カテゴリー「教師の人間としての生きかた・考えかた」の記事

子どもに主役意識を持たせることが大切、そのために教師の主役意識が育っているかが問題である

 よほど気をつけないと、授業ではよく挙手する子を中心に進め、どんどんやれる子に活躍の場を与えてしまいます。その方が効果があがると思うからです。
 教育の効果は、まだよく育っていない子が、よく育つことです。
 学習などの場面で出番を与えられなかった子は、教師の目の届かぬ場面で主役になって、学級や学校を崩壊させていきます。そんなことになったら大変です。
 どの子も、一人ひとりがかけがえのない役を負っているのだということを教え、それを実感できるように、子どもに主役意識を持たせることは大事です。
 子どもに「あなたも主役なのよ」と担任が励まし、少しでも勉強に成果が見えると「なかなかやるじゃない」と、ほめます。ほめることの教育的な効果はてきめんです。
 そのためには、子どもよりも先に、教師に主役意識が育っているかが問題です。ただ一度きりの人生の主たる舞台である職場に、生き甲斐に満ちていなかったら、人生はつまらないものになってしまいます。
 他校から転任して日の浅い人は、校長の言うことが前任校と違う、学年の人と親しみにくい、子どもの気風が肌に合わない。そのたびに「前の学校はよかった」と思う。よくあることです。
 でも、一日も早く「この学校は私の学校、この子どもたちは私の子ども、私こそ、この学校の主役」と、心からそう思う修業が大事です。
 どこを探しても、完ぺきな理想の職場など、まずありません。出来のよくない子ども。肌の合わない同僚、方針の明確でない管理職。不足だらけの施設・設備。こなしきれないほど多い仕事など。
 赴任しての第一印象をそう語る人もいます。主役意識の育っていない人はそれでもう、やる気を失ってしまいます。
 そして心の中で「ひどい所に来たもんだ。この学校はこれまでいったい何をやってきたんだろう」と、次の日から職場生活は味気ないものになってしまいます。
 ところが、主役意識の育っている教師は違います。「これまでの人たちはここまでやったんだ。今度はいよいよ私の出番だ」と、次の日から張り切って出勤してきます。
 教師の仕事のほとんどは、教師と子どもが触れ合う場で行われるのです。主役とは、教育という仕事の主役です。教育の仕事の対象は子どもです。
 子どもは教育という仕事の最も権威のある評価者です。ほかの誰からもほめられなくても、子どもからほめられるのが教師の仕事の醍醐味です。
 子どもから「うまい!」「よくやる」「先生、大好き!」と言われることをこそ目ざすべきです。教師の主役意識はそうして育ちます。
 主役意識の育った教師のもとでは、必ず子どもの主役意識が育ちます。
(
船越準蔵:19262015年 秋田県生まれ、秋田大学附属中学校教師、秋田県教育庁指導主事、教育次長、中学校長、秋田県中学校会長を務めた)

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教師になって約30年、私はどのようにして、楽しく教えることができるようになったのか

 私は、新任の着任式で子どもたちに「先生は・・・・」と挨拶したら、ある年輩の教師から「自分のことを『先生』などとは言わないのですよ。『私は』と言うのよ」
「先生という言葉は、相手が尊敬して言ってくれるものなのよ」
「自分で『先生は・・・・』なんて言ったらおかしいでしょう。言語感覚を身につけるといいわね」
と、たしなめられたことを思い出します。
 私は、言葉について敏感になりたい。授業で一番嫌いで不得意だった国語を自分なりに何とか向上させたいと思いました。そのために、研究会に参加したり、よい授業をたくさん見たりしていきました。
 新人時代には月一回、地域の国語研究会に参加しました。この教材文はこう解釈するといいんだとか、主題はこう読み取って、要旨はこう読み取らなくてはならない、主題や要旨に迫るために、どんな発問をしたらよいか、ということを勉強しました。
 国語は簡単な教科だと思っていたのが、急に難解な教科に変わりました。結婚して転勤するまでの二年間教えてもらいました。
 次の学校では、国語の授業に堪能な教師がいました。
「発問したら、子どもがどのように反応するか、考えなくてはいけない。想定する答えをいくつも考える必要がある」と教えてくれました。子どもの答えによって、その次の発問を工夫していくのです。
 そして、主要発問とそうでない発問を分けて考え、主題や要旨にせまっていくのだと教えてもらいました。
 その教師は「私は、悲しいお話では、必ず子どもたちを泣かせるの。それだけのめりこんで読ませることができるのよ」と言っていました。
 
「授業でそんなことができるなんてすごい」と憧れを感じました。この学校には一年間しかいませんでしたが、大きなものを学んだような気がしました。
 次に行った学校(六年間)では、私自身が子育てをしていたので、学校の外で学ぶことはできませんでした。しかし、教材文を読んで、どのように子どもに教えたらよいか、ある程度わかってきていました。
 次の学校(三年間)では、何をどのように教えたらよいか明確に指導してくれる教師に出会い懇切丁寧に教えてもらいました。国語の授業はどう作ったらよいのか、どういう発問がよいのかなどを教えてもらいました。
 長期研修生のテストを受けてみないかと、その教師に勧められ受け、合格して筑波大学の内地留学生(1年間)となりました。
 そこで学んだことは驚きの連続でした。当時、私は、子どもの側に立って学習を組織していくという単元学習の考えは全くありませんでした。
 授業をいかに、うまく流すか、子どもの感想をうまく取り上げて発問を組み立てて、いかにしたら自分の思っている方向に授業を組み立てたらよいかなど、私は授業を教師側の発想で作ろうとばかり考えていたからです。
 どうやら今までの自分の国語授業についての考えが根本的に違うのだということに気づいたのです。
 内地留学が修了し、転勤しました。そこの小学校の近くにある千葉大学の研究室に1年間、日参して教えを請いました。単元の作り方にヒントをもらい、子どもの作品をどう読むか、どう理解したらよいか学びました。
 自分の不出来さに何度も悩み、苦しみましたが、子どもたちとの学習はとても楽しく、こんな学習の世界があったのかと思うほど、一人ひとりの学習に効果的で、しかも意欲的・主体的に、学ぶ姿をたくさん見せてもらうことができました。
 今までの授業技術を求めていた時からは、全く考えられない、子どもが伸びる充実した学習ができました。教科書にしばられないで、眼前の子どもの姿を見ながら、国語の力を伸ばすための単元を、アドバイスを受けてつぎからつぎへと作っていきました。
 その後、私はどうしても、自分の実践を発表する場を持ちたくて、大学の教授をお招きして国語の勉強会をはじめました。隔月一回、どのように単元を作り、どう子どもを支援したらよいか教えを受けました。
 毎回、私の実践紹介があります。時には、私の実践に教授から容赦のない批判を受けることもあります。そういう時は、いい気になっていたり、子どもを間違えてとらえていたりした時でした。
 そういう時は大変ショックですが、また気を取り直して、よい実践をしようと勉強をしていきます。順に会員の実践紹介があります。会員は毎回レポート提出(A4判一枚)をします。
 会が終わると、全員、心地よい疲れと、明日への新たなパワーをもらって帰ります。
 私は、新人教師時代から今まで、国語教育にのめりこんで、どうやら何とか楽しく教えることができるようになりました。ひとつの教科をずっと研究してきたので、自分でも満足感があります。
 新人教師も自分の研究教科や研究分野を見つけて、長い期間研究していくのも興味深いことだと思います。そして、いつの日か、楽しく実りある授業をしてください。
 子どもが満足感を覚える学習をさせられるように、毎日が自分の力量を高めていく一歩だと思ってがんばってもらいたいと思います。明日の日本の教育は新人教師の手に委ねられているのですから、健闘を祈ります。
(
卯月啓子:1949年東京都生まれ、元公立小学校教師。NHK教育テレビ「わくわく授業 卯月啓子さんの国語」(2002)で好評を得る。「卯月啓子の楽しい国語の会」代表。現職教員のための国語教育研究会の常任講師を務め、後進の指導にあたっている)

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私の12年間の教師としての歩みが学級通信の中にいっぱいつまっています

 私が大阪市立小学校に新任として赴任しとき、学級通信を発行しておられた先生が一人いました。30歳くらいの女の先生でした。その先生は「一枚文集」のような形や、ザラ紙四分の一ぐらいに学級のようすを少しのせたり、連絡を書いたりする内容でした。
 しかし、当時の私の目から見て、あまり学年の先生から「いい目」では見られていなかったように感じていました。保護者からは人気がある先生だったように思います。私は、その先生の実践は「すごいなぁ」と思っていましたが。
 
「学級通信をだしているから、学年の足なみがそろわない」といった、なんともいえない雰囲気を感じたのです。
 そして、二年目、四年生の担任になったとき「学級通信をだして非難されたら」と、私は非常に悩みました。
 おもいきって、年輩の先生に相談すると
「若いうちは、自分のやりたいこと、好きなことをやりなさい。あとは、私らがしりぬぐいしてあげるから」
「子どもたちは、いろいろな先生の特技や個性、専門から学びとっていくのだから。あなたの持っている力をだしなさい。学級通信はできたら管理職に見せなさいよ」
と言われました。この言葉に非常に勇気づけられ、目の前がパッと明るくなったようでした。
 学年としての足なみをそろえることは必要です。でも、学級はその担任のイメージなり、独自性もあるはずです。
 私は今でも、その女の先生のがんばりと、年輩の先生の言葉は、私を育ててくれたと思っています。こんな思いから、私の学級通信はスタートしていきました。
 私は、学校や学級は子どもが生き生きとできる場にしなくてはいけないと思っています。なんとか、楽しく、生き生きと生活できる場にして、わかる喜びを教えてあげよう。
「明日も来たい」「明日も何かあるぞ」そんな、ワクワクした夢や希望を持って帰らせたいと、私は思っています。
 ささいなことを認めてあげるひと言が必要だと思います。また、友だちのがんばりやよろこびや活躍に「拍手」を送れる子どもたちも必要です。
 二年間担任したAさんの作文は「毎日、学校へ来るのが楽しみでした」と次のように書いてくれました。
「前田先生は、怒ったらこわいけれど、やさしいところもいっぱいありました。けん玉やいろいろなコンクール、鉛筆削り大会、百人一首大会・・・・、いろいろなことをやったので、何か得をしたような気がします。二年間、とても楽しかったです。毎日、学校へ来るのが楽しみでした」
 私の12年間の教師としての歩みが学級通信「あせ・どろ」の中にいっぱいつまっています。
 子どもたちの学校生活の様子を保護者は切実に知りたがっています。私は、学級というのは、絶対に保護者からの支えがなくては豊かになっていかないという思いを持っています。
 学級通信「あせ・どろ」1000号を迎えましたが、新任以来、書き続けてきたのも学級を、教育を豊かにしていきたいという、私の願いからです。
 保護者がわが子だけでなく、学級の取り組みや学級のすべての子の生活に関心を持ち、時には意見や感想をいい合える関係って、すばらしいことです。子どもたちの成長にとっても大切なことです。
 学級通信が保護者同士の交流の場としても、共通の話題を提供するものとして必要なものになっています。
 学級通信は、私にとっては自分と学級づくりのバロメーターなのです。子どもの姿が見えなくては、子どもの願いが実感として伝わってこなくては、学級づくりはできません。
 学級通信は一人ひとりの子どもの姿や声が浮かんでこなくては書けません。
 学級が生き生きと活動しているとき、すばらしいこと、くやしいこと、ドラマが生まれたとき、発見・成功・失敗・感動があったとき、子どもの伸びる芽を確信したとき、もう書く内容は決まっているのです。
 教室の中には、書く素材なんていっぱいあるのだから、子ども一人ひとりの言動や願いを「とらえる目」を身につけることが何よりも大切だと思っています。
 初めて担任したとき、学級通信を仕上げるのに二時間以上かかっていました。今は一時間以内で書けるようになりました。
 でも、学級がうまくいっていないときや、子どもたちの生活が事実として浮かんでこないとき、やっぱり書けませんね。
 みんな、うまくいったことばかりではありません。私自身の失敗したことも多くありました。また、子どもたちとしっくりいってない時もありました。でも、どんな時でも、
「子どもたちを信じてやらないといけない」
「子どもの否定面だけを見て、判断したらいけない」
そう思い、とにかく12年間やってきました。
 これから先も、子どもたちの前で「愛やロマンを大きく膨らませ」子どもたちに語れる教師として、偉大な先輩たちに学び、子どもたちや保護者に学びながら、教室の中にとびこんでいきたいと思います。
(
前田睦夫:1954年大阪市生まれ、大阪市立小学校教師)

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他職を経て教師になり12年、経験したこととは

 私は教師になるまでの十年間を地方公務員として過ごしました。直接子どもを教える仕事ではありませんでしたが、この間の経験が、後の教職生活の基礎となったと思います。
 教育センターでの仕事が私の人生を変える二の大きな出来事に出会いました。
 一つ目は、教育の現場を外側から見るという経験をしたことです。教育センターのロビーは展示室を兼ねています。市内の学校の展覧会などが開催されます。子どもたちの資質にそれほど大きな差があるとは思えないのに、作品にはかなりの違いがみられます。子どもたちの力を伸ばし発揮させる教師の影響力の大きさに驚きました。
 二つ目は、教育センターに勤務されていたF元校長との出会いです。人間性に触れ、教育のすばらしさを味わい、私もまた現場に出てみたいという思いが強くわきあがってきました。
「教師になりたい」という私の願いは家族から猛反対されました。教師である夫からは、教師は決して甘いものではない、母からは五歳と二歳という幼ない子がいるのに、という母親の立場からでした。
 人生はたった一度しかなく「今」という時間は二度ともどってこないので、夢はあきらめることはできませんでした。
 昼は仕事、夜は家事や育児、みんなが寝静まってからの勉強。しかし無事合格し、教職について赴任したのは奥多摩の緑豊かな小学校でした。自宅から一時間半ほどかかりました。
 教職はやりがいのある仕事で、毎日が充実し、遅くまではりきって働いていました。でも、母とわが子には苦労を強いてしまいました。
 半年たつと、道徳主任になり、東京都小学校道徳教育研究会(都小道)に入会しました。これが私と道徳教育の出合いとなったのです。
 転勤して、二校目で自分を変えた三つの契機は
(1)
教師としての力を高めようと努力した
 良い教師になるには、まず何か一つ、専門とするものを持つことだと思います。人間の力には限りがあります。「一徳は万徳に通ず」です。私にとっては、道徳教育がそれに当たります。
 道徳は人間が人間としてより良く生きていく心を育む大切なものです。教師と子どもがともに語り合い、考え合い、感動し合う心のふれあいの時間でもあります。
 私がつたないなりにも教師としての技量を高めることができたのは、都小道で、すばらしい授業を数多く見せていただいたおかげだと思っています。授業を見ることほど勉強になることはありません。
 また、東京都の教育研究員として研究をしていたとき、同じ研究員の教師と語り合い、教育にかける情熱にふれさせていただきました。私がくじけそうになったとき「私もやらなくては」と思いを新たにして、元気になって帰ることができました。
(2)
待つことを学んだ
 五年生の担任になったとき、一人の女の子が転校してきました。その子がいじめられました。
 いじめた子はすぐわかり、いじめた子と保護者を交えて真剣に話し合い、またクラス全員にも指導しました。しかし、心から納得していないような何かいやな雰囲気が残りました。
 クラスがいったん嫌悪な状態になってしまうと、元にもどすことは大変です。そうなる前に、先手を打っていかなければなりません。
 この出来事をきっかけに、私は教育相談の大切さをひしひしと感じました。深い子ども理解と、先を見通して問題を解決していく力を身につけることは、教師にとって欠くことのできないものだと思いました。
 そこで、スクールカウンセラー講座を受講する決心をしました。一年間通い続けた結果、自分が大きく変わっていったことを発見しました。それは「待つことができるようになった」ということです。
 私は「俺についてこい!」タイプの教師であったように思います。それまでの私では考えられないほど、ゆったりと子どもを見られるようになりました。子どもの個性の違いにどう対応し、どう伸ばしていくかを考えるようになってきました。
(3)
学校全体に目を向けることを学んだ
 校長先生から、保健主任などの仕事を任され、常に細やかな指導を受けました。自分のクラスのことだけでなく、学校全体を見渡せる人間になるようにという配慮であったと思います。
 私の教師としての理想は、体全体で子どもとぶつかり合うことです。そのためには、教師としての専門的な力量を磨くと同時に、人間として魅力のある人になりたいと願っています。
 ふり返ってみれば、あっという間に過ぎてしまった12年の歳月でした。うまくいかないときの方が多いような気がします。もともと根は楽観的な方ですが、落ち込むこともあります。
 悪いことのくり返しになったら、きっぱりと悪循環をたち切らなければなりません。そんなとき、私は一度、立ち止まってみることにしています。そして、次の二点を点検します。
(1)
子どもへの要求が高すぎないか
(2)
子どもへの要求が多すぎないか
 目の前のこの子たちの現在の実態をしっかり把握し直して、少しずつ目標を高めてやることが大切です。
 先輩が教えてくれた言葉に「教師の力以上の子どもは育つが、教師の想い以上に子どもは育たない」というのがあります。
 教師の意識が低いときや、もうこのへんでいいやと思ったとき、そこで止まってしまうような気がします。何としても、こんな子に育ってほしいという夢は、大きくもっていたいと思います。
 ずっと高学年を担任していますが、毎回子どもたちは違います。同じことのくり返しではなく、子どもたちの変化に柔軟に対応していけるような「しなやかさ」をもっていきたいと思います。
(
平林和枝:東京都公立小学校教師。道徳教育の著作多数あり)

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教師になって20年経ち、経験したこととは

 教師になって20年経ち、少しは広い視野で学校というところを見られるようになって初めて、小学生でも中学生でも、ましてや高校生に至っては、気持ちのほとんどが学校生活以外を向いているという子どもが結構多いということがわかってきました。
 私の教員生活の中で、何となく気分がすぐれず疲れていたように感じていたのは、そういう学校に目の向かない子どもや、その保護者たちとの対応だったのではないかと、今なら思い当たるのです。
 学校嫌いの子どもが学校に来て、学校の仕組みからはみ出したとき、その子を指導したり、相談にのったりすることは、私にとってそれはとても難しいことでした。
 二つ目の学校は東京都立高校の伝統校でした。生徒の気質も私に合っていて、自分はいきいきと毎日を送りました。教師になって十年目、30歳前半のことです。
 授業もいろいろ工夫ができました。同じ世代の数人の教師で、お互いの授業を見せ合いました。そんなことが出来たのは、国語科の教師同士、仲が良かったからです。
 二人の教師が東京都の高校の国語教育研究会の研究授業をすることになったとき、自然と予行演習をしようということになりました。
 まず同僚たちが生徒の役になって模擬授業をしました。そのときには、実際の授業よりずっと質の高い質問が飛び交い、研究授業する教師は冷や汗です。
 しかし、本当はそういう授業を皆やってみたいのです。時間の経つのを忘れ、本当に充実したいい時間でした。
 こういう楽しさはもう二度と味わえないかもしれませんが、このことは今でも私の授業を支える基礎になっています。
 国語科はあたたかく、常に磨き合うという雰囲気でした。授業も共通教材でやっていました。解釈の仕方、文学や言語にかかわる専門のことや、授業についての言葉が飛び交っていて、日々活気がありました。
 このような、人生を楽しんでいるような教師たちの空気は生徒たちに伝わります。こういう状況下では、生徒は何でも教師に話してくれます。生徒の情報が学年の教師に伝わってきます。
 ○○という生徒が△△先生の時間にどんなことを言ったか、また何をしたかみんなわかっていますから、教師と生徒との絆が強くなります。
 こういう良い関係があると職員室にいるだけで、生徒の抱かえている悩みや迷いがある程度わかるのです。そして、教師自身もまた、自分の知らない分野に対して妙な劣等感を抱いたりしなくても済むようになっていきます。
 しかし、20年間の教員生活は順風のときばかりではありませんでした。初めての出産後、半年の育児休業をとっている間に、入学してくる生徒の様子も変わり、教員の構成が異動で大きくかわりました。
 さまざまに変わったところに戻ったとき、私は自分の居場所がなくなってしまったように感じました。
 二年の担任をしている途中で産休に入ったのですが、代わりに入ってくださった教師に遠慮し、復帰したあとは、この学年の授業にでることも控えたのですが、それがかえって自分の居場所をなくす結果になりました。
 このときは、初めての育児、そして仕事の両立という個人的に初めてぶつかる困難も重なったのだと思うのですが、退職したいと校長に申し出るところまで自分を追い込んでしまいました。
 しかし、申し出たあとで、とてもとても淋しく感じました。もうこの仕事ができないと思ったとたん、自分が教師という仕事を本当に好きだったと気付きました。
 そう感じていたとき、校長と教頭が、それは丁寧に引き留めてくださいました。今しみじみありがたいと感謝しています。
 自分は国語の教師として生徒といい授業を展開したいのです。あの国語科の若々しい雰囲気をどこかで追い求めている気持ちがあるのかしれません。
(
原田あけみ:東京都立高校国語科教師)

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担任に不満を持つ保護者との出会いが私の教員人生に大きな影響を与えた

 初めて学校に赴任したとき「自分こそ世界で一番優秀な教師だ」と、私は思っていた。
 新任で五年生を担任し、初めの頃こそ、若い教師ということで、多くの保護者から笑顔で歓迎を受けた。
 しかし、時が経つにつれて「学習の進度が遅い」とか「教室が汚い」とか「子どもの言葉づかいが悪くなった」といった不満が保護者の間から出てくるようになり、それとともに保護者の顔から笑顔が徐々に消えていった。
 私自身も保護者に会うのがおっくうになり、保護者会の日は私が不登校になりそうであった。
 そのような状況を感じて私なりに、子どもと休み時間、一緒に遊ぶとか、子どもが提案してきた早朝のマラソン練習に付き合うなど、少しずつ努力をしていたが、保護者にはならなか理解してもらえず、苦情はいっこうになくなることはなかった。
 五年生も終わりに近づき、学年末の保護者会が行われた。学年末ということもあり、保護者の私への批判は、ますます拍車がかかった。
 次々に出される私の実践への不満、保護者会の雰囲気は重苦しいものになっていった。そして、いつも私に一番厳しい苦情をいう学級代表のお母さんがスッと立ち上がって発言を始めた。
 私は、路整然と完膚なきまでに私の批判が語られると想像した。重っ苦しい気持ちを通り越して「どうにでもなれ」と、開き直ってしまった。
 しかし、その母さんから語られた言葉は
「皆さん、いろいろとご意見があると思いますが、先生が担任されて、私たちの子どもがたくましくなったのは、どなたも感じることではないでしょうか」
「私は、先生のこの面を大切に見守っていきたいと思います」
ということだった。
 今までの重っ苦しい教室内の空気がこの発言でガラッと変わった。発言の最中に何人かの保護者のうなずく姿も見えた。
 私はこのお母さんのひと言を聞いて
「ああー、私はこのひと言で生きて行ける。これからの教員生活、死にもの狂いで努力していきたい」
と、思った。
 教師は誰でもみんないい教師でありたいと願っている。ただ、一生懸命努力しても人間関係のゆがみや、相互理解の不足などによって、自分の持ち味が発揮できない場合がある。
 そのようなとき、保護者のひと言でやる気を起こしたり、反対に意欲を失ったりする。私の場合、あの厳しい学級代表のお母さんがいたおかげで、やる気が出て努力する教師になれたと思う。
 このお母さんが厳しかったのは「本音で私の実践を見つめてくれていたからだ」と、思うようになった。
 
「子どもや保護者と、ともに本気で、人生を一緒に生きることの大切さ」を、私はこの母親との出会いで学んだ。
 その後、六年生の担任として、自分の実践を保護者にしっかり伝えようと、学級通信を毎日出した。その結果、子どもに毎日、日記を書かせることになった。
 また、学級通信が授業の資料にもなった。さらに、学級通信に後押しされて、実践を最後まで頑張りぬいた。
 初めのうちこそ、苦手だった保護者会が、私の学級経営の重要な柱の一つになった。
 一人の母親との出会いが私のその後の教員人生に大きな影響を与えたのである。
(
西島興蔵:元東京都公立小学校管理職)

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若い教師は、どうすれば「子どもたちが必要とする」教師になることができるのか

 私が新任だったとき、教え子との決定的な出会いがあった。A子という強烈に個性的な子を、中学一年で担任した。彼女との出会いが、私の教師人生を決定づけたといってもいい。
 教師になる半年ほど前から、地域の子ども会の指導員のアルバイトをしていた。当時小学六年生だったA子は「いやだ」と言ったら「てこ」でも動かない。キレたらすべてを投げ飛ばす。
 口は誰にも負けないほど達者で、ちょっとした教師の弱みや隙をねらって、突いてくる。嫌いな教師は徹底して嫌い、こびようとする教師は鼻先で笑う。
 大きな体を揺らし、肩で風を切って学校中をかっぽしていた。でも、憎めないお人好しで、親分肌で、寂しがりや。勉強がからっきしダメ。読み書きもろくにしようとしない。鉛筆を持たせるだけで1時間かかることもあった。
 授業中はいろんな教師とぶつかった。教室を混乱の渦に巻き込み、挙句の果ては教室を飛び出した。これほどのスケールの子はそうそうお目にかかるものではない。
 先輩教師から「教育とは『今日行く』ということ。家庭訪問して足で稼ぐのが同和教育や」と言われ、子ども会指導員時代にすでにA子の家にも、頻繁に家庭訪問した。
 家庭訪問した翌日、A子はがんばってくれるだろうと、甘い期待を持って教室に入っても何も変わっていない。あいかわらずのわがまま勝手。
 
「お母さんの気持ちが分からんのか」と説教すると「うるさいんじゃ、おまえに何が分かるねん」とはね返された。
 一学期も終わる頃、A子の授業拒否、授業妨害はピークに達していた。授業妨害をめぐって、他の教科教師から苦言が来るし、学年会でも話題になった。
 私なりに、A子が「勉強を分かりたいけど、どうしようもなく分からない」と、苛立ち、押しつぶされそうになっているのが痛いほど分かっていた。
 放課後、残って勉強を教えることもあったけれど、長続きしない。クラスの子がかかわろうとするが「うるさいんじゃ、ほっとけ」の一点張り。ついにA子に匹敵するくらいのパワーの持ち主であるB子と正面衝突して、修羅場となった。
 仲裁に入った私がB子側に立っていると思ったらしい。裏切られたと感じたA子が「お前なんか、うっとおしいんじゃ、もう学校に来るな」と吐き捨てられた。
 わたしは悔しくて悔しくて、体を震わせた。「こんなに一生懸命、この子のことで昼も夜も考えている私が、どうしてこんな暴言を吐かれるのだ」と、私は教室を飛び出した。
 職員トイレに駆け込み、ドアを閉めて思いっきり号泣した。どれだけトイレに籠っていたのだろう。やっと気持ちが落ち着いて「今日はもう、帰ろう」と、トイレのドアを開けた。
 すると、そこにヌッとA子が立っていた。私の号泣を1時間以上聞き、ずーっと声もかけられずに立ちつくしていたA子がいた。でも、私は未熟だった。顔を背けて無言で出て行ってしまった。どうして「心配してくれてたんやね」と言えなかったのだろう。
 そして、次の日も、まるで何ごともなかったように、A子とのバトルは続いた。でも間違いなく、A子との友情は深まっていったと思う。
 私がA子を愛し、A子も私を必要としてくれていると感じられることがあれば、少々乱暴でもいいんじゃないかなあと考えている。
 新任まもなく結婚した私の結婚式にも、A子はクラス代表として数人の子らと参加してくれた。長男が誕生したときも、ベビー服を持って訪ねてきてくれた。
 間違いなくA子は、私の教師人生のスタートを方向づけてくれた教え子だと思う。
 日々、子どもたちとバトルをくり返しているあなたへ。「もう、教師を辞める」と思っては、気を取り直して頑張っているあなたへ。すっかり自信を失っているあなたへ。
 おめでとう。「大物」の子どもと出会えたあなたは、とてもラッキーな教師生活のスタートを切ることができたということ。格闘の日々の中で、これからの教師人生で宝物になるものを、きっと見つけられるはずです。
 若い教師がはじめから、子どもに「自分を開く」なんて、怖くてできないし、そんなにうまくいくはずもない。教師らしく説教しようとか、教師としての格好をつけても滑ってしまうこともしょっちゅう。
 
「どうして分かってくれないのか」なんて、恨みがましく思うより、真っ正面から直球勝負を挑んで、そして子どもにスカーンとホームランを打ち返されたらいいと思う。
 大事なことは、あなたがその子の存在を放っておけないということ。それは、その子のいいところも悪いところも、ひっくるめて、いとおしいと思えたら、もうこっちのもの。
 
「この日を迎えるために、自分は格闘してきたんだなあ」と、思える日がきっと来る。自分を信じて、子どもを信じて、進むしかない。
 私は「子どもとぶつかって泣くのは、プライドが許さない」「私はこんなに一生懸命なのに、どうしてあの子は分かってくれないのか」なんて、傲慢で薄っぺらな気持ちは、いつの間にか跡形もなく消えて、子どもの前で大泣きする教師になっていた。
 
「教師は、子どもたちによって教師にしてもらう」のだと、私は思う。
(
新保真紀子:徳島県生まれ、大阪府公立中学校教師(11)、大阪府人権教育研究協議会(7)等を経て神戸親和女子大学教授)

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22 87 プロ教師をめざすにはどのようにすればよいか

 何といっても「意欲」のある教師は伸びる。教師修業の原点は「真のプロ教師になりたい」という意欲を持つことだ。
 自分なりの目標を決めて、どうしたら自分らしい学びができるか、どうしたらよりよく学べるか、考えることだ。グループを作って学び合うのもよい。あちこちの研究会に身銭を切って出かけるのもよい。本や雑誌から学ぶのもよい。
 しかし「学び達人」といわれる教師に学ぶと効果が大きい。「まね」をしながら自分の方法(学び方)を創り常に工夫するくせをつけることだ。「あこがれ」(達人の学び方)を持ち、それに近づくにはどうしたらよいか、と常に工夫し、常に何かを試してみることだ。
 そして「学ぶことは、人生、一番最高の贅沢な遊びである」と考えるようにすることだ。学び、研究し、工夫することほど楽しいことはないと思えるようになったとき、その人は大きく成長しているといえる。
 私(有田正和)の場合、どのようにしてきたか振り返ってみる。
 私が高校に入って本格的な歴史を教わり「これはおもしろい」と思った。テストでよい点を取れていたので、ますます面白いと思うようになった。しかし、大学の歴史は全くおもしろくなく興味関心はなくなっていった。
 教育実習に行ったとき、担当の教師が社会科専門で、社会科の面白い授業を見せていただき、社会科への興味関心が再び高まり現在まで続くことになった。大学で満たされなかったものが、一気に満たされた感じがした。
 教職二年目に郡の社会科研究会で研究授業をすることになった。そこで「社会科の授業ではない」とこぴっどくたたかれた。社会科的な発言や考え方が全くできていない。教材が地域の事実に基づいたものではなく、足で取材した教材ではなかったことを叱られたのである。資料が抽象的で理解できるものではないことも指摘された。
 私は変わった。バイクを購入して、教材になりそうなところを見て回るようになった。実力者教師のまねをして、本や雑誌を購入して読むようになった。
 この努力が認められたのか、郡のテストを作成する委員になった。またもや、みそくそにいわれ、作り直しを命じられた。内容、つまり教材の研究がなされていないテストであったのだ。基礎基本を問う内容のないテストだったのである。
 指導法ばかり研究して、かんじんの教材研究を本気でやっていないことに気づいた。そして、奈良女子大付属小学校の研究会で長岡文雄先生の「ポストの授業」と出会い「授業とは何か?」と考えるようになった。
 
「自分を変えなければ」と最初に思ったのは、教師になって初めて卒業生を送り出すときであった。卒業しようとしている子どもから「先生は暗い。もっと明るく、おもしろい先生になってほしい」といわれた。
 この時、ジックを受けるとともに「絶対に明るく、おもしろい教師になろう」と思った。これから、ネアカ修業を始めた。
 明るく、おもしろい先輩教師を見習い、ユーモアやジョークの本を読みあさった。落語を聞き、漫才を聞くことを楽しむように努力した。
 しかし、ネアカ修業の時、ユーモアの最大の先生は子どもであることに気づくまでには、時間がかかった。例外はあるが、子どもはもともとネアカで、おもしろいことが大好きである。この先生に学べるかどうか。それが、成長できるかどうかのポイントである。 
 31歳の時、福岡教育大学附属小倉小学校へ転勤することになった。小倉の町のことを全く知らないのに、11回も地域教材を取り上げた研究授業を行わなければならなかった。
 研究授業のたびに完膚なきまでたたかれて、それまで自分で築いてきたものが音をたてて瓦解するのがわかった。夢にまで批判の様子が出てきて、うなされる毎日であった。
 社会科・学習・指導・案・単元・教材・内容とは何か、発問と質問はどう違うのか、本質とは何か、等々基礎的基本的なことを問われ、何も答えられなかった。
 つまり、社会科とは何かわかっていない自分を発見した。教材研究するといいながら教材とは何かわかっていなかったこともわかった。これまで築いてきたことは、と問いかえすと、何もなかったことに気づいたのである。
 附属小倉小学校に入って、たたきのめされ、自分を変えるしかなかった。30歳まで何をしていたのだろうと思った。大したものをもっていないのに、自分ではかなりのものを体得したと思っていたのだ。
 そこで、今までのものはきれいに捨てさり、新しい自分と、新しい自分らしい社会科を創り出さなければ、これからさき生きていけないと考えた。他人から批判してもらうことが、成長のカテになることに気づき、思いきり批判してもらった。
 そこで、基礎的な勉強をすることになった。「入門書」をさがし求めて読んだ。同時に、小倉の町を歩き回り、教材になるものをさがした。水道の断水があり「断水の歴史」を調べて教材化したりした。
 
「社会科とは何か?」と自問自答しながら、自分らしい教材、自分らしい社会科授業を新しく構築していこうとしたのである。
 
「小倉の町のごみ」という単元をつくり、子ども(三年生)とともに追及した。これは大変おもしろかった。「教材がおもしろければ子どもは追及する」ということがわかった。「ごみ日記」を書いたりする子どもも出てきた。予想もしなかった動きを子どもたちがしたのである。
 この実践をまとめて、共著で「市や町のしごと-ごみの学習」という本にまとめることもできた。ほんの少し自信らしきものができた。しかし、修業は続いた。続けなければ「有田社会科」の輪郭が描けない。まだ入口にきた程度であることがわかっていたからである。
 本当に苦しく、厳しい九年間であった。だが、この小倉時代がわたしの基盤になっている。修業につぐ修業の九年間であった。
 私に多少の資質・能力があるとしたら、それは「努力と挑戦」ができることだろうと思う。私と同じような環境におかれても、全く変わらない人もいる。こういう人は「今の自分でいい。今の実力で十分だ」と考えているのだろう。
 
「生きる力」というのは、生涯にわたって成長できる力であり「努力と挑戦」を続けることができる力である。
 子どもが変われば、それに合わせて自分を変えなければ、時代の変化にとり残されることになる。「成長という時計」を止めないのが本当の教師である。
 しかし、止めている人に時々出会う。そんな人をみて、自分を反省し、努力と挑戦をしたい。 
(
有田和正:19352014年、福岡教育大学附属小倉小学校、筑波大学付属小学校,愛知教育大学教授、東北福祉大学教授、同特任教授を歴任した。教材づくりを中心とした授業づくりを研究し、数百の教材を開発、授業の名人といわれた)


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若い教師が教職を通して自分を確立していくには、どのようにすればよいか

 若い教師が教職を通して自分を確立していくためには、日々の教職の仕事のなかにどれだけ「教職のやりがい感」を見出せるかが重要になります。
 教師が感じる「教職のやりがい感」には
(
) 子どもとの関わりと職場環境の満足感
(
) 対外的な評価への満足感
(
) 働く内容への満足感
(
) 労働待遇への満足感
の分野があります。
 このなかで、() () ()は、若い教師の発達の問題を考えるうえで特に重要になってきます。この三つが、若い教師がアイデンティティを形成するための核となり、自己の確立につながっていくからです。
 したがって、若い教師が、この三つのなかのいずれかを実感できるかがポイントになるわけです。
「教職のやりがい感」を実感するには、どのようにすればよいのでしょうか。その方法は
(1)
教師仲間と一体感を実感する
(2)
周囲から認められる
(3)
自分なりに、やれていることを確認する
(4)
自分の関心の視野を広げる
ことが考えられます。これを若い教師に当てはめてみると、
「心を許せる同世代の教師仲間を、生活環境のなかで確保する」
ことが大事になってくるでしょう。
 心を許せる教師仲間が、たとえ一人でもいれば、(1)(4)はそれなりに満たすことができると思います。例えば、こんな具合です。
(1)
教師仲間と一体感を実感する
 悩みを語り合うことで、うまくいかないで悩んでいるのは自分ひとりではないんだ、ということを理解し合える。安心し、同じ苦労をしている仲間同士ということで、一体感を感じることができるのです。
 時には愚痴りあって、学校のストレスを発散し合うのもいいでしょう。一緒に食事したり、飲みに行ったり、カラオケをするのもいいでしょう。
(2)
周囲から認められる
 同じ職場の先輩教師からほめられなくても、自分なりに苦労してやったことを語り合い、それを同じ目線で聞き合って、言葉にし合って認め合うのです。
 同じ世代、同じ教職経験の者同士ならば、相手の言いたいこと、認めてほしいことは痛いほどわかるものです。
(3)
自分なりに、やれていることを確認する
 大きな行事の後とか、学期の筋目の時期などに、それまでの期間に取り組んだ内容について一緒に語り合うのです。
 できた成果を自慢し合うのではなく、取り組んできたこと、そのなかで感じたことを率直に語り合うのです。
 このような語り合いのなかで、自分なりにやれていること、自分の取り組んでいることの意味がより明確に意識されてくると思います。
(4)
自分の関心の視野を広げる
 夏休みや連休など、少しまとまって時間がとれるときなど、一緒に連れ立って、教育委員会主催でない研修会やシンポジウムに参加してみるのです。教育から少し離れてもいいと思います。
 教師としての自分に、日常の現場とは少し違う面での刺激を与えてくれるものがいいのです。
 地方の教師ならば、東京や大阪などで開催される大きな大会に、宿泊を伴って参加してみるものいいでしょう。研修会で知的刺激を得るだけでなく、会場でのいろいろな人との出会いも楽しみなものです。
 研修後は、みなで連れ立って,研修内容をサカナにして食事や飲み会で交流するのも、とても楽しいことです。
 心の許せる教師仲間が職場にいれば最高です。しかし、そうでない場合のほうが多いのです。そのような場合には、自分からつながっていく行動がとても大切だと思います。同じ町の同期の教師、大学の知り合いの教師と連絡をとる、などです。
 小学校、中学校、高校と、たとえ学校種が違ってもいいのです。つながるなかでの交流が大事なのです。メールを交換しあうのもいいと思います。
 心を許せる、自分の教育観を語り合える、本音の思いを開示し合えるような教師仲間との交友はぜひ取り入れてほしいのです。
 そのような関わりを通して、お互いに育っていくものなのだと思います。
(
河村茂雄:1959年生まれ、早稲田大学教育学部教授。15年間公立学校教諭を経験した。学級崩壊,学級経営など教育実践に生かせる研究成果を多数提供している)

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私が教師になって大切にしていたこととはなにか

 私は「人間は自分のために生きなければ生きられないが、他人のために生きる意志のない者は決して幸福になれない」という言葉を自分の座右の銘にしています。
 教育というのは、教師が体を張って実践し、その教育実践の中から理論を構築していくものであると思うのです。
 教育は実践の裏付けのない発言というのは、まずいのではないでしょうか。私はこれまで、体当たりで教育実践、カウンセリング、教育相談をやってきました。
 これを理論化することで、世の中の悩めるお父さん、お母さん、教師たちに、現場からの生々しい体験談を送り続けたいと思っています。そうすることにより、教育のひっそく状況に風穴をあけたいと思っています。
 私は教師になってからずっと、国語の力こそ、どの学力にも通じる知力になると考えていました。音読・読み聞かせは、どの学力にも通じる知力になると。
 たくさんの本を読む経験が考える力を伸ばし、想像力や感性を磨き、ものごとに柔軟に対処できる能力を育むのだと、今も確信している。
 だから、授業には必ず読書を採用した。毎日必ず5分か10分、音読授業をするのである。
 私が音読授業に必ず取り入れたのは、宮沢賢治と金子みすゞの作品だった。一草一木にも生命が宿るという、その優しいトーンに包まれるとき、子どもたちは深く心を打たれるようである。
 クラス中が一番しーんと静まりかえって、48人の子どもたちのうち、46人が涙したというほどの衝撃的な物語は、
宮沢賢治の「よだかの星」であった。
 ほかの生きものを殺して食べなければ自分が生きていけないというカヌマに苦しみ、いじめに苦しんでも生きなければならない「よだか」。
 それは宮沢賢治が晩年肉食を絶ち、矛盾に苦しみながらも清い心で奉仕を怠らなかった生き方にも通じて悲愴である。
 よだかの眼を通してすべての事象をとらえ、物語の世界にはばたけるのだ。深い余韻が残る名作である。
 そのほかに、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」、夏目漱石の「こころ」も楽しめた。
 ハリー・ポッターの物語も、両親がいない悲しさ、いじめに耐える辛さを描きながら、その中にはあふれるほどの夢と希望をちりばめて、愛と勇気と正義をたたえている。
 また、イギリス社会の厳格なしつけ・悪に対峙する正義・死生観が随所に見られて興味深く、楽しく夢中になれる。
 ハイネの詩集を朗読したときは、「こんな恋愛をしようよ」という話になって、みんな真剣だった。
 読み聞かせや音読授業を始めてみると、子どもの理解力の深さに舌を巻いてしまうのが常である。
 素晴らしい物語を声に出して読むこと、友だちと一緒に感動を共有することは、何よりも心の肥やしになる教育であると私は思っている。
 それに、私は子どもたちの能力を伸ばすために、優れている点を見つけて表彰するようにしていました。
 私の授業は、ほめてほめまくることで子どものよさを引き出し、それを勉強や遊びのエネルギーにしていたので、子どもたちの成績はどんどん伸びた。
 初等教育では、とくに励ますこと、ほめることが非常に大事である。「やればきっとできるよ」と、言ってあげたら、子どもはどんどん伸びるものなのである。
 子どもたちのいちばん優れている点を見つけて、チャンピオンに任命することにした。 勉強面ばかりにこだわらず、その子のいいところをほめてやろうと思ったのだ。
 例えば、計算のチャンピオン、マラソンのチャンピオン、我慢強さのチャンピオン、水泳のチャンピオン・・・。
 どの子にも必ず、人に負けないいいところがあるはずだ。そういう思いで子どもたちを見ていると、誰もが一つどころではない、たくさんの優れた面を秘めていた。
 友だちに優しい子など成績として評価できなくても、それを賞として与えることで、友だちを見直したり、励まし合ったり、張り合ったり、相手のよいところを認め合えるようになってきたのだ。
 チャンピオン賞を始めてから子どもたちが確かに変わった。生き生きして自信を持つようになり、じつに楽しそうなのである。
 当時、毎日新聞から取材(昭和57年、見出しは「チャンピオン」)があったので、内容をつぎに引用する。
 チャンピオン賞の対象は勉強、運動だけでない。「おもいやりのチャンピオン」というのもある。だれもが一目おく長所を一人ひとり見つけてほめてやるのだ。
 先生が表彰状を読みあげると、みんなが拍手する。多少テレながらも目をキラキラさせて心からうれしそうに受け取る。
「その表情を見たさに一年間がんばっているようなものです」と
濤川先生。
 教師になりたてのころは、子どもの良くない点を直すのに叱ってばかりいたんです。でも、叱るだけでは私の言うことが子どもの心にスッと入らないと気がつきましてね。
 良い点を見つけてほめると、子どもに自信を与え、ほかの能力も伸ばすことがわかりました。子どもはみんな「宝物」を持っています。それを見つける眼力が教師には必要です。
(
(なみ)川栄太:19432009年、20年間の小学校教師を経て、ニッポン放送「テレホン人生相談」回答者、40年間つとめた教育相談では、悩める子どもたちに体当たりで励まし立ち直らせた)

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