カテゴリー「人間の生きかた」の記事

道理に則って行動すれば価値のある一生を送ることができる    渋沢栄一

 私は裸一貫から今日に至った。東京に出てからは埼玉県の実家から補助なしで自分の努力でやってきた。
 私は実業家だが、大金持ちになることは悪いと考えている。
 財産という無価値なことに向かって一生を葬ってしまうより、実業家として立とうとするならば自分の知識を活用し、主義に忠実に働いて一生を過ごせば、そのほうがはるかに価値のある生涯である。
「金はたくさん持つな」「仕事は楽しくやれ」という主義だ。

 成功、不成功は人間行為の基準ではなく、忘れてはならないものは行為の善悪である。
 私は行為が道理(物事の正しいすじみち。人として行うべき正しい道)に外れないものにするべく努力してきた。

 人がこの世に生まれて来た以上、自分のためだけではなく、何か世のためになるべきことをやる義務があると私は信じる。
 人は生まれるとともに天の使命をうけているのである。

 仕事をやり遂げる基本は、小事ほどおろそかにしないこと。
「ライオンはウサギを追うにも全力を用いる」との諺のように、小事を軽視せず、心を集中して臨めば、間違いは起こらない。
 私は、どんなことでも軽率にしてはならないと戒めている。

 人は知識を磨き、徳行を修め人道(人として守り行うべき道)を大切にして努力すれば、真の幸福はかならず身辺に集まるだろう。
 武士道の真髄は、
「正義」:人の道にかなっていて正しいこと。
「廉直」:心が清らかで私欲がなく正直なこと。
「義侠」:正義を重んじ、強い者をくじき、弱い者を助けること。
「礼譲」:礼儀正しく、へりくだった態度をとること。
 などを合わせたものである。
 実業者にもまた武士道が必要なのだ。
 不正を行ってまで私利私欲を満たそうとしたり、権勢にこびへつらって栄達を図ろうとしたりするのは、生き方の基準を無視したもので長続きはしない。

 真の成功とは、道理に欠けず、正義に外れず、国・社会を利益するとともに自己も富貴に至るものでなくてはならない。
 現代の人はただ成功とか失敗とかを眼中に置いて、それよりももっと大切な天地間の道理を見ていない。
「天道」:天然自然の道理。
 はいつも正義に味方するものである。

 運命をとらえるのは難しい。
 とにかく、人は誠実に努力して運命を待つのがよい。
 もしそれで失敗したら、自分の知力が及ばないためとあきらめ、また成功したら知恵が活用されたとして、成功失敗にかかわらず天命として受け入れるといい。
 このようにして、敗けてもあくまで努力するならば、いつかはまた好運命に出会うときがかならず来る。

 人生の行路はさまざまであって、同じように論ずることはできない。
 まず自ら誠実に努力するとよい。
 公平な天はかならずその人に幸いして、運命を開拓するようしむけてくれるだろう。

 人は何よりもまず道理を明らかにしなければならない。
 道理は終始はっきりしているから、道理に従って事をなす者はかならず栄え、道理に逆らって事を図る者はかならず滅びる。

 一時の成功とか失敗は、長い人生においては泡沫のようなものである。
 そのようなうわついた考えは一掃し、社会に役立つ実質ある生活をするべきだ。

 成功失敗の外側に立ち、道理に則って行動するならば、はるかに価値のある一生を送ることができる。
 いわんや、成功などは、人間としての務めを全うした後に生じる「酒のかす」のようなものだから、気にかけるに及ばないではないか。

(
渋沢栄一:1840年-1931年、幕臣、官僚、実業家。一橋家に仕え、欧州各地を視察、大蔵省官僚を経て、実業に専念し第一国立銀行や東京証券取引所などといった多種多様な企業の設立(500社以上)・経営に関わり、日本資本主義の父といわれる。社会・教育・文化事業にも力を注いだ)

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この世の中はまさに不条理で、幸福も不幸も、なぜか訪れるときは群れをなしてくる   瀬戸内寂聴

 私は80年以上生きてきて、たくさんの人の人生を見てきました。
 この世の中はまさに不条理です。
 心優しい人が苦しみを味わい、ひどい目に遭うかと思えば、世間から悪党呼ばわりされる、欲深い人間がこの世の栄華を一身に集めて長生きする。
 そんな理屈に合わないことばかりが起きるのが人の世のならいです。
 私たちは、こうしたことを見聞きするにつけ「神も仏もないものか」と思ってしまいがちです。
 しかし、お釈迦さまは人の世は「無常」であるとおっしゃいました。
 誰からうらやむような幸せな生活を送っていても、その幸福がずっと続くわけではありません。
 人間にはそれぞれ定まった寿命(定命)があって、どんなに幸せでもその日の夕方には死んでいるかもしれません。
 今が不幸のどん底のように思えても、ずっと続くわけではありません。
 人の運命は図りがたいものなのです。
 どうか「しょせん世の中は無常」と、心を強く持って生きつづけてください。
 長く生きてきた私の経験と実感ですが、この世の中は幸福も不幸も、なぜか訪れるときは群れをなしてくるものです。
 つまり、いいことも悪いことも一つずつではなく、いくつも集まって押し寄せてくるものなのです。
 ですから、運命を恨まず、これも人生修業のいい機会だと思って過ごしてください。
 辛抱することです。どうか辛抱する心を忘れずに生きてください。
 私たちに与えられている使命は自分自身を幸せにすることです。
 身の不幸を嘆いたり、愚痴をこぼしたり、我慢したりするのではなく、まず他人に対して微笑むことのできる心のゆとりを持つことです。
 困っている人たちの悩みや苦しみを聞いてあげたり、にっこりと笑顔で周囲の人たちに接すると、人の心はいくらか楽になります。
 ただし、これを行うためには、まずあなた自身が幸せに、心豊かにならなくてはいけません。
 あなたが心のうちに幸せを持っていなければ、周囲の人に幸せを分け与えられません。
(瀬戸内寂聴:1922年生まれ、26歳のときに家族を捨てて出奔、小説家を志す。『夏の終わり』で女流文学賞受賞。73年に得度し、法名・寂聴となる。『花に問え』で谷崎潤一郎賞、『白道』で芸術選奨文部大臣賞。『源氏物語』の現代語訳を完成させる。『場所』で野間 文芸賞。文化勲章受章。現在は執筆活動のかたわら、寂庵(京都市嵯峨野)などで法話を行なっている)

 

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人生の幸・不幸を決めているのは出来事や出逢いではない   軌保博光

 人生の幸・不幸を決めているのは出来事や出逢いではない。
 学びの心をもっていれば、そこから気づきに変えて、未来を拓くと、人生は劇的に変わると軌保博光はつぎのように述べています。
 僕は講演会などで、幸、不幸を決めているのは出来事や出逢いではないってことを伝えています。
 僕が山口県の萩に行ったとき、あるおばあちゃんがつぎのようなことを教えてくれた。
「すべての出来事を良いとか、悪いとか決めるのは自分の心」
「もしあなたが幸せな人生を過ごしたいのであれば、いつも学ぼうとする心を持っていなさい」
「嫌なことが起こったとき、なんで自分だけこんな目に遭わないといけないんだと、心に傷が残るでしょう」
「でもね、学びの心を持っていれば、どんな出来事が起こっても、そこから学びの『気づき』が残るの」
 学ばず、「傷」としてへこみ、ひきずって生きるのか、学び、「気づき」に変えて未来を拓くのかで人生は劇的に変わる。
 幸せになる人は、自分がコントロール出来るものに時間を注ぐ。
 幸せになりにくい人は、自分がコントロールで出来ないものに時間を使って苦しんでいる。
 なにかトラブルが起こったときに、とっさに出る感情はなかなかコントロールできない。
 でも、その起こった出来事に対しての意味づけはできる。
 例えば「ガン」になって、
「なんで私がガンにならないといけないのよ、私はなんてついていないの」
 と嘆き腹を立てる人と、
「ガンは自分に正直になりなさいというメッセージだ」
 と意味付けし、自分に正直にいきいきとやりたいことをやった人ではその後の人生はまったく変わる。
 僕の知り合いで末期ガンを克服した人が三人いるけど、三人とも後者です。
 出来事が幸、不幸を決めているんじゃないってこと。
 僕は今から十三年前にうつ病になり、
「自分が嫌でしょうがない」から「自分であることが楽しくてしょうがない」変わった。
 その大きな理由は、
「すべての出逢いは良き出会い、すべての出来事は良き出来事」と決めてからだ。
 路上に座って、目を見てその人に向けて言葉を書いていたとき、突然パンチパーマのおばあちゃんがやってきて、
「お前、書道やったことねえだろ。無茶苦茶じゃねえかよ」
「人に売ってんじゃないよ、バカ野郎」
「書道は細く太く書いたらうまく見えるだよ、バーカ!」
 とボロクソに言われた。
 そのとき、僕は腹が立った。
 でも、この出逢いは良き出逢いなんやと思って、細く太く書いたら字が変わって、一日の売り上げが千円から五万円まで上がっていった。
 出逢いが最悪と決めていたら、今の幸せは絶対にないと思う。
 幸、不幸を創るのは出逢いや出来事じゃなく、それに対しての意味付けだということ。
 人生は意味付け一つで変えられる。
(軌保博光:1968年兵庫県生まれ、吉本興業退社後、「貴方の目を見て詩を書きます」という即興スタイルと呼ばれる路上詩人の先掛け的な存在。映画製作や植林、災害支援など幅広く活動)

 

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不幸なことが自分に降りかかったときどう考えればよいか、信仰とは   本多弘之

 不幸なことが自分に降りかかったときどう考えればよいか本多弘之(注1)はつぎのように述べています。
 不幸に見舞われたとき「なぜ、こんなことが自分に降りかかるのだろう」と、こんなふうに考えてしまうことは、だれにでもあると思います。
 そんな考えにとらわれてしまったとき、どのように考えればよいのでしょう。
 自分に与えられた事実は、自分の自由な選択によって、自分の思いであるのではないということです。
 そして、「いま、ある」という事実は、これはもう必然です。
 深い因縁のなかで、たまたまこの命を賜り、いまあるわけです。
 歎異抄によると、われわれの存在は深い因縁という大きなもののはたらきがあって、それによって、生かされ、いのちを賜っています。
 親鸞(注2)が説いた他力本願は、すべての人々を無限の光である阿弥陀仏が守ろうとする本願力で極楽浄土に導いてくださる、ということです。
 両手両足切断というハンディを持ちながらも、旅芸人として力強く生きた中村久子(注3)さんは、親鸞の教えに出会い、自らの障害を受け入れ、明るく生きることで人々に生きる力と光を与えました。
 地獄のようなつらい境遇でも、親鸞の教えに触れて、生きることができるのだという覚悟が生まれてきます。
 つらかった人生が喜びに変わるということを彼女は実感したのです。
 文明社会では、人間がつくった価値観で、落ちこぼれた人間は苦しめられるという状況があります。
 しかし、親鸞はこぼれ落ちたというところから、立ち上がることができるのだという視点を持っています。
 そこが親鸞のすごさなのだと思います。
 目をそむけて自分自身から逃げないで、しっかり受け止めると、阿弥陀仏の救済を感じることができ、自分自身を信じることができるのだと思います。
 人間はどれだけ真面目に努力しても、たどりつけない。
 そのことを知って、他力=阿弥陀仏の本願力のはたらきにおすがりする、というのが親鸞の説いたことなのです。
 弥陀というのは無限なる光・知恵・いのちなどいろいろな、意味があります。
 そして、いつまでもまもってくださるはたらきを阿弥陀といいます。
 自分では明るみを求めて生きてきたけれども、うちひしがれるようなことがあり、目の前には闇しかない、ということがあったとしても、これが自分自身のほんとうの姿であり、真実なのだというところまで理解できれば、そこにはもう明るみが来ている、ということなのです。
 信仰とは真実を信じることです。
 キリスト教には、イエス・キリストという絶対的な存在があります。罪ある人間が神様との関係において信心を持つということです。
 仏教は人間が感じている存在のあり方が間違っていると気づいたのが仏陀でした。
 人は自分に愛着し、自分があるのだと考えています。
 仏陀はそういうあり方が苦悩を生み出していくのだと気づいたのです。
 無我の境地になることであると。
 仏教は信じると大きなはたらきが出てきます。それによって、人生が変わります。
 阿弥陀の大きな眼差しの中に許されて与えられてあるのだということに気づくと、生きている意味があると感じられます。
 阿弥陀の知恵をいただいて、本願に全身をまかせることである。
 大きなはたらきに自分が生かされている、それに乗っているんだという感覚を取り戻すと、生きていることの肯定感が生まれます。勇気が与えられます。
 宗教の基本は、自分自身の眼がひらかれることによって、精神の明るみが得られ、物事の見方が変わることだと思います。
(注1)本多弘之:1938年生まれ、真宗大谷派の僧侶、仏教学者。元大谷大学助教授、親鸞仏教センター所長。
(注2) 親鸞:1173-1262年、浄土真宗の開祖。法然に師事し、阿弥陀仏の本願の力に頼ってのみ救われると説いた。
(注3)中村久子:1897-1968年、興行芸人、作家。凍傷が原因で両手・両足を切断した。
42歳の時「歎異抄」を知り、『無手無足』は仏より賜った身体、生かされている喜びと尊さを感じると感謝の言葉を述べ、「人間は肉体のみで生きるのではなく、心で生きるのだ」と語った。50歳頃より、執筆活動・講演活動・各施設慰問活動を始めた。

 

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人生の成功者に必ず共通していることとは何か   浅田次郎

 人生の成功者に必ず共通していることとは何かを浅田次郎はつぎのように述べています。
 競馬をやるからには、まず運を支配してやろうという気概を持たねばならない。
 運を支配するとは、何もむずかしいことではない。
 ツイてないと感じたらピタリとやめ、ツイてるぞと思ったらブンブン行くのである。
 この判断力にかけている人間は競馬で身を滅ぼす。
 自分がいま、勝負の女神に捨てられているのか拾われているのか、それを冷静に判断することこそ、運を支配することなのである。
 ツキには時々刻々と変化する短期の波と、長い人生からみた長期の波がある。
 このいずれの波にも逆らってはならない。
 運と不運とは、表裏一体である場合がしばしばある。
 幸運が不運の始まりであったり、逆に不運がたまさか人生に幸いしたりする。
 バクチ打ちに向いている性格は、セコイくらいの金銭感覚、冷静沈着でカッとならない、考え方がこうだと決めつけない柔軟性がある、粘りがあり熟慮できるかどうかということです。
 私は性格がポジティブで、ぐちは言わない、ウソはつかない、見栄は張らない。
 こうやっていると世の中が楽しいから。
 人間の不幸は、見栄を張る、ウソをつく、グチを言う者から来ます。
 人生の成功者の経験談を見聞きしていると、必ず共通しているのが、冬の時代に決してジタバタしない。
 この時期に観察の努力をおこたらない者だけが、最後に笑うのである。
 運を天に任せていたのでは、とうてい勝利は望めない。
 いかに運をつかみ、それを手の内に少しでも長く留め置くか。
 そのためには、一に努力、二に才能、三に忍耐が運を支配する唯一の方法なのである。
 勝った馬の勝因を冷静に分析していれば「この前こういうレースだから勝てた」というのがわかっているから、次走がそのパターンにあてはまらなければ買わなくてすむんです。
 その馬の勝ちパターン、負けパターンまで覚えていくと、しめたものですよ。
 まあ、これは人生にも通ずるところがあります。
(浅田次郎:1951年生まれ、小説家。2011年 - 2017年日本ペンクラブ会長。自衛隊、アパレル業界など様々な職につき、『地下鉄に乗って』で吉川英治文学新人賞、『鉄道員』で直木賞を受賞。映画化、テレビ化された作品も多い。競馬の達人)

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仕事は自分を表現し、自分を成長させる場所

 飯田 亮は、あるときから食うには困らなくなった。すると、なぜオレは働いているのか、と考えるようになりましたと次のように述べています。
 そして「やはり自分を表現するのは、この場以外にはない」と改めて実感しました。
 だから働き続けているわけです。
 私の場合、今の仕事を通して以外の自己表現、自己実現というのはできない。
 ある程度はできるかもしれないが、今ほどの喜びは得られない。
 だから、今の仕事に喜びを感じながら働いているのです。
 さて、自分を表現する、と言うと、一見楽しいことのように思えます。
 しかし実際は、決して簡単なことではありません。
 自分を表現できるためには、まず第一にプロと評されるにふさわしいだけの実力を身につける必要がある。
 したがって、仕事は自分自身を成長させる場所でもあります。
 私自身、特に若い頃は、自分を成長させるということについて、ずいぶん考えたものです。
 仕事以外に自分を鍛える場所はありませんでした。
 だから、仕事を通じて自分を鍛えたかったのです。
 やがて気づいたことは、自分を成長させるということは、単に仕事を成功させるとか、技術を身につけるだけではありません。
 もっと大きな意味で、人間としての己を成長させなければならない。
 キザな言い方かもしれないが、高い人格ということです。
 特に肩書きが上がり、率いる人の数が増えれば増えるほど、高い人格を身に備えなければ下の人たちが迷惑してしまいます。
 そういう意味では、仕事というのは修練の場であり、会社は道場です。
 そして、そこで経験し身につけるものは、決して気ままな生活だけでは得られないものです。
 お金の勘定さえ合えば、仕事をしないで気ままに暮らせばいいのだろうか。
 私はそう思えません。気ままな暮らしだけでは、決して到達できないものがあるのです。
(飯田 亮:1933年東京都生まれ、日本警備保障株式会社を創業し社長に就任。セコムに社名を変更し取締役最高顧問。45期連続増収を実現、日本に一大産業を育て上げたベンチャー経営者の元祖)

 

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人生とは心の反映である

 輝くような大成功を収めて人々の羨望を集めていた人が、いつのまにか没落を遂げていく。そのようなことに接することが数多くあります。
 人は往々にして、たくさんの人々の支援を得て成功したにもかかわらず、その原因を自分に能力があるからだと考え、自分でも気づかないうちに、少しずつ傲慢になっていくことで、次第に周囲の協力が得られなくなります。
 生きていくうえで最も大切な「足るを知る」ということや謙虚さを忘れてしまうことから、その成功が長続きしないのです。
 私は、この宇宙には、善き方向に活かそうとする「宇宙の意志」が流れていると考えています。その善き方向に心を向けて、ただひたむきに努力を重ねていけば、必ず素晴らしい未来へと導かれていくようになっていると思うのです。
 足ることを忘れ、謙虚さを失い「自分だけよければいい」という利己的な思いを抱き行動するなら、宇宙の意志に逆行し、成功しても長続きしないのです。
 そうであるなら、他に善かれと願う「利他」の思いが少しでも多く湧き出るようにいていかなればなりません。他人の悲しみを自分のことにように嘆き、励ましてあげる。さらには他人への憎しみや怒りを抑え、優しい思いやりの心で接する、というように「心を整える」ことに努めるのです。自分自身に繰り返し言い聞かせるようにします。
 人間の心は庭のようなものです。もしすばらしい人生を生きたいのなら、自分の心の庭にもたげる悪しき思いの雑草を取り除き、善き思いという種をまき、大切に育みつづけることが大切です。
 この「心を整える」ことは、仕事や人生とは関係ないことであるかのように思いがちですが、決してそうではありません。仕事の成果も、人生の業績もすべて、その人の心のまま現われてくるものです。
 成功を収めても、謙虚さを忘れず、足ることを知り、すべてのことに感謝し続けること。一方、不運にであっても、それを素直に受け入れ、前向きな生き方を続けること。
 そのようにして素晴らしい人格を身につけるよう、常に心を整え、心を高める努力を重ねていけばいいのです。人生とは心の反映なのです。
 私は、そのような一人ひとりの不断の努力こそが、よい社会を実現する唯一の方法であると信じています。
(
稲盛和夫:1932年生まれ、実業家。京セラ・KDDI創業者、稲盛財団理事長として国際賞「京都賞」を創設し人類社会の進歩発展に功績のあった人を顕彰、日本航空を再建し取締役名誉会長、若い経営者が集まる経営塾「盛和塾」の塾長
)



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人は互いに応援しあって生きている     松岡修造

 人は互いに応援しあって生きていると松岡修造はつぎのように述べています。
 一つの目標に向かって進んでいる人、つまずいて落ち込んでいる人。
 そういう人たちに向かって僕は「大丈夫だ、きみならできる!」と叫んだりして鼓舞したりしています。
 そんな僕の姿を見て「面白い人だな。いつも元気で熱い人だな」と感じることでしょう。
 冷静に語ってしまえば、単なる説教になる恐れがあります。
 特に若い人たちは説教が大嫌いです。
 元気づけるためには、面白さから入るほうが入りやすい。
 僕のオーバーなアクションは応援のメッセージを伝えるための手段だと考えているのです。
 ジュニア時代の僕は、才能があると言われたことはなかった。
 それでも試合に勝ち進みました。
 おそらく、人の気持ちを読む力と、練習をひたすら続けることができる才能があったからだと思います。
 僕は指導する選手たちに対して、得意・不得意や性格を書くように言います。
 そうすることで、自分というものがよく見えてきます。
 プラス面をしっかりみすえることで、それをいかに伸ばせばいいかが分かってくる。
 マイナス面を客観視することで、具体的な克服方法が見えてくる。
 本気で努力すれば、必ず成功の確率は上がっていきます。
 思いを強く持てば、必ず道はひらけてくる。
 ただし、その確率が100%になることなどあり得ません。
 それもまた人生なのです。自分自身の限界まで本気でやってほしいと思う。
 これはテニスだけのことではありません。生きていくうえでさまざまなことに応用できることだと考えています。
 自分はダメな人間だと、何事もすぐあきらめてしまう人がいます。
 努力するのがしんどいから、ダメな自分を認めて楽になりたいだけなのです。
 しかし、そのような人でも応援してくれる人がいます。
 ただ目の前のやるべきことを一生懸命にやることが応援に応えるということなのです。
 人は互いに応援しあって生きている。
 だからこそ私はいつも誰かを応援しながら生きていたいと思うのです。
(松岡修造:1967年生まれ、元プロテニスプレーヤー。スポーツキャスター・タレント。ウィンブルドン選手権で62年ぶりにベスト8入りを果した)

 

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私のプロ野球人生

 歩んできたプロ野球人生について野村克己はつぎのように述べている。
 私の少年時代は、戦争で食糧難だった。三歳のとき父を病気で失い、病気がちな母の手ひとつで育てられた。小学校三年生の頃から家計を助けるために新聞配達をした。
 無口な母に言われたひと言を私は、生涯忘れない。「男は黙って、文句を言わず仕事をするものんだ」という言葉である。
 プロ野球新人時代の解雇通告にも、体験した者にしかわからないテスト入団生の辛酸と苦悩、その後の幾多の試練にも耐えられたのは、私の体の中に懸命に働く母の姿と、この言葉が宿っているからである。
 プロの世界は厳しい。Aという選手が故障で使えなければB、BがダメならCというような激しい競争社会である。それゆえに、プロは自立心・自主性が非常に大事だ。誰もうまくなるまで待っていてはくれない。監督・コーチが見てくれるだろうという依頼心は敵である。この世界は自分で己の道をきりひらいていくしかない。
 私はなんとかプロ野球の入団テストに合格したが、二軍には悪い先輩がいて「今までテスト生で一軍に上がったヤツは一人もいないんだ。三年たったらお前らもクビだ」と言われた。
 そこで考えた。入団すればあとは実力の世界だ。チャンスはゼロということは絶対にない。人の三倍も四倍も努力しようと覚悟を決めた。
 グラウンドではみんな平等に練習するから、差をつけるとしたらそのあとの合宿所だ。手がマメだらけになってもマメを削ってバットを振り続けた。手首と腕力を鍛えるために砂を一升瓶に入れて振り回した。遠投は全身を使うから強くて正確な送球ができると聞き、練習を重ねると距離が伸びた。スター選手の練習を食い入るように見て取り入れたり、自分なりに工夫した練習を重ねて試合に出ることができるようになった。
 私はプロ野球の監督として選手を育ててきた。監督は時代の流れを読み、指導者として自分自身を革新していかなければ時代から取り残されてしまう。
 私は監督として選手を育てるとき「無視」「賞賛」「非難」という段階を踏むようにしてきた。
 見どころがありそうな選手でも、最初から手をさし伸べるようなことはしない。自分で目立つように努力した選手は、つぎの段階としてほめるようにしている。ここで満足してしまえば、そこまでの選手だ。
 しかし、中にはほめられても満足せず、さらに高いレベルをめざそうとする選手もいる。そういう選手にはあえてきびしい言葉を投げかける。真に一流といえるような選手はそうした非難を受けとめて、反省し、また向上しようとするからだ。王や長嶋、イチローがそうだ。
 監督は「気づかせ屋」である。つまり、監督とは原理原則を説き、選手自身が無駄な努力をしていないか、本人が気づいていない点を具体的に指摘してやるのがたいせつな役目なのだ。
 しかし、それは、たんなる技術的指導を意味しているのではない。しょせん、技術力には限界がある。技術力を補うのが知恵である。
 大きな試合で負けることで得られるものがある。人間、負けた方が真剣に反省する。たりないものを選手自身が痛感し、選手たちの人間的、技術的成長の場にこれ以上の舞台はない。
 最終的に選手たちに人間的成長を促すことが最も重要な監督の使命である。格言・名言とともに、私の人生観・野球哲学を選手たちに注入し続けた。
 「人間的成長なくして技術的進歩なし」24年間におよぶプロ野球監督生活のなかで、私は選手たちにそのことを問い続けた。
(
野村克己:1935-2020年。元プロ野球選手(本塁打王9回、三冠王等)・監督(日本一3回)・野球解説者・野球評論家)




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気づかなかった自分に出会い発見することが何よりも面白い

 演劇についての思いを世界的に有名な演出家である蜷川幸雄はつぎのように述べています。
 いまの若い世代は、テレビや映像の感覚で育っているため、ものごとを論理的な構造に置き換えてみるということをしません。
 セリフも、平板な言い方でなく、言葉の頭の部分と語尾が明確に相手に届き、人間として自己主張するような表現をしてほしい。
 俳優の仕事は、人間を表現するから面白いのです。
 若い俳優が、うれしいことや悲しい出来事について人生でいろいろな体験を積み、老いたり体が衰えたりすれば、深い喜びや悲しみの経験と認識が体に宿り、俳優の演技に反映されます。
 その俳優の人生の軌跡が、演技に表われる演劇を組織するのが、僕の演出でありたい。
 何か新しいことをするときは自分を追い込んでいきます。
 家で何日か寝ないで本を読んだり、遊んだり、うろうろしていると、新しい感覚が生まれイメージが湧いて出てくる。
 また、稽古中に胃腸薬をポリポリ噛みながら、稽古をしていると目の前を虫が飛ぶんです。
 幻覚ですが、そういうふうに自分を追いつめていくと、確かに頭やイメージが動き出しますが、体を痛め続けているから、胃潰瘍とか、体はズタズタになります。
 総合芸術である演劇では、人間関係が大事で、コミュニケーションが難しいんです。
 演出家という仕事は、嫌なことも人に言わなければならない。
 演出家は観客の目を代表しています。俳優に対して演技をジャッジして、指図したり、否定したりする立場です。
 僕も昔のようにがむしゃらでなく、声高に主張しなくても、みんなに対して説得力を持つ人であたい。
 もっと多義的な解釈ができるようになりたいと思う。
 自意識過剰な僕は、そういうことが苦手だった。
 だけど、納得さえできれば、相手を受け入れて付き合うことが、素直にできるようになってきた気がする。
 演劇は、人と人との出会いに尽きると思うんです。
 演出のイメージも必ずしも絶対的なものではない。
 失敗したり、やり直したいと思ったり、もっと違う選択があり得たとか、自分が見落としていたものがあるなとか。
 人生でも演劇でも、気づかなかった自分に出会い発見することが、何よりも面白いんです。
 そしてチームワークこそ、演劇で最も大事なものなんですね。
 僕は、日本的なものわかりのいい、物静かな老人にはなりたくないですね。
 自己主張が強くて、自分の仕事を容認しないで否定しながら、最後まで、創造的な仕事に対して冒険家でありたい。
 そう、僕はあのピカソのような人になりたい。
(蜷川幸雄:1935-2016年、世界的に有名な演出家。元桐朋学園大学短期大学部学長。「王女メディア」「NINAGAWAマクベス」などの斬新な演出が話題となる。ベルリンでオペラ演出をおこなうなど国際的に活躍。歌舞伎座公演「NINAGAWA十二夜」の演出で菊池寛賞。朝日舞台芸術賞特別大賞,読売演劇大賞・最優秀演出家賞。22年文化勲章)

 

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