カテゴリー「教師の人間としての生きかた・考えかた」の記事

若い教師が「ほどほど」に教師をやっていたら、ベテランになったとき、自信を失って周りに迷惑をかけるようになるかもしれない

 私は20歳代の頃は、勢いがあって口が悪くて、世界が自分を中心にまわっていて、すぐに人を責めて、ばかにしていました。
 しかし、実践研究だけは、まったく手を抜かずに資料だけは百枚も二百枚もつくって、研究会で三枚くらいの資料で発表する人を見て「まじめにやっていない」と断罪して、まったくいけすかない人間でした。
 もしも、当時の私が、いまいたら「こいつは見込みのある教師だ」と可愛がるでしょう。
 若い教師で有望な人というのは、いけすかない人であることが多いように感じています。
 教師という職業は、若いうちから一国一城の主になれる稀な職業です。その分、一人で突っ走りやすい職業ですし、若いうちから「自分はいっぱしの者だ」と勘違いしやすい職業でもあるわけです。
 しかも、能力が高くて将来、大物になる可能性を秘めている教師ほど、そういう勘違いに陥りやすい。
 長年、若い教師を観察していて感じるのは、教師の成長には
「自分をいっぱしの者だ」と思う、
(1)
その勘違いを謙虚に戒めて成長する
 人間関係を重視しながら、ストレスに見舞われる日常を過ごす。
(2)
その勘違いに実質を伴わせて、勘違いではなくしてしまう
 血のにじむような努力して、だれも文句を言えないほどの実績をあげる
場合と、二つの道があるということです。
 私の教師人生は自分で言うのも何なのですが、(2)の道を20歳代、30歳代で、(1)の道を40歳前後から意識し始めたという感じです。
 いまは、50歳代を目前にして「バランス感覚をもってほどほどに」を信条に生きています。
 でも、よく思うのは、若い頃にがむしゃらにやった「溜め(たくわえ)があるから、いまがあるのだな」ということです。
 若い頃から「ほどほど感覚」で教師をやっていたら、いまごろは自信を失って毎日が地獄だったかもしれない。周りに迷惑ばかりかけていたかもしれない。そんなことを感じるのです。
 おそらくいま、若い教師が多いと思います。どうぞ、自分なりの「茨の道」を突き進んでほしいと思います。
(
堀 裕嗣:1966年北海道生まれ、札幌市立中学の国語科教師。92年、国語教育研究サークル「研究集団ことのは」代表、「教師力BRUSH-UPセミナー」代表。文学教育と言語技術教育との融合を旗印に長く国語科授業の研究を続けている)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

教師になって三年目までが勝負、すばらしい出会いが教師を変える

 私は、中学校社会科教師をめざしていたが、採用試験に不合格となり、学習塾に勤めてやっと岩手県の小学校の教師になった。希望の職業になれた嬉しさで「張り切って仕事をするぞ」という思いであった。
 三年生の担任になり、毎日校庭でサッカーや遊具で遊んだ。しかし、教材研究や指導技術もないに等しいのだから、子どもたちが集中せず、反応も悪いのは当然であった。
 そういう状況のなか、六月に新採用教師対象に研究授業をすることになった。校内の先生方の授業を見る機会がなかった。「どうやって勉強したらいいのだろう」と考えているうちに、また次の日が来てしまうありさまだった。
 研究授業まであと10日あまりになったとき、他校の研究授業を参観する機会があった。ベテラン教師の六年生社会科の授業だった。
 
「これが本物の授業なんだ」と目を開かされる思いだった。教師が使う資料が独自に調べたもので、中尊寺のポスターに、子どもたちが「美しい、すごい」という声があがり、子どもたちが一気に引き込まれていく様子がよくわかった。
 しかも、学級全員がよく集中している。ユーモアある発言には、よく笑う子どもたち。とにかく教室が明るかった。
 また、授業のまとめの場面では、子どもたちが自主的に立って発表していた。いつも指名ばかりだった自分は「こんな方法もあるのか」と衝撃を受けた。
 どんな人と出会ったか、どんな授業と出会ったかで、その教師の人生は大きく変わる。
 初めて参観した授業がすばらしいものだったことは、私にとって偶然に得た幸運であった。
 すばらしい研究授業との出会いで「理想とする授業」のイメージができた。取り組みにも意欲的になった。本や教育雑誌を一気に購入した。読んで見ると、いかに自分は学習方法を意識していなかったかがわかった。
一回目の研究授業の経験で、研究授業は
(1)
自分がその分野について新しい知識を本や同僚教師から身につけられる。
(2)
学級の子どもたちの「発言力や学習規律」を伸ばす場となる。
(3)
教師の授業力をアップする場になる。
以降、私は研究授業を求められれば積極的に手をあげるようにした。新採用の年には五回の研究授業を行った。
 本や雑誌から学ぶことも多かったが、いちばん勉強になったのは、やはりベテランの同僚教師から学ぶことだった。
 私が苦手とした図工は校内の研究授業を参観したことが一番参考になった。音楽も苦手だったが、音楽に堪能な教師と合同で練習した。生で音楽指導を見ることができた。
 五年生を担任していたときに、週に一時間の空き時間があった。その時間を利用して、他の先生にお願いして授業を見せてもらった。家に帰ってから、自分の学びを1ページくらいにまとめ、ファイルにした。
 2年目、新校長の授業参観があった。感想を聞きたいと校長室を訪ねると「この分野ならあの先生にと言われるようになりなさい」と言われた。社会科が小学生のときから好きだったので社会科の授業に力を注いできた。
 それ以外に他の先生より努力できそうなのは学級通信だった。
 発行は教職2年目の二学期からだった。発行してみると実に面白い。学級の情報を保護者に伝えられる喜び。子どもたちが「ぼくの作文が載っている!」と喜ぶ。そして私自身の実践が記録される充実感。
 学級通信を発行してから確実に変わったことは
(1)
保護者の反応
 「学校の様子がよくわかります」「社会科の授業、私も受けてみたいです」といった好意的な声をいただいた。
(2)
私の教育実践
 学級通信に授業の様子を掲載することは、同時に自分の実践記録の蓄積につながった。実践ネタが増えることになる。時には教育研究集会の資料になった。
(3)
子どもたち
 子どもたちの励みになるように、作文、よい行い、エピソードを具体的に名前入りで紹介した。帰りの会で「今日のお便りのヒーローは○○さんです」と話した。その子が家で誇らしげに見せたというのを聞いて、私は学級通信を発行する意義を改めて感じた。
 保護者対応は私にとって苦手であった。もともと人と積極的に交わるタイプではない。そんなときに、変わるきっかけとなったのは地区のPTAバレーボール大会であった。その練習の誘いを受けた。
 週2回、夜間2時間は負担と思ったが「まずは参加してみることが大事」と考えた。参加してみると、大きなメリットがあった。一緒に運動することで親近感が生まれ、保護者との距離が縮まった。気軽に雑談もできるようになった。
 それまでは保護者ということを意識して「何か言われるのではないか」と構えていたのかもしれない。「子どもを成長させたい」という思いは同じなのだから「パートナー」と考えればいいのだ。そのように思い直した。
 見方が変われば対応も変わってくる。保護者から「○○してくれませんか」と注文を受けたときも「自分が責められているのではない。子どもの成長のために言っている」と思うと素直に受け入れられた。
 また、保護者との距離が縮まると、積極的に連絡をするようになった。特に成長が見られたときは、連絡帳に書くようになった。喜ばない保護者はいない。
 苦手だった保護者対応も、少しずつ手応えを感じるようになった。
(
佐藤正寿:1962年秋田県生まれ。岩手県公立小学校副校長。「地域と日本のよさを伝える授業」をメインテーマに教材開発に力を入れている)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

教師がまじめなだけでは、子どもたちはついてこない、教えるのに笑いや明るさが不可欠である

 私が笑いや明るさにこだわるのは、その楽しさに満ちた教室の空気が子どもたちの学習意欲を醸成してくれるからです。そこには自分自身の苦い体験も手伝っています。
 教師になりたてのころ、四年生から六年生まで受け持ったクラスの子どもたちに、私は「ネクラ」という、らくいんを押された経験があるのです。その記憶はいまでも鮮明に残っています。
 卒業式のときに「先生がもっといい先生になるにはどうしたらいいか、気がついたことがあれば教えてくれないか」と、子どもたちに尋ねてみたのです。
 すると、ある子どもから「先生は、まじめで一所懸命だけど、ちょっと暗い。ゆとりがなく、おもしろみがない感じがする。もっと明るくしないと、子どもたちから嫌われるよ」という答えが返ってきました。
 私は自分では明るい性格のつもりでいましたから、その言葉が意外なうえに、頭をガツンとなぐられたような気もしました。
 私が笑いや明るさを心がけるようになったのはそれからのことです。子どもたちの前で、努めて明るくふるまうようにする一方、笑いやユーモアに関する本を買いあさり、それを笑い話のネタにして子どもたちに話す。明るくユーモラスな人を観察して自分でも真似てみる。そういう努力をしたのです。
 ユーモアは人間性からじわりとにじみ出る「しずく」のようなものです。数年たったころ、明るさが身についたのは事実で、努力すれば自分の「人間性」を変えることもできるのだと感じたものです。
 それとともに授業にもゆとりが生まれて、まじめなだけで人を教えることはできない。そこに明るい、楽しいという条件を加えなくてはいけないことも分かってきました。
 教える技術のなかに明るさ、楽しさという「人間性」を込めなくては、教わる子どもたちを動かし、育てることはできない。そういうことが実感を通して理解できるようになったのです。
 そして「子どもは教師の鏡」という言葉どおり、私が明るくなると子どもたちの態度も目に見えて明るくなっていきました。子どもたちのユーモア感覚の伸びとともに、学力や人間性も成長していくことが明かに感じとれるのです。
 それが大人であれば、ユーモアは精神的なゆとりや人間的な幅の広さの指標となるのでしょう。
 ともあれ、笑いや明るさは子どもたちを教えるのに不可欠な要素です。しかめ面の厳しい「北風」の接し方では、教わる子どもたちの能力や可能性は身を縮めるばかりです。
 教える人は、温かく明るい指導によって、子どもたちを包み、その力を最大限に伸ばしていく太陽のような存在であるべきなのです。
(有田和正:19352014年、福岡教育大学附属小倉小学校、筑波大学付属小学校,愛知教育大学教授、東北福祉大学教授、同特任教授を歴任した。教材づくりを中心とした授業づくりを研究し、数百の教材を開発、授業の名人といわれた)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

教師に向いていないと思いつつも、つらい日々を乗り越えられたものはなにか

 私が大学生のときは、子ども一人ひとりとじっくりかかわり合う大切さを知り、どんな子どもとも、一人の人間としてかかわっていこうと思っていました。
 教師になっても、そのことを忘れずやっていこうとしました。しかし、現場はやりづらく、自分自身、実践力がないことにイライラしていました。
 泣き虫な私は、放課後よく泣いていました。そのたびに「あなたは弱い。強くなりなさい」と言われました。
 私は喉が弱いので、大きな声が出しづらいのですが「声が小さすぎるから、子どもに伝わらない」と言われました。良い教師(ビシッと子どもをしつけ、大きい声を出しオーラがあふれる教師)にはなれない私でした。
 むりやり自分を変えようとすると、体調を崩したり、逆に子どもたちから気持ちが離れていくような感じになったりしました。
 
「強い先生」ってなんだろうと、気持ちがゆらぎ、涙が出てしまう。そんな日々を過ごしていました。
 そんなとき、私を励ましてくれたのは同期の同僚で、私が泣いているとき、話を聞いてくれ、心強く感じました。
 また、外部のサークルでも、私の話をじっくり聞いてもらい、元気がでました。そのサークルのベテラン教師から
「強い先生も必要なんだけど、あなたみたいな『やわらかい』先生が通用しない学校は、子どもたちにとってもかわいそう」
と言ってもらいました。何度、この言葉に励まされたことでしょう。
「このままの自分で、子どもたちと過ごしていいんだ」と心が軽くなりました。
 初めて担任をもったときの、うれしさは今でも覚えています。でも、その喜びや楽しさは一気に小さくなっていきました。
 その理由は、まず、事務仕事に時間がかかり、周りの教師から置いていかれるような感じがしました。
 そして、隣のクラスの担任についていくのに必死な日々が続きました。なんでもテキパキこなし、私にもそれを要求しているような雰囲気でした。私は追い込まれ、子どもとの関係もぎくしゃくしていきました。
 
「先生が子どもたちになめられている」と、管理職、隣のクラスの担任、保護者からいわれるようになりました。
 
私は「なんとかしたい」「わかっている!」と思っていると、子どもたちに怒るだけで、子どもに私の気持ちが伝わらないような気になり、あせり、追い込まれました。
 そんな中、私を支えたのは、子ども、同僚、外部サークルの三つでした。
 子どもとは、うまくいくか不安の連続でしたが、小さな、小さなうれしさを共有することが、私の希望となっていきました。
 同僚と夜遅くまで話し合ったときもありました。ある日「悩むこともあるけれど、決して千葉さんの指導力不足とかじゃないから、泣かないでね。とにかくみんな見方だから」と書いた同僚の手紙が机のうえに置いてありました。
 忙しい職員室のなかでは、みんなが敵に見えたり、自分だけが劣って見えたりしてしまいます。だけど、そんなことはない。だれかが見ていてくれると、希望がもてました。
 私がどんなに苦しくても「子どもと共にいるそのままの自分を大切に」していけたのは、仲間とかかわっていたからです。
 
「私は教師に向いていない」「もう子どもとかかわれない」と思っても、みんなの励ましや、私の気持ちを聞いてくれる場があったからこそ、明日も学校に行こうと思え、子どもがいとおしく思えました。 
 子どもとの何気ない会話に笑顔になったり、「先生わかったよ」と、授業中、目を輝かせる一面をみたり、どんなトラブルがあっても、子どもと過ごす日々は希望にあふれていると思います。
 教師仲間と、苦悩と希望を多く伝えていったりすることが、私にとっての教師である希望です。そういった場があることに、私は励まされています。
 まだ教職四年目で、自分のスタイルは模索中です。まだわからないことばかりですが、自分の感情と素直につきあいながら、自分を大切にこれからもやっていきたいです。
(
千葉春佳:1986年生まれ、公立小学校教師)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

子どもに主役意識を持たせることが大切、そのために教師の主役意識が育っているかが問題である

 よほど気をつけないと、授業ではよく挙手する子を中心に進め、どんどんやれる子に活躍の場を与えてしまいます。その方が効果があがると思うからです。
 教育の効果は、まだよく育っていない子が、よく育つことです。
 学習などの場面で出番を与えられなかった子は、教師の目の届かぬ場面で主役になって、学級や学校を崩壊させていきます。そんなことになったら大変です。
 どの子も、一人ひとりがかけがえのない役を負っているのだということを教え、それを実感できるように、子どもに主役意識を持たせることは大事です。
 子どもに「あなたも主役なのよ」と担任が励まし、少しでも勉強に成果が見えると「なかなかやるじゃない」と、ほめます。ほめることの教育的な効果はてきめんです。
 そのためには、子どもよりも先に、教師に主役意識が育っているかが問題です。ただ一度きりの人生の主たる舞台である職場に、生き甲斐に満ちていなかったら、人生はつまらないものになってしまいます。
 他校から転任して日の浅い人は、校長の言うことが前任校と違う、学年の人と親しみにくい、子どもの気風が肌に合わない。そのたびに「前の学校はよかった」と思う。よくあることです。
 でも、一日も早く「この学校は私の学校、この子どもたちは私の子ども、私こそ、この学校の主役」と、心からそう思う修業が大事です。
 どこを探しても、完ぺきな理想の職場など、まずありません。出来のよくない子ども。肌の合わない同僚、方針の明確でない管理職。不足だらけの施設・設備。こなしきれないほど多い仕事など。
 赴任しての第一印象をそう語る人もいます。主役意識の育っていない人はそれでもう、やる気を失ってしまいます。
 そして心の中で「ひどい所に来たもんだ。この学校はこれまでいったい何をやってきたんだろう」と、次の日から職場生活は味気ないものになってしまいます。
 ところが、主役意識の育っている教師は違います。「これまでの人たちはここまでやったんだ。今度はいよいよ私の出番だ」と、次の日から張り切って出勤してきます。
 教師の仕事のほとんどは、教師と子どもが触れ合う場で行われるのです。主役とは、教育という仕事の主役です。教育の仕事の対象は子どもです。
 子どもは教育という仕事の最も権威のある評価者です。ほかの誰からもほめられなくても、子どもからほめられるのが教師の仕事の醍醐味です。
 子どもから「うまい!」「よくやる」「先生、大好き!」と言われることをこそ目ざすべきです。教師の主役意識はそうして育ちます。
 主役意識の育った教師のもとでは、必ず子どもの主役意識が育ちます。
(
船越準蔵:19262015年 秋田県生まれ、秋田大学附属中学校教師、秋田県教育庁指導主事、教育次長、中学校長、秋田県中学校会長を務めた)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

教師になって約30年、私はどのようにして、楽しく教えることができるようになったのか

 私は、新任の着任式で子どもたちに「先生は・・・・」と挨拶したら、ある年輩の教師から「自分のことを『先生』などとは言わないのですよ。『私は』と言うのよ」
「先生という言葉は、相手が尊敬して言ってくれるものなのよ」
「自分で『先生は・・・・』なんて言ったらおかしいでしょう。言語感覚を身につけるといいわね」
と、たしなめられたことを思い出します。
 私は、言葉について敏感になりたい。授業で一番嫌いで不得意だった国語を自分なりに何とか向上させたいと思いました。そのために、研究会に参加したり、よい授業をたくさん見たりしていきました。
 新人時代には月一回、地域の国語研究会に参加しました。この教材文はこう解釈するといいんだとか、主題はこう読み取って、要旨はこう読み取らなくてはならない、主題や要旨に迫るために、どんな発問をしたらよいか、ということを勉強しました。
 国語は簡単な教科だと思っていたのが、急に難解な教科に変わりました。結婚して転勤するまでの二年間教えてもらいました。
 次の学校では、国語の授業に堪能な教師がいました。
「発問したら、子どもがどのように反応するか、考えなくてはいけない。想定する答えをいくつも考える必要がある」と教えてくれました。子どもの答えによって、その次の発問を工夫していくのです。
 そして、主要発問とそうでない発問を分けて考え、主題や要旨にせまっていくのだと教えてもらいました。
 その教師は「私は、悲しいお話では、必ず子どもたちを泣かせるの。それだけのめりこんで読ませることができるのよ」と言っていました。
 
「授業でそんなことができるなんてすごい」と憧れを感じました。この学校には一年間しかいませんでしたが、大きなものを学んだような気がしました。
 次に行った学校(六年間)では、私自身が子育てをしていたので、学校の外で学ぶことはできませんでした。しかし、教材文を読んで、どのように子どもに教えたらよいか、ある程度わかってきていました。
 次の学校(三年間)では、何をどのように教えたらよいか明確に指導してくれる教師に出会い懇切丁寧に教えてもらいました。国語の授業はどう作ったらよいのか、どういう発問がよいのかなどを教えてもらいました。
 長期研修生のテストを受けてみないかと、その教師に勧められ受け、合格して筑波大学の内地留学生(1年間)となりました。
 そこで学んだことは驚きの連続でした。当時、私は、子どもの側に立って学習を組織していくという単元学習の考えは全くありませんでした。
 授業をいかに、うまく流すか、子どもの感想をうまく取り上げて発問を組み立てて、いかにしたら自分の思っている方向に授業を組み立てたらよいかなど、私は授業を教師側の発想で作ろうとばかり考えていたからです。
 どうやら今までの自分の国語授業についての考えが根本的に違うのだということに気づいたのです。
 内地留学が修了し、転勤しました。そこの小学校の近くにある千葉大学の研究室に1年間、日参して教えを請いました。単元の作り方にヒントをもらい、子どもの作品をどう読むか、どう理解したらよいか学びました。
 自分の不出来さに何度も悩み、苦しみましたが、子どもたちとの学習はとても楽しく、こんな学習の世界があったのかと思うほど、一人ひとりの学習に効果的で、しかも意欲的・主体的に、学ぶ姿をたくさん見せてもらうことができました。
 今までの授業技術を求めていた時からは、全く考えられない、子どもが伸びる充実した学習ができました。教科書にしばられないで、眼前の子どもの姿を見ながら、国語の力を伸ばすための単元を、アドバイスを受けてつぎからつぎへと作っていきました。
 その後、私はどうしても、自分の実践を発表する場を持ちたくて、大学の教授をお招きして国語の勉強会をはじめました。隔月一回、どのように単元を作り、どう子どもを支援したらよいか教えを受けました。
 毎回、私の実践紹介があります。時には、私の実践に教授から容赦のない批判を受けることもあります。そういう時は、いい気になっていたり、子どもを間違えてとらえていたりした時でした。
 そういう時は大変ショックですが、また気を取り直して、よい実践をしようと勉強をしていきます。順に会員の実践紹介があります。会員は毎回レポート提出(A4判一枚)をします。
 会が終わると、全員、心地よい疲れと、明日への新たなパワーをもらって帰ります。
 私は、新人教師時代から今まで、国語教育にのめりこんで、どうやら何とか楽しく教えることができるようになりました。ひとつの教科をずっと研究してきたので、自分でも満足感があります。
 新人教師も自分の研究教科や研究分野を見つけて、長い期間研究していくのも興味深いことだと思います。そして、いつの日か、楽しく実りある授業をしてください。
 子どもが満足感を覚える学習をさせられるように、毎日が自分の力量を高めていく一歩だと思ってがんばってもらいたいと思います。明日の日本の教育は新人教師の手に委ねられているのですから、健闘を祈ります。
(
卯月啓子:1949年東京都生まれ、元公立小学校教師。NHK教育テレビ「わくわく授業 卯月啓子さんの国語」(2002)で好評を得る。「卯月啓子の楽しい国語の会」代表。現職教員のための国語教育研究会の常任講師を務め、後進の指導にあたっている)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

私の12年間の教師としての歩みが学級通信の中にいっぱいつまっています

 私が大阪市立小学校に新任として赴任しとき、学級通信を発行しておられた先生が一人いました。30歳くらいの女の先生でした。その先生は「一枚文集」のような形や、ザラ紙四分の一ぐらいに学級のようすを少しのせたり、連絡を書いたりする内容でした。
 しかし、当時の私の目から見て、あまり学年の先生から「いい目」では見られていなかったように感じていました。保護者からは人気がある先生だったように思います。私は、その先生の実践は「すごいなぁ」と思っていましたが。
 
「学級通信をだしているから、学年の足なみがそろわない」といった、なんともいえない雰囲気を感じたのです。
 そして、二年目、四年生の担任になったとき「学級通信をだして非難されたら」と、私は非常に悩みました。
 おもいきって、年輩の先生に相談すると
「若いうちは、自分のやりたいこと、好きなことをやりなさい。あとは、私らがしりぬぐいしてあげるから」
「子どもたちは、いろいろな先生の特技や個性、専門から学びとっていくのだから。あなたの持っている力をだしなさい。学級通信はできたら管理職に見せなさいよ」
と言われました。この言葉に非常に勇気づけられ、目の前がパッと明るくなったようでした。
 学年としての足なみをそろえることは必要です。でも、学級はその担任のイメージなり、独自性もあるはずです。
 私は今でも、その女の先生のがんばりと、年輩の先生の言葉は、私を育ててくれたと思っています。こんな思いから、私の学級通信はスタートしていきました。
 私は、学校や学級は子どもが生き生きとできる場にしなくてはいけないと思っています。なんとか、楽しく、生き生きと生活できる場にして、わかる喜びを教えてあげよう。
「明日も来たい」「明日も何かあるぞ」そんな、ワクワクした夢や希望を持って帰らせたいと、私は思っています。
 ささいなことを認めてあげるひと言が必要だと思います。また、友だちのがんばりやよろこびや活躍に「拍手」を送れる子どもたちも必要です。
 二年間担任したAさんの作文は「毎日、学校へ来るのが楽しみでした」と次のように書いてくれました。
「前田先生は、怒ったらこわいけれど、やさしいところもいっぱいありました。けん玉やいろいろなコンクール、鉛筆削り大会、百人一首大会・・・・、いろいろなことをやったので、何か得をしたような気がします。二年間、とても楽しかったです。毎日、学校へ来るのが楽しみでした」
 私の12年間の教師としての歩みが学級通信「あせ・どろ」の中にいっぱいつまっています。
 子どもたちの学校生活の様子を保護者は切実に知りたがっています。私は、学級というのは、絶対に保護者からの支えがなくては豊かになっていかないという思いを持っています。
 学級通信「あせ・どろ」1000号を迎えましたが、新任以来、書き続けてきたのも学級を、教育を豊かにしていきたいという、私の願いからです。
 保護者がわが子だけでなく、学級の取り組みや学級のすべての子の生活に関心を持ち、時には意見や感想をいい合える関係って、すばらしいことです。子どもたちの成長にとっても大切なことです。
 学級通信が保護者同士の交流の場としても、共通の話題を提供するものとして必要なものになっています。
 学級通信は、私にとっては自分と学級づくりのバロメーターなのです。子どもの姿が見えなくては、子どもの願いが実感として伝わってこなくては、学級づくりはできません。
 学級通信は一人ひとりの子どもの姿や声が浮かんでこなくては書けません。
 学級が生き生きと活動しているとき、すばらしいこと、くやしいこと、ドラマが生まれたとき、発見・成功・失敗・感動があったとき、子どもの伸びる芽を確信したとき、もう書く内容は決まっているのです。
 教室の中には、書く素材なんていっぱいあるのだから、子ども一人ひとりの言動や願いを「とらえる目」を身につけることが何よりも大切だと思っています。
 初めて担任したとき、学級通信を仕上げるのに二時間以上かかっていました。今は一時間以内で書けるようになりました。
 でも、学級がうまくいっていないときや、子どもたちの生活が事実として浮かんでこないとき、やっぱり書けませんね。
 みんな、うまくいったことばかりではありません。私自身の失敗したことも多くありました。また、子どもたちとしっくりいってない時もありました。でも、どんな時でも、
「子どもたちを信じてやらないといけない」
「子どもの否定面だけを見て、判断したらいけない」
そう思い、とにかく12年間やってきました。
 これから先も、子どもたちの前で「愛やロマンを大きく膨らませ」子どもたちに語れる教師として、偉大な先輩たちに学び、子どもたちや保護者に学びながら、教室の中にとびこんでいきたいと思います。
(
前田睦夫:1954年大阪市生まれ、大阪市立小学校教師)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

他職を経て教師になり12年、経験したこととは

 私は教師になるまでの十年間を地方公務員として過ごしました。直接子どもを教える仕事ではありませんでしたが、この間の経験が、後の教職生活の基礎となったと思います。
 教育センターでの仕事が私の人生を変える二の大きな出来事に出会いました。
 一つ目は、教育の現場を外側から見るという経験をしたことです。教育センターのロビーは展示室を兼ねています。市内の学校の展覧会などが開催されます。子どもたちの資質にそれほど大きな差があるとは思えないのに、作品にはかなりの違いがみられます。子どもたちの力を伸ばし発揮させる教師の影響力の大きさに驚きました。
 二つ目は、教育センターに勤務されていたF元校長との出会いです。人間性に触れ、教育のすばらしさを味わい、私もまた現場に出てみたいという思いが強くわきあがってきました。
「教師になりたい」という私の願いは家族から猛反対されました。教師である夫からは、教師は決して甘いものではない、母からは五歳と二歳という幼ない子がいるのに、という母親の立場からでした。
 人生はたった一度しかなく「今」という時間は二度ともどってこないので、夢はあきらめることはできませんでした。
 昼は仕事、夜は家事や育児、みんなが寝静まってからの勉強。しかし無事合格し、教職について赴任したのは奥多摩の緑豊かな小学校でした。自宅から一時間半ほどかかりました。
 教職はやりがいのある仕事で、毎日が充実し、遅くまではりきって働いていました。でも、母とわが子には苦労を強いてしまいました。
 半年たつと、道徳主任になり、東京都小学校道徳教育研究会(都小道)に入会しました。これが私と道徳教育の出合いとなったのです。
 転勤して、二校目で自分を変えた三つの契機は
(1)
教師としての力を高めようと努力した
 良い教師になるには、まず何か一つ、専門とするものを持つことだと思います。人間の力には限りがあります。「一徳は万徳に通ず」です。私にとっては、道徳教育がそれに当たります。
 道徳は人間が人間としてより良く生きていく心を育む大切なものです。教師と子どもがともに語り合い、考え合い、感動し合う心のふれあいの時間でもあります。
 私がつたないなりにも教師としての技量を高めることができたのは、都小道で、すばらしい授業を数多く見せていただいたおかげだと思っています。授業を見ることほど勉強になることはありません。
 また、東京都の教育研究員として研究をしていたとき、同じ研究員の教師と語り合い、教育にかける情熱にふれさせていただきました。私がくじけそうになったとき「私もやらなくては」と思いを新たにして、元気になって帰ることができました。
(2)
待つことを学んだ
 五年生の担任になったとき、一人の女の子が転校してきました。その子がいじめられました。
 いじめた子はすぐわかり、いじめた子と保護者を交えて真剣に話し合い、またクラス全員にも指導しました。しかし、心から納得していないような何かいやな雰囲気が残りました。
 クラスがいったん嫌悪な状態になってしまうと、元にもどすことは大変です。そうなる前に、先手を打っていかなければなりません。
 この出来事をきっかけに、私は教育相談の大切さをひしひしと感じました。深い子ども理解と、先を見通して問題を解決していく力を身につけることは、教師にとって欠くことのできないものだと思いました。
 そこで、スクールカウンセラー講座を受講する決心をしました。一年間通い続けた結果、自分が大きく変わっていったことを発見しました。それは「待つことができるようになった」ということです。
 私は「俺についてこい!」タイプの教師であったように思います。それまでの私では考えられないほど、ゆったりと子どもを見られるようになりました。子どもの個性の違いにどう対応し、どう伸ばしていくかを考えるようになってきました。
(3)
学校全体に目を向けることを学んだ
 校長先生から、保健主任などの仕事を任され、常に細やかな指導を受けました。自分のクラスのことだけでなく、学校全体を見渡せる人間になるようにという配慮であったと思います。
 私の教師としての理想は、体全体で子どもとぶつかり合うことです。そのためには、教師としての専門的な力量を磨くと同時に、人間として魅力のある人になりたいと願っています。
 ふり返ってみれば、あっという間に過ぎてしまった12年の歳月でした。うまくいかないときの方が多いような気がします。もともと根は楽観的な方ですが、落ち込むこともあります。
 悪いことのくり返しになったら、きっぱりと悪循環をたち切らなければなりません。そんなとき、私は一度、立ち止まってみることにしています。そして、次の二点を点検します。
(1)
子どもへの要求が高すぎないか
(2)
子どもへの要求が多すぎないか
 目の前のこの子たちの現在の実態をしっかり把握し直して、少しずつ目標を高めてやることが大切です。
 先輩が教えてくれた言葉に「教師の力以上の子どもは育つが、教師の想い以上に子どもは育たない」というのがあります。
 教師の意識が低いときや、もうこのへんでいいやと思ったとき、そこで止まってしまうような気がします。何としても、こんな子に育ってほしいという夢は、大きくもっていたいと思います。
 ずっと高学年を担任していますが、毎回子どもたちは違います。同じことのくり返しではなく、子どもたちの変化に柔軟に対応していけるような「しなやかさ」をもっていきたいと思います。
(
平林和枝:東京都公立小学校教師。道徳教育の著作多数あり)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

教師になって20年経ち、経験したこととは

 教師になって20年経ち、少しは広い視野で学校というところを見られるようになって初めて、小学生でも中学生でも、ましてや高校生に至っては、気持ちのほとんどが学校生活以外を向いているという子どもが結構多いということがわかってきました。
 私の教員生活の中で、何となく気分がすぐれず疲れていたように感じていたのは、そういう学校に目の向かない子どもや、その保護者たちとの対応だったのではないかと、今なら思い当たるのです。
 学校嫌いの子どもが学校に来て、学校の仕組みからはみ出したとき、その子を指導したり、相談にのったりすることは、私にとってそれはとても難しいことでした。
 二つ目の学校は東京都立高校の伝統校でした。生徒の気質も私に合っていて、自分はいきいきと毎日を送りました。教師になって十年目、30歳前半のことです。
 授業もいろいろ工夫ができました。同じ世代の数人の教師で、お互いの授業を見せ合いました。そんなことが出来たのは、国語科の教師同士、仲が良かったからです。
 二人の教師が東京都の高校の国語教育研究会の研究授業をすることになったとき、自然と予行演習をしようということになりました。
 まず同僚たちが生徒の役になって模擬授業をしました。そのときには、実際の授業よりずっと質の高い質問が飛び交い、研究授業する教師は冷や汗です。
 しかし、本当はそういう授業を皆やってみたいのです。時間の経つのを忘れ、本当に充実したいい時間でした。
 こういう楽しさはもう二度と味わえないかもしれませんが、このことは今でも私の授業を支える基礎になっています。
 国語科はあたたかく、常に磨き合うという雰囲気でした。授業も共通教材でやっていました。解釈の仕方、文学や言語にかかわる専門のことや、授業についての言葉が飛び交っていて、日々活気がありました。
 このような、人生を楽しんでいるような教師たちの空気は生徒たちに伝わります。こういう状況下では、生徒は何でも教師に話してくれます。生徒の情報が学年の教師に伝わってきます。
 ○○という生徒が△△先生の時間にどんなことを言ったか、また何をしたかみんなわかっていますから、教師と生徒との絆が強くなります。
 こういう良い関係があると職員室にいるだけで、生徒の抱かえている悩みや迷いがある程度わかるのです。そして、教師自身もまた、自分の知らない分野に対して妙な劣等感を抱いたりしなくても済むようになっていきます。
 しかし、20年間の教員生活は順風のときばかりではありませんでした。初めての出産後、半年の育児休業をとっている間に、入学してくる生徒の様子も変わり、教員の構成が異動で大きくかわりました。
 さまざまに変わったところに戻ったとき、私は自分の居場所がなくなってしまったように感じました。
 二年の担任をしている途中で産休に入ったのですが、代わりに入ってくださった教師に遠慮し、復帰したあとは、この学年の授業にでることも控えたのですが、それがかえって自分の居場所をなくす結果になりました。
 このときは、初めての育児、そして仕事の両立という個人的に初めてぶつかる困難も重なったのだと思うのですが、退職したいと校長に申し出るところまで自分を追い込んでしまいました。
 しかし、申し出たあとで、とてもとても淋しく感じました。もうこの仕事ができないと思ったとたん、自分が教師という仕事を本当に好きだったと気付きました。
 そう感じていたとき、校長と教頭が、それは丁寧に引き留めてくださいました。今しみじみありがたいと感謝しています。
 自分は国語の教師として生徒といい授業を展開したいのです。あの国語科の若々しい雰囲気をどこかで追い求めている気持ちがあるのかしれません。
(
原田あけみ:東京都立高校国語科教師)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

担任に不満を持つ保護者との出会いが私の教員人生に大きな影響を与えた

 初めて学校に赴任したとき「自分こそ世界で一番優秀な教師だ」と、私は思っていた。
 新任で五年生を担任し、初めの頃こそ、若い教師ということで、多くの保護者から笑顔で歓迎を受けた。
 しかし、時が経つにつれて「学習の進度が遅い」とか「教室が汚い」とか「子どもの言葉づかいが悪くなった」といった不満が保護者の間から出てくるようになり、それとともに保護者の顔から笑顔が徐々に消えていった。
 私自身も保護者に会うのがおっくうになり、保護者会の日は私が不登校になりそうであった。
 そのような状況を感じて私なりに、子どもと休み時間、一緒に遊ぶとか、子どもが提案してきた早朝のマラソン練習に付き合うなど、少しずつ努力をしていたが、保護者にはならなか理解してもらえず、苦情はいっこうになくなることはなかった。
 五年生も終わりに近づき、学年末の保護者会が行われた。学年末ということもあり、保護者の私への批判は、ますます拍車がかかった。
 次々に出される私の実践への不満、保護者会の雰囲気は重苦しいものになっていった。そして、いつも私に一番厳しい苦情をいう学級代表のお母さんがスッと立ち上がって発言を始めた。
 私は、路整然と完膚なきまでに私の批判が語られると想像した。重っ苦しい気持ちを通り越して「どうにでもなれ」と、開き直ってしまった。
 しかし、その母さんから語られた言葉は
「皆さん、いろいろとご意見があると思いますが、先生が担任されて、私たちの子どもがたくましくなったのは、どなたも感じることではないでしょうか」
「私は、先生のこの面を大切に見守っていきたいと思います」
ということだった。
 今までの重っ苦しい教室内の空気がこの発言でガラッと変わった。発言の最中に何人かの保護者のうなずく姿も見えた。
 私はこのお母さんのひと言を聞いて
「ああー、私はこのひと言で生きて行ける。これからの教員生活、死にもの狂いで努力していきたい」
と、思った。
 教師は誰でもみんないい教師でありたいと願っている。ただ、一生懸命努力しても人間関係のゆがみや、相互理解の不足などによって、自分の持ち味が発揮できない場合がある。
 そのようなとき、保護者のひと言でやる気を起こしたり、反対に意欲を失ったりする。私の場合、あの厳しい学級代表のお母さんがいたおかげで、やる気が出て努力する教師になれたと思う。
 このお母さんが厳しかったのは「本音で私の実践を見つめてくれていたからだ」と、思うようになった。
 
「子どもや保護者と、ともに本気で、人生を一緒に生きることの大切さ」を、私はこの母親との出会いで学んだ。
 その後、六年生の担任として、自分の実践を保護者にしっかり伝えようと、学級通信を毎日出した。その結果、子どもに毎日、日記を書かせることになった。
 また、学級通信が授業の資料にもなった。さらに、学級通信に後押しされて、実践を最後まで頑張りぬいた。
 初めのうちこそ、苦手だった保護者会が、私の学級経営の重要な柱の一つになった。
 一人の母親との出会いが私のその後の教員人生に大きな影響を与えたのである。
(
西島興蔵:元東京都公立小学校管理職)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧

その他のカテゴリー

いじめの指導 | さまざまな子どもの指導 | ものの見方・考え方 | カウンセリング | 不登校 | 人間の生きかた | 保護者との協力関係をつくる | 保護者にどう対応するか | 保護者の実態 | 優れた先生に学ぶ | 優れた授業とは | 優れた教科授業例 | 先生の実態 | 危機管理 | 叱る・ほめる・しつける | 各国の教育 | 各教科の授業 | 同僚・管理職との関係 | 問題行動の指導 | 国語科の授業 | 地域 | 子どもから学ぶ | 子どもたちに対する思い | 子どもたちの関係づくり | 子どもと向き合う | 子どもの失敗 | 子どもの実態 | 子どもの成長をはかる | 子どもの指導の方法 | 子どもの見かた | 子どもへの話し方 | 子育て・家庭教育 | 学び合う学び | 学校の実態 | 学校経営と組織 | 学級づくり | 学級の組織と活動 | 学級の荒れ | 学級崩壊 | 学級通信 | 学習指導・学力 | 学習指導案 | 実践のための資料 | 家庭 | 掃除 | 授業づくり | 授業のさまざまな方法 | 授業の展開・演出 | 授業の技術 | 授業中の生活指導 | 教師との関係 | 教師と子どもの関係づくり | 教師に必要とされる能力 | 教師の人間としての生きかた・考えかた | 教師の仕事 | 教師の心の安定 | 教師の成長・研修 | 教師の話しかた | 教師の身体表現力 | 教材・指導案 | 教材研究 | 教育の技術 | 教育の方法 | 教育の理念や思い | 教育史(教育の歴史と変化) | 教育改革 | 教育法規 | 教育行政(国・地方の教育委員会) | 新学級づくり | 理科の授業 | 社会環境(社会・マスコミ・地域) | 社会科の授業 | 算数・数学科の授業 | 経営とは | 英語科の授業 | 評価 | 話の聞きかた