのか

 私は、新任の着任式で子どもたちに「先生は・・・・」と挨拶したら、ある年輩の教師から「自分のことを『先生』などとは言わないのですよ。『私は』と言うのよ」
「先生という言葉は、相手が尊敬して言ってくれるものなのよ」
「自分で『先生は・・・・』なんて言ったらおかしいでしょう。言語感覚を身につけるといいわね」
と、たしなめられたことを思い出します。
 私は、言葉について敏感になりたい。授業で一番嫌いで不得意だった国語を自分なりに何とか向上させたいと思いました。そのために、研究会に参加したり、よい授業をたくさん見たりしていきました。
 新人時代には月一回、地域の国語研究会に参加しました。この教材文はこう解釈するといいんだとか、主題はこう読み取って、要旨はこう読み取らなくてはならない、主題や要旨に迫るために、どんな発問をしたらよいか、ということを勉強しました。
 国語は簡単な教科だと思っていたのが、急に難解な教科に変わりました。結婚して転勤するまでの二年間教えてもらいました。
 次の学校では、国語の授業に堪能な教師がいました。
「発問したら、子どもがどのように反応するか、考えなくてはいけない。想定する答えをいくつも考える必要がある」と教えてくれました。子どもの答えによって、その次の発問を工夫していくのです。
 そして、主要発問とそうでない発問を分けて考え、主題や要旨にせまっていくのだと教えてもらいました。
 その教師は「私は、悲しいお話では、必ず子どもたちを泣かせるの。それだけのめりこんで読ませることができるのよ」と言っていました。
 
「授業でそんなことができるなんてすごい」と憧れを感じました。この学校には一年間しかいませんでしたが、大きなものを学んだような気がしました。
 次に行った学校(六年間)では、私自身が子育てをしていたので、学校の外で学ぶことはできませんでした。しかし、教材文を読んで、どのように子どもに教えたらよいか、ある程度わかってきていました。
 次の学校(三年間)では、何をどのように教えたらよいか明確に指導してくれる教師に出会い懇切丁寧に教えてもらいました。国語の授業はどう作ったらよいのか、どういう発問がよいのかなどを教えてもらいました。
 長期研修生のテストを受けてみないかと、その教師に勧められ受け、合格して筑波大学の内地留学生(1年間)となりました。
 そこで学んだことは驚きの連続でした。当時、私は、子どもの側に立って学習を組織していくという単元学習の考えは全くありませんでした。
 授業をいかに、うまく流すか、子どもの感想をうまく取り上げて発問を組み立てて、いかにしたら自分の思っている方向に授業を組み立てたらよいかなど、私は授業を教師側の発想で作ろうとばかり考えていたからです。
 どうやら今までの自分の国語授業についての考えが根本的に違うのだということに気づいたのです。
 内地留学が修了し、転勤しました。そこの小学校の近くにある千葉大学の研究室に1年間、日参して教えを請いました。単元の作り方にヒントをもらい、子どもの作品をどう読むか、どう理解したらよいか学びました。
 自分の不出来さに何度も悩み、苦しみましたが、子どもたちとの学習はとても楽しく、こんな学習の世界があったのかと思うほど、一人ひとりの学習に効果的で、しかも意欲的・主体的に、学ぶ姿をたくさん見せてもらうことができました。
 今までの授業技術を求めていた時からは、全く考えられない、子どもが伸びる充実した学習ができました。教科書にしばられないで、眼前の子どもの姿を見ながら、国語の力を伸ばすための単元を、アドバイスを受けてつぎからつぎへと作っていきました。
 その後、私はどうしても、自分の実践を発表する場を持ちたくて、大学の教授をお招きして国語の勉強会をはじめました。隔月一回、どのように単元を作り、どう子どもを支援したらよいか教えを受けました。
 毎回、私の実践紹介があります。時には、私の実践に教授から容赦のない批判を受けることもあります。そういう時は、いい気になっていたり、子どもを間違えてとらえていたりした時でした。
 そういう時は大変ショックですが、また気を取り直して、よい実践をしようと勉強をしていきます。順に会員の実践紹介があります。会員は毎回レポート提出(A4判一枚)をします。
 会が終わると、全員、心地よい疲れと、明日への新たなパワーをもらって帰ります。
 私は、新人教師時代から今まで、国語教育にのめりこんで、どうやら何とか楽しく教えることができるようになりました。ひとつの教科をずっと研究してきたので、自分でも満足感があります。
 新人教師も自分の研究教科や研究分野を見つけて、長い期間研究していくのも興味深いことだと思います。そして、いつの日か、楽しく実りある授業をしてください。
 子どもが満足感を覚える学習をさせられるように、毎日が自分の力量を高めていく一歩だと思ってがんばってもらいたいと思います。明日の日本の教育は新人教師の手に委ねられているのですから、健闘を祈ります。
(
卯月啓子:1949年東京都生まれ、元公立小学校教師。NHK教育テレビ「わくわく授業 卯月啓子さんの国語」(2002)で好評を得る。「卯月啓子の楽しい国語の会」代表。現職教員のための国語教育研究会の常任講師を務め、後進の指導にあたっている)

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